第20章 夢の中 前編
「アラル、アラル」
白い草花、膨らむ芝土の匂い。そこは陽だまりの遊び場でした。よく子供たちがやって来る所。泉からほど近い、何でも遊具が揃う場所。そこに、彼女は一人の女と一緒にいました。清楚な、白い衣服を身につけている、町長の娘。
彼女はその女性に声を掛けられていました。彼女は顔を上げました。自分の鍛錬に塗り重ねられた褐色の腕を、声の方に伸ばして。手は、女の頬を転がし、鼻先をつまみました。それだけで、その手は喜びを噛み締めました。なぜなら深遠なる感情を二人が分かち持つことを、その手は知っていたからです。自分の手。私の手。私…?
その手はごつく、まるで剣を握る手でした。その腕は鍛えられ、太くたくましく曲線を描きました。そして、その両脚は、どこまでも駆けていくことのできる強靭さがうかがえるほど、力に漲っていました。彼女は、自分のために、その身体を育てたのではなく、相手のために、秘密の恋人のために、戦場で活躍するために、その肉体を手に入れたのでした。
「ヴォーゼ」
彼女は相手の名前を知っていました。勿論、その相手は秘密の恋人だからです。二人は女同士でした。暴かれてはいけない関係を、幼年時から密やかに育ててきました。それは、破滅が行く末にある道程でした。
エスピリオ=アラルは船員と商人の間に出来た子供でした。彼女はとても整った顔立ちでしたが、まるでその顔相はあのピロットにもそっくりでした。跳ね上がった目、美しい眉、そして細い顎は、船員の血が濃いエキゾチックな風体でした。そして彼女は、一目だとどちらの性か分からない雰囲気を醸していました。その佇まいは彼女が幼い頃は随分ともてはやされていて、どんな町娘にも町男にも劣らない人気がありました。
ですが、成長するにつれて、その体は筋肉を増やし、顔つきもやや男性寄りに偏ってきました。彼女は頭も刈り込み、どの町男よりずっと男らしい顔立ちになりました。そんな彼女がまだ戦場に立ったことのない頃に、海賊が町の南方の港を襲い始めました。アラルの父は、いくらか危難を抱えながらそれでも航行に勤しみました。ところがある時、彼の船はぼうぼうと燃え盛りながら、港の湾に入ってきました。
この時のことを、アラルは鮮明に記憶しました。それは恐怖と威圧が船に取り憑く猛炎が彼女に接近するにつれていや増すのと同時に、強烈な怒りこそその身に猛り狂うのをはじめて感じたためでした。彼女はその時に母親と連れ立って港にやって来ていました。父の帰りを迎えるために、炊事の手伝いをしていたのです。幸い父親は無事でしたが、そのことを喜ぶより、彼女ははっきりと襲い来る者に対する敵愾心を抱き憤慨しました。
それを当時から気の置けない相手として認め合っていたヴォーゼは心地悪く感じました。彼女が、親が何事もなく戻ってきたことを何も特に感じていないことを。それでよしとまるでしないことを。町の有力者の娘だったヴォーゼもまた同じ年頃の者たちに人気がありました。彼女はいつも朗らかで、周りを安心させ、不思議な温かみでくるむ雰囲気があったのです。ヴォーゼはアラルに歌をねだりました。アラルは歌うことが上手で、その伸びやかな声が可愛らしく町や港を包む時、人々は元気になり、どこか勇壮になり、赤子も多弁に世界に話し掛けるようになるのです。しかし、アラルは断りました。もう二度と人々を明るくする歌を、この時から彼女は歌わなくなりました。
二人が子供の頃から、いいえ赤子の頃から、イアリオは思い出すように夢を見始めました。彼女はどちらの人間にもなりました。どちらの心も窺いながら、するすると思い出を紐解いていきました。ある時、彼女はアラルを「私」と認識し始めました。ヴォーゼより、圧倒的に自分の意識が彼女と被さるのです。周りの見え方、心のつぶさな動き方、そして何より、白い服をいつも着たヴォーゼを見る時にいじらしく輝く、心臓の鼓動。それが深くなること、浅くなること、横に広がること、縦に潰れることを、当人より何倍も夢を見るイアリオは感じてしまいました。彼女は恋を知っていました。二度の恋を知っていました。だからそれは恋だと知っていました。アラルよりも。
しかし彼女はもう一人、もしかしたら親より大事かもしれない存在がいました。それは、彼女の家の地下倉庫にいる、男の子の亡霊でした。生まれた時から、その幽霊は、彼女の傍におり、彼女だけに声をかけていました。イアリオはこの男の子の霊には重なり合うことはできませんでした。この夢の中、生きている人間ならば、アラルや、アラルが想いを寄せる人だけでなく、周囲の人々にも、その意識を重ねて彼らの想いや意志を聴くことができましたが。その男の子はアラルに喧嘩のやり方を教えていました。アラルは言われるままにそのやり方を学びました。おかげで彼女はどんな男の子よりも腕っぷしが強くなり、その勇ましさは恰好にも反映され始めました。彼女は歌うことが大好きな女の子でしたが、およそ、その性とはかけ離れた容姿に変わり出したのでした。
ところで、アラルとヴォーゼが暮らしていた町は商人の町で、南の港と、北の険しい山脈を越えて広がる、森と荒れ地とをつなぐ道の途中にありました。北東の森を越えればコパ・デ・コパなど大河沿いに都市があり、北西の荒野の向こう側には陸づたいに東方との交易を望む国々がありました。西方諸国は東に臨む隊商ルートを設けようとしましたが、森まで辿り着けばそこに棲む風変わりな「森人」たちに頼むことでジャングルを突っ切れるものの、森の中の行路も易しくはなく、ましてその手前の荒野も広々としたものでした。その中間点に、休息できる町が必要だったのです。アラルの町はその要請に応えて出来上がりました。
エスタリア。それがその町の名前でした。エスタリアの南には港がありました。港と町の間には豊潤な大地が広がり、作物が豊富に採れました。西方の人々は荒れ地を越えて物資をこの町に運び込みましたが、港からも様々なものを持ち入れました。その町よりも先んじて建てられた南の集落は、クロウルダと呼ばれる民族の手によって拓かれていました。彼らは船着場を造るのがうまく、水辺から離れることのない宿命を負っていました。ですが、港には自然に人と物が集まってくるものです。エスタリアが建設されるようになる頃には、そこは一つの民族だけが住むのではない町にまで拡大されていました。アラルの父親はクロウルダの出身ではなく、この地に魅了されたある船人たちが移住してきて血を繋いだ一族でした。その頃はまだ海は平和で、のちに海賊たちが荒らしまくるのはアラルが物心ついた時からでした。
二つの町は、協力して大きくなろうとしました。海からも内陸からも人間がやって来るようになったエスタリアは、小さかった旅籠街をみるみる広げ、魅力的な賑わいを獲得しました。
その町はルイーズ=イアリオが生誕した頃には、四百年に及ぶ風化の時を経ていました。そしてかの遺跡はトラエルの町の人々に、山脈の北側から攻め入る侵略者たちを監視し迎撃する拠点として利用されてきました。オグを巡る彼女の旅路の中で、そこは夢に度々登場し、白昼堂々と姿を晒すまでになりました。
泉に近い、樹も草花も石も何でもある、陽だまりの遊び場にアラルは寝ていました。彼女はいくさを駆けてきました。彼女は、父親の船が海賊に燃やされてから、その身に激怒を抱き、敵に斬り刺す剣を手にしました。彼女の初陣は、再び迫ってきた海の賊が、クロウルダの港に上陸を果たした時に挙げられました。アラルはそこで、人を斬り、首を落とし、三人を絶命させました。倉庫の亡霊に鍛えられた身体は大人にも負けない身のこなしと、人の命を奪う際に持たざるをえない決断の素早さとを彼女に与えました。そこでのいくさは市街戦となり、クロウルダをはじめとした港町の人々と、そこに援軍に来たエスタリアの兵士たちは、賊どもを追い返すことに成功しました。クロウルダは元来海戦よりこうした町中での戦いが得意でした。というのも、いにしえの魔物オグを監視するために、地下に縦横に掘ったトンネルを利用して、神出鬼没のゲリラ戦ができたからでした。
アラルは血に塗れ、凱歌を歌おうとしました。しかし、彼女は歌を歌えませんでした。まだ怒りが体中に満ち溢れていて、その戦勝を祝おうとする思いに浸れなかったためでした。その怒りがどこから来るものか、アラルはまるでわかりませんでした。その夢を見る、イアリオも同様に。
その怒りは更なる血を求めるようでした。アラルは、追い払われた悪漢たちが、再びまたこの港湾に攻め入るかもしれないと考え、それまでに、自分自身を鍛えねばとしました。しかしそれは本意とは異なりました。言い知れぬ怒気に突かれるように、その肉体は鉄を人に振り下ろす手応えを味わおうとしました。一度きりの戦場では足らず、峠道を越えた、諸国の飽き足りぬ競り合いにそれは参加しようとしました。西国が共同で建てた旅籠街エスタリアには剣戟の刃は遠く、クロウルダの港で繰り広げられた殺人が最初の近隣での激しい戦闘でした。
そう、人殺しの快楽は、人を、著しく変えてしまいます。ですが人間を殺すことにひどい快さを感じる者は稀と言ってもいいでしょう。そうでなければ、時代が要請する過酷な現実に、感情を失い、それはさして意味の無いものとして行われます。人間が、人間らしさを失うことなど、この世に無限に起きるのです。
彼女はその人間らしさを失おうとしました。なぜならその体に怒りが満ちていたからです。そしてその怒りは人の肉体を打ち倒した時、輝く光となり、小さく爆ぜました。もっともっとと、それはせがみました。人を攻撃せよ。そして支配せよ。小さく爆ぜる快楽のために、お前は鉄を抱くのだと。
それまで彼女が誰かを攻撃するような、やたら腕っぷしを披露したがる喧嘩好きだったわけではありません。彼女は、決してエスタリアで剣を抜くことはありませんでした。その他の町で、その他の戦場で、その腕は長く幅広の剣を振り、血を求め暴れたのです。アラルはしばらく故郷を差し置いて、遠くの戦場に足を運びました。そして、そこでたちまち殊勲を手にし、名を挙げてふるさとに凱旋しました。あの陽だまりの広場に、彼女は帰ってきました。
白い服を着たヴォーゼが、密かに彼女の目を覚まさせぬように傍に腰を下ろしました。そしてアラルの細い顎と整った顔立ちを見つめて、何やら話し掛けました。最後に彼女の名前を幾度か呟いて、彼女の目を開かせたのです。冷たい手がその頬骨を触りました。その手は冷たく、人間を殺し続けてきた腕は、たくましくも武器のように鋭く優しさがありませんでした。
「いつ、こうしてお前の顔を触っただろうか」
アラルはヴォーゼに問い掛けました。
「多分、幾度も触った。触っているだけで、不思議な気持ちになる。だから。
だから、私は、いくさ場に出掛けた。それは、私を、攻撃するんだ。何度も、何度も、私を…」
アラルはまたヴォーゼの顔を触りました。夢を見るイアリオはふと思いました。これは、あの、景色と、同じだ。私が、レーゼと、口付けを交わしていなかったと気づく時と。どうして
この時、夢見手のイアリオは気づきませんでした。どうして今まで私は
自分は
こんなことを繰り返してきたのだと。アラルと非常に意識が被っていたとしても、自分が、またここでも自分を裏切っていたなどとは。アラルは自分を攻撃していました。自分の代わりに人を攻撃しました。それはあのテオルドがピロットなどを攻めたのと一緒でした。彼女は自分を好きな相手から引き剥がすことを求めたのです。自分の想いは決して実らないから。決して。決して。
女性同士でそれが叶うことなどないから。
その幼少期から、イアリオはハルタ=ヴォーゼにも心を寄り添わせていました。ヴォーゼから見たアラルは、類い稀な美貌としなやかな体躯を持つ、妖艶な人間でした。その歌は響きが良くて、心の中にどこまでも澄み通るようでした。ヴォーゼもまた人気のある女の子でしたが、到底彼女には及びもつかないと感じていました。商人のハルタ氏に生まれた可愛らしい女の子は、箱入り娘のように大事に育てられていました。彼女は家の中か家の前にいることが多く、彼女に会いに来る男子は限られました。(イアリオの時代から遡ること四百年、姓と本名はその順番での並びが大陸の西側では一般的でした。西方の戦士の国が出身であるロンド=フィオルドもこの並びでした。ところが海賊に配下にされた者たちはこの順番を逆にされていました。海の荒くれ者となった、貴族の次男坊たちは東方出身で、そこでは本名、姓の順序で呼ばれていたのです。)
そこに現れるどの男子よりもアラルは整った顔立ちでした。そして、その体つきはやがて筋肉の量を多くし、腕っぷしでもアラルにかなう同世代の男の子はいなくなりました。彼女は人前であまりアラルと会話をしません。ヴォーゼは頭が良く本をよく読み、箱入りにもかかわらず提供する話題が豊富でした。彼女は人の話をよく聴き、返す言葉も的確で、彼女を中心に子供たちのサロンが出来上がっていました。
子供たちは彼女の家に行って彼女と話をするととても得した気分になりました。もてなしも良く、たとえ喧嘩があっても、尾を引かぬ結末となるのです。彼女はたくさんの言葉を聴きました。決して拒まず、否定せず、自分の意見も言うところは言って、取り成しました。彼女は人の不満をよく耳にしました。不満より多いものはないくらいに、その話題は事欠きませんでした。彼女は自分の不満を決して言いませんでした。言っても意味がないと思っていたのです。自分の行動の一部始終に、どれだけ親の目が光っていても、それは不満とは呼べませんでした。彼女は話し上手とはいってもそれほど社交的な性格ではなかったのです。一人をおいて、ヴォーゼは心の休まる相手がいませんでした。
その一人とは、よく子供たちが解散してから、二人きりで過ごしました。その時彼女は満ち足りた気分になりました。一人占め、という言葉がよく合うシチュエーションでした。彼女以上に人気のある同い年が傍にいるのですから。ヴォーゼはよく相手の顔を触りました。こんな顔に自分もなりたいものだと思いました。自分はあまりに女の子らしい、大事にされやすいような顔をしている。もっと凸凹であってもいい、なら両親はあまり私のことを気にかけなくなるかもしれないから。もっと…もっと、外に出たい。もっと自由に、彼女と一緒に過ごしたい。
船員の子供であるアラルは父親が留守にしている間、ヴォーゼの家に泊めてもらうことがよくありました。彼女は母親の手伝いもよくしていましたが、その必要がない時は、ヴォーゼとともに過ごすことを選びました。周囲は彼女たちを単なる仲良しだと感じていました。ですが、友達でもありえぬほど顔と顔を近づけることのある二人を、そのままの親友だと思い続けるか、二人には分かりませんでした。とても親しい親友、その間柄を、そのように形容するのは、彼女たちには適していると思われませんでした。もっと親しい、より近い、私たちは、そんな関係。でも、それを言葉で表すなら、どんな言い方が合っているだろうか…?
