聖女 1
「『ゆーり』ちゃん?君、可愛いね?ね、よかったら俺たちと学祭回らない?」
いつもはそれなりに静かな文学部の教室が並ぶこの校舎も、今日ばかりは学祭の賑やかさに完全に飲み込まれていた。食べ物の模擬店が並ぶ並木道を避け、抜け道のつもりでここを通ろうとしていた斎藤佑利は、遠くから聞こえる喧騒に混じって急にそう掛けられた声に思わず目を見張った。
大学の中庭に向かって急いでいた佑利の前に立っていたのは、それなりに見目の整った二人の男だった。一見優しげな雰囲気を出してはいるが、目の底にナンパ特有の下心が透けて見えていた。
何でこんなところで自分なんかに、とげんなり思いかけた佑利は目の前にぱらりと落ちてきた緩くカールをした髪を見て、今の自分の格好を思い出した。
今日の佑利はいつもと違い、実に『女子らしい』格好をしていた。
普段の短髪とは違い、ロングのウィッグの髪は緩く巻かれ、くるんと揺れる髪が肩に沿って流されていた。服は袖がふんわりとしたシンプルな白のワンピース、友人曰くモテと言えばこういう服らしい。
スカートの丈は膝より少し上、普段は日に晒さない白い足を惜しげもなく出して、足元は少しだけヒールのあるサンダルをはいていた。
顔にも今も違和感が拭えないほどきちんとした化粧が施されていた。少し濃いのではないかと佑利はメイクをしてくれた友人に言ってみたが、友人はステージ映えを狙うならこれぐらいがベストだと譲ってくれなかった。そのため少し厚めに塗られたリップグロスが、佑利の唇にいつもは見られない艶やかな淡いピンク色を差していた。
そして佑利の胸元にはこれから出るイベントのために、『三番 ゆーり』と書かれたピンクのネームプレートが付けられていた。なるほど、馴れ馴れしく名前を呼ばれる訳だと佑利は思った。
慣れない格好と、慣れない化粧と、慣れないナンパ。さて、どうしたものかと考えていると、二人組のうちの一人が急に手を取ってきた。
「あ、もしかしてこういうの慣れてない?初な感じするもんね、ゆーりちゃん。俺たちここの大学の学生じゃないから、校内を案内してくれたら嬉しいな。ね、少し話しながら回ろうよ」
そんな台詞と共に手をさわりと撫でられると、もう耐えられなかった。
その手を力任せに振り払うと、佑利は意図的に低くした声で、男たちにこう告げた。
「すいません、急いでるので」
その佑利の声と態度に驚いたのか、手を掴んでいた男は慌てて逃げるように後ずさった。
そんな彼らを一瞥もせず、佑利は中庭の特設ステージへと再び足を向けた。
たどり着いた特設ステージは、既にボルテージが上がっている状態だった。佑利の出るイベントの一つ前はクイズ大会のようで、司会が最終問題を前に接戦で競い合う二チームを声高に煽っていた。
そんな盛り上がりを横目に、佑利はステージ裏の控え室に向かった。控え室のドアを開けると、そこには色とりどりの衣装を身につけた他の出場者たちがスタンバイしていて、イスに座ったりしながら各々寛いでいた。
ざっと見渡すと際どいミニスカートの人もいれば、どこで調達したのか季節外れの浴衣を着ている人もいた。生足が艶めかしいチャイナドレスの人もいた。
佑利もその人たちと同じくイスに座って少し休みたかったが、髪も服も崩すなシワを付けるなと友人に厳命されていたため、仕方なく壁際で背も預けず立っておくことにした。
慣れないヒールに爪先がじわじわ痛くなってきた頃、やっとイベントが始まると控え室に声がかかった。
施設育ちの万年貧乏学生である佑利は、このイベントの優勝賞品である学食チケット半年分を手に入れるため、心の中で己に気合いを入れ直した。
大音量のBGMが流れ、先程のステージのボルテージを引き継いだまま佑利の参加するイベント、『ミス☆コン』は始まった。『ミス☆コン』はベタな参加者の中から一番可愛い子を投票で選ぶイベントであった。己の容姿に少しばかり自信があった佑利は、メイクや服に詳しい友人の力を借りて、学食チケットのためにこのイベントに参加しようとしていたのだった。
