第二話:砂塵舞う荒野へ
王都アスタナの地下深く、忘れ去られた古い水路は、ファラとバシュを絶望の淵から救い出してくれた。しかし、その先で二人を待ち受けていたのは、故郷の緑豊かな大地とは似ても似つかぬ、荒涼とした過酷な世界だった。
見渡す限り続く、赤茶けた砂と、風に削られた奇妙な形の岩々。生命の気配は希薄で、ただ乾いた風が砂塵を巻き上げ、ヒューヒューと不気味な音を立てて吹き抜けていく。ここはパルサニア南部に広がる、広大な砂漠地帯。旅人たちから「沈黙の海」と恐れられ、一度迷い込めば生きては戻れぬと囁かれる不毛の大地だった。
アスタナでの惨劇から、既に十日近くが過ぎていた。昼は灼熱の太陽が容赦なく照りつけ、大地は火で炙られた鉄板のように熱くなる。遮るもののない砂漠では、太陽は絶対的な支配者だった。二人はわずかな岩陰や、枯れ果てた灌木の乏しい茂みに身を潜め、じっと耐えながら体力の消耗を最小限に抑えるしかなかった。陽炎が立ち上り、遠くの景色は蜃気楼のように歪んで見える。時には、存在しないはずの青々としたオアシスや、賑やかなキャラバンの幻影が目の前に現れ、ファラの渇いた心を惑わせ、絶望を深くした。
夜になると、気温は嘘のように急降下し、骨身に染みるほどの寒さが容赦なく二人を襲う。空には、アスタナの空では決して見ることのできない、無数の星々が、まるで手の届きそうなほど近く、冷たく、そして圧倒的な存在感で輝いていた。その息を呑むほどの美しさは、同時に、広大な宇宙の中での自分たちの存在のちっぽけさと、絶対的な孤独を際立たせるようで、ファラは畏怖の念を禁じ得なかった。彼女は、王家の血筋に伝わる「星読み」の力で、星々の微かな囁きに耳を澄ませようとしたが、聞こえてくるのはただ、不吉な乱れと、漠然とした不安だけだった。二人は、夜空の星だけを頼りに、ひたすら南へ、シルク連邦との国境を目指して歩き続けた。
王宮の柔らかな寝台も、侍女たちが用意してくれた温かい食事も、日に三度変えられた清潔な衣服も、今はもうない。ファラの着ている質素なチュニックとズボンは砂埃にまみれて色褪せ、裾は鋭い岩で擦り切れていた。火を起こす術すら知らない彼女は、バシュが時折狩りで仕留めてくる小さな砂漠のトカゲや、僅かに残った硬い干し肉を、砂を払いながら食べるしかなかった。水は、革袋に残った生ぬるいものを、まるで貴重な宝石でも扱うかのように、一日数回、唇を湿らせる程度にしか飲めない。それが、かつてパルサニアの王女であった彼女の、今の過酷な日常だった。
「水が…喉が焼けるようですわ…まるで砂を飲んでいるみたい…」
熱い砂の上に力なく座り込み、荒い息をつきながらファラは呟いた。絹のように滑らかだったはずの黒髪は砂と汗で束になり、陽に焼けた頬は痛々しいほど赤く火照っている。唇は乾ききってひび割れ、そこから滲んだ血の味が鉄のように口の中に広がった。繊細だったはずの足の裏は豆だらけで、鋭い砂利を踏むたびに激痛が走り、涙が滲む。
それでも、彼女は気丈に振る舞おうとした。リリアが、自分の命と引き換えに与えてくれた時間。父王も、多くの忠臣たちも、国のために命を落としたのだ。自分がここで弱音を吐き、くじけるわけにはいかない。王女としての矜持が、そして失われたものたちへの責任感が、彼女を突き動かしていた。時折、脳裏にフラッシュバックのように蘇る、炎に包まれたアスタナの光景と、リリアの最期の穏やかな笑顔。そのたびに、胸が鋭い刃で抉られるような痛みに襲われる。だが、彼女は唇を強く噛み締め、涙をこらえ、前を向いた。
「王女様、もう少しの辛抱です。この先に、旅人たちが『月の泉』と呼ぶオアシスがあるという古い言い伝えを聞いたことがあります。必ず、安全な場所へお連れします」
