第四話:自由都市の風
国境の宿場町での騒動の後、ファラとバシュはさらに西へと旅を続けた。ゴランにもらった僅かな食料と水もすぐに尽き、再び厳しい逃避行が始まったが、彼らの足取りには以前にはなかった確かな意志が宿っていた。目指すは、シルク連邦最大級の自由交易都市、ザルバード。そこならば、多くの人々の中に紛れ込み、追手の目を眩ませながら、祖国パルサニアの情報を集め、反撃の機会を窺えるかもしれない。ファラの心には、もはや単なる逃亡者ではなく、失われた王国を取り戻すための戦いを始めるのだという、明確な目的意識が芽生え始めていた。
数週間後、彼らはついに、その壮大な威容を目の当たりにする。広大な湾に抱かれ、三方を低い丘陵に囲まれた天然の良港。そこに広がるのが、ザルバードだった。天を突くかのような白亜の塔、巨大な瑠璃色のドームを持つ異国の神殿、そして各国の様式を取り入れた壮麗な装飾が施された商人ギルドのホールなどが、まるで富と権力を世界に誇示するかのように林立している。その景観は、今は失われた故郷アスタナの荘厳さとはまた違う、もっとダイナミックで、無秩序で、しかし強烈な生命力に満ち溢れていた。
街全体を取り囲む城壁はなく、代わりに網の目のように張り巡らされた大小様々な運河が、街を区切り、同時に繋いでいる。運河には、ゴンドラのような小舟から、商品を山と積んだ大型の艀までが行き交い、活気のある水上交通網を形成していた。港には、東方の絹の国から来た巨大なジャンク船、南方の香料諸島からの優美なダウ船、そして西方の未知の大陸から来たという奇妙な多層甲板を持つ船まで、ありとあらゆる形状と大きさの船が所狭しと停泊し、そのマストはまるで巨大な森のように林立していた。陸揚げされる商品も様々で、絹織物、陶磁器、香辛料、貴金属、そして奴隷までが取引されているという。
街路は美しく磨かれた石畳で覆われ、行き交う人々の服装も、国境の宿場町とは比較にならないほど多様で、洗練されていた。高価な絹のローブを纏い、宝石で身を飾った豪商が、屈強な異国人傭兵の護衛を引き連れて闊歩する傍らで、ぼろを纏った物乞いが道端にうずくまっている。様々な肌の色、様々な言語、様々な信仰を持つ人々が、互いに関心を示すこともなく、あるいは鋭い警戒心を持ってすれ違う。ファラは、王宮で学んだ複数の言語知識を総動員しても、街で飛び交う言葉の半分も理解できなかった。パルサニア語、シルク連邦共通商業語、東方語、南方語、そして聞いたこともないような部族の言葉…。まさに人種の坩堝。あらゆるものが流れ着き、あらゆるものが混ざり合い、そして強い者だけが生き残る。それが、この自由都市ザルバードの空気だった。
「すごい…これが、ザルバード…本当に、世界の全てが集まっているかのようですわね…」ファラは、その圧倒的なエネルギーに気圧されながらも、目を輝かせた。
「ええ。噂には聞いておりましたが、これほどの活気と混沌とは…」バシュもまた、その壮大さと同時に、街に潜む危険な匂いに眉をひそめていた。「王女様、決して油断なさらないでください。この街の自由は、弱者にとっては牙を剥く無法と隣り合わせでもあると聞きます」
その言葉を裏付けるかのように、都市の門(主要な橋のたもとの関所)を通過する際には、衛兵に呼び止められたが、彼らの関心は通行人の身元よりも賄賂にあるようだった。バシュが黙って数枚の銅貨を隊長らしき男の手に握らせると、男は満足げに頷き、「よし、通れ」と顎で示した。アスタナでは考えられない光景だった。ここでは、法や秩序よりも、金と力が全てを支配しているのだ。ファラは、王女としての甘さを捨て、この街の流儀に適応しなければ生き残れないことを痛感した。