やがてBGMの音量が絞られると、司会のコールにより参加者たちがエントリーナンバー順にステージに呼ばれていった。司会は先程見かけたクイズ大会に引けを取らないほど、高いテンションでイベントを進行していた。
一番、二番と呼ばれ、ついに佑利が呼ばれる順番となった。
『それでは登場してもらいましょう!エントリーナンバー三番!清楚系お嬢様、ゆーりちゃんです!』
大きなマイクの声と観客からの拍手に迎えられ、佑利はステージへと繋がる階段に足をかけた。
ステージには沢山の照明の光が降り注いでいて、一瞬目の前が真っ白になったのではないかと感じる程の眩しさであった。なんとか薄目を開きながらながら足を出したそのとき、佑利は急に浮遊感に包まれることになった。
「えっ?」
それまで確かに階段を踏みしめていたはずなのに、気がつくとその感覚が失せていた。佑利が違和感を覚えて振り返ると、それまで見えていた控え室に続く通路がなくなり、景色が真っ白になっていた。
パニックになりながら佑利はがむしゃらに手足を動かしたが、空を切るばかりで何かに触れることはなかった。バタバタと動き回ったため胸にクリップで付けていたネームプレートが落ち、音もなく白い空間に吸い込まれていった。しかし、そのときの佑利にそれに気づけるだけの余裕はなかった。
何もない、何も起きない白い空間で、自分に何が起こっているかが分からず、佑利が呆然としかけたそのときだった。
佑利は自分の右手が柔らかな何かに掴まれていることに気が付いた。
佑利が驚きながら自分の右手を見ると、眩しかった光が徐々に落ち着いてきたのか、ぼんやりと手元が見えるようになっていた。
佑利が最初に見たのは細い、白い手だった。手を使う仕事をしているのか少し荒れてはいたが、たおやかな女性の手だった。
視界の広がりと共に視線を上げていくと、同じく細い女性らしい腕が見え、そしてキラキラした金色の髪がその次に見えてきた。肩口辺りで切り揃えられたその髪に飾り気はなかったが、先程の光の残滓のせいかキラキラと輝いていて、佑利にはひどく美しく見えた。
その髪の間からは陽の光を透かした若葉のような、鮮やかな黄緑の瞳が見えていた。こちらを見つめてくる瞳を、それに吸い込まれるかのように見つめ返していると、その間に眩いほどであった光が落ち着き、周囲の景色が見えるようになっていた。
一度彼女の瞳から視線を外して周囲を見ると、そこは石造りの祭壇のような場所であった。いつの間にそんな場所に来たのかは分からないが、佑利はその祭壇の前で金髪の女性に手を取られながら座っている状態であった。
佑利が視線を戻し、改めて目の前にいる黄緑の瞳の持ち主を見ると、彼女は佑利と同い年ぐらいの女性に見えた。
彼女は片方の前髪を長くしていたため、こちらからは顔の左半分の目元は見えていなかった。それでもその顔立ちが日本人のものではないことは、十分に見て取れた。まるでファンタジー映画に出てくるような白いゆったりとしたローブのようなものを身につけた、どこか非現実的な存在に見える彼女を、佑利はまだ理解が追い付かない頭でぼんやりと見つめた。
そうしていると、先程は光の残滓かと思っていた彼女の周囲に漂うキラキラとしたそれは、どうやらこの部屋の天窓から差し込む光であることに気付いた。まるで壇上でスポットライトを浴びているかのように、粒子の細かな光に包まれた彼女はその不思議な服装と整った容貌も相まって、どこか神秘的な存在のように佑利には見えた。
ああ、あれだ、深夜アニメで見た聖女様のようなんだと佑利が思ったその瞬間に、目の前の女性が佑利を見つめながらこう声をかけてきた。
「……聖女様」
一瞬、自分の思考が漏れたのかと佑利は焦った。しかし、そんな佑利を気にすることなく、彼女は真っ直ぐ佑利を見ながら、もう一度「聖女様」と声をかけてきた。
まさかこれは自分が聖女と呼ばれているのかと佑利が混乱していると、突如部屋に荘厳な鐘の音が響き渡った。
鐘はすぐ近くにあるのか、腹に響くような音が部屋の空気を重く震わせていた。佑利が音のした上の方に視線を向けていると、目の前の女性は佑利の右手を掴む手にぎゅっと力を込めてきた。
