第六話:反撃の狼煙
賢者ナディールという強力な知恵袋を仲間に加えたことで、ファラたちの反撃計画は、ようやく机上の空論から、現実的な目標へと歩みを進め始めた。ザルバード旧市街の、蔦に覆われた古塔の一室――そこは相変わらず書物と古文書、星図盤、錬金術の道具らしき奇妙なガラス器具などで埋め尽くされていたが、今はそこに、粗末ながらもパルサニアとその周辺を描いた大きな地図が広げられ、熱のこもった議論が交わされる、彼らの最初の、そして極秘の作戦司令部となっていた。
「さて、王女殿、そしてバシュ殿。我々の当面の目標は定まった。国境の要衝、アク・マラル砦の奪還だ」
ナディールは、古びた羊皮紙に描かれたパルサニアとその周辺国の地図を広げ、その一点を、細い木の棒で指し示した。彼の顔には、もはや世捨て人のような諦観の色はなく、かつての宮廷軍師としての鋭い光が戻っていた。「この砦は現在、アグニ教国が占領し、彼らのシルク連邦への影響力拡大、そしてパルサニア本国への補給線として、極めて重要な役割を果たしている。ここを叩けば、敵に経済的・軍事的な打撃を与え、同時に叔父御ジャファルにも大きな衝撃を与えることができるだろう。まさに、敵の喉元に突きつける刃となる」
「そして何より」ファラが、真剣な眼差しで地図を見つめながら言葉を継いだ。「アスタナ陥落以来、絶望に沈むパルサニアの民に、私たちが生きていること、そして抵抗の意志があることを示す、最初の『狼煙』となるはずです。この砦の奪還が、各地で潜んでいるであろう抵抗勢力に、立ち上がる勇気を与えるかもしれません」
「その通りだ」ナディールは頷いた。「だが、言うは易し、行うは難し。アク・マラル砦は天然の要害に築かれた堅固な砦であり、守備兵はアグニの狂信的な精鋭と、ジャファルに個人的な忠誠を誓う兵で構成されている。その数、およそ五百。対する我々は、なけなしの資金と、これから集めることになるであろう、寄せ集めの少人数だ。正面から挑んでも、勝ち目はない。どうやってこれを攻略するか…」
三人の作戦会議は、夜ごと、窓を固く閉ざし、ランプの灯りを最小限に絞って、密かに続けられた。それは、三つの異なる才能――ファラの天啓とも呼べる直感、ナディールの博識と緻密な分析力、そしてバシュの実戦経験と実行力――がぶつかり合い、時に反発し、しかし最終的には互いを補完し合いながら、一つの目標に向かって融合していく、熱のこもったプロセスだった。
ナディールは、持ち前の知略と、ザルバードで築き上げてきた情報網を駆使し、砦の構造、兵力配置、警備体制のパターン、補給ルート、そして守将であるガルダ(冷酷だが有能で、ジャファルへの忠誠心が極めて厚いとされる)の性格や過去の戦歴に至るまで、あらゆる情報を収集・分析し、緻密な作戦案をいくつも練り上げた。彼は現実主義者であり、可能な限りリスクを排し、成功確率の高い方法を模索した。
それに対し、ファラは、地図や情報だけでは見えないもの――砦そのものが持つ「気配」、敵兵の士気(アグニ兵の狂信とパルサニア兵の不満)、予測される天候の変化、そして彼女の「星読み」の力が時折もたらす、未来の断片的な、しかし不吉なビジョン――を捉え、ナディールの論理的な作戦に、常識にとらわれない大胆な修正や、全く新しい視点からの提案を加えた。
「ナディール様、この図面では、西側の古い貯水槽は見張りが手薄に見えますが、何か…とても淀んだ、不吉な気配がします。まるで、多くの嘆きがそこに溜まっているような…おそらく、ガルダが何か残虐な処刑などに利用しているのでは? だとすれば、そこを潜入経路に使うのは危険かもしれませんわ」
「次の満月の三日後、星々の配置が不吉な角度を成します。古の記録によれば、そのような夜には、砂漠特有の激しい砂嵐が起こることがあると…もしそうなれば、それを奇襲の隠れ蓑に利用できるのではないでしょうか?」
ナディールは最初、ファラの非論理的な「直感」に戸惑い、時には「それはあまりに博打がすぎる!」と反論することもあった。だが、彼女の指摘が別の情報によって裏付けられたり、彼女の提案が一見無謀に見えて実は敵の意表を突く最も効果的な一手であることに気づかされたりするうちに、次第に彼女の持つ特異な能力を認め、それを自身の知略と組み合わせる方法を模索し始めた。
そして、バシュもまた、単なる実行部隊長としてだけでなく、作戦会議に積極的に参加した。彼は、その豊富な戦闘経験と、「守護者の一族」として受け継いできたであろう本能的な戦場の勘から、具体的な戦術レベルでの意見を述べた。