ともだち。いいや、もし、二人が互いに性別が別ならば、どんな言い方が…?それは成長するにつれて分かることでした。二人の関係は秘密でした。そのような例はないのです。そして、そのような二人が、ともに暮らすこと、彼女たちの望むように、平和に住み続けることは、できないように思われました。なぜならある時二人が性の関心を補う授業を受けた後で、男性同士の性愛が話題になったのです。それは、彼女たちの町で実際にあったことで、物凄く被虐的な目に彼らが遭う一件でした。二人の男性はその後別々に結婚し、子供ももうけましたが、彼らの性愛は復活し、ために町を追い出されるというものでした。
二人にとってこのケースは著しく重大でした。町は、同性のカップルを認めないのです。異性は異性同士結婚することが前提で、恋人となることが許されました。ですが、その条件の無い二人は、周りから祝福を受けられないのです。このことは南のクロウルダの港町ではいささか違いました。内陸の町以上に人の出入りが奔放な港では性風俗も一般的で、一対一の交遊関係も決して守られるべきルールではないのです。厳格な商人の法が適用されるエスタリアの町では清廉さが人格と重なり、風格となり、また信用信頼となったのです。
ハルタ=ヴォーゼは町の重役の娘でした。将来、しかるべき人物に手渡すことが、誰の目にも望まれました。
酒樽の、並んだ地下倉庫。アラルの母方の祖父は、倉庫の管理人であり、厳格なルールを使用人に厳しく指導する商人でした。彼は、見目のいい孫のアラルを大事にしました。他にも男性の孫がいますが、祖父なる立場の者たちの御多分に漏れず、男子には距離を置き、その将来のために徹底して態度をかたくなにしました。目に入れても痛くない女性の孫は、可愛がり、甘やかしました。彼女だけが孫の中ではその倉庫に入られ、そこで、彼女にしか見えない、男の子の亡霊と遊びました。彼は、この時代には見たことがない種類の着物を着ていました。厚手の袖と襟回りの、おめかしにしか着ないような、やたらと刺繍の施されたものを上着にして、下はタイツのようなぴったりとしたパンツを履いていました。さてもエスタリアの人々は、四百年後イアリオの時代のセジル、パンセといった民族衣装と同等のものを着ていました。といっても、スカート様のパンセはいくらか丈が短く、かろうじて膝が隠れるぐらいで、上着のセジルは裾を縫い止めず、だらんと垂らしているものでしたが。
男の子の幽霊は彼女にいつも優しく話し掛けてきました。彼は、生まれた時からアラルに声を掛けて、その注意を引きました。だから、アラルは両親やヴォーゼといる時よりも、彼に共にいる時間を捧げていました。彼は、自分が亡霊であることや、他の人には見えないことなどを彼女に教え、この秘密は絶対に守られなければいけないと告げていました。アラルはその言葉をよく守り、恋人にも一切口外しませんでした。
アラルはこの亡霊に不思議な感情を持ちました。それは親ともヴォーゼとも持ちえない、特別なものでしたが、何か、彼の言うことには従わなければならないという心持ちを覚えました。まるで師匠のようにいつしか彼のことを尊敬するようになった彼女は、彼に、自分の恋心のことを相談もしていました。
「君が、小さい頃からヴォーゼのことを気にかけていて、一緒にいることを、とても喜んでいることは知っていたよ」
彼は優しく話しました。
「ならば君は、どうありたいのかな?彼女に対して。その恋は、実るのかどうか、と考えていると、君は言ったけれど。そうだ、喧嘩のやり方を教えてあげようか?ヴォーゼは親の目の掛けられている、おしとやかな姫君だ。だが将来、きっと表に出て行く。それは危険だ。きっと万難を排してその幸せを叶えてあげようとするだろう。彼女の両親が。君こそその万難を排する者としていれば、その恋は成就するかもしれないね」
アラルは大人しく彼の言うことに従いました。男の子は手取り足取り、敵に危害を加える方法を彼女に教えました。彼は実践を勧めました。彼女は年上の腕白者にも果敢に挑みました。特に、南の港では喧嘩は華やかに行われ、いさかいの仲裁の方法としては合法とされました。彼女はその代理としてステージに立ち、負けることもあれば、華々しく勝つこともありました。そのおかげで彼女は少なくともエスタリアにいる男子には強さで負けない女子となりました。ですが、港に来る時、アラルはその歌声を皆から嘱望されていました。喧嘩の代理に立つ時、彼女は歌うことを忘れました。
アラルは自分の容姿を変えることを思い立ちました。もっと勇ましく、強く、力のあるように見えれば。男の子の霊が言う通りに、私こそヴォーゼの危難を防ぐ者として認められるかもしれない。…ヴォーゼはアラルが何かしら自分に隠していることがあると知っていました。しかしそのような秘密は自身も持っているために、訊くことはありませんでした。どんどん、異性に変容しているアラルをヴォーゼは見咎めませんでした。むしろ、女性であれたくましく見えることは、素敵なこと、素晴らしいことだと感じました。近隣では女性の兵士も珍しくなく、殊更男性が女性より強くあらねばならないという慣習もなかったのです。
ただし、彼女は、守られなければならないか弱い女性と周りから思われていました。ヴォーゼは、想いを寄せる相手が、精悍な顔つきになりその方面に成長していくことを、心強く思いました。彼女はアラルを心配していませんでした。その傷跡も、美しく思われたのです。しかし
ある時を境にそれは醜く引きつっているように思われました。彼女が、初めて戦場に出て、人殺しを、してきた後に見たものは。
イアリオは、ヴォーゼにも、アラルにも同化してその心理を読み解くことができました。それは、互いの意識の交流を感じ、齟齬と、同一を繰り返す、畏れ多い認識の鍔迫り合いでした。彼女たちは自分たちが不可分のパートナーだとわかりながら、自分たちが恋人同士だと認め合うのをどこかで恐れていました。二人はその関係を「恋人」以外に定着させる方法をまったく知りませんでした。あるいは、婚姻という道筋を思い描くことができなければ、その関係を継続させるイメージが成り立ちませんでした。港には、そして町にも、そのような恋愛以外の顛末を聞くことのできる人生豊かな人間がいたでしょうに。
彼女たちは、ある時互いの裸を見せ合いました。成長の著しい身体はエロスを纏い、興奮を誘いました。それは異性の裸ではなく、純粋な、恋心を認め合う者同士の感じる高ぶりでした。一方は確かに筋肉を多くしていました。でもそれは女性らしさを失わず主張するべきところは主張し、物欲しさを訴える立派な肢体でした。双方が互いの体に感動し、一般的な恋人が落ちるように、接触の熱に溶かされました。そのような関係も紡いでしまったために、二人は、互いが同じ屋根の下にいなければ、どこか隠れながら秘密の関係を築いていくなど堪らない、耐えられない環境だと思い始めました。その絆を相当深めてしまったために、現状の不満と、苛立ちを抑えきれずにもいました。
二人は可能性を探しました。どうすれば結婚を認められるものかと。この町から出て行くことを考えられませんでした。なぜならヴォーゼもアラルも、この町に愛されていたからです。
「最近、近海が荒れているっていうね。僕も聞いてきたよ。酒場に行って、世の噂を。海には海賊が出るっていうじゃないか。君のお父さんは恐ろしくないのかね?」
ある時、地下倉庫の亡霊はアラルにそんなことを尋ねました。まだ、彼女の父親の船が炎に包まれて堤防に向かって来ない頃です。
「まあ、そんなこと言っても、海の男は出て行くものか。危険を承知で出て行かない船乗りはいない。人も、自然も恐ろしいものだからね」
彼は至極当然のことを言いましたが、その口調はしとやかに、浸透するように、含みを持ちました。
「先生は何か、気になることがあるのですか?確か、父の船は船団を組んで、ならず者にも対抗できるようにしているはずですが」
アラルは今や、彼を先生と呼んでいました。
「臆病者はよく準備をする。たとえそれが失敗しても、目的を遂げるためには手段をいとわない。彼らはどうやら貴族の出のようだが、長男など支配を任せられる者たちではなく、その下、次男坊以下だという。つまり、任せられたことのない者、見様見真似で人を支配しようとする輩だ」
亡霊は身を乗り出しました。
「彼らはよく準備をするが、どうして粗末な用意をよくする。そして後始末をつけない、やり方がよくわからないからだ。彼らは自分たちの領域を広げようとするが、土着のあり方というものがある。郷に入っては郷に従え、ルールの押しつけでは、決して人を支配することなどできない。
根無し草の男たちは容赦が無い。どこに暮らしても後ろ盾がなければ、それを気にする必要がないからだ。南の港は目を付けられたようだ。そういう噂が立っている。君が恋人の万難を排しようとするならば、その万難のうち一難は海から届くやもしれないかな」
さて、亡霊の言葉どおり、クロウルダの港は燃え盛る船の寄港を出迎えました。その船にはアラルの父親が乗っていました。幸いにして怪我人は少なく、被害もそんなにありませんでしたが、ざわめきは人々の間に広がりました。そして訓練が始まりました。海賊の脅威は大きく、守り手を増やさねばならないと港にしてもエスタリアにしても軍備の増強がうたわれたのです。そこに、アラルは参加しました。彼女は怒りに身を焦がされていました。彼女はいかなる危難も排除したく思いました。それが自分の役割だと認識していたのです。
いかなる危機も、恋人と共に、受け入れて、慰めて、生きていこうとする発想は、彼女の中にありませんでした。そこまでは、この夢を見るイアリオは分かりました。アラルの怒りが、恋人由来であることは。しかし、その後彼女が剣を持ち一難を排した時、ほっとするどころか、さらに血を求め出した心理は分かりませんでした。それも再び襲い来る賊共のためといえばそうでしたが、アラルの体は、まったく恋人とともにいようとせず、各地の戦場を駆り立てられるように飛び回り、敵を討つ手の心地に酔い痴れるようになった激情は、まるである恐怖を揉み消すために持つことになったようだという以外は。恐怖。それはどんな恐怖でしょうか。
アラルは無傷で戦場となった港からエスタリアに戻ったのではありません。その印を、恋人のヴォーゼは見咎めました。恋人に付けられた傷は、まったく彼女の好みに合いませんでした。喧嘩の跡なら、それがどんなに頬を膨らませても、顎に血糊が付いていようと、まったく気にしませんでしたが。刃傷は、鋭く皮膚に喰い込み、鮮やかな肉の割れ目を見せました。そして、明らかに命のやり取りをした跡が、堪らなく彼女を不安にさせました。こうした戦場にアラルを行かせるのは耐え切れぬことだとヴォーゼには分かりました。
そして、つい彼女はアラルにこう言ってしまいました。「お願いだから、同じように、命のやり取りはしないで。相手にも自分のように想う人がいるかもしれないのよ」と。こう言われてアラルは収まりのきかない怒気を呼び起こしました。「どんな人間も私たちの邪魔をさせたくないよ。平和に暮らしたい私たちの思いを」
それでもなお、アラルは、そしてイアリオは、その恐れの所在、その怒気の行方をわかりませんでした。万難を排するという希望は彼女の恋人のヴォーゼにはありませんでした。それが
二人の恋路の障害となることを不思議にアラルは感じ取っていたのです。二人は互いに違う想いを相手に抱いていました。それは、アラルの方が物事より先に動き、先鞭を付けていく思惑があり、一方で令嬢のヴォーゼは泰然自若として世の流れの趨勢を見極めていく、先の先ならぬ後の先の発想があることに表れていました。二人は自分の役割をこのように認識していました。だから、当然その心の奥も、互いに分かり合っていると思い込んでいたのです。ヴォーゼは自分の役割を決して「令嬢」と思いませんでした。それは周りが勝手に考えていることです。彼女は動かなければならない時が来たら、自分から動くべきことをよく知っていました。だからアラルが戦場に赴いたら、その行動の抑制をお願いしたのです。アラルが先走っていることを、諌めようとして。
アラルはこの抑制を二人の抑制と捉えました。つまり、突き抜けられるもののない、困難こそ二人の前にあると。そしてアラルは恋人といることはこのままでは敵わなくなるのではないかと疑いました。もっと強い力を付けねば。何者も我々の邪魔ができなくなるくらいにと。