「やはり……貴女がそうなのですね、聖女様」
やはりとは何なのか、聖女って何なんだと彼女に聞きたいことは色々とあった。しかし目の前の彼女は、何故か佑利を聖女様とやらだと信じ込んでいるようであり、そんなことを聞ける雰囲気ではなかった。
そんな彼女に手を引かれ、促されるままに佑利が立ち上がったそのときだった。背後にあった重厚な扉が開き、沢山の光が部屋の中に入ってきた。
佑利が思わず光が差してきた方を向くと、その瞬間に「おおっ!」という歓声が上がった。扉の外を見ると、そこには目の前の彼女と同じくどこかファンタジーな格好をした人たちが沢山いて、皆が食い入るように佑利たちを見つめていた。
何かまずいことをしたのか、もしやここは立ち入り禁止だったのかと佑利が焦っていると、興奮した表情をした彼らは口々に「聖女様!」「聖女様万歳!」と叫びだした。
またしても耳にした『聖女』って何なんだと佑利が思っていると、先程の彼女が「もうそんな時間だったのですね。聖女様、とりあえずはこちらに!」と掴んでいた佑利の手を引き、足早に歩き出した。
口々に叫ばれる「聖女様」という言葉を背に受けながら、佑利は連れられるままに祭壇のようなものがある部屋を後にした。
祭壇の裏手にあった小さなドアから外に出ると、そこは綺麗に整えられた石畳のある庭であった。白い小さな花が咲くその庭を通り抜け、佑利が連れていかれたのはヨーロッパの教会のような建物の一室であった。
導かれるままに付いてきてしまったが、佑利は自分の置かれた状況が全く分からなかった。連れ込まれた部屋の内装を少し警戒しながら佑利がキョロキョロと見渡していると、ここに佑利を連れてきた女性がこう声を掛けてきた。
「私はここの聖グロリア教会の教徒のメグと申します。聖女様、先程はご無礼を働き大変申し訳ございませんでした」
メグと名乗った女性がいきなり頭を深く下げながらそう言ったため、佑利は焦りながらこう返答をした。
「いや、こちらこそすいません。さっきの場所はもしかして入っちゃいけない場所とかでした?勝手に入ったつもりはないんですけど、気づいたらあそこにいたんです。すみません」
「いえ、あの場所は聖女様が立つ場所です。ですので、そこに貴女がいらっしゃったことに何ら問題はございません」
自信満々に自分のことを聖女だと言うメグに、佑利は怖々と質問をした。
「あの、話の腰を折って申し訳ないけど、その『聖女様』って何ですか?」
「聖女様はこの世界を救う聖なる力の使い手です。女神さまの守護の力が弱まるこの時期に、女神様によりこの世界に遣わされると言われております。貴女があの場所に光と共に現れた後に、聖女様の降臨を告げる神託の鐘が鳴りました。聖女の祭壇にて鐘の音に祝福された貴女は、間違いなくこの世界を救う聖女様なのです!」
唐突すぎるメグの言葉に佑利は圧倒されていた。神託の鐘?聖女様?ファンタジー過ぎて、佑利には理解できないことばかりであった。そもそも自分が聖女とやらではないものそうなのだが、それ以前に確実に一つだけ、根本的なところを彼女は思い違いをしていると佑利は思った。
瞳を輝かせながら自分をその聖女様と信じて疑っていない様子のメグに、『それ』を言うのは少し憚られるように佑利は思った。言い難くはあったが、しかしどのみち黙っていても、『それ』はすぐに判明することであった。
こういうことは、どうせ言うなら早い方がいいだろうと佑利は腹を括った。はっきりと『それ』を示すため、佑利はさっき走ったことで少しズレかけていたウィッグを掴んだ。
そして、それを一息に脱ぎ捨てた。
そうすると女性らしいロングの緩くカールされた髪がなくなり、佑利本来の短めのツーブロックの髪がメグの前に晒された。
驚き固まる彼女に、佑利はナンパ男たちにしたようにしっかりと男と分かるほど低い声でこうメグに告げた。
「ごめん、訳あって今日はこんな格好してるけど、俺は男なんです。だから悪いけど、俺は聖女なんかじゃありません」