まずは、身を落ち着ける場所を探さなければならない。二人は、壮麗な表通りや富裕層の住む地区を避け、港に近い、煤けた建物が密集する裏通りへと足を踏み入れた。そこは、ザルバードの華やかさとは裏腹に、狭い路地に汚水が流れ、得体の知れない食べ物の匂いや香料、そして人々の汗の匂いが混じり合い、日中でも薄暗い場所だった。安価な宿屋や、船乗り相手の安酒場、怪しげな品物を売る店、そして賭博場などが軒を連ね、様々な境遇の人々が肩を寄せ合うように暮らしている。ファラは、その光景に一瞬怯んだが、すぐに気を取り直した。追われる身にとっては、むしろこうした人目につきにくい場所の方が好都合なのだ。
幸い、数軒目で、裏通りの更に奥まった場所にある、古びた宿屋の屋根裏部屋を、なけなしの銀貨で借りることができた。部屋は狭く、埃っぽく、窓からは汚れた運河と対岸のひしめく建物が見えるだけだったが、雨風をしのぎ、人目を避けて休める場所があるというだけで、二人は心からの安堵を覚えた。
その夜から、ファラは本格的な情報収集を開始した。昼間は、市場の一角で代筆屋の仕事をしながら、人々の会話に耳を澄ませ、夜は、宿の階下にある薄暗い酒場(様々な土地からの船乗りや商人、傭兵などが集まる情報交換の場だった)で、目立たないように隅の席に座り、安いエールをちびちびと飲みながら、パルサニアに関する情報を集めた。
彼女の持つ複数の言語知識は、ここでも大いに役立った。共通商業語だけでなく、東方の言葉や砂漠の民の訛りまで理解できる彼女は、他の者には聞き取れないような会話の断片からも、重要な情報を拾い上げることができたのだ。
飛び交う噂話は、やはり祖国の悲劇的な現状を裏付けるものばかりだった。叔父ジャファルが、アグニ教国の神官たちを招き入れ、彼らの傀儡同然となって恐怖政治を強化していること。古い神殿は次々と破壊され、ミトラ神やアナヒータ女神の信仰は厳しく弾圧され、アグニの教義に従わない者は「異教徒」として容赦なく処刑されていること。「浄化」の名の下に行われる文化破壊と虐殺。そして、民衆は法外な重税と強制的な徴兵に苦しみ、不満と絶望が国中に渦巻いていること…。ファラは、唇を強く噛みしめ、込み上げる怒りと悲しみを必死に堪えた。自分の無力さが、歯がゆかった。
しかし、絶望的な情報ばかりではなかった。注意深く噂話の矛盾点を探り、話している人物の表情、立場、そしてその言葉の裏にある意図を見極める中で、ファラはいくつかの希望の糸口も見つけ出していた。
「北方の山岳部族は、やはりジャファルにもアグニにも従っておらんらしい。彼らは独立心が強く、険しい山々に籠って抵抗を続けている。だが、部族間の対立も根深く、一枚岩ではないようだ」
「先王に仕えた猛将、ヴァルダ将軍は、やはり生きておられるようだ。国境近くの山中に潜伏し、アスタナから逃れた兵士たちを密かに集めているらしい。だが、ジャファルも彼の存在を強く警戒しており、大規模な討伐隊を差し向けたという噂もある。ヴァルダ将軍の現在の状況、そして兵力も定かではない」
「面白い噂も聞いたぜ。あのジャファル宰相、アグニの連中を上手く利用しているつもりだろうが、逆にアグニの神官たちに実権を握られつつあるらしい。内心では、アグニの過激なやり方に眉をひそめているとかいないとか…」
抵抗勢力は、確かに存在する。だが、彼らはバラバラで、連携が取れていない。そして、叔父ジャファルとアグニ教国の間にも、複雑な駆け引きがあるのかもしれない。どうすれば、これらの力を結集し、敵の内部の矛盾を突き、反撃の力とすることができるのか? ファラの頭の中で、新たな問いと、ぼんやりとした戦略の輪郭が生まれ始めていた。