二人はこうして互いの想いを感じていながらも、考えの違いを明確にしました。とはいえ、相手を思えばこその判断で、その関係を覆すものにはなりませんでしたが。アラルは戦場にありながらそばにずっと彼女を置いていたのです。華麗な女戦士は振る鉄の剣の切っ先に打ち倒した敵の感触を味わいました。それはしかしまやかしの克難であり、彼女の怒気が収まるはずもありませんでした。
戦士にも疲れが来ます。休息が必要になります。アラルは戦い続けることができませんでした。それでも十二分に活躍し、その名が遠くエスタリアに響くほどになりましたが。
アラルはふるさとの陽だまりの空き地に身を投げ出しました。仰向けになり、強い日差しに褐色に焼けた腕を晒しました。傍に寄ってきたヴォーゼに彼女は気づきませんでした。
「私のせい…?」
小さな声でヴォーゼはアラルに囁きました。
「あなたがまるで自分を痛めつけるためにここから出て行ったように感じたのは。それは違うよ、アラル。私はあなたに自分の守りなんて頼んでいない。あなたと一緒にいることが、何より私の幸福なのに。
そうだ、あなたは、私を置き去りにして出て行ったよう。私が他人に同じような想いを持つようなことがあると、考えたのかしら?そんなことは一回もなかった。あなたがこうして出て行った後も。
でも、もしかしたら、私とともにいることが、あなたには飽きられてしまったのではないか、とも疑ったよ。本当のことは?教えて、アラル、アラル…」
エスピリオ=アラルは目を覚ましました。そこにいる、白い服を着た令嬢ヴォーゼに、彼女は愛しさと、喜びを感じました。しかし自分から伸ばされた、恋人に向かって上げられた腕に、手に、アラルは激しく違和感を抱きました。まるで自分が、その手を、その腕を、育ててきたのではなかったように。
「ヴォーゼ」
はるか昔から、人は、このようにして悪を繰り返してきたことを知りません。それは自分が、自分自身の気持ちに向き合えず、繰り返した己への裏切りでした。それは、解放を求めた束縛でした。それは、密かに温めたはずの想いが、出ることなく、朽ちていく物語でした。アラルの怒りは、その想いが出ることなく、朽ちていくことに対するものでした。本当の
愛を彼女は持っているのに。素直にそれを出せばいいのに。大して恋人とその身体を合わせたのは大きな転換ではありませんでした。彼女はよりむつかしい感情をこそ相手に抱いていました。それは、イアリオが彼に持ったもののように。相手から発するものをこそ、自分は、泣いて喜ぶほど受け留めたはずのことを。人は本人だけを愛するのではありません。人は、相手から染み出すものをこそ、その人自身と受け留めるのです。いかなる失敗が、そこにあろうと。どんな醜さが、潜もうとも。悪醜など関係なく、愛はありました。
いくら万難を排しようとも、アラルはヴォーゼを愛したのです。畏れ多きものが二人の間には存したのです。
「いつ、こうしてお前の顔を触っただろうか」
アラルはヴォーゼに問い掛けました。
「多分、幾度も触った。触っているだけで、不思議な気持ちになる。だから。
だから、私は、いくさ場に出掛けた。それは、私を、攻撃するんだ。何度も、何度も、私を…」
夢を見るイアリオはふと思いました。これは、あの、景色と、同じだ。私が、レーゼと、口付けを交わしていなかったと気づく時と。
アラルが凱旋した頃、エスタリアには港から逃れてきた人々が大勢いました。クロウルダの港は再び海賊たちに襲われていました。今度の襲撃は以前より大規模なもので、クロウルダたちは地下道にも敵の占拠を許し、一時的に町から退却せざるをえなくなりました。
しかし反撃の芽はありました。港の労働者たちは北の町に退き、エスタリアの人々や、商売上つながりのある内陸の都市や国々からの援軍を頼みました。彼らの船着場をならず者たちに占拠されたままでは困る国々がいっぱいあったのです。彼らは辛抱して港湾奪取の機会を待とうとしました。
…ですが、彼らは懸念すべきことがありました。追い出された神官クロウルダによる、魔物オグに捧ぐ儀式ができないこの機に、万一にもかの魔物が暴れ出さないかということです。クロウルダらはなんとか霊的な交信も図ってみましたが、まったくその時のオグの動きはわかりませんでした。
しかしある時、一人の海賊が血まみれになりながら、港付近に潜んでいたクロウルダの斥候のところへ歩み寄ってきました。ふらふらとした足取りで、もうすぐ死にそうでした。何かの罠でもあることを警戒しながら、クロウルダは彼に話し掛けました。すると、男はひと塊の黄金を取り出して、彼らに懇願しました。
「どうかこれで、傷の手当てをしてくれないか。ゴルデスクだ、地下から取れた」
黄金は、毒々しい色を陽光に晒して、クロウルダたちの顔をしかめさせました。
「お前たちはもうかの魔物の住処に下って盗みを働いたか」
希少な金属ゴルデスクは、本物の黄金とは似て非なる成分からできている眩い鉱物でしたが、無論海賊には垂涎のお宝でした。しかし、それはオグの人欲しい唾液からなるものでした。
「お前のその傷痕は何だ」
距離を取りながら、クロウルダは質問しました。
「ゴルデスクの奪い合いだ。俺は殺しはしなかった。死んだ人間の懐から頂戴したまでさ」
海賊はぬけぬけと言いました。それが彼の誇りであるかのように。神官は病的に痩せ細った指先を見せて、手の平を上に挙げました。
「我らを知らないか。偉大な悪魔を封じし神官なるぞ。我らの神殿の奥に這入り、悪魔の宝物を奪ったところで、我らに金の代わりになるか。諦めろ。そしてお前の仲間たちの命運は尽きた。
ゴルデスクは、かの魔物と同じだ。人間の意識を狂わせ、破滅させる」
彼らは、そう言いながらも誰かが海の外へゴルデスクを運べば、つらい命運が他にも波及するだろうと思いました。本物の黄金より蠱惑的で人心を狂わそうとするその金属は、オグから離れ、そのオグに準じる災いを持ち主たちに悉くもたらすものでした。しかしオグを囲う彼らにしても、そこまで保護する気になりませんでした。自業自得の災いは、ただ自分だけを襲うのかといえば、そうではないのです。
海賊の男は事切れました。彼らは男を埋葬してあげました。ですが男の仲間まで皆、土に埋める気は彼らにはありませんでした。一人でも土の中で温かみにくるまれて安らげば、あるいはその集団はいつか、人欲の支配から逃れて成仏をすると、彼らは信じていました。オグが、一人でも集落の人間を導いてしまえばそこは滅びてしまうのなら。そのうちの誰かが、安らぐことは必要でした。それに弔いがなければ人間は、あの世で方向を見失ってしまうものですから。
さて、揺り籠の中で、今、悪魔は睡眠中でしょうか。クロウルダなどという、神官を自称する者たちに、彼は寝心地の良い空間を与えられていました。神官たちは歌を歌いました。彼のそばで。あの世でも、この世でも。その歌はずっと、子守唄でした。あやすような、布団に包まれたような。良い匂いの香料が焚かれて、まどろみの中、彼は何もかも忘れていました。
しかし海賊たちは、彼の住処まで足を踏み入れました。かの魔物がそれでも昏々と眠り続けることを、陰気な神官たちは願いました。クロウルダたちは緊張しながら港の町中の様子を窺いに行きました。助けを求めてきた海賊の言葉通り、港には彼の仲間たちがたくさん倒れていました。息をしている者もいましたが、クロウルダは情け容赦なくその命を絶ちました。人命を救わんとすることは決して是ではなく、その信仰の都合上除くべき障害が人間にあれば、彼らはまったくためらいませんでした。
彼らは徐々に、港町の奥に入り、その地下に近づいていきました。町は、ほとんど人気がありませんでした。瀕死の人間のする呼吸以外は、不気味な沈黙が支配していて、海賊の乗ってきた船ももやわれたままでした。
彼らは崖を下りて横穴に入り、先代らが空けた地下道をくぐり、慎重に神殿に近づきました。地下に築いた二本柱からなる門と、祈りの歌がほどよく響くように岩盤を削った丸い空間へと。テオルドとピロットが対面したあの盗賊たちが、最初に訪れたクロウルダの遺構に。すると、ぼろぼろに衣服を切り裂かれた、少年のような影が、柱の門の向こうからぬっと現れました。よく見ると、その背丈は子供ですが顔はいかつく、筋肉は隆々とこぶをつくっていました。しかし顔には乾いた血糊がべっとりとこびりつき、その片腕は失われていました。
クロウルダは問いました。「ここで何をしているか?」
小男は答えました。「オグだ。オグがいる。あ?伝説の?そうさ、俺たちは奴に食われたんだ。すっかり、全身が、あいつにやられた。後は殺し合いさ。ぬくもりを欲しがっての死合さ。俺たちは血が欲しかった。相手の血を体中に浴びたかった!そうすれば、誰よりも強くなるからな。ほら、見ろ!」
男は残った腕をぶんぶんと振り回しました。その仕草はまるで透明な剣を見せびらすようでした。彼の手には何もないのに、何か持っているように手を半開きにしていたのです。クロウルダたちはぎょっとして彼を見つめました。彼は不自然な荒い息をついていました。
「ここは、どこだ?」
彼は唐突に大人しく口調を変えました。
「地下だ。オグの棲家たる」
神職の祈祷師が言いました。
「そうか」
彼はばったりとその場に倒れました。その背中からいきなり血が噴き出しました。男はびくびくと体を引きつらせ、弱々しい声で言いました。
「オグだ。オグが来る。ああ、あいつは俺を呑み込んだ。あいつの腹に詰まった記憶が俺に流れ込んできた。あいつは一人だ。一人の人間だ。俺もあいつの一部になった。あいつの手足になって、仲間たちと殺し合いを始めた。ああ、光が見える。何の光だ?希望だ、希望の灯り、俺たちの、俺とオグの、求める、ああ…光が見える…しかし、黄金のように、毒々しい…」
イアリオが夢の中で見た彼は、そうして死にました。それは夢でした。ですが、まったくの過去に起きた、出来事でした。アラルはここにいませんでしたが、彼女はアラルから離れて、彼女の生きた時間の別の場所の出来事を、このように見ていました。
クロウルダは、侵略者たちは皆オグやゴルデスクの虜となったのだろうと考えました。賊共が欲しかったものは、この港湾であり、その奥に棲む魔物が生み出す危険な代物を、最初から狙っていたとは考えられませんでしたが、欲深な彼らがそれに触れればたちまちに誘惑されることは易く想像ができたのです。もはや、港からも脱出が不可能なほど、彼らに取り憑いた魔物はその意識を滞らせたでしょう。ただし、それならば気にするべきは魔物の動きで、もし彼が人間をいくらか食べたとしたら、もう動き出して、この地を後にしつつあるかもしれませんでした。緊急に調査が必要でした。彼は食べると飢えることを覚えます。次の食事ができる所に、身を移動させようとするのです。まどろみの中にいれば、彼は空腹を感じません。だからクロウルダたちは彼を眠りに就かせていたのです。移動した彼は、その足跡を辿ることができても、人間のそれと同じ速度ではないですから、再度見つけるのに、骨が折れました。クロウルダはもはやこの町は捨てねばならないことを覚悟しました。
彼らは人を集めて準備を万端にし偵察隊を送りました。二柱の門の向こう側は、かび臭い洞窟が続き、丸い空間に満たした歌声を届かせるだけの距離を延ばしました。彼は湖にいました。水の傍に棲み、水を通じて彼は身体を保つのです。その湖に通じる道中に、生き生きとした生命の気配はまったくなく、ただ人間のすすり泣きは、どこからも聞こえました。怖い目に遭い、怖い目に遭い遂せた賊たちの。それでいて、自身も自らの欲望の暴発する、くだらない遊びに手を貸した。その遊びはただの黄金の取り合いでした。しかしそれに何を懸けていたかといえば、それは命ではなく、オグの懐に満ちている、恐慌に近い苛立ちでした。
彼らは懸けているものに気づきませんでした。それが命と勘違いしてしまったのです。確かに退けられるのは命でした。ですが退けても退けられても得たものは、新しい不安と、突き上げる激しい憎しみの感情でした。
子供の頃の、子供同士の宝物の取り合いは、文字通りの命懸けになることがありました。はじめての喧嘩はそのようにして経験されることがありました。まして海賊たちは故郷の政争に敗れた者たち、子供の頃から、自由に欲しいものを持つことができなかった者たちでした。ゴルデスクは、まさにこの頃の感覚を逆撫でにしました。すぐに奪われる宝物。自分のものにし続けられない、価値あるもの。たとえそれを手に入れたとして、それは一時の満足を与えるどころか、その持ち主を不安にさせました。なぜならそれは、永遠でないといけない代物、永遠の価値を持ち、常とわに自分の下になくてはならないものと感じさせるものだったからです。
