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第一話:星墜ちの夜

黄金の砂漠が地平線の彼方まで続き、その熱風を遠いザルゴス山脈の頂きに連なる雪がわずかに和らげる地。偉大なるパルサニア王国の心臓、王都アスタナは、生命の源たる大河ティリアスの恵みを受け、星々の運行のように秩序正しい、幾世紀にもわたる平和と繁栄の中にあった。


天を目指すかのように高くそびえる城壁は、日干し煉瓦を磨き上げたもので、太陽の光を浴びて眩いばかりに白く輝いている。その内側には、豊かな緑が溢れる庭園と、精緻な青いタイルで飾られた白亜の建物が、まるで宝石を散りばめたかのように迷宮状に広がっていた。行き交う人々は陽気で、その褐色の肌には活力がみなぎり、七色の絨毯や香辛料が山と積まれた市場は常に活気に満ちている。そして、街の至る所にある拝火壇や、太陽神ミトラと水の女神アナヒータを祀る壮麗な神殿からは、神官たちの厳かな祈りの歌が、乾いた風に乗って流れてくる。誰もが、この豊穣と安寧が、偉大なる王家の統治と神々の恩寵の下、永遠に続くと信じて疑わなかった。少なくとも、あの夜までは。


***


王宮の最も奥深く、幾重にも連なる回廊と庭園に守られた一角。外界の喧騒から隔絶された、星見の塔にもほど近い静謐な庭園では、色とりどりの花々が咲き乱れ、中央の噴水が水晶の粒を撒き散らすように涼やかな音を立てていた。

その木陰で、パルサニア王国の第一王女、ファラは刺繍枠に向かっていた。十五歳。絹のように艶やかな黒髪は陽の光を吸い込んで静かに輝き、今は作業の邪魔にならないよう、銀の髪飾りで緩くまとめられている。大きな黒曜石のような瞳は、まだ見ぬ世界への尽きない好奇心を映しているが、時折、その奥に、年齢に似合わぬ深い思慮の色が宿ることがあった。


「リリア、見てくださいな。この鳥の羽根の色、もう少しだけ空の色に近い青の方が良いかしら? それとも、夜空の深い青?」


ファラが問いかけると、傍らに控える侍女のリリアが、穏やかな微笑みを浮かべて刺繍枠を覗き込んだ。彼女はファラが物心ついた頃からずっと傍に仕え、傅役として、姉のように、時には母のように、この純粋で聡明な王女を見守ってきた。

「夜空の青はいかがでしょう? ファラ様は、星々がお好きでいらっしゃいますから」


「星…」ファラは小さく呟き、刺繍の手を止めた。彼女の視線は、澄み渡った青空へと向けられた。昼間の空に星は見えない。だが、彼女の胸の内には、ここ数日、消えない小さな不安があった。

「リリア、昨夜も星見の塔から夜空を眺めたのだけれど、やはり『王の星』の位置が、古の記録と僅かにずれているように思えるのです。他の星々も、なんだか…いつもより落ち着きなく瞬いているような…家庭教師は気のせいだと言うけれど…」


パルサニア王家には、星々の微細な動きから未来の変動を読み取る「星読み」の力が、稀に現れるという古い言い伝えがある。ファラはそのことを知っていた。この胸騒ぎは、その力の兆しなのだろうか? それとも、ただ心が過敏になっているだけなのだろうか? 力は、明確な答えを与えてはくれなかった。ただ、漠然とした、しかし拭い難い不安の影を投げかけるだけだった。


「まあ、ファラ様は本当によく空をご覧になっていらっしゃいますものね」リリアは優しく言った。「きっと、誰にも見えないものが見えるのでしょう。それが王家の血筋というものでございましょう。けれど、あまりご心配なさいますな。きっと、良きことの前触れでございましょう」

