マーガレット 3
スカートに温い紅茶がかけられたそのとき、メグはこれはまずいことになるかもしれないと思った。
本来、来客に出す紅茶はもっと温度が高いものでなければならない。しかも、今日の来客はただのお客様ではない、この時代に二人といない聖女ユーリだ。侯爵家の使用人が聖女にそんな無作法をすることなど許されるはずがなかった。
それなのにこれほど温いお茶を用意していたのは、恐らくこの紅茶がユーリに飲ませるためのものではなかったからだろうとメグは思った。
これは初めから自分にかけるために淹れられた紅茶だったのだろう、メグはそう判断した。火傷をしないよう、メグに紅茶をかけたメイドが、せめて温度を温くしてくれていたのだろうと思った。
メグにそう思わせる一助となったのは、目の前のメイドの表情だった。賓客の侍女に粗相をしたという焦りだけではない、追い詰められた者が見せる怯えのようなものを彼女は見せていた。『彼女』の性格をよく知るメグは、きっとこのメイドは『彼女』に無理やり命じられたのだろうと思った。
そのため、その紅茶をこぼしたメイドから着替えのために別室を案内したいと震える声で言われたとき、これは恐らく罠だろうとは思ったが、メグは彼女の言葉に従うことにした。『彼女』は過激な性格であるため、メグがメイドの提案を断ると、彼女にどんな罰を与えるか分からなかった。目の前の怯えを隠しきれていないメイドのためには、これしかないとメグは判断した。
それに断れば『彼女』がここまで乗り込んでくるかも知れなかった。ユーリに危害が及ばないようにするためにも、メグはそれだけは絶対に避けたかった。ユーリの声のことは気になったが、もう『ミラクル』も終わっているし、ここから帰るまで二時間もかかったりはしないだろう。それぐらいならペンダントの結晶に込められた魔力で問題なく維持できるはずであった。
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えさせていただきます」
メグがそう返答したとき、ヨンハンス司教とロバートが素早く彼女の方に視線を向けた。彼らが自分を気に掛けてくれている、メグはそう感じたがメイドのためにも自分の行動を変える気はなかった。
気遣ってくれたことに対する感謝と、ヨンハンス司教たちを少しでも安心させられたらとの思いから、メグは意識をして柔らかな笑みを彼らに向けた。
恐らく案内される先のどこかに『彼女』はいるのだろう。しかし、今の自分はあの頃とは違い、魔法もずっと上手く使えるし、この家に雇われている使用人でもない。聖女の侍女である自分に対して、いくら『彼女』でもそこまで無茶なことはしてこないだろうとメグは踏んでいた。
震えは起きなかったが、指先が少し冷たくなるような恐怖心は確かにメグの中にあった。しかし、それに気づかない振りをして、メグはメイドに案内されるままに応接室を後にした。
表情と足取りの重いメイドは、メグを応接室から離れた使用人たちのスペースがある方向へ案内していった。この家を離れてもう十年は経つが、案外この屋敷の間取りのことを覚えているものだなと、メグは足を動かしながら逃避のように考えていた。
しばらく歩いたあとに案内されたのは二階の奥、使用人部屋の一室であった。普通侍女とはいえ、来客をこんな部屋には案内しない。そんな非常識な対応をしていることも含めて泣きそうな顔で自分を部屋へと促すメイドに笑顔を向けてから、メグは部屋へと足を踏み入れた。
「相変わらず辛気臭い顔ね」
唐突にメグに投げかけれたのは、そんな刺々しい言葉であった。それは十年ぶりに会う従姉妹にかける言葉としては、あまりにも攻撃的なものであった。
しかし、そんなことは気にならず、変わらないのは相手も同じだなと思いながらメグは目の前の女性に視線を合わせて、返事をした。逸らさず目をしっかりと合わせたのは、メグなりの覚悟の現れだった。
「ご無沙汰しております、キャサリン侯爵令嬢様」
メグの毅然とした態度が気に食わなかったのか、キャサリンは射るような視線をメグに向けた。その赤い瞳は、あの日のような憎悪の色をたたえていた。
その色を向けられたとき、メグは床を踏みしめている足から少し力が逃げてしまうような、怖さのような気持ちを感じていた。しかし、今は子供であったあのときとは違う、そう自分に言い聞かせて無意識に長く伸ばした前髪へ触れようとしていた自分の左手を押し止め、改めて足を踏ん張った。
メグがそんな動きをしている間に、キャサリンは彼女をここまで案内してきたメイドに退室するよう命じた。メイドは一瞬、気遣わしげな表情をメグに向けたが、キャサリンの「早くなさい!」という怒声に追いやられ、逃げるように部屋を後にしていった。
彼女のパタパタと走る足音が去ると、使用人室という狭い部屋の中、メグとキャサリンの間に痛いような沈黙が落ちた。
狭い部屋で、二人はしばし無言で対峙をした。その間、キャサリンはわざとそうしているかのように不躾にメグを眺め続けた。粗を探すような視線にさらされながらも、メグは視線を逸らさずじっと動かずにいた。