ですが、ものの価値とは、それを見出す人自身と、表裏一体です。人から離れた価値は存在せず、何かに価値や尊ばれるものを見出すことこそ、人の世における大事な人生の志向でした。それは人生に深い指針を与えて、その人の生き方に無二の意味をもたらすものです。いたずらに、奪われるもの、侵されるものではないのです。
いにしえの魔物から生まれた、ゴルデスクと呼ばれるその黄金は、その価値を根本から覆す力を持っていました。それは、人から離れたものにこそ永遠の価値があると知らしめるのです。すなわち、誰の手にも収まりうる、誰の手からも奪い取ることが出来る、それを手にすること自体が栄冠であるもの。ゴルデスクは、人間をそのものに吸収してしまい、人を所在無く振り回し、無秩序を礼賛し、整合性ある行為を行わせないものでした。
それは魔物由来の黄金でなくても、あらゆる宝石に、金品に、多数の人々が欲するものに、認められる或る傾向でした。それらはいずれも永遠の価値など孕まず、人により、ありがたみが増減するものでした。それでいながら、恐ろしい事件を起こし、大抵、犯罪はこれらにまつわり生起しました。ですが生命に比べて、永遠であるものとは、一体何でしょう。一体、人は何を本当は恐ろしく思うものでしょうか。
クロウルダの偵察隊は、すすり嘆く人々を足蹴にし葬り去りながら、オグの棲む地下の湖へ近寄っていきました。彼らはオグに滅ぼされた歴史がありながら今魔物にこころを冒されている者たちにまったく共感しませんでした。黄金は賊たちを虜にしながら、ある声を聴かせ続けていました。それはそれを手にした者たちが抱く思い、激しく他者を攻撃し、やっかみ、不寛容な棘立つ心持ちになり、憎しみ、怒り、我を忘れる殺人を、繰り返す者たちが至った強烈な激情を叩きつけ続けていました。勿論彼らの手にはそれがありません。すすり泣く彼らは奪われた者たちで、激情に支配され、他人にその激情を叩きつけられ、こころが減耗した弱者たちでした。
クロウルダは彼らに容赦しませんでした。神官共の信仰においてはその信仰を妨げるものが脅威でした。辛気臭い顔を暗がりの灯に覗かせて、返り血も気にしない者たちは、人よりも、その向こうの悪神の方にはるかに注意を向けていました。すると、ごうと風が唸って、空中にいくつもの顔面がのぞいた奇妙な霧の塊が飛び過ぎて行くのを見仰ぎました。それは、オグではないものでしたが、オグに準じた化け物のように、彼らは感じました。それは霊でもありませんでした。人から離れた、人の意識が、水の精を孕むと、同質のそれらが互いにくっつき、かたちを持ち宙に浮かぶことがあったのです。それらは死者どもから離れた恐怖でした。死者どもが強く叩きつけられた人間の欲望を、死後も忘れられぬものに彫り刻まれたために、誕生した生物でした。
とにかくも危険が間近にあることを彼らは感じました。このまま進むか戻るか、彼らは考えましたが、もう少し先に進むことにしました。広大な空間が開けました。右手側に深い穴が空き、その向こうの高台から滴り落ちる細い滝と暗がりとを呑み込んでいました。滝壷に落とされる水の音は小さく、その穴の深さを物語っています。この空間のさらに奥が、オグの棲み家たる、湖でした。クロウルダたちはたいまつを掲げました。そこに何かいたのです。異様な気配は彼らのうなじを逆立てました。小さな滝の飛沫の音が彼らを守っているようでした。湖から出て、その寝床と隣り合った暗い部屋に現れたのは、大きな怪物でした。無限の顔と、無限の手足と、無限の内臓と、無限の心臓を、透明な体に持っていました。このような形のオグを彼らは初めて見ました。彼は霧の姿でない場合は、鯉や蛇、そして鳥など、何かの生き物の巨体を借りて出現していたのです。
化け物は、まさにひとしきり過ぎた食事を終えたばかりでした。そこにはそれが食べたものが雑多に浮かんでいたのです。
彼は巨体を揺すっていました。そこに飲み込んだのは外形だけでなく、恐怖や悪意や、憎しみなど、無数の感情もありました。地の底から、あるいはそれが反響した天井から、猛烈な太鼓の音が轟きました。どろどろどろと、どくん、どくんと、下腹を打つ巨大な叫び声が。クロウルダたちは見たことのないオグの異様な風体にすっかり怯えきりました。その巨体が彼らにかしぎました。彼らは一斉に逃げ出しました。オグは、今までこんなに短い間にたくさん食事したことがなかったので、体が重く、彼らにはまったく追いつけませんでした。
「ヴォーゼ、私を絵に描いてくれないか」
屋外で、アラルは恋人のヴォーゼにそう頼みました。
「どうして?」
「いつでもヴォーゼのそばにいられるように。勿論、私もここにいるつもりだが」
ヴォーゼは彼女の考えていることがわかりませんでした。アラルは、海賊どもがエスタリアの町の南の港に攻め込んでいる最中は、山脈向こうの大きな戦争に手を貸していました。エスタリアでは北側から足しげく商人たちがやって来ていて、南からの戦いの足音は近づいてきていませんでした。ですが、船員であるアラルの父親は港に戻れず、海外に出ずっぱりでした。港から逃れてきた水夫や大工やクロウルダ、その他の市民は皆エスタリアに匿われたので、町は人間でぱんぱんに膨らんでいました。
アラルはかつて見た父親の燃え上がる船を思い出して、身を震わせる怒りを新たにしていました。彼女は故郷に戻ってから、港が占拠されたことを知ったのです。アラルは南の港町に自分が乗り込むことを考えました。勿論、後々ここから繰り出される援軍に混じっていくべきでしたが、その身体が疼いて仕方がなくなりました。彼女がふるさとに戻ってきてから恋人に伸ばした手、腕が、違和感をそこに抱かせたにもかかわらず。
恋人のヴォーゼはすっかり屋外に出掛けるようになっていました。もう年頃も過ぎて頭も相当に明晰だった彼女は、監視の目がありながらも、日の当たる所に出歩きその目で子細に町並みと人の営みを見て回りました。むしろ、アラルがいなくなってから、彼女は活発になりました。ならざるをえなくなったのです。
ヴォーゼはいくつもの趣味に挑戦しました。格闘用のグローブを嵌めることもあったし、陶工に弟子入りしたことも、画工に絵の描き方を教わりにいったこともありました。その中でも絵画は彼女の心を慰めました。というのも自らの筆で描くことは、その中に自由を見出し、確実に自分のものと思われる作品を仕上げられるからでした。
アラルに懇願されたヴォーゼは素晴らしい作品を仕上げました。刈り上げた頭に、長襦袢に包まれていながらもわかるしなやかな筋肉、鋭い目。ポージングはなく佇んでいるだけでしたが、それが強力な戦士の姿であることがなぜか一目で分かる絵でした。
出来た絵は描き手であるヴォーゼ自身をどきりとさせました。戦場から帰ってきた彼女の恋人は、すっかり変わった人間になっていました。それが描いて解ったのです。相手の考えていることはわからずとも、自分に、激しい愛情を抱いている恋人の、異常に発達したその筋肉は。
「やっぱり、ヴォーゼは何でもうまいんだな。私がいなくても、こんな立派な絵が出来る」
何かを否定するために、鍛えたそのたくまし過ぎる肉体は。
「何を言ってるの?あなたがいなくて悲しまないなんてないわ。どれだけ私が、あなたが戦場でいる時に、心を痛めているか、教えてあげたでしょう?」
アラルはピロットのように鋭く悲しげな目の色を閃かせました。
「だからつまらないんだ。私の戦功を讃えてもらわなくては。一体、ヴォーゼは私をどのように見ているんだ?私は戦士だ、戦場でこそ自分であれる。ヴォーゼのそばにいる自分は、私のようではない」
イアリオは、夢の中で二人のやり取りを覗き込みながら、主にアラルの気分になりながらも、自分がヴォーゼと重なり合う瞬間がありました。どちらの感情も彼女の中に流れました。そして、この時のアラルの言葉に触れた時に、まさにアラルと自分が重なり合っているために、「怖い」とはっきり感じました。彼女は自分自身だったと思われるアラルによく似た少年をかつて愛していました。その少年はずっと生まれた時から戦いを挑んでいたようでした。世界に。あるいは、彼女に。
ヴォーゼが答えました。
「また悲しいことを言う。どれだけ私があなたと一緒にいて、心が安らかになるか、何度も伝えているのに」
「怖い」とまた、イアリオは思いました。その怖さを彼女はまったく知りませんでした。その怖さは知るための怖さでした。知るための怖さとは、己の悪を認識するためにありました。
「怖いんだ」
アラルが言いました。しかし彼女が言った怖さは、イアリオが感じたものとは違いました。
「何を?」
ヴォーゼが訊きました。
「私もそれは同じだから。今まで何度も、私はヴォーゼを私から引き離そうとしていたんだ。知っていたかい?これ以上の悲しみがあるならば、それは私が戦に行けずに消耗していってしまうことだ。私の活力はここにはない。ここには、安らぎだけがあるから」
イアリオは彼女たちの幼少の頃から夢に見て知っているので、どうしてアラルがこのように言うのかわかりました。アラルは世界がどのように引っくり返っても自分がヴォーゼと一つにはなれないのだと考えていました。女同士で一つ屋根の下に暮らすことを、世界は許してくれないだろうと。それでいて、どうしてもヴォーゼを愛してしまう、自分を彼女は許せなく思いました。ヴォーゼにおいても、アラルは彼女に自分を愛してほしくはありませんでした。なぜならこの感情は時が繰るにつれていや増していく物語だから。
ヴォーゼにはふさわしい人がいる、立派な男性がその傍にいるべきだと、アラルは思い込もうとしました。彼女の幸福は彼女にあるものと。それは自分が傍にいることによるものではないと。
「それで、十分ではないの?」
ヴォーゼは短く尋ねました。彼女は、アラルとは今までの関係のままでもいいと思っていました。彼女の方がアラルよりずっと、柔軟に考えていました。
「不安なんだ。私がだんだん消えてしまうようで」
こうしてアラルは、恋人に中途半端な別れを告げました。彼女がいよいよ恋人から身を隠そうとしていることを、相手も分かりました。ですが、それは明然な告白ではありませんでした。
そして、もう一人、この町からいなくなるのであれば、彼女はそれを告げるべき相手がいました。彼女をここまで鍛えた、地下の亡霊。不思議な衣装を着た、少年の師匠です。
「もう、君に教えることは何もないのかもしれないな」
少年の霊は、青白い炎を上げていました。アラルはその少年以外、亡霊を見たことがなかったので、霊は青い炎を上げるものだと思っていました。いいえ、そのような輪郭を持つ幽霊は、強い想いをこの世に残した者たちでした。
「戦場でも活躍できるくらいだから、君は君の武術をもう君なりに磨けるんだろう。僕ができることはほとんどやり切ったから、そろそろ、この町を出て行ってもいいかもしれない」
「…私は、今になって一つわかったことがあります。それは、ヴォーゼがいるから、私はこの町から出て行きたいということです。私の望む心は彼女と共にいることではない。彼女といると堪えられなくなります。穏やかではいられません。穏やかになることを、私は拒んできました。平穏は私の望むものではないのです。それではなく血が、滾る血潮が、安らぎではなく荒ぶる心が、欲されるのです」
アラルは血走った目を開きました。本心ではないことを彼女はこの場でいくつも呟いていました。
「そうだよ、アラル。君は本懐を遂げなきゃ!」
少年は嬉しそうに片手にグラスを持つ仕草をしました。彼女には少年が何か持っているような演技に見えましたが、それが、旧時代に隆盛した器だとは思いも寄りませんでした。しかし、地下の倉庫にはたくさんの酒樽が積み上げられていました。彼女も少年を真似て、ぎこちなく片手を上げました。空想のグラスの端と端がかちんと合わせられました。
アラルはまた、ヴォーゼにはっきりと別れを告げたと少年に言いました。
(恐ろしい。)
「そうか。いよいよだね」
少年の霊は頷きました。彼女の決意が固いことを確かめたのです。強い冷気がその場に漂いました。ぴりりとした冷たい空気は、アラルの心と体を引き締めました。ですがその心と体を引き締めたのは、今の冷気ではありませんでした。
