開戦
「えっ……」
俺達は呆然と立ち尽くした。長鼻の人形は変わらず揺れ続けている。
──このまま時間が過ぎて扉が閉まってくれないだろうか。俺達は固唾を呑みこんでそれを見守った。しかしそれに反して、エレベーターの扉は時間が止まっているのではないかと思う程に閉じない。
すると奴は突如ゆっくりと向き直り、俺達の方に向かって来る。
「んん!?まずい!!」
やばいっ。逃げなければ。そう思い駆け出そうとしたが、何だか体がおかしい。全く動かない。指一本でさえ動かないのだ。
彼女は動ける様で、おもいきり廊下の方へ駆け出す。しかし微動だにしない俺を見て立ち止まる。
「逃げますよっ!!」
そんなの分かってるよ!でも体が動かないんだよ!!無論、声だって出やしない。
その間に長鼻は脳天に向かって狙いを定める様な動作をし、斧を振り上げる。
「もうっ!!!!」
彼女は痺れを切らし駆け寄って、俺の手を引っ張った。すると突如として体の自由が効くようになる。
しかしもう遅い。
斬られるっ!!
ブン!斧が風を切る音を眼前で聞く。
──その瞬間、俺の脳内に唐突にイメージが浮かんだ。ヒヨコの人形。さっき部屋のベッドに置いてあった奴だ。何故こんな時に……。走馬灯がよく知らないヒヨコのキャラクターとは何とも滑稽だ。
──ん。何も起きない。
「えっ?どういう事!?」
鈴鳴さんの声がする。恐る恐る目を開けると、景色が先程までとは変化していた。
「…ッ!?」
今まで動かなかった体は動くようになり、何故か先程まで居た部屋のベッド前で突っ立っていた。
彼女も戸惑っている様で部屋の中を行ったり来たり。
「ん??なに!?夢!?」
「いや!分からないですけど、来てますよ!!」
そういって彼女は廊下の方を指さす。
耳を澄ますと、ドンドンドンっと絨毯の上で弾む、重い足音が聞こえる。きっと長鼻だ。
「逃げましょ!!」
俺達は浮足立ちつつも廊下を全力で逃げた。鈴鳴は思いのほか足が遅く、後ろで走っている俺が七割くらいのスピードで走っても追いついてしまいそうな程だった。
昨日と比べて長鼻の動きはとても俊敏になっており、まるで獲物を狩る猛獣の如く迫って来ている。
まずい!追いつかれるっ!お前、こんなに早くなかったじゃないか!!
すると途端に俺の体が動かなくなる。
まただ!奴の『力』に捕まった。こんなに効果範囲広かったか!?
「ッ!?」
それに反応して鈴鳴さんは振返って、俺の前に入り発砲する。バンッ!バンッ!
しかし長鼻は一瞬足りとも静止せず、肩と腹に銃弾を喰らいながら彼女の脇を抜けて走り込んでくる。
俺かよっ!!!!!!!
ッ………!!!!!
その瞬間、俺の意識の至らない領域で鈴鳴さんは俺を助けてくれていた。
気がつくと彼女が覆い被さっており、俺は天井をぼんやりと眺めていた。
ふと我に返ると、そこには血。血。血。血。
鈴鳴さんがかばってくれた様だった。彼女がどれ程の傷を負ったか分からないが、追撃を避ける為に今は走らねばならない。
俺は彼女を必死に引上げる。すると彼女は直ぐに立ち上がり、きつそうに走り出す。
「行きましょ……!」
長鼻は彼女を斬る際に斧を落とした様でそれを拾いに行っている。俺はそれを見た瞬間、奴に向かって
体が動き出していた。
「先に行け!!」
俺は屈もうとしている奴に思いっきりタックルをかました。
「え!?なんで!!」
「いいから、先に降りてて!後で行くから!!」
多分この廊下の先には階段がある。そこから手負いの彼女は先に逃げてもらおう。
なんか男気を見せ過ぎてしまったな。だが体格は五分といったところ、凶器が無ければそこまで怖がる必要はない。
そう思ってた矢先、奴と組み合っていた俺の視界は突如として、ぐるんっと一回転した。俺は奴にのっぴきならない力で投げ飛ばされていた。
「ッ…!?」
痛っ!えっ力強過ぎ!!俺は受け身を取る間もなく地面に接触した。
しんがりを買って出た事を後悔しつつも、彼女の後ろ姿が視界から消えるのを確認し、俺は少し安堵し立ち上がった。
「しゃーこいやぁ!」
挑発すると奴はゆったりと一歩ずつ寄って来る。
