第七話:月下の潜入
新月から数えて七日目の夜。上弦の月が砂漠の大地に冷たい銀色の光を投げかけ、岩山の影を墨汁のように黒々と際立たせている。アク・マラル砦――パルサニアとシルク連邦を結ぶ交易路に睨みを利かせるようにそびえ立つ、堅牢な石造りの要塞――は、月光を浴びて、まるで眠りについた巨大な石の獣のように静まり返っていた。城壁の上では、一定の間隔で松明が揺らめき、時折、鎧の擦れる音や、衛兵の低い話し声が聞こえてくる。だが、その見せかけの静寂の下では、今まさに、歴史を動かすかもしれない小さな火種が、爆発の瞬間を待っていた。
砦から少し離れた、月の光も届かない深い岩陰に、十数名の黒い影が集まっていた。ファラ、バシュ、ナディール、そして彼らがザルバードで集めた協力者たち――弓の名手カーラ、密偵ジン、元軍曹サイード、元傭兵バルガス、その他、アグniに恨みを持つ商人や元パルサニア兵たち。それぞれの過去と想いを胸に、彼らは今夜、この難攻不落と思われた砦に、反撃の狼煙を上げるべく集結したのだ。服装は闇に溶け込む黒で統一され、顔には煤が塗られ、表情は窺い知れない。手には、なけなしの金で揃えた、あるいは自ら手入れした武器――剣、短剣、弓、そしてバシュの巨大な戦斧――や、ナディールが考案した特殊な道具――登攀用の鉤縄、音を消すための革製の足袋、敵を混乱させるための発煙筒や音響装置――が、固く握られていた。誰もが口を閉ざし、ただ、決行の合図を待っていた。張り詰めた緊張が、冷たい夜気を通じて肌に突き刺さるようだった。
「皆、準備は良いか?」
ナディールが、周囲に響かないよう、極限まで抑えた低い声で最終確認を行う。彼の顔にはいつもの皮肉な笑みはなく、学者というよりは、老練な将軍のような厳しい光が宿っていた。「作戦は理解しているな? まず、バシュ殿、カーラ、ジン、そして先導役のサイードが東壁を登攀し、内部に侵入。城壁上の見張りを無力化し、予定通り武器庫裏で内応者との接触を図る。我々本隊は、合図の後、古い水路から潜入し、内部で合流、合図と共に蜂起する。くれぐれも、決して無理はするな。合図があるまで、絶対に目立つ行動は避けよ。我々の命運は、この隠密行動の成否にかかっている」
協力者たちは、緊張にこわばった面持ちで、しかし力強く頷いた。その中の一人、潜入部隊の先導役を任された元パルサニア将校サイードは、特に固い表情をしていた。彼の脳裏には、砦に残してきた妻と幼い娘の顔が浮かんでいた。アグニ兵に人質に取られている彼女たちを救い出すためにも、この作戦を必ず成功させなければならない。だが、もし失敗すれば…その考えが、彼の心を重く締め付けた。
ファラは、そんなサイードの苦悩を察し、彼の前に進み出ると、その震える手をそっと、しかし力強く握った。「サイード殿、信じています。貴方の勇気と、故郷への想いを。必ず、ご家族は救い出します。私たちが、共に」
サイードは驚いたようにファラを見つめ、やがて、その目には涙が滲んだ。「…王女様…この命、貴女様とパルサニアのために。必ずや、この任、果たしてご覧にいれます」彼はそう言うと、深く頭を下げた。ファラの言葉が、彼の迷いを断ち切ったのだ。
しかし、彼らはまだ知らない。協力者の中に紛れ込んでいた密偵によって、彼らの潜入計画の一部――特に、ファラたちが古い水路を利用するという情報――が、既に砦の守将ガルダの耳に達していたことを。ガルダは、冷酷だが油断のない軍人だ。彼はその情報を利用し、水路に巧妙な罠を張り巡らせ、潜入者たちを一網打尽にしようと待ち構えていたのだ。ファラたちの知らないところで、運命の歯車は、既に狂い始めていたのかもしれない。
作戦開始時刻。月が厚い雲に隠れ、地上に完全な闇が訪れた瞬間。ナディールが、夜鳥の鳴き真似のような、かすかな合図を送った。それを合図に、二手に分かれて行動が開始された。
まず動いたのは、バシュ、カーラ、ジン、そしてサイードの四名からなる先遣隊だった。彼らは、音もなく風のように駆け出し、砦の東側の切り立った崖下へと接近する。ここは、城壁の中でも特に高く、険しいため、警備が手薄になっていると予想された場所――ファラの「逆転の発想」に基づいた潜入経路だった。
崖下に着くと、カーラが、特殊な形状の鏃がついた矢に、細く丈夫な絹の縄を結び付け、弓を引き絞った。彼女は風向きと距離を正確に読み、矢を放つ。矢は、夜空に吸い込まれるように飛び、音もなく城壁の上部、胸壁の隙間に深々と突き刺さった。完璧な狙いだった。
まず、最も身軽なジンが、まるでヤモリのように、するすると縄を伝って登り始めた。彼の動きには一切の無駄がなく、音もほとんど立てない。しかし、中腹まで登ったところで、予期せぬ強風が吹きつけ、彼の体が大きく煽られた! 一瞬、手が滑りそうになるが、彼は驚異的なバランス感覚で体勢を立て直し、登攀を続ける。城壁の上に到達すると、彼は素早く周囲の状況を観察し、見張りの位置と死角を確認し、下にいる仲間たちに手信号で知らせた。