リリアの言葉は慰めにはなったが、ファラの不安を完全に拭い去るものではなかった。


ファラの鋭敏すぎる感覚は、星の運行だけにとどまらなかった。歴史の授業で、パルサニアが過去の宿敵を打ち破った有名な「ティリアス河畔の会戦」について学んだ時のことだ。老教師が英雄王の鮮やかな戦術を称賛する中、ファラは古文書に描かれた布陣図をじっと見つめていた。すると、まるでその戦場が目の前に広がっているかのように、兵士たちの動き、土煙、剣の閃き、そして負傷者のうめき声までが、鮮明なイメージとなって彼女の脳裏に洪水のように押し寄せてきたのだ。その奔流に、一瞬めまいを覚えるほどだった。

そして、彼女はその「視えた」光景の中から、記録にはない矛盾点を見つけ出した。

「先生、失礼ながら…この布陣では、もし敵が陽動に気づき、予備兵力で左翼の丘陵地帯から奇襲をかけていたら、我が軍の本陣は崩壊していたのではないでしょうか? なぜ、敵はその可能性に気づかなかったのでしょう? 何か…何か別の要因があったのでは…?」

老教師は、まさか王女からそのような具体的な戦術レベルの、しかも記録を疑うような指摘が出るとは思わず、絶句した。ファラ自身も、なぜそのような光景が「視える」のか、そしてそれが何を意味するのか、理解できずに戸惑っていた。この力は、祝福なのか、それとも呪いなのか。


***


そんなファラの鋭敏さが捉えるのは、書物の中の矛盾だけではなかった。最近、父である国王と、宰相であり叔父にあたるジャファルの間の空気が、明らかに張り詰めていることにも気づいていた。東方の隣国、唯一神アグニを崇拝し「聖戦」を掲げる狂信的なアグニ教国との緊張が高まる中、父はパルサニアの誇りをかけて断固抗戦を主張し、叔父は現実的な国力差を理由に外交による融和を主張していた。その対立は、もはや単なる政策論争の域を超え、個人的な確執の様相すら呈し始めていた。ジャファルは有能な政治家であり軍人でもあるが、その野心と冷徹さは、宮廷内でも密かに囁かれていた。


ある夜、父に頼まれた古い星図を取りに書斎へ向かったファラは、扉の前で室内から漏れ聞こえる激しい口論に、思わず足を止めた。

「ジャファル、何度言えば分かるのだ! 奴らは話し合いで収まる相手ではない! 我らの神々も文化も、奴らにとっては根絶すべき悪なのだぞ! 融和とは、奴らの言いなりになることか!」父王の、怒りと焦燥に押し潰されそうな声。

「陛下、どうかお心を鎮めて。感情論では国は守れませぬ!」叔父ジャファルの、冷静だが、どこか突き放すような、冷たい響きを持つ声が続く。「陛下がお守りになろうとしているその古い血筋と伝統だけにしがみついていては、もはやこの国は立ち行かなくなりますぞ! アグニの力は現実です! そして、その背後にある、もはや無視できぬ時代の変化そのものを、どうか正視なさってください! それを利用し、新たな秩序を作るしか、パルサニアが生き残る道はないのです!」

その言葉には、単なる権力欲だけではない、何か歪んだ、しかし彼なりに国の未来を憂うかのような響きがあった。古い体制への苛立ち、時代の変化への焦燥感。

「貴様…! まさか、アグニと通じておるのではあるまいな? その背後にあるものとは何だ! 答えよ、ジャファル!」

「陛下! それはあまりな邪推にございます…! 私はただ、パルサニアの、真の未来を憂いているだけにございます。理想だけを追い求めて滅びるよりも、現実を見て、形を変えてでも生き残る道を…」

ジャファルの声は平静を装っていたが、ファラには、彼の整った顔立ちの奥に、一瞬だけ、計算高い冷たい光と共に、深い苦悩と、何か割り切れない複雑な感情がよぎったように見えた。言いようのない不安が、冷たい霧のように彼女の心を覆った。叔父はいったい何を考えているのだろう? ファラは胸の前で小さく手を組み、ミトラ神とアナヒータ女神に、ただ国の平安を祈るしかなかった。