傍らで屈強な体を砂に預け、鋭い鷲のような目で周囲を警戒していたバシュが、低く、しかし確かな声で言った。彼は常にファラの数歩後ろを歩き、あらゆる危険――いつ起こるとも知れない砂嵐、夜陰に紛れて獲物を狙う肉食獣、そして何よりも執拗な追手の影――から彼女を守っていた。夜は自分の分厚い外套を彼女にかけ、昼は巨体で容赦ない日差しを遮る。彼の寡黙な優しさと、揺るぎない忠誠心、そしてその岩のような存在感だけが、ファラの折れそうな心をかろうじて繋ぎとめている唯一の支えだった。しかし、そのバシュの声にも、隠しきれない疲労の色が滲んでいた。彼の驚異的な体力とて無限ではないのだ。水と食料の不足は、確実に彼の巨体を蝕み始めていた。
だが、過酷な自然は容赦がない。頼みの綱だった革袋の水は、ついに最後の一滴まで飲み干され、食料も完全に底をついた。灼熱の太陽の下、二人はまるで砂漠をさまよう亡霊のように、ふらふらと歩き続けた。視界は霞み、思考は鈍り、足は鉛のように重い。ただ、生き延びなければならないという本能だけが、二人を突き動かしていた。
そして、ついにファラの体力が限界に達した。目の前が暗くなり、熱い砂の上に、彼女は糸が切れた操り人形のように崩れ落ちた。
「もう…だめ…動けません…バシュ、あなたは…どうか、お一人で…先に行って…」
朦朧とする意識の中、ファラは死を覚悟した。父上、リリア、ごめんなさい…私は、ここまでしか…。約束を、果たせませんでした…。
「王女様!しっかり!」
バシュが慌てて駆け寄り、彼女の体を抱き起こそうとした、その時だった。
陽炎の向こうから、まるで砂漠が生み出した幻のように、一頭の白いラクダに乗った人影が、ゆっくりと近づいてくるのが見えた。痩せてはいるが、背筋は驚くほど真っ直ぐに伸び、深く刻まれた皺が人生の年輪を感じさせる顔には、厳しい自然の中で生きてきた者だけが持つ知恵と、ある種の威厳が宿っている。砂漠の遊牧民の老婆だった。
老婆はゆっくりとラクダを寄せると、ファラとバシュのただならぬ様子を見て取り、何も聞かずにラクダの背から古びた革の水袋を下ろした。「おや、こんな所で倒れているとは…顔色が悪いねぇ、旅の方かね? さあ、これを飲みなされ」。
老婆は慣れた手つきで水袋の栓を開け、ファラの乾ききってひび割れた唇に、そっと水を注いだ。冷たい、清らかな水が、まるで乾いた大地に染み込む雨のように、ファラの喉を潤し、渇ききった体に染み渡っていく。それは、ただの水ではなかった。まるで命そのものが注ぎ込まれるような、神聖な感覚だった。ファラは夢中で水を飲んだ。
「あ、ありがとうございます…あなたは…?」
かろうじて声を出したファラに、老婆はザハラと名乗った。「礼には及ばんよ」老婆は皺だらけの顔に、わずかな笑みを浮かべた。「砂漠の前では、王族も、商人も、ただの乾いた旅人さね。皆、助け合わねば生きてはいけん。それが、砂漠の精霊たちの教えだよ」。彼女はファラの身なりや言葉遣いから、その高貴な身分を察していたのかもしれない。だが、詮索するそぶりは見せず、硬いパンと一握りの干しデーツも差し出した。「これを食べなされ。ほんの少しだが、力になるだろう」。
ファラとバシュは、感謝の言葉と共にそれを受け取った。ザハラは、砂漠で生きるための知恵――水場の見つけ方、危険な動植物の見分け方、星を使った方角の読み方――をいくつか教えてくれた後、「達者でな。精霊たちのご加護があるように」とだけ言い残し、再び陽炎の中へと、まるで最初からそこにいなかったかのように、静かに去っていった。
その言葉と、老婆の皺だらけの手から伝わった温もり、そして見返りを求めない純粋な親切が、ファラの心に深く、温かく刻まれた。王族としての驕りが、またひとつ、音を立てて剥がれ落ちた気がした。民とは、守り導くべき存在であると同時に、かくも強く、気高く、そして自然への深い畏敬の念を持って生きているものなのかもしれない。それは、書物からは決して学べない、貴重な教えだった。