しばらく沈黙が続いたが、キャサリンが唐突にそれを破った。
「聖女様の侍女ね、相変わらず他人に取り入って寄生するのがお上手なこと。うちに来たときみたいに、今回も憐れな振りでもして聖女様に取り入ったのかしら」
挑発するかのようにキャサリンはそうメグに言った。しかし、メグは自分のことは彼女にどう言われようが気にならなかった。今は何も問題を起こさずにユーリ様の元へ戻る、聖女であるあの方にご迷惑をおかけしない、それがメグにとっての重要事項であった。そのため、努めて平坦なトーンで返事をした。
「ご縁がございまして、聖女様の身の回りのお世話をさせていただいております」
キャサリンの言葉を否定すれば彼女の逆鱗に触れるだろうし、肯定すればそこをつついて貶めてくるだろう。そう思ったメグは、否定も肯定もしない、そんな返答を選んだ。
しかし、キャサリンは、もはやメグが何を言っても気に食わないようだった。メグの返答を受けて、眉間にシワを寄せながらキャサリンは、メグに詰め寄った。
「澄ました顔して本当に嫌な女ね。昔からそう、本当にムカつく女。そうして聖女様のお側にいることで、またあの頃みたいに私を見下そうとしているのでしょう?みなしごの癖に!生意気なのよ!」
激しい言葉と共に、ドンという衝撃がメグを襲った。キャサリンに胸元を突き飛ばすように押され、メグは二、三歩後ろにふらつきながら後ろずさった。
体重もろくに乗っていない動きであったため、身体的な痛みはそう感じなかった。しかし、その衝撃は、メグの心の底に何重にもきちんと封じていたものをぐらりと揺り起こした。
幾夜となく悪夢にうなされた。ヒリつくような痛みは中々治まることはなかった。かなりの時間をかけて封じ込めたそれが、メグの奥底からじわじわと漏れ出てきた。
あの日嗅いだ焦げるにおいが鼻孔に甦ってくるような錯覚を、メグは無理やり頭の中から追いやった。代わりに何が起こっても対応できるよう、自分の指先に魔力を集めるよう意識を向けた。
固い表情で、じっと己の奥底から這い出てくる恐怖をねじ伏せていたメグのことをどう捉えたのか、キャサリンはダンと一度強く足を踏み鳴らしたあと、さらに声量を上げながらメグに詰め寄った。
「またそうやって見せつけるように、私の前に現れて!なんで能力に選ばれたのはお前なの!聖女になることを期待されたのが、何故私じゃなかったのよ!お前なんて、あのときに消えてしまえばよかったのよ!」
キャサリンの怒気に呼応するかのように、彼女を取り巻く空気がぶわりと熱を帯びた。それは火属性の高い魔力を持つ者が、魔力を集中させたときに見られる現象であった。
それを感じたメグは、身を守るために魔力の操作にさらに意識を向けようとした。しかし、まだ温い、決して熱くはない空気がメグの頬を撫でた瞬間に、その集中力は霧散してしまった。
あの日と同じように、自分を睨み付ける憎悪に燃える赤い瞳。
熱された空気。魔力によりわき上がった大きな炎。
何かの焦げる匂い。己の肌にまとまりつく熱さと痛み。
自分の声とは思えない悲鳴。
今はもう、ろうそくの灯火を見ても呼吸は乱れなくなっていた。食材が焼かれる熱と匂いのこもる厨房にだって、普通に入れるようになっていた。自分はもうとっくに平気になったのだとメグは思っていた。
しかし、キャサリンと対峙し、再び彼女の魔力を感じた今、十年の時をかけて乗り越えたはずのものが、再びメグを襲ってきた。あの日感じた恐怖に、メグは足元からじわじわと飲み込まれていった。
「……いや」
声にならなかった言葉が、メグの喉の奥で小さく消えていった。それはキャサリンを刺激しないために、メグが意図的に声を抑えた訳ではなかった。ただ、甦った恐怖で、彼女は声をろくに出すことすらできずにいただけだった。
心が恐怖に占められ、メグは足に力を入れておくことすらできなくなった。ストンと、見えない何かに押さえつけられるかのように、彼女は床へとへたり込んだ。
十一歳だったあの日、炎に巻かれたときの記憶ばかりがメグの脳裏に思い出されていた。目の前にいるキャサリンの魔力により産み出された炎が、メグを襲い、顔を焼いたあの日のことばかりが。
完治したはずの顔の火傷跡が、メグに痛みを、熱を訴えてきた。目の前が暗くなり、歯の根が合わなくなるような感覚がした。大丈夫だったはずの指先の震えは、もう誤魔化しようがないほどはっきりと現れていた。
怖い。メグの思考を恐怖ばかりが占めていった。追いやられるように退室したメイドが部屋のドアを閉めきっていなかったため、ドアは半分ほど開いていた。少し歩けばそこから簡単に外へ逃げられるのに、足が固まったように動かなかった。震え、涙を浮かべるメグを、キャサリンはひどく歪んだ顔で満足げに見下ろした。そして、彼女は熱をはらむ魔力の濃度をさらに上げ、今まさにそれを具現化しながらこう言った。
「目障りなのよ!今度こそ私の前から消えなさい、マーガレット!」