***


数日後、アスタナは一年で最も華やかな豊穣祭の日を迎えた。大河ティリアスがもたらす恵みに感謝し、太陽神ミトラの力強い加護と水の女神アナヒータの慈悲深い潤いを祈り、来年の更なる豊穣を願うこの祭りは、王宮も市井も一体となって祝われる、パルサニア最大の祝祭だ。色とりどりの絹の旗が街路という街路を飾り、「豊穣あれ!」と書かれたリボンが風に舞う。人々は最も美しい民族衣装を身にまとい、顔には祝福の模様を描き、広場では笛や太鼓、竪琴が陽気なリズムを刻み、老いも若きも手を取り合って伝統的な踊りの輪がいくつもできていた。夜になると、王宮の城壁にも市内の家々にも無数の松明が灯され、神殿の拝火壇の聖なる炎はひときわ高く燃え上がり、夜空を焦がす。王都全体がまるで地上に降りた星々のように、幻想的な光と熱気に包まれる。


ファラもまた、自室でリリアに手伝ってもらいながら、祭りのために特別に誂えられた、夜空のような深い青色の地に、銀糸で星屑を散りばめたような刺繍が施された美しいドレスを身にまとっていた。窓から見える喧騒と、夜空を焦がすほどの無数の光に、数日前の不安も少しだけ和らぐ気がした。

「綺麗ですわ、リリア。街全体が宝石箱のよう。まるで星々が地上に降りてきたみたい」

「はい、ファラ様。本当に美しい夜ですわ」リリアは微笑んだが、その笑顔にはどこか儚げな影が差しているように、ファラには見えた。気のせいだろうか? それとも、リリアもまた、この祝祭の底に流れる不穏な空気を感じ取っているのだろうか?

「今宵はきっと、良い夜になりましょう。さあ、ファラ様も、少しだけバルコニーから祭りの様子をご覧になっては? 花火のような光の玉も打ち上げられるそうですわ」

リリアに促され、ファラはバルコニーへと歩み寄った。眼下に広がる光と音楽の洪水。人々の歓声。楽しげな、幸福に満ちた光景。だが、その喧騒とは裏腹に、ファラの胸の内には、静かな湖面に小石を投げ込まれたような、小さな波紋が広がっていた。星の位置のずれ、叔父の瞳の奥の光、リリアの笑顔の翳り。何かが違う。何かが狂い始めている。見えない糸のようなものが張り詰め、今にも切れそうなほどに軋んでいるような感覚。胸騒ぎが、どうしても消えなかった。


その予感は、最悪の形で、そしてあまりにも早く現実のものとなった。

祭りの喧騒が最高潮に達し、広場の中央で、大神官が聖なる炎を天に捧げ、豊穣を祈る祝詞を唱えようとしていた、まさにその時だった。

突如、王宮の方角から、祭りの音楽を掻き消すほどの、甲高い、耳を聾するような絶叫が響き渡ったのだ。

一つではない、無数の悲鳴。

人々が何事かと顔を見合わせ、音楽が止まった瞬間、続いて、重い金属が激しくぶつかり合う剣戟の音、石造りの建物が崩れ落ちる地響きのような轟音、そして夥しい数の人々の断末魔の叫びが、悪夢のように夜空を引き裂いた。

「まさか…!」ファラは血の気が引くのを感じながら、王宮の方向を見た。信じられない光景が広がっていた。壮麗であるはずの王宮の一角、父王の住まう本殿に近い塔が、まるで巨大な松明のように、赤々と燃え上がっていたのだ。黒煙が渦を巻いて夜空を醜く汚し、火の粉がまるで赤い雪のように舞い落ちてくる。


「敵襲! 敵襲だぁ! アグニの兵だ! 城門が内側から開かれたぞ! 裏切りだ! ジャファル様が…ジャファル様が裏切られた!」

衛兵たちの、絶望と怒りに満ちた声が、混乱をさらに加速させる。城門が、内側から? 裏切り? やはり、叔父が…。ファラの脳裏に、叔父の冷たい瞳と、父との口論が蘇る。あの時の彼の言葉。「新たな秩序を作るしか…」。彼の言う「新たな秩序」とは、この惨劇のことだったのか?