「ところでアラル、港町の様子はどうなんだい?」
遥かな過去から届く、畏ろしい冷気でした。
「わかりません。行くのは止められていますから。海賊どもがもしこの町を襲うようなことがあれば、私は守るためにここにいなければなりませんが、あの港には魔物が眠っているために、どうなるかは予測がつかないのです。打って出ることは魔物も刺激することになるから、慎重なのです」
「それは、おかしい」
霊は揺らぎながら疑問を差し挟みました。しかしアラルは彼の冷気に身じろがず身を引き締めていました。
「どういうことですか?」
少年の霊は不自然に揺らぎました。しかし霊は霊である以上不自然な存在でした。でも、それはただ身じろいだだけにアラルには見えました。不自然ではなく。揺らいだのではなく。夢見手のイアリオは、軽く呼吸が苦しくなりました。
「アラルほどの腕前の者がここにはいるのに、海賊はおろか魔物にすらチャレンジしないとは!皆、君の実力はもう知っているだろう?北の地でどれほどの武勲を得ることができたか!君は二十人の戦士たちを斃した。それも前線で、矢面に立ちながら。君がいれば、敵は追い払えると考えるものだろう。今こそ君が、その剣舞で何もかも脅威をなくすことができるんじゃないかい?」
幽霊は嘘をついていました。まるでたった一人でその数の敵を討ち取ったと言い表したのです。戦場において、その剣技は一対一のやり取りに終わるわけがありません。アラルは素早い戦士でした。その風貌も魅了するものがあり、彼女のおかげで前線が切り開かれたのは紛れもない事実でしたが、弓役、徒歩役、盾役、馬役などがいてはじめて軍団が組まれ、驚異的な戦力となり進軍できたのです。ですが、その戦力として彼女は自信を深めていました。
幼い頃から師匠として親しんできた相手から言われると、アラルは自分が一人でも港に赴いて活躍ができる、そんな気がしてきました。彼女はずっと以前から、このように少年の霊に背中を押されるようなことを言われ続けてきました。その末に、今の力溢れる肉体を手にし、恋人から身を引き剥がそうとする決意を育てられたのですが。彼女の愛はその一方で、より大きく、より哀しく、より力強くなりましたが。
「あの魔物が、果たしてこの手にかけられるでしょうか。無限の悪意を持った怪物を、一介の人間の手で?」
彼女はしかしオグの恐ろしさを大人たちからよく聞いていました。地下の神官たちは周囲の人々に、自分たちのやっていることの啓発を行ってきました。
「でしたら、もうとっくにやっつけられたでしょう。わざわざ神官が見張りをしなくてもよかった」
クロウルダは自分たちの役目をそうしてアピールしながら、何びともオグに近づけさせない用意をしていました。ですが、
「やってみなきゃ、わからない。アラルの手は、そんなに小さいかい?仮に討てなくても、町を出て修行して、強くなってまた戦ってみたらいいじゃないか」
オグは
「そのために今一戦交える必要があるんじゃないか?強大なものほど」
誰しもにとって未知の存在であるはずでした。彼が、集落の一人二人を唆して、悪を蔓延らせるのはそうしたオグの様態を集積した一つの事例でした。
「想像でその大きさを測ってはならない」
しかし今の彼はたくさんの命を貪り葬っていました。
「実際に手を合わせてみてから、どうすれば勝てるか、どうすれば強くなれるか、考えていくのが、強くなっていく者の向上心だから」
思いがけない誘惑を人間にしていてもおかしくはない存在なのです。アラルは、少年の霊に対してクロウルダの言ったことをそのまま注意として繰り返して言いました。魔物は危険な存在であること。手を出すのに憚られる相手だということを。
しかし、彼女はこれまで、少年にまるでオグを軽んじるようなことを言われ続けてきました。それに対する対峙心をはぐくまれるようなことを!いつか、それは滅ぼさねばならない魔物として、彼女は彼に言われてきました。オグは、少年から過小評価されたような実物に当てはまらない心象を、アラルにほのめかされ続けていました。
アラルは自分の師匠のことを一毫とも疑ったりしませんでした。彼女は師匠に言われたことで、自分の腹が決まったような気がしました。それはずっと自分の腹の中で考えていたことのようにも、思えたのです。いつか魔物を討伐すること。人類の敵に、一太刀を浴びせることを。
「できれば、置き土産にしたいものです」
アラルは、大変愚かな決断をしました。
「今ここで、私は私のなすべきことをするのです」
その決断こそ、自分をより強く、たしなめてくれるものだと思いました。麗嬢のヴォーゼを、愛してしまった自分を、たしなめてくれるものだと。時が経つにつれていや増していく、どうしようもなく純粋な愛を、このまま保つためには。…夢を見るイアリオは、怖くて堪らなくなりました。アラルが自分自身を裏切っているとよくわかるためです。ヴォーゼとともにあるはずの愛を、己の中へ引き籠もらせ、彼女は、自分と世界を見限ろうとしたのです。それこそ無限の悪を内包するオグの中にあるものでした。自己の思いだけがある世界を世界に実現せんとする、巨大な人の災いでした。
この世は創り合っているもののはずなのに。
彼女はこの夢のさなか、夢の続きを見るべきかどうか、迷いました。これは夢だとはっきりと彼女は認識していました。ですが、生々しい、現実に起きたことをなぞっているような、手触りすらあるアラルの心は彼女そのものになり、
夢は、
それを見ている者から見る見ないの選択を取り上げていました。夢の中で、彼女の髪は猛烈に逆立ちました。巨大な月の月光が、眠りに就く彼女のからだを照らしていました。月台から見える月は、天に近く、あまりに巨大に見えました。
月の儀式の台座に寝そべり、神官はその晩の月が変わらないことを認めました。翌日の晩の月が、少し変わったことを認めました。彼らは暦を読むために、その満ち欠けをじっと観察しました。
その不思議な天の観測は、暦を読むことそのものの神秘にも触れていました。いつから時代は始まったのか。いつから人はその意識に気づき、歴史を認識したか。月台の神官たちは、自ずと古い時代にも思いを馳せるようになったのです。いつから人は、繰り返し時代に生きることを自覚するようになったのか。いつから人間は、時代を差別するようになったのか。昔はいいなどと思うようになり、未来を不安に感じるようになったか。
繰り返される歴史の正体は、今と昔の変化と同一性です。人間の意識が、変わっていくものと、変わらぬものとを認めるのです。
その月の満ち欠けが、女体に影響を与えることも古くから人間は判りました。母親となる身体に、まるで命を呼ぶような働きかけを行うのです。命は母胎から出てくるものです。母の月の台から。生まれてくる赤子は、その中で変わっていく月を見上げるのでしょうか。時を刻む、変わりゆくものを。
アラルは港へやって来ました。片手に剣を提げて、います。それは細身の刀でした。刺突に優れ、斬るのに不適でした。彼女は街中の戦闘に備えてその武器を選択しました。彼女が活躍した山向こうの戦場では大剣を背に走り回り、著しく敵の前線を混乱させたのちに、その武器を大きく振るう戦法で命を奪えましたが、今度のいくさでは敵の生命を終わらせる目的ではなく、相手の実力を測る目的もあったために、取り回しし易いものを選んだのです。細身の真剣は鞘から抜けば、それは鋭い弦月の光を煌めかせました。しなやかですがあまりに細く、現代のイアリオの真上に浮かぶ満月とはとても対照的でした。アラルの時代の服装は、イアリオたちの時代から遡るにしてもトラエルの町のものと頗る同じで、いくらか丈の短いスカート様のパンセと裾を縫い止めない上着のセジルでしたが、アラルはそこに革と鉄でできた肩当と鎧と、膝当をあてがいました。そして兜を頭に嵌めました。彼女にとって一番高価な武具はこれで、精鉄を伸ばした軽く頑丈なメットでした。どこからどう見ても前線に臨む足軽の風体で、彼女は徒歩で南の港に出向きました。自信に溢れるその足取りを阻む者はなく、じっと港の入り口に待機をしているクロウルダの面々の所まで彼女は堂々と歩きました。道中に見張りはいましたが、彼らは彼女に何の忠告もしませんでした。もはや、海賊どもは壊滅しており、彼らの関心は、いつオグが港から離れていくかに向いていたからです。
イアリオの時代こそその港は岩窟に隠れ、盛り上がりのある岩盤に埋もれていましたが、クロウルダの時代にはまだ船着場は岩壁の外にありました。彼らと、彼らを追ってついてきた大工たちと、さらに後に彼らからこの地を奪った海賊らの奴隷により、いびつな港湾都市が形成されたのです。とはいえ、アラルたちが生きた時代には港はかつてクロウルダが建てた時より、町として工夫され育ちました。大工たちのほかに、料理人、両替人、漁師、倉庫番など様々な人々が移住してきて、そこをもっと住みよい場所にするべく働いたのです。クロウルダは、港を造りながらオグを祀り、自身は貿易商人として生計を立てて暮らしていました。その民族の中で、オグを奉る神官職に就くのは順番でした。誰もが貿易を担うことができオグへの祝詞も唱えられ、そして選ばれて人身の供奉となることができました。その昔素敵な蒼の港町を造り出した彼らは、各地にオグを追い水辺に集落をつくり続けていましたが、すっかりどこでも港を造ることにもはや秀でていました。どんな場所でも水のあるところならば、船舶が繋げられる波止場と、波を抑える湾を造り出せました。その大規模な工事のやり方を彼らは熟知し、雇える人間さえいれば、望みの港湾を完成させられたのです。
そして、港は人を集めました。彼らは、自分たちだけでオグの活動を抑えていることに誇りを持っていましたが、その町は、実に多くの人々に造られ支えられ、維持されてきたのです。
エスタリアの南の港は、はじめは岩壁に沿った浜を埋め立てて造られていました。港の外に暗礁を仕込み、波が津波とならないように海の中に障害物を置きました。とても小さな桟橋から始まったのですが、ここの地理的利便性に誘惑された人々が、より居住地を大きくしようと岩盤を削り出しました。すっかり港は規模を大きくし、岩の屋根に覆われた異様な(魅力的な)水辺の町となりました。
そしていたく海賊たちに気に入られたのです。幸いにもオグの棲家である地下の湖は巨大化する町からは遠く、クロウルダもその工事の進捗に口出ししませんでした。町は、岩盤の上に坂を伸ばし、その頂上を陸の出入り口としました。二本のスカイブルーに染め上げた柱がその門でした。そこに、偵察隊を後方で支援するクロウルダの人間たちが、ござを敷き座っていました。
「何用で来られたのだ、女戦士殿」
彼らは一目で軽装の戦士がアラルだと分かりました。彼らはエスタリアを今は拠点として、凱旋してきた彼女を、迎え入れるエスタリアの人々と共に遠くから眺めていたからです。
「まるでこれから戦にでも出掛けられるようだ」
彼らの質問に、アラルは堪え切れないように笑いました。
「戦にはなっているだろう。私も参戦しようと思ってな」
「あなたの力が必要になれば我々からそう言う。ここにいるのは人だけではない、もしも、それが出てきたら取り返しのつかないことになるのだ」
「私がいるではないか。私がなんとかして食い止めてみよう」
アラルは傲慢さを隠さずにそう言いました。
「愚かな。しかし今、かの魔物は腹が膨れ上がり、移動が困難だという。
だがどんな事態になるかまだわからない。人を呑んだ以上、あれはこの町から去って行くはずだから」
女戦士の目が閃きました。彼女は戦地で食事後の駐屯地を襲撃し、腹を満たしたばかりの十分に動けない敵の命を取ったことがありました。
「オグが?人をもう?」
彼女はわくわくしながらそう尋ねました。「怖い」また、夢見手は思いました。
「かの魔物の毒牙に掛けられた者を、一人も出してはならぬ。そして、できるだけ早く、オグの追跡をまた行わねばならぬ。今は動く時でなく、待つ時なのだ。慎重に事態を見極めねばならぬ」
「だったら私が様子を見に行こう。戻ってきて話せばいいんだろう?」
彼女は長い腕をゆらゆらと揺らしながら言いました。
「そのためにあなたを行かせるわけにはいかない」
「なぜ?」
クロウルダたちは、彼女の思惑など皆分かっているかのような目を上げました。
