第一夜
──俺は15分ほど、走ったり歩いたりを繰り返した。その後、極度な寒気と膝が立たなくなる程の脱力感に襲われ、近くの雑居ビルの階段に座り込んだ。
腕の傷は熱湯に漬けているみたいにジリジリと熱いが、背筋から末端にかけては恐ろしく寒い。額からは脂汗が滲み出ていた。
恐る恐る傷を見てみると形が歪み悲惨な右腕よりも、左上腕の傷からの出血の方が酷いようだった。右腕は乾いてカピカピになってきているのに対し、左腕からは服の下からジワッと血が染み出て来ている。
俺は着ていたスウェットを脱いで、口と右手の動く部分を最大限使って、それを左上腕にくくり付けた。
出血が酷いからだろう。俺は既に頭がぼーっとしてきており、死がすぐ近くへ迫ってきている感覚を覚えた。
──そこから十数分後、あの女の子が不意に階段を登ってきた。
どうやってここを発見したのだろう。血痕を追ってきたのだろうか。なるべく残らないように気を使ったつもりだったが……。
彼女は相変わらず目に布を巻きつけている。
「アイツまいてきました!遅れてごめんなさいっ!その怪我でよくココまで逃げれましたね!!」
意気消沈で上手く返答出来ない俺に、彼女は元気に話し続ける。
「あ、止血してる。偉いですね!!えっと、待って下さいね。今手当します!!」
彼女は少しあたふたしながら、背負っているリュックから止血専用であろうバンドを取り出し、俺の両腕に巻き付けていく。バンドには棒状のハンドルが取り付いており、それをひねる事でかなり強く血管を圧迫することが出来るようだ。
彼女はバンドをかなり強く巻いた後、傷口を軽く消毒し包帯を巻いてくれた。また折れている右腕に関しても、どこからか雑誌を持って来て、それを添え木代わりに手当してくれた。
「はいっ!終わりました。これでもう大丈夫です」
彼女は言うなり立ち上がり階段を登っていく。 どこかへ行くのだろうか。
「ちょっとまってて下さい。ここじゃ体勢つらいですよね!」
彼女が階段を上がり、姿が見えなくなって直ぐに上の階からバン!バン!ドシャーン!!と言うすごい銃声が聞こえた。
俺はビクッとなって反射的に立ち上がった。
一瞬敵襲かと思ったが、間髪入れず彼女が下りて来る。
「ごめんなさい!ビックリしましたよね。ドア開けたんで、上の階に行きましょう」
彼女は言ってグッドのハンドサインをした。
俺は彼女に肩を貸されながら階段を登っていく。止血が効いているのか、ほんの少しだが気分が改善したような感じがある。
見るからに応急処置だが。これは放って置くと命に関わるのではないだろうか。
「あの、この辺り病院とか無いんですかね……」
俺は口を開いたが、喉に力が入らず声がかすれてしまう。
彼女はんーと少し悩み、敢えて元気な声で返答をする。
「あぁ、病院は無いんですけど。大丈夫です!あなたは助かります!!落ち着いたら詳しく説明するので」
そうして上の階に着くと、そこにある扉のすりガラスがバラバラに割られていて、破片が地面に散乱していた。どうやらガラスを割って中の鍵を開けたようだ。
「破片あるんで気を付けて下さい。ゆっくりでいいですよ」
彼女はそう言って破片を足で掻いて、どけてくれた。俺は裸足だったので破片を踏まないように気を付けながら、中に入っていく。
中に入るとそこには年季の入ったまあまあな広さのオフィスが広がっていた。彼女は近くにある手頃な事務机のオフィスチェアを引き椅子の高さを一番低くしたあとに俺をそこに座らせた。
「机の上に腕を置いてください。なるべく心臓よりも高い位置に腕をもってきて、安静にしましょ」
俺は机に腕を置き、背もたれにぐっと体をあずけて脱力した。彼女は手近な窓を開け、スッと隣の席に座った。
「これからこの街のことについてお話します。でももし話している間に体調が悪くなったりしたら、直ぐに言って下さいね」
「はい……」
彼女は俺の返事を聞き、うんうんと頷く。
──そうして彼女はこの街について話し出した。彼女の話は現実的に理解し難いものだったが、なんとかそれを自分なりに解釈することにした。
彼女の話によると、この街は夢を通して侵入する事が出来る異世界であるらしい。どうやら眠っている間、意識だけがこの街に飛ばされるようだ。
正確な人数は分からないが、他にも百人以上の人がこの世界には居て、人々は散り散りになっているとのことだった。
「あの仮面の男もそうなんですか……」
「いや、あれはヒトじゃないんです」