情報を集めるにも、生活を続けるにも、金が必要だった。二人は、ザルバードで日銭を稼ぐために働き始めた。バシュは、港湾労働者の組合のような組織に登録し、その並外れた怪力を活かして、船からの荷物の積み下ろし作業に従事した。重い樽や木箱を、まるで小石でも運ぶかのように軽々と運び、他の屈強な労働者たちを驚かせた。最初は、その寡黙さと巨体から他の労働者たちに距離を置かれていたが、黙々と、しかし誰よりも多くの仕事をこなし、危険な作業も厭わない彼の姿に、次第に仲間たちも一目置くようになっていった。汗を流して働き、その対価として銅貨を受け取る。それは、彼にとって初めての経験だった。王宮での衛兵の仕事とは違う、人々の生活を直接支える、地道な労働。彼は、自分の力が、単に敵を打ち砕くだけでなく、何かを運び、作り、支えるためにも役立つことを実感し、これまで考えたこともなかった、力の意味や使い方について、微かながらも思索を始めるきっかけを得ていた。守護者としてファラを守るだけでなく、彼女が目指す新しい国のために、自分にできることはないだろうか、と。
一方、ファラは、市場の一角で小さな机を置き、代筆屋の看板を掲げた。王宮で最高の教育を受けた彼女の読み書き能力と、複数の言語知識は、文字を知らない人々が多いこの街では貴重なスキルだったのだ。最初は、見慣れぬ異国の文字や、人々の訛りの強い言葉に戸惑いながらも、様々な依頼を受けるうちに、彼女はこの仕事を通して、ザルバードに生きる人々の生々しい感情と人生の断片に深く触れていく。故郷の家族の無事を案じる船乗りの切実な手紙、恋敵への呪詛に満ちた手紙、商人同士の儲け話や裏切りの密約、そして、アスタナの惨状を嘆き、ジャファルへの怒りを綴る、同じパルサニアからの避難民の依頼…。それらは、彼女が王宮での生活では決して知ることのできなかった、世界の複雑さと、人間の持つ光と影、喜びと悲しみを教えてくれた。そして、虐げられた人々の声に触れるたびに、彼女の祖国への想いと、民を救いたいという決意は、より一層強く、確かなものとなっていった。
しかし、ザルバードの裏社会は、無垢な王女にも容赦なく牙を剥いた。ある日、ファラのもとに、やけに羽振りの良い、しかしどこか胡散臭い雰囲気の男がやってきて、破格の報酬で「恋文」の代筆を依頼してきた。男が口述する言葉は熱烈で甘かったが、ファラは何か引っかかるものを感じつつも、生活費のために依頼を引き受けてしまった。
だが、それが罠だった。数日後、ファラが宿に戻ると、部屋の前で屈強な、見るからに柄の悪い男たちが数人、待ち構えていたのだ。「てめえが、あのアズマーン様の女に色目を使った脅迫状を書いた、代筆屋の小娘だな!」
脅迫状? まさか、あの恋文が? ファラは愕然とした。どうやら、あの依頼人の男は、ザルバードの裏社会を牛耳る有力者の一人、"鉄拳"のアズマーンと呼ばれる男の愛人に横恋慕し、ファラを利用して、恋文に見せかけた脅迫状を送りつけたらしいのだ。完全に、厄介なトラブルに巻き込まれてしまった。
「誤解です! 私は、ただ頼まれた言葉を書いただけです! 脅迫状だなんて、知りませんでした!」
ファラが必死に弁解しようとするが、男たちは聞く耳を持たない。「うるせえ! アズマーン様がお呼びだ! 大人しく来てもらうぜ!」男たちがファラの腕を掴もうとした、その時だった。
「王女様に…何のようだ!」
地を這うような低い声と共に、仕事帰りのバシュが姿を現した。彼の全身からは、ファラに危険が及んだことへの、抑えきれない怒りのオーラが立ち昇っていた。「守護者」としての使命を果たせなかった、という自責の念も、その怒りを増幅させているようだった。
彼は武器を抜くことすらなかった。ただ、圧倒的な威圧感を放ちながら、ゆっくりと男たちに歩み寄る。そして、リーダー格の男が怯んで一歩後退した瞬間、その屈強な腕を掴むと、まるで小枝でも折るかのように軽々と持ち上げ、壁に叩きつけた。「二度と、王女様に近づくな。次は、命はないと思え」
男たちは、バシュの人間離れした怪力と、本物の殺気を宿した瞳に完全に戦意を喪失し、悲鳴を上げて逃げ去っていった。