ザハラの慈悲で命を繋いだ二人。だが、老婆から貰った水も食料も、すぐに尽きてしまうだろう。水場を探さなければならない。ザハラから教わった知恵を頼りに、バシュも必死に周囲を探すが、見渡す限り乾いた大地が続くだけだった。太陽は再び高く昇り、絶望感がまた二人を包み込もうとしていた。
諦めかけた、その時だった。
ファラの視線が、遠くに見える一本の枯れ木に吸い寄せられた。他の枯れ木と何ら変わりないように見える。だが、彼女の鋭敏な感覚が、その木が発する微かな「気配」の違いを捉えていたのだ。枝に残る数枚の葉の色が、ほんの僅か、ほんの僅かだけ、他の枯れ木の葉よりも濃い緑色を帯びている。そして、その根元の土の色が、周囲の砂とは微妙に異なり、地中深くに水分を含んでいることを示唆しているように見えた。それは、王宮で植物学を学んだ知識の応用でもあったが、それ以上に、彼女の持つ「星読み」の力に通じるような、自然の声を聞き取る直感だった。
「バシュ、あそこ…」ファラは震える指でその枯れ木を指さした。「あの木の根元…何か違う気がします。掘ってみてはいただけませんか?」
バシュは、もはやファラの言葉に疑いを挟まなかった。彼は黙って頷くと、指定された場所まで歩き、戦斧の柄尻を使って硬い地面を掘り始めた。しばらく掘り進めると、乾いていたはずの土が、次第に湿り気を帯びてきた!
「王女様! 水です! 水の匂いがしますぞ!」
バシュは興奮した声を上げ、さらに力を込めて掘り進める。やがて、湿った土の中から、こんこんと、細く、しかし確実に、清らかな水が染み出してきたのだ! 地中深くに眠っていた、命の水脈だった。
「水だ…本当に水が…!」
二人は顔を見合わせ、歓喜の声を上げた。貪るようにその水を飲み、革袋を満たし、乾ききった体に生命力を取り戻していく。ファラ自身も、なぜ分かったのか完全には説明できなかった。ただ、世界が発する微かな声のようなものを、感じ取ったような気がしただけだった。自分の内に秘められた不思議な力。それは、時には不安の種でもあったが、今は、生き延びるための確かな希望の光となっていた。しかし、同時に、この力がなぜ自分に備わっているのか、そしてそれをどう使うべきなのか、という迷いも消えることはなかった。
その夜、ようやく見つけた小さな岩陰で、二人は久しぶりに人心地ついた気持ちで休息を取っていた。昼間の出来事が、彼らに一縷の希望を与えていたのだ。バシュは傷ついた腕をさすりながら、ファラが眠りにつくのを見守っていた。彼の脳裏には、朦朧とした意識の中で見た幻が蘇っていた。「星が乱れる時、王家の『光』を守れ…」。一族に伝わる古い教え。そして、目の前で必死に自分を看病してくれたファラの姿。彼女の中に宿る、気高く、澄んだ、しかしどこか危うさをも感じさせる光。あれこそが、守るべき「光」なのだ、と彼は確信していた。彼女のためならば、この命、惜しくはない。守護者として、必ず守り抜く、と。
しかし、砂漠の夜は、安らぎだけを与えてくれるわけではない。
ファラが浅い眠りに落ちかけた、その時だった。カサカサ…という不気味な物音で、彼女ははっと目を覚ました。闇に目が慣れると、すぐ足元で、黒く蠢く巨大な影が見えた。人の頭ほどもある巨大な砂漠の毒蠍! 夜行性のそれは、獲物を求めて岩陰に潜んでいたのだ。黒光りする甲殻、威嚇するように持ち上げられた巨大な鋏、そして何よりも恐ろしいのは、尾の先に鋭く光る、猛毒を秘めた針!
「きゃあああっ!」
ファラの短い悲鳴が、静かな夜気を切り裂いた。蠍が、その毒針を振りかざし、ファラめがけて襲いかかってきた!
