第二夜
俺は呆気に取らながら、周りを見回した。
ここは確かに昨日、夢の中で居たオフィスだ。
まるで昨日の状態から変わらず、俺は同じ椅子に座っている。昨日の夢の通りでドアガラスは割られて散乱しているし、デスクには俺が付けてしまった血痕も残っている。
間違いない。ここは昨日の夢の続きだ。
ただ俺の様相だけは昨日から変化している。格好が先程まで着ていたスーツに変わっていて、昨日の腕の怪我も治っている。
もしかして先程の電車での出来事も、この夢の一部だという事だろうか。もしそうでなければ、逆にあのドッペルゲンガーの説明がつかない。おそらく、電車の中で気付かぬ内に眠ってしまっていたのだろう。──とんだ明晰夢だ。
俺は席から立ち上がりオフィスを一周してみた。何の変哲も無い普通のオフィス。
俺は無意識に彼女を探していた。
オフィスの照明は消えているが、街灯と月明かりのおかげで散策が出来る程にはこのオフィスは明るい。
──やはりこのオフィスに彼女はいない様だった。
これが昨日見た夢の続きだとするならば、俺を助けてくれた、あの少女はどこへ行ってしまったのだろう。
すずなり ゆうり。彼女が居なければこの状況は分からないままだし、夢はただの悪夢に変わってしまう。
──彼女は俺の願望が生んだヒロインで、この夢にはもう出てこないのだろうか。
俺は意気消沈し、オフィスの散策を終えた。取り敢えず最初に座っていた席に腰を下ろし、少し思考を巡らせる。
幸いにも昨日の経験から、この妙にリアルな街が夢の中であるということは分かっている。なので昨日の様に取乱すことはないが、かと言って俺は目の覚まし方を知っている訳ではない。
もし彼女の話を信じるならば日の出の時間になれば、この街からは脱出できる。であれば昨日のような痛い思いをしない為に、危ない敵に見つからないように隠れておく必要がある。
この場所からは変に動かない方が良いかもな。
俺は昂ぶる気持ちを落ち着かせる為に、窓の外に浮かぶ丸い月に目をやり、それを少しの間ボーッと眺めた。
綺麗な月だ。今日は満月だろうか。
その瞬間、眩しく照らされていた目の前が不意にフッと闇になった。
「おぉっ!?」
俺はビクッとなって変な声が出てしまう。目の前に何かの影が現れたのだ。
本当に一瞬の瞬きの合間に現れたので、俺は驚いてのけ反ったが、次の瞬間には何が現れたのかを理解していた。
あの少女。すずなり ゆうり がいる。
仰天している俺を尻目に、彼女は先程からそこに居たかの様に、何事もなく向き直った。
「おはようございます。めぐりさん」
俺は完全に置いてけぼりになって、動揺していたが、かろうじて挨拶は返す。
おはようって言っても、夜だけど。
それにしても最近は本当におかしな夢ばかり見る。先程の電車といい、ここといい、俺はそうとう疲れているんだな。
──彼女の登場はきっと俺の願望だ。俺はそう理解することにした。目隠しをした少女をヒロインに抜擢するなんて、やはり俺の趣味も大概だな……。
俺は今夜も彼女とお話が出来ることに感激し、少し顔が緩んでしまう。
「急に現れたんで驚きましたよね」
「い、いや、メチャクチャ驚きましたよ……。どっから来たんですか?」
「現実世界からですよ。皆こっちに来る時はこんな風にスッと出てくるんです。ちょっと時差があるんで、後から来た人にビックリしますよね」
どうやらこの世界に現れたのを他人から見るとこんな感じになるようだ。ならば先程、俺がこの街に現れた時もこんな感じだったのだろうか。
逆にこの世界から脱出するときはどうなるのだろう。その時もフッと消えるのだろうか。
俺はこの世界のよく分からない設定に少し心が踊っていた。
突然彼女が俺の足元を指差す。
「あ!ちゃんと靴履いて来たんですね。偉い」
今日は昨日と違って会社帰りの格好である為、まだ汚れていないピカピカの革靴を履いていた。
そう言えば昨日も彼女は靴がどうのこうの言っていたような気がする。
「あー、通勤途中でしたから」