部屋に転がり込んできたのは、鎧を血と泥で汚し、肩で荒い息をつく近衛兵だった。その顔は絶望に歪んでいる。

「王女様! ファラ様! 申し上げます! 陛下が…陛下が、ジャファル宰相の裏切りにより…アグニ教国の凶刃にかかり…奮戦の末、討ち死になされました!」。

父が? あの厳格で、しかし誰よりもパルサニアを、民を愛していた父が? しかも、信頼していたはずの弟の手によって?

ファラの頭の中が、真っ白になった。思考が停止し、音も色も遠ざかっていく。足元の床が崩れ落ちていくような感覚。涙すら流れなかった。あまりに突然の、あまりに残酷すぎる現実が、彼女の心を凍てつかせた。


「ファラ様、しっかり!」リリアが必死にファラの肩を揺さぶる。「お逃げになりませんと!」

だが、悲しみに打ちひしがれる時間も、逃げるための時間も、もはや残されてはいなかった。私室の壮麗な扉が、外から獣の咆哮のような破壊音と共に、乱暴に蹴破られたのだ。

土足で踏み込んできたのは、異様な装束に身を包んだ兵士たちだった。彼らの胸には、パルサニアの太陽の紋章とは対照的な、歪んだ黒い炎の紋章が描かれている。アグニ教国の「聖戦士」だ。その数は五人。いずれも精悍な顔つきで、その目には宗教的な狂信の光がギラギラと宿っていた。彼らはファラを見ると、汚らわしいものでも見るかのように顔をしかめ、甲高い、独特の節回しを持つ詠唱のような言葉を口走り始めた。「アグニの炎による浄化を! 異教の偶像に死を!」。彼らにとって、この戦いは征服ではなく、穢れた異教徒を根絶やしにするための神聖な儀式なのだ。彼らは、王宮内の美しい装飾や美術品を次々と破壊し、神聖な場所を穢していく。

「見つけたぞ、異教の王女め」リーダー格の男が、ぎらつく目でファラを睨みつけた。「神アグニへの良き供物となろう。抵抗は無駄だ。大人しくこちらへ来い。さすれば、苦しまずに『浄化』してやろう」

男の言葉は、ファラの背筋を凍らせた。絶望。恐怖。ファラは震える足で後ずさる。リリアが、震えながらもファラの前に立ちはだかった。その手には、いつの間にか護身用の小さな銀の短剣が握られている。しかし、鍛え抜かれ、死をも恐れぬ狂信者たちの前では、それはあまりにも儚い抵抗にしか見えなかった。終わった。自分も、パルサニアも、ここで…。ファラは思わず目を閉じた。


その瞬間だった。

部屋の反対側、バルコニーへと続く豪奢な装飾が施された壁が、まるで内側から爆発したかのように、轟音と共に砕け散った!

舞い上がる粉塵と降り注ぐ瓦礫の中から、岩のような巨大な影が姿を現す。短く刈り込んだ赤茶色の髪、鋭い鷲のような金色の瞳。歴戦の傷跡が刻まれた浅黒い肌。それは、王家に代々仕える「星の守護者」の一族の末裔、若き衛兵バシュだった。彼の身に着けている古風だが機能的な黒い革鎧は、一族に伝わる特別な製法で作られたものだという。そして、その肩には、彼の身長ほどもある巨大な戦斧が、まるで生きているかのように鈍い光を放っている。それもまた、一族に受け継がれてきた、星の力が宿るとされる特別な武具だった。

「王女様、ご無事ですか! 星の乱れ…やはり!」

彼は、近頃の星々の不穏な動きを本能的に感じ取り、一族の使命感に突き動かされ、王宮の異変を察知して駆けつけたのだ。ファラが以前、宮廷の些細な揉め事で不当に罰せられそうになった彼を(意図せずとも)助けたことも、彼の行動を後押ししていた。