安全が確認されると、次にバシュが登り始めた。彼の巨体からは想像もつかないほどの静かさと、しかし驚異的なスピードだった。岩壁の僅かな凹凸を、巨大な手で鷲掴みにし、まるで平地を歩くかのように登っていく。その怪力は、垂直な壁を登るという物理法則すら捻じ曲げているかのようだった。
最後に、サイードとカーラも登攀に成功する。
城壁の上には、予想通り数名の見張りがいた。しかし、彼らはまさかこの絶壁から敵が侵入してくるとは夢にも思っていなかったのか、あるいは祭りの後の気の緩みか、やや油断した様子で持ち場を離れて雑談を交わしていた。
ジンが、音もなく影の中から忍び寄り、一人の見張りの口を素早く塞ぎ、短剣の柄で後頭部を強打し、声も上げさせずに気絶させる。
カーラもまた、少し離れた場所で見張りをしていた兵士に対し、袖に隠し持っていた吹き矢を構え、息を殺して狙いを定めた。放たれた細い針には、即効性の眠り薬が塗られていた。針は見張りの首筋にかすり、彼は一瞬何かに刺されたような顔をしたが、すぐに力が抜け、その場に崩れ落ちた。
バシュは、最後の抵抗を試みようとした見張りを、その太い腕で羽交い絞めにし、首の骨を軋ませるように締め上げ、意識を奪った。
あっという間に、城壁上の一部は制圧された。サイードは周囲を警戒し、ジンは他の見張りが近づかないかを確認する。バシュは、城壁の内側に向かって、約束の合図――松明の光を短く三度点滅させる――を送った。潜入成功。第一段階はクリアした。
その合図を確認したファラたち本隊は、砦の外れにある、涸れた古い水路の入り口へと向かった。入り口は、枯れ草や瓦礫で巧妙に偽装されており、知らなければ見つけることは難しい。ナディールの知識がなければ、この経路を発見することはできなかっただろう。重い石の蓋を開けると、黴臭い、淀んだ空気が吹き上げてきた。一行は、息を殺し、一人ずつ、暗く湿った水路の中へと降りていく。
水路の中は、完全な闇だった。松明を使うわけにもいかず、手探りで壁を伝いながら進むしかない。足元には、ぬかるんだ泥と、ねばつくような汚水が溜まっており、歩くたびにぐちゃり、と嫌な音がした。どぶのような悪臭が鼻をつき、時折、壁を這う虫や、水中で蠢く得体の知れない生き物(おそらくは巨大なネズミか何かだろう)の気配がして、ファラは何度か短い悲鳴を上げそうになるのを必死でこらえた。王宮育ちの彼女にとって、ここは想像を絶する不潔で恐ろしい場所だった。壁にはアグニの紋章が落書きのように描かれており、支配者の存在を嫌でも意識させた。
「…ナディール様、この水路、本当に砦の内部に繋がっているのですか? なんだか、とても嫌な感じがします…空気が重いというか…」後ろを歩いていた協力者の一人、元商人の男が、不安を隠しきれない声で尋ねた。
「黙って進め。わしの調査に間違いはない。砦の古い設計図によれば、この水路はかつて砦内に飲料水を供給していたもので、中庭の古い井戸に繋がっているはずだ。ただし…」ナディールはそこで言葉を切った。彼は懐中から取り出した小さなランプ(光が漏れないようにフードが付けられている)で前方の闇を照らし、眉をひそめた。「…何か、妙だ。静かすぎる。それに、この空気の淀み方…罠があるかもしれん。皆、足元と頭上に注意しろ」
ナディールの警告は正しかった。そして、ファラの鋭敏な感覚もまた、明確な危険を捉えていた。
「待って!」彼女が叫んだ。彼女の脳裏に、鮮明な、そして具体的な危険のイメージが浮かんでいたのだ。「この先の水路の床! 一部が新しい石で塞がれているように見えます! その下は空洞、おそらく深い落とし穴です! しかも、底には鋭く尖らせた木の杭が…逆茂木のように仕掛けられているのが『視え』ます!」
それは、単なる勘や警告ではなかった。まるで、透視でもするかのように、罠の構造と、それがもたらすであろう悲惨な結果までが、彼女にはっきりと「視えて」いたのだ。
一行は息を呑み、ファラが指し示した箇所を避けて、慎重に脇を通り抜けようとした。確かに、注意深く見れば、床の一部が不自然に新しくなっているのが分かる。もしファラの警告がなければ、彼らはこの残忍な罠にかかり、悲鳴と共に串刺しになっていただろう。
「危なかった…王女殿、またしても貴女の力に救われたな」ナディールが安堵の息をつきながらも、ファラの能力の特異性と精度に、改めて畏敬の念を抱かずにはいられなかった。
しかし、それは敵将ガルダが仕掛けた、巧妙かつ悪質な罠の序章に過ぎなかった。彼らが落とし穴に気を取られ、警戒心がそちらに向いている隙を突き、彼らが通り過ぎてきたばかりの後方の壁の一部が、音もなく静かに開いたのだ! そして、そこから甘い、しかし嗅ぐと急速に意識が遠のくような香りのする、白い霧のようなものが、シュウウウという音と共に、急速に水路内に流れ込んできた!