「あなたはクロウルダではない。然るべき修行なくしてかの魔物には太刀打ちができない。あの悪意の集団には己の悪を見出すのだ。見るだけで、気分が損なわれてしまう。あなたとて彼に食われ操られる。私たちの刃はその時あなたに向けられるから」
アラルは片手に剣を振り抜き、脅すように彼らに向けました。彼らは彼女を通しました。あえて彼女の前に立ちはだかることはしませんでした。クロウルダたちは嘆きました。彼女のその愚かさが、自分自身へのオグの到来を招くことを彼らはよく知っていました。自尊心ほど悪に付け入る隙を与えるものはないということを。そのようにして彼にチャレンジしていった者たちを彼らは見送ったことがあるのです。それは、彼らこそ魔物を眠りに就かせておくために、かの存在の恐ろしさを、人々に説き続けたからに他なりませんが。
アラルの師匠は、彼女といよいよ再会することのない別れを迎えても、その名を明かしませんでした。アラルは彼がいつからその地下室に棲み付き、なぜ自分に格闘技などを教えるか、訊こうと思っていましたが、つい今まで尋ねませんでした。ただ、彼が彼女をずっと愛していることは、よくわかりました。もしかしたら、彼は父親か母親の親戚なのかもしれない、とアラルは思いました。アラルがまだ物心ついてない頃に、病が流行し、大勢の犠牲があったことを彼女は聞いていました。少年の霊はその時に亡くなった者かもしれないと彼女は考えたのです。
そうではなく、赤ん坊の頃からその霊は彼女に付き添っていました。彼女は、留守がちな父親と忙しない母親に、あまり頼らずに生きてきました。祖父が裕福なために不自由なく暮らしていましたが、そのために、譲り合い助け合う、世知辛い世の中を越えていくために必要にならざるをえない、血縁を大事にするような思いは育ちませんでした。彼女は家族より、自分の愛、自分の思いの方が力強く原動力となり、周りの人々もそれを否定せず尊重してきました。
ですが、一方でたくさんの人間の死の上に自分の生があるということを、彼女は誰からも教わることなく意識していました。それは戦場で斃した敵の輩のことではなく、無限に伸びた血筋の祖先のことです。自分が、生きているのは一つの偶然だと、彼女は考えました。アラルはそうした感覚に、敬虔な一面がありました。それでいながら、すべての生きとし生けるものを愛するような感情は、彼女にはありません。それはヴォーゼにありました。アラルはむしろ自分が生きていること自体に、何かおかしさを感じていたのです。自分こそ疑問の源でした。女でありながらどうして自分には男にも劣らない筋肉がつくようになったのか、女でありながらなぜ同性の人間を愛してしまったのかと。
性や直接恋愛につながることどもだけではなく、純粋に、自己の存在に疑念を投げ掛けるようなことを彼女は考えてきました。その様は一人の哲学者としても見られるものでした。そのためのあの怒り、その厄介な疑念を封じるための戦場での人殺し、だったかもしれません。アラルは自分自身に敏感になりながら、人の心理にも敏感になりました。誰が誰に想いを寄せているか、誰が誰を憎んでいるのかが分かりました。そこには非常に醜いものも浮かび上がりました。不倫、小児性愛はもとより、様々な不健康な志向がエスタリアには垣間見られました。
ですが、そうした人々と彼女は交わりませんでした。彼女は遠くからその人々を見つめて、彼らが自分自身を愛していない様子を観察していたのです。自分のように。アラルはあまり自分を愛することがありませんでした。唯一歌っている時が、心も体も充実し、彼女自身が輝いて見える時でしたが。港を襲った敵とはいえ人間を殺してから、彼女は歌えなくなりました。襲撃してきた敵はまさに人のものを奪おうとする、己に幸福のない相手でした。
彼女には、ヴォーゼから深い愛情が向けられていました。でも、それが彼女に深く根を下ろすことにはなりませんでした。
港街に彼女は剣を構えて進入しましたが、立ちはだかる敵には出会いませんでした。みすぼらしい男たちがすすり泣きしている脇を通り過ぎただけです。クロウルダたちの偵察にも遭わなかった男たちは、しかし巨大な恐怖に出会っていました。巨大といってもそれは魔物や蠱惑的な黄金から直接に注入された恐怖ではありませんでした。彼らはオグやゴルデスクに、容易に自分の悪の感情を高められることがなかった者たちでした。ただ、自分自身の悪を、それらにのぼせるほど高められた者たちを、散々見ておののいた人間たちでした。あるいは、高められたとて途中でその昂ぶりが途絶えました。しかし、途絶えたあとで、見たものに絶望しました。彼らは、生き延びてしまい、事後どうしていくか決められずに、さめざめと泣く以外になかったのでした。
アラルは地下道に入り、松明を掲げましたが、ずっとその光景は続きました。彼女は偵察隊の辿った道筋を行かず、イアリオがハリトとレーゼと共に通った横穴に近い道を行きました。彼の塒に通ずる道は幾本もありました。それはいざ港が攻められたら地下に潜り、敵の不得手な戦いを仕掛けるために空けられたものでしたが、オグの棲家は従来地下洞窟の先にあることが多く、いくつもの岐路が元々そこにあったからでもありました。ですがいずれの道も道標がしっかりと岩壁に書かれていて、迷うことはありませんでした。
アラルはこの穴に入ることは初めてではありませんでした。先の戦いの時にクロウルダたちと剣を並べ、この中で敵を討ったのです。そこで利用した穴を、彼女は再度辿ったのです。さらに奥に向かうために。ですが見知らぬ洞穴まで到達し、両壁に狭められながら進んで行くうちに、彼女は徐々に、何か不思議な威力が目の前に現われつつあることを感じました。
彼女はクロウルダのように魔物には触れてきませんでしたから、その感覚は、クロウルダとは異なるものでした。彼女は警戒しつつも、その警戒は神官らが抱くものではなく、人の敵に対して持つのとそう大差はありません。彼女はすいすいと進んでいきました。そして、魔物の棲み処たる、冷たい水の湖に辿り着きました。しかしそこにはオグはおらず、ぴちょんぴちょんと跳ねる滴が、アラルにこっちではないよと言いました。彼女はさらに先へ進みました。二柱の神殿の方ではなく、湖の左側へと回る狭い入り口へと。そこを抜けると、大きな空洞に行き当たりました。そこは、イアリオと再会したピロットが連れていった、彼女と抱擁した古代の岩場でした。
夢見手のイアリオは思い出しました。確か、そこは白みがかった縦長の岩がたくさん並んでいた所だったはずです。しかし、筍のように生えた岩は、黄金色に毒々しく輝いていました。アラルはそこで、不気味に輝くその岩に、体を摺り寄せている男たちを見つけました。彼らは一心にその岩を愛でていました。方々から呟きが聞こえます。
「これは俺のもの…俺のものだ…」
「口が汚いぞ。ふさわしい言葉で愛でたまえ」
「永遠の至高の宝…こんなにも我が手元に…」
「ああ…ああ…何もいらない…これだけがあれば…」
ゴルデスクの光に彼らは皆囚われていました。これを巡っての争いに陥った者たちの、勝者がそこにいたのです。他者と自分の血塗れの、青息吐息の者たちが。勝者でいながら、不安で堪らない者たちが。
アラルは彼らに関心を持ちませんでした。彼らはまだオグに食されていませんでしたが、それは彼が満腹になりすぎてしまったために、偽りの勝者となる時間を与えられているにすぎませんでした。女戦士はそんな醜い未熟者どもが愛でるものを見ても、何の刺激も受けませんでした。オグの棲家の奥の、危険な鍾乳洞は話に聞いていましたが、自分はそれに惑わされていないと確認するだけでした。さて、オグはどこにいるのでしょうか。
彼女は頭を巡らしました。ですが彼はどこかにいる者ではありませんでした。どこかではなく、本当はどこにでもいる存在でした。彼こそ、人の求めに応じて、やって来るのです。そばに、いました。そばに、いました。彼はすでに取り憑いていました。すぐそばにいる者に。
彼女は湖に返り、別の道を進みました。剣の切っ先は敵を求めて、鈍く光っていました。敵?敵なんているのでしょうか。彼女の要望は何でしょうか。そう、彼女は、ちゃんとその要望どおりに動いていました。恋人から、身を引き剥がす。いや、魔物と一刀、交じ合わせる。彼女はなぜ、自分がここにいるのか分かっていません。何が、ここまで背中を押してきたかは。そこにはいろんな音が鳴っていました。世界には聞こえぬ音も鳴っていました。さらりとした音も、鈍い音も。高い音も、低い音も。全部がそこで鳴っています。しかし聞こえてくるものは違いました。人によって違いました。時代によっても違いました。
彼女にはせせらぎの音が聞こえました。洞窟の道はとても幅が狭くなりました。その道はクロウルダたちがオグを慰めるために合唱したあの二本の柱の立つ所には通じず、別の場所へと人間を導きました。かの住み処からは、何本もの穴が空いていました。勿論、クロウルダが必要に応じてその中のいくつかを塞ぎ、出入りできなくしていましたが、愚かな賊たちがそこを開けたのです。当然、アラルは出口へは向かいませんでした。彼女の進む道筋の向こうは川が流れているようでした。ですが、より窮屈になるこんな所で誰かが襲撃してくれば、ひとたまりもない気がしました。警戒も怠らず進んでいくと、道の先から、香しい花の香りがしました。アラルは立ち止まって匂いのする方を確かめました。どうやらこの先、地上に出るものと思われました。風が吹いているのです。
アラルは、からからという乾いた何かの転がる音を聞きました。ですがその音はどこから聞こえたものか分かりませんでした。狭い空間の前後から聞こえたのではなかったのです。彼女は不意を突かれました。その脇を何者かがかすめ、たいまつを奪い取っていったのです。人一人の幅しかないところをそれは駆け抜け、灯はたちまちに暗闇を遠ざかりました。灯を失った中、彼女は剣をゆっくりと構えて、どこからでも剣戟が来てもいいように待ち構えました。何も見えませんが、耳で気配は感じられるものと、信じたのです。
彼女は動じませんでした。しかし何も起きませんでした。彼女は、どうせ敵を討つなら光のある場所でと、道を進み歩を速めました。穴は出口に近づくにつれてまた細まりました。彼女は両手を岩壁に当てつつ進みました。ぬらぬらとした穴蔵をそうして掻き分けていくと、ものの輪郭が分かり出すほどの、淡い光が道筋を包み始めました。ふいに、彼女の手に日差しが当たりました。温かみをそこに覚えて、彼女は洞窟を脱出しました。日差しは高く、ほとんど真上から太陽が大地を照らしていました。
アラルは深い深い谷間の亀裂の底にいました。そこには川が流れていました。たいそう良い匂いのする川で、アラルは町や戦場近くの川原でもこんな匂いを嗅いだことがありませんでした。うららかで、清涼で、包み込むように、甘さを鼻腔に届けています。辺りに耳を澄ませました。先ほど灯を盗んだ何者か知れない相手が、まだこの近くにいるだろうからと。
川のせせらぎの平和な音が、彼女が後ろにした光景とは、異常に異なる次元をそこに見せています。無意識に彼女はひるみました。一歩一歩、アラルは、川を遡る方に、剣の柄を握り締めて進みました。行く手の川は、崖とともにぐにゃりと大きく左に曲がっていました。彼女は岩壁の傍の歩ける砂利を、裸足にも関わらず進みました。そして、その岩壁のカーブが切れた向こうに開ける河川敷に、何とも言えない美しい、緑色の小島を見つけました。小島は丁度川原の真ん中にあります。ふかふかの黒色の土に覆われていて、その上に花が咲き乱れ、蝶が飛び交っています。古ぼけた、木の看板が、そこにひとつ立っていました。そして、白い服を着た女の子が、一人で島に立ちつくしていました。
「ア、ラル」
ふとよく聞き知った声が上からしました。よく知っていたといっても、幽世から届く声であって、いつも、皺枯れた震えが伴ったものでしたが。地下の倉庫で彼女を鍛えた亡霊の少年が、はたはたと空から下り、緑色の小島に降り立ちました。蒼白い火を体から上げて。
「よく来たね。この場所へ」
白木を切り貼った看板には、誰かの名前が書いてあります。アラルには読めませんでした。いいえ、アラルに同化しているイアリオには読めました。彼女はオルドピスにいて古代語も勉強していました。それは歴史学の徒として興味ある分野だったので、ついでに学んだ程度でしたが、看板に記された文字は古語で書かれていたのです。二つの名前が並んでいました。キャロセル、そしてサルバ。サルバ…?キャロセル……!?