あの仮面をして俺を殺そうとしてきた奴は人ではないようで、奴等は『人形』という総称で呼ばれているらしい。
人形は言葉を操りはしないが、思考能力を持ち合わせており、基本的には人に敵対する存在。しかし人を襲わない中立的な個体も確認されているとの事だった。
「あの『長鼻の人形』も人を襲わない個体のはずなんですけどね……」
彼女は以前から長鼻の事を知っているようで、敵対しているところを初めて見たようだった。
「でも奴らと戦闘するのは完全に自殺行為です。私達では絶対に『人形』に勝てません。今回はたまたま取り返しがついただけです。次『人形』を見ても決して戦わないで下さいね」
いや、でもいきなり襲われたんだが……。
ともかくこの夢が覚めるまで、人形から逃げ回って生き残れば勝ちと言うゲーム性らしい。
「これ因みに死んだらどうなるんですか?」
「それは、夢とは言えど死んでしまいます……」
「やっぱり……」
彼女は言いにくそうにしていたが、俺はその答えが返ってくる事を予見していた。
よくありそうなデスゲーム設定じゃん……。
この時既に俺はこの世界が己の脳内で描かれている夢だということを確信していた。つい先程まで生死を掛けて奮闘していたが、彼女の突拍子のない話を聞いて、逆に冷静になってしまった。
しかしそんな俺を置いてけぼりにして彼女は話し続けた。
「でも死ななければ何も問題ありません。どんな酷い怪我をしても、どんな障害を負っても、この世界では死にさえしなければ大丈夫なんです。」
彼女の目線から、おそらく俺の腕について言っていることが分かる。
見ないようにしていたが、俺は机に放り出していた腕をチラッと見る。それは薄紫色に変色し腫れ上がっており、背筋がゾッとするほど気持ちが悪い状態になっていた。俺は眉をひそめ、腕からそっと目を逸らした。
「これ、結構ヤバいんじゃないですか……?」
「大丈夫ですよ。血は止まってます。それに、もうすぐ日の出です。ほら!」
彼女はそう言ってオフィスの窓の方を指差す。すると外は薄っすらだが、青みがかり出していた。
俺はそれを見た瞬間、無意識にあくびが込み上げて来て、なんだか急に強い眠気を催した。頭を肩で支えなければ突っ伏してしまいそうな程の眠気だ。
「早いですね。この明るさで眠くなるのは良いことです」
どうやらこの世界からの脱出方法は眠ることのようで、日の出と共に人々は眠くなり、この街から解放されるとの事だった。
眠くなる時間には個体差があるようで、早い方が良いと彼女は考えているみたいだ。眠くならないのはこの街に対する執着の表れだと言っていた。
「間違っても『この街にもっと居たい』だなんて考えちゃいけませんよ……」
彼女は妙に神妙な面持ちで語った。
そんな物好きな奴、いるだろうか……?こんな物騒な街、誰も長居したくないだろうに。
すると彼女は急に、大事なことを言い忘れていたと明日の事について話し出した。
明日は12時までに眠ること。靴を履いた状態で眠ること。他にも色々言っていたが、俺は意識がもうろうとしてきて、頭を支える事もままならない状態だった。俺は聞きつつも、適当に相槌を打っていた。
すると彼女は急に大きな声で言った。
「あ!そうだお名前聞いてませんでしたね!かなり今更ですけど!」
俺はなんとか頭を上げ答える。そういえば自己紹介がまだだったんだ。
彼女と何となく話してはいたが、彼女自身の事については何も聞いていなかった。何故布で目を覆っているのか。彼女は何処から来たのか。聞きたいことはまだあった気がするが、もう遅い。
俺は最後の力を振り絞るように、細い声で返事をした。
「俺はめぐり、廻 壮馬っていいます……」
すると彼女は口元をニコッとさせて言った。
「廻さん。了解しました。遅くなってすみませんね。私は鈴鳴 悠里って言います。これからよろしくお願いしますね」
すずなり ゆうり。いい響きの名前だ。俺はその名前を一瞬の内に記憶した。本来ならば助けてくれた事に対して、直ぐにでもお礼を言わなければいけないのだが、それを発する気力は俺にはもう残ってはいなかった。
目がかすむ。耳が遠くなる。心臓が遅くなって、次の瞬間、俺の意識は暗転した──。
「そして悪夢の水曜日 心を包む悲しみが沈む
想いの旋律 悲鳴と化して 朝日の影が間近に迫る
悪夢の唄が夜空に響く揺れる心に不治の傷跡
偽善の糸に縛られたまま この手にどうか火を灯して」
生還おめでとう。