「ぐっ…! これは…強力な眠りガスか! しまった、罠は一つではなかった! しかも後方からとは!」ナディールが叫ぶ。
数人の協力者が、抵抗する間もなくその場に倒れ込む。ファラも甘い香りを吸い込みかけ、急速に意識が遠のき、視界が霞む。だが、咄嗟にナディールが差し出した、強い刺激臭のある解毒効果を持つ薬草(彼が常に懐に忍ばせているものだった)を口に含み、なんとか意識を保った。「皆、布で口と鼻を覆え! 退くぞ!」ナディールが指示を飛ばす。
ガスから逃れようと、一行が慌てて前方に進もうとした、その瞬間だった!
ガシャァァァン!!
水路の天井に巧妙に隠されていた、分厚い鉄格子が、轟音と共に落下してきたのだ! それは、ファラ、ナディール、そして意識を保っていた数名の協力者の行く手を、完全に塞いでしまった。背後からは致死性の高い眠りガスが迫り、前方には突破不能な鉄格子。まさに、袋の鼠。完全に敵の術中にはまってしまったのだ。
「くそっ、まんまとやられたか! 情報が漏れていたのは、やはり間違いなかったのだ!」ナディールが悔しげに鉄格子を叩く。頑丈な鉄格子は、びくともしない。完全に分断されてしまった! ファラは、迫りくるガスと、突破不能な鉄格子を前に、強い焦りと恐怖を感じていた。自分の力が、危険を察知できても、それを完全に防ぐことはできない。バシュは来てくれるだろうか? いや、彼にどうやってこの状況を知らせれば…?
一方、城壁上で待機していたバシュたちも、予定時刻を過ぎても本隊からの合図(水路出口付近での松明の点滅)がないことに、異変を察知していた。
「どうしたのだ? 何かあったのか? 約束の時刻はもうとうに過ぎているぞ」サイードが焦燥感を滲ませた声で呟く。カーラもジンも、不安げな表情で闇を見つめている。
「…行くぞ」バシュが短く、しかし決然と言った。「王女様たちが、罠にかかったのかもしれん。我々が助け出す」
彼の言葉に、カーラとジンも頷いた。彼らは、ファラたちを救出するため、そして作戦を続行するため、城壁から砦内部へと降りる決意をする。
バシュたちは、城壁の内側、物陰に隠れながら、砦内部の様子を伺った。警備は厳重で、あちこちにアグニ兵の姿が見えるが、まだ彼らの本格的な侵入には気づいていないようだ。砦内部には、アグニの歪んだ炎の紋章がいたる所に掲げられ、パルサニアの美しい装飾は無残に破壊されている。怯えたような表情の奴隷たちが、アグニ兵の監視の下で強制労働させられており、重苦しく、抑圧された空気が漂っていた。
ナディールから事前に渡されていた砦の地図と、内部にいるはずの内応者の情報を頼りに、彼らは慎重に行動を開始した。
まずは、内応者との接触だ。合言葉は「砂漠に夜明けは来るか?」「雷鳴と共に」。彼らは、事前に示し合わせていた場所――古い武器庫の裏手、今は使われていない鍛冶場――へと、息を殺して向かった。そこには、約束通り、数名のパルサニア兵の姿があった。彼らは一様に不安げな表情を浮かべ、落ち着かない様子で周囲を窺っている。
サイードが、仲間の兵士たちに気づかれないよう、震える声で合言葉を口にした。「砂漠に…夜明けは来るか?」
兵士の一人が、訝しげな顔でサイードを見返した。だが、その後ろに立つバシュの尋常ならざる巨躯と、カーラ、ジンのただならぬ雰囲気に気づくと、ゴクリと唾を飲み込み、震える声で答えた。「…ら、雷鳴と、共に」
内応者たちだ! 彼らは、ファラたちが本当に来るとは半信半疑だったようだが、目の前に現れたバシュたちの姿を見て、ようやく覚悟を決めたようだった。
しかし、その中に、ひときわ顔色が悪く、明らかに動揺している若い兵士がいることに、鋭いジンが気づいた。「…おい、そこのお前。やけに汗をかいているな。何か隠しているんじゃないか?」
若い兵士はびくりと肩を震わせ、視線を泳がせた。「い、いや…何も…」
「嘘をつくな!」サイードが鋭く問い詰める。「我々の計画について、誰かに話したのではないだろうな!?」
若い兵士は、その詰問に耐えきれず、ついにその場に崩れ落ち、泣きながら白状した。「す、すまない…! 数日前、砦に残してきた妹が重い病気で…薬代が必要で…ガルダ様の部下に、あんたたちの計画の一部…水路を使って潜入するってことだけを話してしまったんだ…! 家族だけは見逃してくれると…金もくれると言われて…!」
裏切りだ! しかも、金のために! この内応者グループの中から! これでは、ファラたちが水路で罠にかかったのは確実だ!