だが、騒ぎはそれだけでは収まらなかった。脅迫状の一件は、当然ながら"鉄拳"のアズマーン本人の耳にも入った。彼はファラを、自身の根城である港近くの豪華な館へと呼び出した。ファラは恐怖を感じたが、逃げるわけにはいかない。バシュは心配して同行しようとしたが、ファラは「これは私が蒔いた種。私が解決すべきことです」と彼を制し、一人でアズマーンの元へと向かった。
アズマーンは、恰幅が良く、派手な金の装飾品をじゃらじゃらと身に着けた、いかにも裏社会のボスといった風貌の中年男だった。しかし、その鋭い目は、人の心の奥底まで見透かすような力を持っているようだった。彼は、豪華な椅子にふんぞり返り、ファラを値踏みするように見つめた。
ファラは、背筋を伸ばし、アズマーンの目を真っ直ぐに見据え、正直に事の経緯を話した。自分が利用されたこと、脅迫状だとは知らなかったこと、そして代筆屋として依頼を受けただけであること。彼女の声は震えていなかった。そこには、王女としての矜持と、嘘偽りのない誠実さがあった。
アズマーンは、ファラの言葉を黙って聞いていたが、やがて、意外にも豪快に笑い出した。「…はっはっは! こいつは面白い! あの色ボケの小僧め、そんな手の込んだ真似をしやがったか! ふん、どうやら本当に何も知らなかったらしいな。よし、気に入った! お嬢ちゃん、お前さんのその度胸と、真っ直ぐな目は気に入ったぜ。今回は見逃してやる。むしろ、褒美をやろう。困ったことがあったら、このアズマーン様の名前を出すがいい。ザルバードの大概のゴロツキは、それで黙るだろうよ」
ファラは、その予想外の結末に安堵すると同時に、この自由都市の、そしてここに生きる人々の、単純な善悪では割り切れない複雑さを改めて感じていた。悪党にも、彼らなりの流儀や、認めるべき価値観があるのかもしれない。
宿に戻ったファラは、心配そうに待っていたバシュに事の顛末を話した。バシュは、ファラが無事だったことに安堵しながらも、自分が彼女を一人で行かせてしまったことを悔いていた。
「申し訳ありません、王女様…拙者がついていながら…やはり、もっと力があれば、このような危険な目に遭わせずに済んだものを…」
「いいえ、バシュ」ファラは優しく、しかしきっぱりと言った。「貴方の力は、確かに私たちの盾です。でも、力だけに頼るだけでは、新たな憎しみや争いを生むだけかもしれません。今日のことも、もし貴方が力で解決しようとしていたら、もっと大きな騒ぎになっていたでしょう。貴方には、その力を、もっと別の形で…人々を守り、支えるために使ってほしいのです。私も、知恵と、言葉の力で戦います。二人で力を合わせれば、きっと…」
バシュは、ファラの言葉の意味を完全には理解できなかったかもしれない。だが、彼女が自分を信頼し、そして自分に新たな役割を期待していることは感じ取れた。そして、ファラの言う通り、力だけでは解決できない問題があることも、彼はこの街で学び始めていた。彼は、黙って、しかし力強く頷いた。彼の忠誠心は、単なる主従関係を超え、ファラという人間そのものへの深い敬意と、共に未来を切り開く同志としての想いへと、変わり始めていた。
ザルバードでの日々は、危険と隣り合わせだったが、同時に多くの学びと出会いをもたらした。様々な情報、様々な人々、様々な価値観。それらは、ファラの視野を広げ、彼女を王宮育ちの無垢な王女から、現実を知り、民衆の痛みを知る、真のリーダーへと成長させていくための、貴重な糧となっていった。
そして、ファラの心は、既に次の目標へと向かっていた。ザルバードのどこかに隠棲しているという、賢者ナディール。かつて父王の師傅も務めたという、パルサニア最高の知性。彼の知恵こそが、今の自分たちに最も必要なものだと、彼女は確信していた。
自由都市ザルバードの混沌とした風は、二人の背中を、次なる試練へと、そして反撃への道へと、静かに、しかし力強く押し出していた。