イアリオは、オグを巡る旅の途上に見た、別の夢を、夢の中にもかかわらずありありと思い出しました。キャロセルという姉が、その弟を虜にした…弟と通じ合い、自分と弟が離れ離れにならなければいけないことになり、キャロセルは弟に自分を殺すように頼んだ夢を。
弟はその後姉を追い自殺した夢を。
その夢はまだオルドピスにいた頃に見たものでした。服飾品の豪華なお屋敷に住んでいる姉弟の夢でしたが、姉は、病弱で表に出られず、弟にいびつな愛を向けました。イアリオはその姉の身になって姉弟の顛末を見届けました。彼女は今見ている夢のように、姉弟をその幼少期からずっと見続けたわけではありませんが、二人の心理はつぶさに観察できました。姉が弟に抱いた気持ちはその血のつながり相当のものが、暴走したように感じられました。本当は貞淑に家の長男として生まれついた彼を立てる心持ちでしたのが、弟のあまりの可愛さに手放すことを拒もうとしたのです。彼女は体こそ弱いものの、訪問者は後を絶たず、彼女にも相当の器量があったために嫁入り話も多数あるほどでした。イアリオにも分かるほど、姉は頭がよく、箱入りでいながら世の中の事情を分析できました。それだけ家で人と会話する機会が多かったのですが、これは、アラルの恋人ヴォーゼとも重なる背景でした。
ヴォーゼと異なることがあるとすれば、それは彼女が歌好きということでした。キャロセル嬢は自分が歌うと自分も周りも元気になるのを嬉しがりました。まるで、それは幼少期のアラルのようでした。しかし、彼女は性の興味をまず弟に向けてしまいました。弟は恥ずかしがらず自分の肉体を姉に披露しました。初めて見る年頃の異性の裸に、キャロセルは欲情してしまいました。それが、確かに血のつながった弟のものであると分かりながら。
彼女は「これは大人になるための実験だ」と称しながら、彼の身体を触りまくりました。弟の絶頂もそれで確認しました。彼女はもう彼は自分のものだと勘違いをしました。あらゆる性の出会いの中で、このようなことも、とても起きる可能性が低いとはいえ、起きたことでしょう。そして修正がなされるでしょうが、彼女には命の危険がありました。
その健康についても、どこかで回復されることがあったかもしれません。不治の病とされるものではなかったのです。としても、治ることなく、衰弱に向かっていくこともあるものでしたが。ついに、キャロセルの容態は悪くなる兆ししか見せなくなるのです。折りしも弟の縁談が、その将来のための留学が、次々に決まっていきました。キャロセルは、どんどん容態を悪化させていきました。心理的にも、絶望を味わう最中でした。
弟に、その身を殺させることはごく自然な成り行きにも見えました。ですがイアリオは、この夢を見た時に恐ろしいものが蠢くのを感じました。オグを巡る旅の途上で、この夢を見たことが、何か恐ろしく宿命染みて意識されたのです。そして今、アラルを巡る宿命を夢に見る中、あの時の夢の続きが、ここに現出していることを、どう受け止めればいいか、夢見手はすっかり混乱しました。ああ、ああ、なんてこと!あの時の弟が!そうだ、あの時よりも幾分か若返った弟が…!そう、彼女と通じ合ったばかりの年頃の…!
イアリオは、ぞくりとしました。これは、前世…?私の、前世…?私は、アラル?そして、キャロセル…??禁忌だ。これは、多分、禁忌だ。見てはならないものを見ている。彼女はそう思いました。彼女は気が遠くなりました。生々しい実感は、しかし、決して夢の中の前世ではなく、本当にあった、とてつもなく大事な過去でした。
しかし彼女は思いました。そこにあるのは、自分の生まれる前の記憶とでもいうのかと。前世?前世など本当にあるものか?と。
夢の続きを、見ることを、彼女は拒みました。この後どのような展開があるのでしょうか。恐ろしいことになる以外ないことを、彼女はわかりました。そう、この夢は、あの大悪に通じる物語なのですから。ですが、一度見た夢は、話を中断せずに、そのまま動き続けました。前世の記憶など見たいものでしょうか。ましてや、それが巨大な恐怖を生み出すものならば!しかし彼女は、どんな幻も見る覚悟を持っていました。それこそあのヴォーゼの亡霊の、放った言葉も受け入れていったのです。
それこそイアリオは、この夢を見るためにこそ、彼女の町を出て行ったのです。
…遠い、記憶の呼び掛けに、ちゃんと、応えるために。
…どんな過去であっても、それを、受け入れるために。
とはいうものの、白木の看板など水気の多いこの場所にあって、いつから立てられたのか、朽ちずにあることがおかしなことでした。トラエルの町の、北にある墓丘の麓に立っているものですら、修繕の跡があるのですから。そこに、他の夢で見た者の名前が書いてあるなど、夢の中でしか窺うことができない、現実離れした事柄でした。
とはいえ、少年の亡霊は、イアリオが以前見た夢に登場した男の子でした。アラルとヴォーゼのあらましを追いかけている最中は、それを彼女は見落としていました。その服装も、アラルが珍しいと感じていた衣装も、前の夢そのままでしたのに。ただ、少年がはたはたと空から降りてきた時に、イアリオの意識はアラルから離れて、アラルとは別の感想を明確に持ちました。それまではいかにも、その夢の登場人物に同化して、彼を、敬い慕う心が勝ちましたが。銅鑼の音が、するようです。どこか遠くで鳴っている、甲高い、まるで宇宙を司るような。高く、高い、天で。水の音もするようです。それは、近くに、低く。そこに流れる川とは別の。ちろちろと透明で、切なく、儚い。
どこまでも、小さく、聞き取れないほどに囁いて。人の夢は、その行いを映します。儚く、小さく。誰かと共に歩んだ行いを。
「敵は?この辺りにいるようですが」
アラルはまったく愚かなことを言いました。そこにいる白い服を着た女の子は、その弟に向こうの小島で寄り添いました。そして、亡霊の少年はいつくしむ目で、女の子を見ました。
「おいで。大丈夫だから」
小島から彼女の前世の弟がアラルに向かって呼んでいます。アラルは、イアリオは、過去と今が逆転したような気がしました。
「ここにはいないよ。でも、実を言えば、僕たちは彼のしもべなんだ。ああ、剣を振り上げてはいけないよ!僕たちは力のない者たちさ。アラルに撲殺の仕方を教え、正義を教え、力を教えることはできてもね。
悪なんてものは押し付けられないのさ」
少年はアラルの前に悲しそうに佇みました。
「そう、僕たちは…あの魔物に、虜になった者たち。なぜなら、オグは、かつてこの世界に起きた大洪水の末に現れて、全ての人間の悪意を吸ったのだからね。僕たちは皆旧世界に生きていた。僕たちは皆オグに吸収されてしまったんだ…そう、僕たちは…」
アラルのいる方とは逆から、小島に、続々と大小様々な霧の魔物たちが這い上がってきました。彼らは大きくても人二人分ほどでした。霧塊たちが、緑の小島に溢れました。異常な冷気が辺りを漂うも、日差しは変わらず天から降って来て、中州の緑はぬくもりのある色のままでした。
「彼らは、しもべ。オグは、破壊者。だが生み出すものがある。それは、守護者。ほら、忠実だ。何に忠実かって?決まっている。人間の欲望にだよ」
少年の横で、女の子は笑いながら、ひらひらと長裾のスカートを回し、歌を歌い始めました。霧の土偶たちは少女の周りに集まって座り、膝小僧を摺り寄せて、おとなしく動かなくなりました。少女の歌声は、可愛らしく異常に美しく響き、アラルの身に毒のように染み入りました。それは女の陰唇を思わせました。性的な文句が並び、花びらと棘とを含みました。聴く者によっては恐ろしい猛毒が満ちていました。
アラルはだんだんと思考が働かなくなりました。
「彼らは守護者だ。怖いなんてものはない。だって、彼らも僕たちの一部なんだよ?僕たちこそ彼らの一部でもあるのさ」
少年の声もうたうようでした。雷鳴が起こり、火花が迸りました。彼の透明な体の中で。
イアリオは、眠る台座の上でもがきました。誰にも言えない苦しみを、反芻したように。体が熱く、火照っていました。しかし、足先は冷たく、凍えていました。彼女を天から眺めて、彼女の中に入りたいと思う者たちがいました。遠い星空にいる者たち。この世に思い残した死霊たちが。彼らはまるで、彼女を月のようだと思いました。地上にいた、明るい月。いいえ、月は、空に浮かんでいます。しかし星のように遠くから見れば、月も彼女も見分けがつかなかったのです。
それだけ煌々とした光を、霊たちの目から見たら彼女は放っていたのです。邪まな亡霊だけに見える、魅力的な月光を。彼女は依り代に見えたのです。どんな人間もその胎内に宿ることのできる。彼らはおそらく誰かに慰められたく思っていたのでしょう。幻の母親を求めたのでしょう。その感覚は
古くからある人間にとって最も原始的で恐ろしい感情の一つでした。幾多の悪がそこから生まれました。無理矢理に女の腹を満たそうとする行いを通じて。自分が生まれ変わりたくて。
そして、絶望して。いかにも悪と、同化して。
アラルは、少女の歌に聴き入る内に、古い神話を思い出しました。
「海の向こうから、大きな獣がやってきました。その獣は、海を飲み込み、川を飲み込み、全世界のありとあらゆる所の水を飲み込むと、違ったものを吐き出したといいます。再びの海の他に、川の他に、山、大陸、岩、石ころ、植物、動物、人間、さまざまなものを、その口から外に出しました。世界は昔とは違う形になりました。
ところが、それでその獣は死んだわけではありませんでした。世界と同じように、形を変えていたのです。身体はばらばらにされましたが、その一つ一つの断片がなお生きています。例えば、星になったもの、歌になったもの、神様になったもの、そして人間を食べる悪霊になったものなどが。」
アラルは沈黙し、薄く目を開いて少年を見ました。彼の体は風に揺らぐように、その縁をゆらゆらとさせていました。彼女は目を瞠りました。彼の顔に、あのヴォーゼの面影を見た気がしたからでした。
(違う)
イアリオは一人心の中で呟きました。
(彼は、どちらかというと、あいつだ。ピロットだ)
いいえ、違いました。彼女は終生気づきませんでした。彼女の生でその相手を愛することはありませんでしたから。彼女は(イアリオも、そしてアラルも)愛を自分が向けていたと思っていた相手をその彼に重ねて見ていました。つまり
別の夢の中、キャロセルという女性が、自分の弟を虜にしたような愛を向けた。苦味が口全体に広がりました。アラルは、愛の種類を選んでいました。ただ向こうから来る愛を、唯一だとして受け取ってはいませんでした。自分自身から迸る愛が、受け手に届かなければなりませんでした。こうあってほしいと望むような。アラルは恋人に望んでいました。恋人が幸せになるように。どうか幸せになるように。自分がいない所で幸せになるように。
「先生に、名前はあるのですか?」
アラルは生まれて初めてその質問をしました。少年の霊はいびつに笑いました。
「あるよ」
彼は、歌う少女を引き寄せました。
「サルバ。サルバストラ=セブラル=トアリボロ。僕はある貴族の長男だった。そして、こちらが…知ってるかい?キャロセル、キャロセル=トアリボロ」