「貴様ぁっ!」サイードが激昂し、剣の柄に手をかける。他の内応者たちも、裏切り者への怒りと、自分たちの運命への絶望で顔色を変えている。
「待て!」その場を制したのは、バシュだった。彼の声は低く、しかし有無を言わせぬ響きを持っていた。「今は仲間割れしている場合ではない。王女様たちが危ないのだ。この男の処遇は後だ」
バシュの冷静な言葉に、サイードも他の内応者たちも、はっと我に返る。彼らは、裏切った兵士を縛り上げ、猿轡を噛ませると、急いで今後の対策を練り始めた。
「ファラ様たちは、やはり水路で罠にかかったのだろう」バシュが推測する。「だとすれば、我々が助けに行くしかない。ここから水路へ通じる道は…」彼は地図を広げ、最短経路を確認する。彼の胸にはファラへの忠誠と共に、「守護者」として彼女を守りきれなかったことへの、強い自責の念が渦巻いていた。
「だが、どうやって? 砦の中は敵だらけだぞ。しかも、我々の動きは敵に知られているかもしれん」カーラが冷静に指摘する。
「力づくで、道を切り開く」バシュは、巨大な戦斧を握りしめた。その金色の瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。「お前たちは、予定通り、他の内応者たちと合流し、合図と共に蜂起する準備を進めろ。拙者が、必ず王女様を救い出し、合図を送る。それまで、持ちこたえろ」
それは、あまりにも無謀な、単独での救出作戦の提案だった。だが、今のバシュを止められる者は、ここにはいなかった。
「バシュ殿…どうか、ご無事で…」サイードが、祈るように言った。彼は、裏切りがあったにも関わらず、残った内応者たちをまとめ、この絶望的な状況でも作戦を遂行しようと、リーダーシップを発揮し始めていた。
「心配はいらん。拙者は、王女様を守ると誓ったのだ。『星の守護者』としてな」
バシュはそう言うと、カーラとジンに目配せし、一人、鍛冶場の裏の闇の中へと歩き出した。彼の背中は、まるでこれから単身で竜に挑むかのように、大きく、そして孤独に見えた。
カーラとジンは、顔を見合わせると、頷き合い、それぞれ別の方向へと動き出した。カーラは砦の高所へ、狙撃に適した場所を探しに。ジンは兵舎の方角へ、敵の注意を引きつけ、陽動を行うために。彼らもまた、それぞれの持ち場で、この困難な戦いに挑む覚悟を決めていた。
サイードは、残った内応者たちを叱咤し、決起の準備を急がせた。「皆、聞け! 我々の希望は、まだ潰えていない! ファラ様とバシュ殿を信じろ! パルサニアのために、立ち上がる時だ!」
月下の砦。潜入は成功したが、敵の罠と内部からの裏切りにより、ファラたちの計画は早くも崩壊の危機に瀕していた。ファラたちは水路に閉じ込められ、バシュは仲間と離れ、単独で救出に向かう。他の協力者たちも、いつ裏切りが発覚するかと不安に震えながら、決起の準備を進めている。時間は刻一刻と過ぎていく。果たして彼らはこの絶望的な状況を打開し、反撃の狼煙を上げることができるのだろうか。砦の運命も、パルサニアの未来も、全ては彼らの双肩にかかっていた。夜は、まだ長く、そして深く、彼らの行く手を阻んでいた。