その瞬間、眠っていたはずのバシュが、獣のような俊敏さで動いた。彼はファラを突き飛ばし、自らが盾となったのだ!「ぐっ…!」短い呻き声と共に、バシュの屈強な左腕に、蠍の毒針が深々と突き刺さるのが見えた。
「バシュ!」
バシュは激痛に顔を歪めながらも、雄叫びを上げて戦斧を振り下ろし、毒蠍を甲殻ごと叩き潰した。だが、彼の腕は、毒の影響でみるみるうちに不気味な紫色に腫れ上がり、全身が激しく痙攣し始めた。
「バシュ! しっかりして!」
ファラはパニックになりながらも、必死にバシュに駆け寄った。彼の額に手を当てると、焼けるように熱い。呼吸も荒く、意識も朦朧としているようだった。蠍の毒は強力だ。このままでは命に関わるかもしれない。
「私が…私がなんとかしないと…!」
ファラは自分に言い聞かせた。リリアはもういない。頼れるのは自分だけだ。彼女は震える手で、バシュの傷口から毒を吸い出そうと試みた。効果があるかは分からない。それでも、何もしないよりはましだった。ザハラに教わった解毒作用のある薬草を思い出し、必死に探して石で潰し、腫れ上がった傷口に塗りつける。そして、自分の身に着けていた上質なシルクのスカーフを裂き、きつく腕を縛って包帯代わりにした。
夜通し、ファラは染み出した水場とバシュの間を往復し、彼の唇を水で湿らせ、熱で火照る体を濡らした布で拭き続けた。かつて侍女たちに傅かれ、汚れ仕事などしたことのなかった王女が、今は泥と汗にまみれて、必死に、ただひたすらに、忠実な騎士の命を繋ぎとめようとしていた。
夜が明け、太陽が再び砂漠を焼き始めた頃、バシュの熱は少しだけ下がったように見えたが、依然として意識ははっきりせず、腕の腫れも引いていない。毒の影響は深刻だった。
ファラが疲れ果ててうとうとし始めた、その時だった。
鋭い鷹のような鳴き声が、遠くから聞こえた。それは、砂漠の民が使う連絡の合図だったが、ザハラの使っていたものとはどこか違う、もっと硬質で、不吉な響きを持っていた。ファラははっと顔を上げ、岩陰から慎重に外を覗う。砂塵の向こうに、数騎のラクダに乗った人影が見えた。彼らは全身を黒い布で覆い、その動きは音もなく、まるで砂漠に溶け込む影のようだった。彼らこそ、叔父ジャファルが放った、砂漠での追跡と暗殺に特化した部族、「影族」の斥候だった。彼らは独自の追跡術を用い、獲物をどこまでも執拗に追い詰めることで恐れられていた。
「バシュ、追っ手よ! 隠れて!」
ファラは小声でバシュに呼びかけ、彼を起こそうとした。しかし、高熱と毒の影響、そして朦朧とした意識の中で「守護者としての使命感」に突き動かされたバシュは、「王女様は…お守りする…!」と呻きながら、ふらつく足取りで立ち上がり、戦斧を杖代わりに岩陰から飛び出してしまったのだ!