「おぉ、やる気かぁ?」
こ、怖ぇぇ……。
俺は武者震いをして、ファイティングポーズをとる。
すると奴が急に距離を詰めてきたので、俺は反射的に右手で応戦する。しかし俺の拳は例の如く奴に届かず、虚構の壁に阻まれた。
その後、すかさず奴の渾身の右ストレートが飛んで来て、それを顔面でもろに受け取った俺は体感3mほど吹き飛ばされた。
地面に叩きつけられた俺はじんわりとした鉄の味と抜け落ちた奥歯のゴリッとした食感を味わった。
危ない。意識が飛びそうだった。肉弾戦とはいえ気絶してしまえば死は免れない。
歯は折れても、俺の心はまだ折れてはいない。俺は心の中で自身を奮い立たせ、勢い良く立ち上がった。
「おんりやぁぁ!!」
揉み合ってぶん殴られた事で、長鼻と位置を上手く入れ違うことが出来た俺は、奴に背を向け一目散に鈴鳴さんが下りた方ではない階段へ駆け出す。
「逃げるがぁ!勝ちだぁ!!」
かなりの威力だったと思うが、アドレナリンが出ているからか不思議と頬の痛みは少ない。
このホテルにはどうやら階段が2つあるようで、先ほど鈴鳴さんが下りて行った階段は非常用の階段であった。俺はそちらではないホテル中央に伸びる階段を殆ど飛び降りていくような格好で駆け下りた。
すると上からドン!ドン!と階段を飛び降りる音が聞こえ、奴がちゃんと追って来ているのを確認した。鈴鳴の方に行かれてしまってはしんがりを買って出た意味がなくなってしまうからな。
しばらく下りると階段は終わり、開けたエントランスの様な場所に出た。ここが1階かと一瞬誤認したが、36階から降りてきたにしては幾分早すぎる。体感ではまだ20階も下ってない感じだ。どちらにしろ開けた場所はマズイ。直線では直ぐに追いつかれてしまうだろう。
俺は下る階段を探して、エントランスのような場所を抜け、ガラズ張りの洒落たラウンジに押入る。奴は階段を下り終えたようで、目の端にその姿を捉えた。
まずいな。この距離じゃ直ぐに追いつかれる。俺は鈴鳴さんからもらった手榴弾がポケットに突っ込んである事を思い出した。
使用出来るかは置いておいて、使えるものは使ってしまおう。確かレバーを握りながらピンを引きぬっ──!!。
その瞬間俺は目をそらした為か、ラウンジに置いてある椅子に激突して派手に転倒してしまう。ガシャン!
俺はゴロゴロと転がり、その際に手榴弾を落としてしまうが、拾っている暇はなく、即座に立ち上がり逃走を続けるしかなかった。
このラウンジはかなり広く、椅子や机が多く配置されている。俺はその合間を縫って、椅子をなぎ倒しながら走った。しかし奴はそれをものともせず、椅子をかわしながら距離を詰めてくる。
まじかぁ。今のミスは痛いぞ。唯一の反撃の手立てを失ってしまった──。
眼前にはいかにも非常階段に通じてそうな奥まった廊下の入口が2つ見えており、俺は2択を迫られることとなった。1つの道はトイレっぽい標識が掲げてあり、もう1つの道は特に表示がない。
トイレではない方に階段があると睨んだ俺は無表示の方に駆け込んだ。
しかし、そこで俺は絶句する。
そこにはstaff onlyというプレートが貼り付けてある扉が無機質に立ちはだかっているだけだった。
「まぁじかっ!!」
ガチャガチャ!っとノブを捻ってみるが、扉は無愛想なままびくともしない。
そうしている間に、俺はあることに気づいた。
居る。もう、俺の後ろに──。
「ギギ…ギギッ……」
背筋が凍りつくのを感じ、全身から脂汗が吹き出る。
「ギャァァァァァァァァァァァァァッッッッッ!!!」
奴が叫ぶ。
俺は心臓が飛び出そうな思いだったが、身体はピクリとも動かなかった。俺は全てを悟り。ただ目を瞑るしかない。
そして何故か分からないがそのタイミングでまたもやアヒルの人形が脳裏に浮かぶのだ──。
あぁ、またお前か……。
無音────。
目を開くと俺は見覚えのあるエレベーターホールで突っ立ていた──。階数を示すプレートには36階と記載してある。
俺、また瞬間移動してる──。まさかね?
先から発生しているこの現象って、もしかして俺の『力』なんじゃないか──。