「その城壁の高さと材質ならば、鉤縄を使えば夜間でも登攀可能です。ただし、壁面には見張りの死角となる箇所がいくつかある。そこを狙えば、より安全に侵入できるでしょう」
「この狭い通路での乱戦となれば、敵の数が多いほど、むしろ互いに邪魔をし合い、こちらの戦斧が威力を発揮しましょう。ただし、弓兵による高所からの攻撃には注意が必要です」
彼の意見は、机上の空論に陥りがちな作戦計画に、現実的な肉付けを与え、その実現可能性を裏付けた。
ファラの天啓、ナディールの知略、そしてバシュの実践知。三者は時にぶつかり合いながらも、互いを補完し合い、アク・マラル砦奪還のための、大胆かつ緻密な奇襲作戦――夜陰に乗じた少数精鋭による東壁からの潜入、内部にいる不満分子との連携による混乱誘発、そして電撃的な司令部の制圧――を練り上げていった。
並行して、ナディールはザルバードに潜む協力者のスカウトを開始した。彼の古い人脈――かつての教え子である裕福な商人、恩義のある傭兵隊長、裏社会に通じる情報屋など――を最大限に活用し、アグニ教国やジャファルに恨みを持ち、かつ信頼でき、この無謀とも思える計画に命を賭けてくれる可能性のある腕利きの者たちを、一人、また一人と密かに探し出し、接触を図った。
その中には、後のファラの戦いを力強く支えることになる、個性豊かな面々が含まれていた。
北方の険しい山岳地帯出身で、驚異的な弓術を持つ女猟師カーラ。彼女はアグニ兵に家族を惨殺された過去を持ち、復讐の機会を窺っていた。「お姫様の理想とやらに付き合う気はないがね。アグニの奴らを、一人でも多くこの矢で射殺せるなら、それでいいのさ」。その言葉はぶっきらぼうだったが、弓を構える彼女の瞳の奥には、鋼のような覚悟が宿っていた。
ザルバードの裏通りで生まれ育った孤児で、元踊り子一座にいたという身軽な少年ジン。彼はスリや情報収集で生計を立てていたが、ファラの持つ不思議なカリスマと、虐げられた人々を救おうという穢れのない志に強く惹かれ、自ら協力を申し出た。「ファラ様のためなら、どんな危険な場所へだって潜り込んでみせます! だって、ファラ様は、オイラみたいな、誰からも相手にされない奴にも、ちゃんと目を向けてくれたから!」彼の忠誠心は、純粋で、熱烈だった。
そして、かつてパルサニア軍で実直な軍曹として部下からの信頼も厚く、アスタナ陥落後、部下を守るために軍を離れ、ザルバードに流れ着いていた男、サイード。彼は砦内部の地理に詳しく、兵士たちの内情にも通じているため、潜入部隊の重要な先導役として白羽の矢が立てられた。彼は、失われた祖国への想いと、残してきた家族への責任感の間で揺れ動いていたが、ファラの決意に触れ、再び剣を取ることを決意した。
その他にも、アグニに財産を奪われた商人、先王への忠誠を誓い続ける老兵、ジャファルによって地位を追われた元役人など、様々な背景を持つ者たちが、それぞれの想いを胸に、この危険極まりない計画に加わっていった。総勢、十名に満たない、小さな、しかし決意に満ちた反乱軍が、徐々に形を成しつつあった。
しかし、チーム形成と作戦準備は、常に順風満帆とはいかなかった。ある日、苦労して手配した武器の調達ルートが、何者かによって敵方に漏洩していることが発覚したのだ。待ち合わせ場所に指定された港の倉庫が、取引の直前に、アグニ教国の息のかかったザルバードの衛兵によって急襲され、武器の受け渡しが不可能になった。さらに、別のルートでようやく手に入れた剣の中に、意図的に刃が鈍らされたり、すぐに折れたりするような粗悪品が、巧妙に混ぜられていることが発覚した。
「くそっ! やはり、我々の中に裏切り者がいるのか…! 情報が漏れている!」
バシュが苦々しく吐き捨てた。集まった協力者たちの間にも、再び疑心暗鬼と動揺が広がった。「やはり無理だったんだ」「誰が裏切り者なんだ?」「こんな状況で戦えるわけがない」…。一度は結束しかけたチームが、内部からの不信感によって崩壊しかけていた。
この仲間割れの危機に対し、ファラは毅然とした態度で臨んだ。「皆さんの不安は、よく分かります。私も、怖い。裏切り者がいるのかもしれないという疑念は、私たちの心を蝕みます。でも、ここで互いを疑い、いがみ合っていては、敵の思う壺です」
彼女は、協力者たちの中で、寡黙で、出自も不明なため、最も疑いの目を向けられていた元傭兵の男、バルガスの前に立った。彼は、武器の受け渡し場所を知っていた数少ない人物の一人だった。