アグニの聖戦士たちが、予期せぬ闖入者の出現に驚愕し、一瞬動きを止める。その一瞬が、彼らにとっての命取りとなった。

「邪魔だ、虫けらどもが!」

地響きのような雄叫びと共に、バシュは動いた。巨大な戦斧が、唸りを上げて横薙ぎに振るわれる。それは単なる力任せの攻撃ではなかった。長年の訓練と実戦経験に裏打ちされた、効率的かつ破壊的な一撃。無駄な動きはなく、敵の防御の隙を正確に突いている。最初にいた三人の聖戦士が、まるで枯れ葉が嵐に巻き上げられるように、戦斧の一撃を受けて壁まで吹き飛ばされ、ぐしゃりという鈍い音と共に叩きつけられた。骨が砕け、肉が裂ける音。もはや人としての形を留めていない。

残る二人が恐怖に顔を引きつらせながらも、狂信的な叫びと共に剣を構えて突進してくる。だが、バシュの動きは彼らの反応速度を遥かに凌駕していた。彼は敵の攻撃を最小限の動きで躱すと、巨体からは信じられない俊敏さで懐に飛び込み、一人は戦斧の柄尻で顎を砕かれ昏倒し、もう一人は、振り下ろされた剣を戦斧の側面で受け止められ、そのまま力任せに関節をあらぬ方向へとへし折られた。甲高い悲鳴すら上げられない。

わずか数瞬。部屋を満たしていた狂信的な殺気は消え失せ、代わりに血と死と破壊の生々しい匂いが立ち込める。床には原型を留めぬ敵兵の亡骸と、苦悶の声を上げる瀕死の兵士。そして、その中央に、返り血をわずかに浴びながら、静かに戦斧を構え直すバシュの姿があった。その圧倒的な、まるで神話の英雄か悪鬼のような武力。しかし、彼の瞳の奥には、敵を殲滅した達成感とは別に、この凄惨な光景に対する、守護者としてこれで良いのかという微かな痛みと葛藤のようなものが浮かんでいた。


「王女様、こちらへ! 一刻も早く王宮の外へ!」

我に返ったバシュは、ファラの手を掴んだ。その手は岩のように硬く、そして驚くほど温かかった。ファラはリリアと視線を交わし、頷き合うと、バシュに導かれるまま燃え盛る王宮からの脱出路を探し始めた。廊下は既に火の海と化し、天井はいつ崩れ落ちてもおかしくない。至る所で戦闘が続き、味方の兵士たちの断末魔や、アグニ兵の狂的な詠唱が反響している。地獄。まさに地獄絵図だった。

だが、不思議なことに、ファラの心は恐怖だけに支配されてはいなかった。もちろん怖かった。手足は震え、心臓は張り裂けんばかりに高鳴っていた。しかし、それと同時に、頭の一部は異常なほどの冷静さで、周囲の状況を観察し、分析していたのだ。炎がどちらからどちらへ燃え広がっているか、どの柱が崩れかけているか、人々の逃げる方向、敵兵の配置…。その全てが、彼女の頭の中で、まるで制御できないイメージの洪水のように押し寄せ、処理されていく。この奔流は何なのか? 父を失い、王宮が炎に包まれるという絶望的な状況に打ちのめされそうになりながらも、必死に心を保っていた。


「バシュ、地下通路へ! あそこならあるいは…!」ファラは叫んだ。王族だけが知る、秘密の脱出路。かつて父から、万が一の時のためにと教えられていた場所だ。

バシュは頷き、道を阻む燃え落ちた梁や瓦礫を戦斧で粉砕しながら進む。二人はリリアと共に、ようやく地下通路へと続く階段にたどり着いた。しかし、そこには新たな絶望が待ち構えていた。戦闘の衝撃か、あるいは意図的な破壊か、地下通路の入り口部分が巨大な岩で塞がれ、完全に崩落していたのだ。

「くそっ!ここまで来て…! 万事休すか…!」バシュが悔しげに壁を殴りつける。進むことも退くこともできない。背後からは火の手と、追手の声が迫ってくる。


その時、ファラの視線が、崩れた壁の一部に残る、古い模様に釘付けになった。星と水の流れを図案化した、古代パルサニアの様式。それは、王宮の地下深くに存在したという「涸れた水路」の入り口を示す印だと、父が語っていたものに酷似していた!

