序章
「生きるって面倒くさいなぁ……」
──溜息を夜に吐き捨てる。俺はネクタイを緩め、しわひとつ無いカッターシャツの第一ボタンを外した。
手にはコンビニで買った晩飯と新品のビジネスバッグをぶっきらぼうにぶら下げている。ピカピカの革靴は足に馴染むことなく足取りを重くさせる。
この乾いた夜風だけが、世界で唯一の味方な気がした。
駅からの帰路は歩いて十分程度だが、足取りが重いせいか、いつまでたっても家はやってこない。閑静な住宅街には、ただただ足音とレジ袋が擦れる音がこだましていた。
──やっとの思いでアパートに着くと、そこにはやはり暗黒が広がっていた。上京して一人暮らしを始めてから、最も孤独を感じる瞬間だった。
だがしかし逆に俺にはこの暗闇が救いのようにも感じた。それはこの暗闇の中でだったら、現実と向き合わなくてもよい気がしたからだ。
俺は照明を点灯させることなく、闇の中で飯と風呂を済ませた。今夜は満月だろうか、月明かりが十分に部屋へと差し込んでいる。
俺は寝支度を済ませると、勢いよくベットに倒れ込んだ。そのまま無音に耳を澄ませ、じっとしていると遠くから耳鳴りが聞こえてくる。
眠くは無いが、ためしに俺は目を瞑ってみた。頭の中がぐるぐるとして、何かがざわめくのを感じた。すると途端に封じ込めたはずの現実が、容赦なく俺の目の前にフラッシュバックしてくる。
『お前みたいな──』
そこで俺の口が勝手に開く。
「うぅるせぇよ!!」
俺は記憶の中にいる上司の言葉を必死に遮った。その先はもう聞きたくないのだ。
黙れっ。うるさい。うるさい。
俺は頭をブンブン振りながらも自分の記憶と格闘した。
その時、不意に天井からドンッという音が鳴った。
俺は一瞬だけ硬直した。近所迷惑だっただろうか。でも故意に叩いたような音でもないような気もした。ただでさえ壁が薄い部屋なんだ。気をつけないといけない。
俺はスマホを開き、態勢を伏せた状態で時間を確認した。時刻は午前零時になろうとしている。
「くそっ……。」
あと6時間ほどでまたあの地獄に呼び戻される。
「あぁ、死にてぇ……。」
呟いてみた。だが本当に死にたいわけじゃなかった。でも、かと言って生きたいわけでもない。
俺は人生の中で一度だって命を絶ちたいなんて考えた事はないが、でも、それでもたまに思ってしまう。明日、目覚めずに一生眠り続けられればどんなに幸せなことかと。
「明日なんて来なければいいのにな……。」
そう囁いた途端、今まで冴えていた意識が急に薄れゆくのを感じた。落ちる。落ちる──。
──刹那の暗転の後、俺は目を大きく見開いた。
正面には満天の星空と大きな月が見えており、目の端には空まで伸びる無数のビルがそびえ立っている。
今までとは違うゴツゴツとした冷たい床の上で俺は寝そべっていた。
これは一体どうしたことだろうか──。