幻生虫
※虫描写、精神病描写があります。ご注意ください。
今回の診察でも、彼女は私と目を合わすことがなかった。より正確に言うならば、彼女の視線は体中を這いまわる存在しないはずの虫に、奪われているのだ。
「まだ、虫が見えていますか?」
「は、い、先生。見えて、ます」
質問に答えている間も、彼女の眼球はギョロギョロと動き、時々体をゆすって何かを振り落とすような動作をしている。体は痩せ、目元はクマのせいで真っ黒。入院着は拘束用のベルトが何本か縫いつけられているため、一見するとそういう退廃的なファッションに見えなくもない。
「他の離脱症状はもうすっかり無くなっているのに、虫の幻視だけが続いているというのは不思議ですねえ。もしかして、小さい頃に虫に関するトラウマがあったとか……」
「い、いえ。そんな、ことがあった、記憶は、ひっ、無い、無いです」
この病院では彼女のような入院患者は決して珍しくない。彼女はかつて、ろくでもない恋人に付き合わされて違法ドラッグを乱用していた。恋人は密輸に手を出そうとして捜査の網に引っかかり逮捕、彼女もまた警察の厄介になり、隔離病棟で治療を受けることになった。
一刻も早く彼女をドラッグの呪縛から解き放ち、社会復帰をさせてあげたい。しかし、このように彼女の治療は現在行き詰まっているのだ。
なんとかこの状況を打破しようと、私は彼女にある提案をした。
「今回のお薬は、ちょっと新しいものを試してみてはいかがですか」
「新しい、お薬」
彼女の視線が、一瞬だけこちらに向けられた。
「はい、先月に治験が始まったばかりの新薬なんですがね。特に幻覚症状に対して効果のある薬だと聞いています。副作用も今のところ報告されていません。もちろん治験で使用するお薬ですので、服用するかしないかは患者の意志が最優先となります」
「そ、そのお話、もっと詳しく、き、聞かせてください」
小一時間ほど話し合いをした後、最終的に彼女は首を縦に振ってくれた。この新薬が、彼女にとって特効薬になってくれると良いのだが……。
彼女が新薬の服用を開始してから、一ヶ月が経過した。
新薬の効果は目覚ましいものだった。表情が明るくなり、きちんと睡眠もとれるようになった。食欲も回復して、一時間も立っていられなさそうな痩せぎすの体は日を追うごとに肉が付いてきている。何よりも、はきはきと言葉を喋ることができて、思考が前向きになったことが大きい。
「先生、今日も体調は変わりありませんよ! みんなも元気いっぱいです!」
「検査の結果も正常値ですね。いや本当に、新薬の効果があって良かった。それで……そのみんなというのは、今も体にくっついているのですか」
「ええ、無邪気に体中、這い回ってますから!」
……唯一の問題点は、彼女の幻視だけが、今もなお続いているということだ。
「えーと、その虫たちは、昨日と姿形は変わってませんか」
「はい! ギー太はたくさんの足を波のように動かしてますし、ベルゼ君は頭のまわりを元気よく飛びはねています! サーナは最近見かけなくなりましたね。どこかに隠れているのかなー」
幻視は消えるどころか、むしろ悪化しているようにしか考えられない。日が経つにつれて、彼女は見えない虫たちの生態を細かに説明し、今では名前までつけている。しかもそれを嫌がる様子もなく、嬉々として行っているのだ。
「ふーむ、体の状態は順調に改善しているんですが。そもそも幻覚を治療するための薬なのに幻視だけが治っていないなんて、奇妙ですねぇ。……つかぬ事をお聞きしますが、その幻視、えー、虫たちを嫌がらなくなったのは、何か理由がおありで」
「なんてことはなかったんです。この子たちは、最初から私たちのそばにいたんですよ」
「えっ」
予想外の返答に私は困惑を口に出してしまったが、彼女はかまうことなく、笑顔で話を続けた。
「薬を飲むまでは、ただ気持ち悪く這い回り、肌を噛んだり刺したりして、私にとって嫌な存在でしかありませんでした。だけど、飲み始めて2日経ったころでしょうか、なんだか気持ちが落ち着いてきたので、この子たちをよく観察してみたんですよ。そしたら、意外とかわいい所もあるし、体のあちこちを這い回ることはあっても、決して傷付けるようなことはしていなかった。つまり、この子たちは悪者ではなかったんですよ」
「は、はあ」
「それからどんどん、一日ごとに私はこの子たちと仲良くなっていきました。ある日、一匹の細長い虫が、耳から私の頭に入ってきたんですよ。すると、どうなったと思います? この子たちの声が聞こえるようになったんです! 何も心配することはないよ、僕たちは君の敵じゃない、辛かったね、頑張ったね、最初から僕たちはここにいたんだ、薬のおかげでこうやって見えるようになったんだ……そんな優しい声が、次々と聞こえてきました。思わず、泣いてしまいましたね。先生には感謝しきれません、この子たちと和解できただけでなく、こうやって会話もできるようにしてくださるなんて」
「ちょ、ちょっと、待ってください」
やっとの思いで私は口を挟んだ。熱っぽくなってきた自分の額に手を置きながら、深呼吸をして彼女に告げる。
「とにかく、状態はある程度把握できました。パソコンに今回の診察内容を入力しますので、少しの間待っていただけますか」
逃げるようにモニターへ視線を移して、ダカダカと音をたてながらキーボードを叩く。これは、診療記録になんて書くべきなのか。現在に至っても、新薬を服用後に彼女のような反応が現れたという報告はない。そもそも幻視に対して効果がなかっただけでなく、幻聴らしき症状まで現れる始末だ。これは重大な副作用として報告すべきか。しかし、それ以外は良い効果が現れているのだ。もう少し様子を見ても――
私は彼女へと視線を戻す。思わず肩が縮こまった。彼女はもともと大きめだった眼を見開いて、私のほうをじっと見つめていたのだ。わずかに、瞳が揺れ動いているように感じる。
「ど、どうされました。私の顔に何かついて――
言い切る前に、ぞわりとした不快感が私の全身を襲った。体中を何かが這いまわるような感覚。たまらず私は体から何かを払いのけようともがいた。続いて髪の中にいる何かを追い出そうと、両手で頭を掻きまわす。
「あっはっはっはっは」
彼女の笑い声が聞こえた途端、体中に感じていた不快さがスッと消えていった。
「大丈夫ですよ、先生。そんなに慌てなくても、もう虫たちはいませんから」
どういうことなのだ。彼女は、私の体に虫がまとわりついている幻視を見ていたというのか。しかし、あの感覚は、間違いなく本物の……。
「も、もう、虫はいないんですね」
確認するように、私は弱弱しい声を放った。
「ええ、安心してください。虫たちはみんな、先生の耳の中に入っていきましたよ」
彼女は、まるで新しい仲間を歓迎するかのように、優しく微笑んでいた。
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