「バシュ、待って! この壁の向こうです! 父が言っていました…涸れた古い水路があるはずだと! この模様がその印のはず!」確証はない。だが、ファラの必死な声には、疑うことを許さないような、不思議な力がこもっていた。

バシュは一瞬ためらったが、すぐにファラの言葉を信じた。「承知いたしました!」。彼は再び戦斧を振り上げ、ファラが指し示した石壁に叩きつけ始めた。ゴォン!ゴォン!と、王宮の基礎を揺るがすかのような凄まじい破壊音が響き渡る。火事場の馬鹿力か、あるいは「守護者の一族」に伝わる特別な力か、バシュの怪力が分厚い石壁を砕き、やがてその向こうに、暗く湿った、忘れ去られた空間が口を開けた。古い水路だ!


だが、その破壊音は、近くまで迫っていた追っ手を呼び寄せてしまった。「いたぞ! 王女だ! 追え! 水路へ逃げ込む気だ! 逃がすな!」。数人のアグニ兵が、松明を掲げて階段を駆け下りてくる。水路へ飛び込もうとする三人。もう時間がない。

その瞬間、ずっとファラの傍らに付き従っていた侍女のリリアが、ファラの背中を強く押した。「王女様、お逃げください!」。

「リリア!?」ファラが振り返る。

「パルサニアの未来を…どうか…! ファラ様が生きていさえすれば、必ず…! ここは、私がお引き受けいたします!」。リリアはそう言うと、震える手で、しかし毅然として護身用の短剣を抜き放ち、迫りくるアグニ兵たちの前に立ちはだかった。彼女の細腕では、屈強な聖戦士たちの相手になるはずがない。それは、自らの命を盾にした、最後の奉公だった。

「リリア! 行かないで! いや! 一緒に…!」ファラの悲痛な叫びが響く。だが、バシュは「御免!」と叫ぶと、ファラを無理やり水路へと引きずり込んだ。「行くぞ、王女様! リリア殿の覚悟を、その尊い命を、決して無駄にしてはなりませぬ!」。

水路の暗闇に消える寸前、ファラは見た。炎に照らされた回廊の向こうで、叔父ジャファルが、アグニ兵の暴虐を苦々しい、しかしどこか計算高い表情で見つめながら、傍らの腹心に何かを囁いている姿を。「…予定通りだ。だが、アグニの連中をこれ以上増長させるな。王女の確保は…いや、今は泳がせておけ。あの『力』が本物なら、いずれ役に立つ…」。彼の呟きが、ファラの耳に届いたような気がした。叔父は、この混乱を利用して、何か別の、恐ろしい計画を進めているのかもしれない…。その光景が、ファラの脳裏に焼き付いた。

そして、リリアの最期の顔。それは、恐怖でも悲しみでもなく、ファラの未来を信じ、託す、覚悟を決めた穏やかな微笑みだった。


信頼していた叔父の裏切り。敬愛する父の無惨な死。そして今、姉のように慕っていた忠実な侍女の、あまりにも尊い犠牲。一晩にして、ファラは愛するもの、信じるもの、帰る場所、そのすべてを失った。冷たく暗い水路の中、足元には泥水がまとわりつき、どぶのような腐臭が鼻をつく。彼女はただ、バシュの岩のように硬く、そして温かかった手に引かれて、闇の中を進んだ。背後からは、故郷アスタナが、裏切りの炎に包まれ、音を立てて崩れ落ちていく音が、微かに、しかし確かに聞こえてくるようだった。涙は、もう枯れ果てていた。代わりに、胸の奥底に、硬くて冷たい、しかし確かな熱を帯びた小さな炎のような何かが灯ったのを、ファラは感じていた。それは、絶望か、燃えるような怒りか、それともまだ名も形もない、未来への決意の欠片か。バシュは、隣を歩く小さな主の背中に宿る、か細いが消えることのない「光」と、その光が背負うであろう過酷な運命を感じ取り、守護者としての責任の重さに、改めて身震いしていた。星が地に墜ちた夜、二人の過酷な運命の旅が、今、この瞬間から始まろうとしていた。

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