すると急に彼女は驚愕して前のめりになった。目元は布で見えないけれど、明らかに神妙な表情に変わっている。何か不味いことでもあったのだろうか。
「まさか車とかバイクじゃないですよね!?」
「い、いや電車だけど……」
「あぁ、よかったぁ……」
よくはないんですけど、と彼女は自分でツッコミをいれた。彼女は深いため息をつき、宙を仰ぎながらキャスター付きの椅子でシャーっと滑った。
「ちゃんと説明しておくべきでした……」
「何をです?」
俺が困惑しながら聞き返すと、彼女はパッと俺の方に向き直った。
「0時までには必ず家で眠るってことをです。」
「……」
そう言えばそれについても昨日言っていたような気がする。
「今めぐりさんの意識はこちらの世界に居ます。でも身体は元居た場所で眠り続けてるんですよ」
「電車の中って事……?」
俺は顎に手を当て、考えるような素振りをした。
彼女はそれを見て、俺が分かり易いように事の重大性を大げさな身振りで説明してくれる。
「いいですか?この夢からは深夜0時から日の出までの時間、目覚める事が出来ないんです。なので現実の身体をどれだけ揺すっても、あなたは起きません。これを電車の中でやったら、どうなると思います?」
「駅員に警察か救急車を呼ばれますかね……」
そう!と言わんばかりに彼女は人差し指を立てて頷いた。
詰まり車の運転中とかにコチラに来た場合は、最悪重大な事故を起こす可能性があると。そういうことだろう。
俺は半笑になりながら、突拍子のない設定に、つい口を滑せる。
「イヤイヤイヤ、面白い設定っすねぇw」
少し馬鹿にして煽っている様な言い方だった。
その瞬間、彼女のピンと立てていた人差し指は拳にしまい込まれ、俺の太もも目掛けて振り下ろされた。トンっとね。痛くはない程度に。
「ねーえっ。信じてないじゃん!昨日も頑張って説明したのにー!!」
「いや、だって設定が漫画じゃん!」
俺は久し振りに女の子と絡んだ事に舞い上がってしまって、大人げもなく茶化したくなってしまった。そんなヘラヘラする俺につられて彼女も笑い出す。
「もーおっ、違うってば!真面目に言ってるのにっ!」
彼女はそう言って、今度は俺の上腕をポンッと叩いてくる。痛くはない。だが俺はオーバーリアクションを取る。
「いって!叩くなって!」
そう言ってヘラヘラ笑いが起こる。
何これ、楽しい……。
少しの小っ恥ずかしさはあるものの、まるで存在しなかった青春を追体験しているようだった。
「あ、なら後でこの夢が本物だって証明してみせますよ。電話番号教えて下さい!」
そう言って、彼女はポケットから小型のボイスレコーダーを取り出し、俺へ向けてきた。
「はい、どうぞ」
電話番号を言えということだろうか。
「え、090-☓☓☓☓-☓☓☓☓だけど……」
「はい、ありがとうございまーす」
女の子に連絡先聞かれるのなんて、高1ぶりじゃないだろうか。
「それ、どうするんですか」
と平静を保ちながら尋ねる俺に、彼女はニヤリと笑い掛ける。
「乞うご期待」
言いながら、彼女はボイスレコーダーをポッケにしまう。
可愛い。男はこういう女の子にすぐ騙されるんだ……。滑稽である。
「あっ、今日そう言えば行かなきゃいけない場所があるんでした!」
「え……?」
彼女はパンッと手を叩き、不意に立ち上がった。それにつられて俺も立ち上がる。
「ごめんなさい。今思い出しました。ついて来てもらってもいいですか?」
すると彼女は俺の方を気にかけながら、出入口の方へと歩いて行く。
「まず服と靴を変えましょ。いざって時に動きにくいと困るんで」
急に真面目に戻った彼女に、俺もついて行く他ない。
唐突だなぁ。
「ちなみに、どこ行くんです?」
「まずは服屋さんですかね」
そう言って彼女は階段を下りていく。
彼女は一体何を考えて何を目的としているのだろうか。今の俺には何もかもが分からない。
俺は階段を二段飛ばしで降り始める。
タイミングがあれば、道中でまた色々尋ねてみよう。
まだ夜は始まったばかりだ──。