「ダメ、バシュ! 無茶です! 戻って!」
ファラの悲痛な叫びも虚しく、バシュの姿はすぐに影族の斥候たちに発見されてしまった。影族たちは嘲るような視線を交わすと、一斉に独特の形状をした吹き矢を構えた。その矢には、麻痺毒が塗られているという。数対一、しかもこちらは万全ではない。絶体絶命だった。
その瞬間、ファラの頭脳が、恐怖を超えて再び高速で回転を始めていた。敵は風下にいる。そして、昨夜倒した毒蠍の死骸がすぐ近くに転がっている。
「これしか…!」
ファラは咄嗟に決断した。彼女は音もなく動き、毒蠍の死骸から、まだ猛毒が残っているであろう尾の針を素早く拾い上げる。そして、風向きと距離を計算し、斥候たちの足元、砂の中を目がけて力いっぱいそれを投げつけたのだ。毒針は音もなく砂に突き刺さり、彼らは気づかない。
影族たちは、ふらつくバシュを嬲るように麻痺矢を放ってくる。バシュはそれを戦斧で叩き落とすが、その動きは明らかに鈍い。やがて、斥候の一人が、獲物にとどめを刺そうと近づいた時、偶然にも毒針を踏みつけてしまった!「ぐあっ!」短い悲鳴を上げ、男は足を押さえて倒れ込む。仲間が駆け寄るが、原因が分からない。「どうした!」「罠か!?」疑心暗鬼が広がり、敵の連携は完全に乱れた。
「今よ、バシュ!」
ファラはその隙を見逃さなかった。彼女はバシュを叱咤し、まだ混乱している斥候たちの横をすり抜け、近くの岩場地帯へと逃げ込むことに成功する。ファラの機転と、時に常軌を逸した大胆な発想が、またしても二人を死地から救い出した。しかし、ファラの胸には、後味の悪さが残っていた。自分の策が、敵とはいえ、人に激しい苦痛を与えてしまった。目的のためならば、手段を選ばない非情さが、自分には必要なのだろうか? 彼女は、自分の持つ力の使い方について、初めて深い葛藤を覚え始めていた。
だが、逃げ込んだ岩場にも、安息はなかった。そこには、別の追跡部隊が待ち構えていたのだ。今度は歩兵が中心で、その数は十名以上。彼らの装備は統一されており、おそらく叔父ジャファルが個人的に雇った、腕利きの傭兵部隊なのだろう。狭い岩場での戦いは避けられない。
「王女様、後ろへ!」
毒の影響が残り、万全とは程遠い状態ながらも、バシュはファラを背後にかばい、戦斧を構えた。傭兵たちは経験豊富で、巧みに連携を取りながら、じりじりと包囲網を狭めてくる。投石やクロスボウの矢がバシュを襲う。
ファラは恐怖に身を震わせた。もし、自分の指示が間違っていたら? もし、バシュが倒れてしまったら? リーダーとしての責任の重さが、彼女の肩にのしかかる。それでも、彼女は必死に周囲の状況を観察し、活路を探した。そして、彼女の「視る」力が、再び答えを示した。頭上に突き出た、巨大な一枚岩。その下にある脆そうな砂岩層。連鎖的な崩落の可能性。だが、もし失敗すれば、自分たちが生き埋めになるかもしれない…。一瞬、躊躇いが心をよぎる。しかし、バシュの苦しげな呼吸を聞き、彼女は決断した。
「バシュ!」ファラは、自分の声が震えていないことに驚きながら、叫んだ。「頭上の、あの大きな岩を! あの付け根を狙って!」。
バシュは、もはやファラの言葉に疑いを抱かなかった。彼はファラの指さす方向を見上げると、残った力を振り絞り、戦斧を岩盤の付け根に叩きつけた! ゴン! ゴン! と鈍い音が響き、岩盤に亀裂が走る。傭兵たちも何事かと動きを止めた。
そして、数回の打撃の後、ついに巨大な一枚岩が、地響きと共に剥がれ落ちた! ファラの直感通り、それは下の脆い砂岩層を巻き込み、小規模ながら見事な岩雪崩となって、狭い通路を完全に塞いだのだ。土煙が収まった後には、巨大な岩石の壁が出現し、追手の姿はどこにも見えなかった。
「やった…!」
ファラは安堵の息をつき、その場にへたり込んだ。しかし、彼女の心は晴れなかった。自分の力が、またしても破壊をもたらした。そして、もしあの岩雪崩が自分たちを襲っていたら…? 力の代償として、激しい頭痛と、未来の断片的な凶兆――アスタナを蹂躙するアグニの軍勢、玉座で冷たく笑う叔父の姿――が脳裏をよぎり、彼女を言いようのない不安に陥れた。
バシュは、そんなファラの様子を案じながら、荒い息をついていた。彼は、ファラの持つ未知の力への畏敬と共に、その力の危うさ、そして彼女が背負うであろう重すぎる運命を感じ取り、守護者として、ただ力を振るうだけでなく、彼女の心を支え、正しく導かねばならないという、新たな役割の重さを痛感するのだった。砂漠の過酷な試練は、二人の絆を、そしてそれぞれの内に秘めた力と葛藤を、確実に鍛え上げ、そして複雑に絡み合わせていた。