「バルガス殿」ファラは彼の名を呼び、真っ直ぐにその目を見つめた。「貴方は、かつて多くの戦場を経験し、裏切りも見てきたと聞きました。だからこそ、今の私たちの状況が、どれほど危険か、誰よりも理解しているはずです。私は、貴方のその経験と、どんな状況でも冷静さを失わない沈着さを信じます。今回の砦攻略において、貴方には、最も危険な、突撃隊の側面を守り、殿を務める役割をお願いしたいのです」
それは、疑われている人物に、敢えて最も重要な、そして絶対的な信頼が必要な任務を与えるという、大胆な行動だった。バルガスは驚きに目を見開き、そして、無言のまま、深く、深く頭を垂れた。その目には、ファラへの忠誠を誓う、確かな光が灯っていた。ファラの、言葉だけでなく行動で示した信頼が、疑心暗鬼に陥っていたチームの心を再び一つにしたのだ。
武器不足の問題は、もはや避けられない現実だった。しかし、ナディールは「ふん、武器がなくとも戦う方法はある。むしろ、敵の油断を誘えるというものだ。パルサニアの知恵と、砂漠の民の工夫を見せてやろう」と不敵に笑った。彼とファラは、改めて作戦を練り直し、砦の構造を最大限に利用した罠(落とし穴、崩落しやすい壁の特定)、混乱を引き起こすための発煙筒や、大きな音を出す装置(バシュが音を立てることで陽動とする)、そして敵の心理的な弱点を突く陽動作戦などを、より多く組み込むことにした。それは、武器の不足を知恵と勇気で補い、少数精鋭だからこそ可能な、奇襲と攪乱に重点を置いた、より大胆で奇抜な戦術だった。
情報収集を通じて、アク・マラル砦内部の状況も、より詳細に明らかになってきた。砦を守るアグニ兵は規律が厳しく、狂信的だが、一方で、強制的に徴用されたパルサニア人の兵士や奴隷たちの間には、過酷な扱いと宗教的な強制に対する不満が、予想以上に高まっているらしかった。彼らの中には、密かにパルサニアへの忠誠心を失っておらず、アスタナの旗が再び揚がる日を待ち望み、蜂起の機会を窺っている者たちも少なくないという。これが、内部からの蜂起を成功させるための、重要な鍵となるだろう。
数週間にわたる、困難と緊張に満ちた準備期間を経て、ついに全ての準備が整った。決行の日は、三日後の上弦の月の夜と定められた。月の光が比較的弱く、闇に紛れて行動しやすい夜だ。ナディールの隠れ家に、ファラ、バシュ、ナディール、そしてカーラ、ジン、サイード、バルガスら、総勢十名に満たない小さな「反乱軍」が集結する。彼らの顔には、決戦を前にした極度の緊張と、しかしそれ以上の、強い決意が浮かんでいた。
ファラは、彼らを前に、初めて「司令官」として、作戦の最終確認と、自らの想いを語った。
「皆、聞いてください。これから私たちがやろうとしていることは、非常に危険なことです。成功する保証はありません。多くの血が流れるでしょう。命を落とす者もいるかもしれません。それでも、私は行かなければならないと思っています。アスタナを奪われ、父を殺され、多くの民が苦しんでいる今、誰かが立ち上がらなければ、パルサニアに未来はありません」
彼女の声はまだ若く、経験不足は否めない。時には震えそうになるのを必死にこらえているのが分かった。だが、その言葉には、嘘偽りのない、真摯な想いが溢れていた。
「私には、まだ力が足りません。皆さんのように戦うことも、ナディール様のように策を練ることもできません。でも、皆さん一人一人の勇気と力が、今の私にはあります。ナディール様の知恵、バシュの武勇、カーラさんの弓、ジンさんの俊足、サイードさんの経験、バルガスさんの冷静さ…皆の力を合わせれば、きっと道は開けると信じています。どうか、私に力を貸してください。パルサニアのために、そして、私たちが生きるべき、未来のために!」
彼女は深く頭を下げた。その姿に、集まった者たちは心を打たれた。彼らの目には、もはや不安や疑念の色はなく、この若き王女と共に、不可能とも思える戦いに挑む覚悟と、未来への希望の光が、強く灯っていた。ファラは、皆の顔を見渡し、作戦成功への期待と共に、多くの命を預かることへの重圧と、自らの「力」がもたらすかもしれない予期せぬ結果への、消し去ることのできない不安も、同時に感じていた。
アク・マラル砦への反撃の狼煙を上げる準備は、整った。彼らの小さな、しかし熱く、そして困難に満ちた戦いが、今、始まろうとしていた。