アラルは、がん、と力強く頭を打たれたような気がしました。しかしその衝撃の意味を、彼女は分かりませんでした。知っているのはイアリオでした。知る機会があったのは彼女でした。涙がぼろぼろ零れてきたのは彼女でした。
もう夢を見たくありませんでした。ですが、夢は、当然まだ動き続けました。
アラルは息を飲みました。どうしてかわかりませんが、彼女は天を仰ぎたくなりました。彼女たちは、エアロスの伝説を知っていました。あらゆるものを打ち壊す暴風の神と、そしてそれが壊したものを再生するもう一人の神の。あの神々に、彼女たちは、祈りたくなりました。
壊さねばならないものを感じたのです。そして、結び直すべきものは何かを感じ取ったのです。アラルはいきなりつるぎを島に突き立てました。霧の魔物たちがそれで怯えたように彼女から退きました。アラルは、大声で歌い始めました。
「この世の静か 破る者たちよ
手に手に剣を 取り給いて
何をか得んや 誰をか討ち果たしや
我そを止めん 苦しみの必定を」
それは古い歌でした。ずっと昔に洪水に呑まれた大地の、唯一海の上に残った土地の伝説を、彼女は言い伝えられ聞いていました。海の水が引いた跡地には豊穣な世界が広がったと…。彼女は、その豊穣を謳う歌詞を口にしたのです。その
豊穣を巡って争いが生じたからです。目の前に現れた水に濡れた大地は、人が待ち望み、新しい時代が開けたというのに!アラルが口にした歌詞はその祝詞のほんの一部でしたが、大声で歌わずには、いられませんでした。エアロスと対になるイピリスという神が、その歌の続きの歌詞には現れていました。イピリスは大洪水を起こしてしまったパートナーの意思をも受け入れて、豊穣の大地を褒め称えるのです。
アラルは、気付いていたでしょうか。無意識に、その歌でたくさんの霧のくぐつたちを慰めました。彼女の声音は凛として、くぐつたちの霧の一粒一粒に、伝わりました。それまでキャロセルという少女の危険な歌に聴き入っていた化け物たちが、次々に、すごすごと小島から引き下がりました。少年が意外そうにそれを見つめました。そして、くるりとアラルを振り返ると、わなわなとし始めました。しかしそれもすぐに収まりました。アラルは遠のいた意識を取り戻しました。少年の言葉も、一語一語振り返ることができました。
「先生は、オグのしもべと、そうおっしゃいましたが、ここは、やはりそのオグの棲家なのですか」
「そうだ。そうだよ。でもね、彼が君を連れて来たんだよ。ゆっくりとね」
アラルはまるで目の前の師匠が、腹が膨れて満腹のように見えました。けれど健康的な様子ではなく、不健康なものを食べた後のような。
「オグとは何者です?」
オグとは何者?それは、決して彼女が意識したことがなかった質問です。それはクロウルダが相手にしているもので、今までは自分とは何も関係がなかったからです。ですが、彼女はそのオグを討ちに来ていました。目の前の、この少年の言うことに唆されて。
アラルは、まだこの少年を信じていました。師匠の言うことに、従順に、耳を貸す元の彼女に戻っただけでした。
「旧時代の記憶。洪水の歴史を知る者。その原因が何か、とね。古い術が彼を造り出した。人間は海に呑まれ、体中がばらばらになったけど、彼が、皆を繋ぎ渡したんだ。オグは救世主だった。でも彼が吸収したものは人間の一部だった。それは、悪意と呼べるものではなかった。純粋な人々の欲求だといっていい。救われたい、助かりたい、生きていたい。どんな人間も危機に際してそれを願わずにはいられないだろう。だがその思いが大海嘯を引き起こしたなんて誰が考えるだろう。考えないね。そりゃそうさ。
思いの力はひどいものさ。救われたい、助かりたい、生きていたい。すべて独りよがりなのさ。自分だけさ。そう願った人間は、他のことなど気にしない。どんなことをしても救われたいと思うのさ。鈴の音が聞こえるかい?その時起きた、儀式さ。人間は儀式を執り行なう。そうして思いを集約して、威力を持ちたがるのさ。
古い術は、彼を呼んだ。彼はそれに応えた。すると、大勢の霊魂が彼の所に集まってきた。彼の誕生だ。願いが叶って、人はどうなる?すぐに忘れる。願いは叶ったんだから。じゃあ、折角集まった思いの力は?どうなる?どうなると思う?消えてなくならないんだよ。大抵社に祀られる。けれど、オグはもっと巨大だった。祀れなかった。オグは体を分離した。あまりに大き過ぎて、耐えられなかった。でも、それで彼は自分を見失った。人々の思いが自分を呼んだことを忘れてしまった。彼には人間が必要だった。しかし彼は人間から分かれてしまった。その力を持ったまま」
この世には、かつて、魔法がありました。魔法は、人の願いを叶えましたが、一人だけの願いではそれは実現しませんでした。複数の人の願いが、重なるように、現実を歪めて思い通りにしたいと思わなくてはならないのです。現実は歪められました。まだ未熟な世界において、人の思いは、その現実を好きなように変えられるほど未熟な力を持ったのです。創り合った世界をそのまま受け入れられずに。
「彼は応えたかった。人間に。すると、彼の力はある方向を向いて、走り出した。彼はね、実はいいこともしているんだよ。その巨大な力を使って、人間を救ってもいる。でも、あの大洪水の最中求められた強い願いは、新時代にはなくなった。かろうじて、見出されるのは、ね、自己破壊的な願望だったのさ。彼は、お人よしなんだ。人間の願望の後押しをする。彼は、そうするのが大好きなんだ。どんな望みでも、実現したがる。それは…」
アラルも、イアリオも、この時にオグが誰に宿ったか気づきませんでした。それはアラルにこそ憑いたものと、物語は語るようでした。なぜなら彼が彼女を呼び、こうして正体を晒していたからです。恐ろしいことは、この時に起きていました。彼は
最初ヴォーゼに取り憑いていました。アラルの恋人がすべての唆し役でした。彼は彼女の思いと願いを実現しようとしました。アラルがここに来たことも、彼女の願いだったのです。その恐怖はアラルの夢に、イアリオの見る夢にははっきりと現れませんでした。ただ、そこかしこに、その断片なるものは浮かび上がっていました。なぜならアラルは彼に唆されるような願望を持っていなかったのです。彼女に見られるのは、恋人からいかに離れていくかという衝動でした。ヴォーゼを守るために、あのいくさに参加して敵を斬り殺してから、彼女は異常な怒りに目覚めましたが、どうして令嬢を守るために血を浴びなければならないのでしょう。自らを鍛え上げねばならないのでしょう。
それは彼女がやらなければならないことではなく、社会がやらねばならないことなのです。彼女が強くなることを、最初ヴォーゼは好ましく思っていました。そしてそれが、自分を守るためであることを、よくわかっていました。
ヴォーゼは戦場に赴いたアラルが傷を受けたことを快く思いませんでした。それは純粋に恋人がいなくなる可能性を感じ取ったからですが、彼女は、決してアラルが戦場に飛び込もうとした時に、抑制を懇願しませんでした。彼女は自分のために動くアラルを快く思い、アラルのために、自分が何をできるかを、真剣に考えたことはなかったのです。幼き恋心を彼女は持っていました。そう言うならば、アラルにしても、同じように幼きに過ぎた恋でしたが。
「どうだろう?人が、もっとも実現し難い望みって何だい?彼はそれに気付いたんだよ。人間の、悪の望みにね」
少年の言葉に、アラルは、背筋が凍りつく気がしました。イアリオもまた、同じようになりました。ですが、その意味を二人はまだ理解していませんでした。
「先生は…」
アラルは(イアリオは)この少年の心を初めて読み取りました。それまでは彼のことをずっと信じる一方だったのです。
「そう。僕がオグのしもべなら、僕もおんなじだ。誰の願望をかなえようとしていたと思う?君しかいないね。君だろうね。ずっと昔から、君は力を持ちたいと思っていたよ。どんな力か、もう判るんじゃないかい?幼い頃から、君はずっと、自分に自信がなかった。あの恋人に寄せられた想いに、十分応えられるかどうかって。君は彼女を守りたかった。その一心で君は腕っぷしを高めていった。でも、なぜ僕が君に宿ったか。オグはね、守り神じゃあないんだ。
オグの力は、大き過ぎる人の望みを叶えることだ。君は君の手に余ることを望んでいたんだよ。わかるかい?君は、恋人から自分の身を引き離すことを…!」
大き過ぎる望み…?大き過ぎる望みとは何だ…?アラルは少年の霊の言葉を反芻しましたが、分かりませんでした。少年の影で、再び少女が歌い出しました。イアリオは…少年の言ったことの意味が、
恐ろしいほどよく分かりました。彼女は、キャロセルという女性の夢を見ています。自分の弟に自分を殺すように命じたことを。
彼女は、オグの食い荒らした町村の跡を辿っています。そこにいた、亡霊たちの言い分を、クロウルダと共に余すところなく聞いています。
彼女は、その昔自滅したふるさとを地下に沈めた町の人間です。町の人間が怯えたのは、大き過ぎる人の望みを抱いてしまった自分たちの祖先でした。そして
彼女は自ら本当は好いていた相手から身を引き離しました。大き過ぎる望み。大き過ぎるからこそ、その身から離れ出て、本当は望まぬことを引き起こす、元となるもの。悪。
それは誰かといる自分が分からなくなるということ。創り合った世界に互いがいるということを自覚せず、これからも創り合うことがわからなくなってしまうこと。あるいは、新しく、創らなければと思うこと。世界を刷新して、その世界に思い通りに住むこと。でも、それはその世界に、その人だけが住むこと。誰と共にいるかが分からなくなり
自分から離れた思いと、自分自身を、まるで一つにしてしまうこと。
「君は、忘れてしまったのかい?」
彼が訊いてきました。
「そうか。忘れてしまったか。僕は君に殺されたことがあるんだよ、キャロセル。いいや、キャロセルを前世に持つ、アラル。
いいや、君は、何者でもない。僕は君の求めに応じてこうして現れたんだから。なあ、キャロセル、アラル、いや、誰かな。誰でもいい。君は望んだんだ。
今世でも再び、悪いことを。君は愛情を向けてくる相手に自分の愛情を渡すことができない。感覚することができない。君の中には君だけだ。そうした君が、何を望む?
いい加減なことさ、自分勝手なことさ。君は周りを破滅させる。だからこうして僕が復讐にやってきたんだよ?君は周りの人間の感情など一顧たりともしないのさ。常に自分が中心だ。僕の思いは君には届かなかった。
僕はね、君の操り人形になった。わかるかい?段々、わかってきたね。前の人生の記憶が蘇ってきたね。そうだよ、君は僕に、ひどいことをさせたんだ。またさせるのかい?君の恋人に、恨まれたいかい?僕は君を追いかけた。すぐに、死んでからも。僕は自殺した。なぜ?君のそばにいなければいけないと思ったからだよ。僕は自分の人生を君のために失ったんだよ。それが僕だったんだ」
少年の霊は透明な剣を拵えました。それは、イアリオが別の夢の中でも見たものでした。キャロセルが、弟に頼んで胸を刺し貫かれた一振りの武器です。名を、テスラといいました。ガラスの剣。それは透明なために、何にでも変容できる力を持ちました。彼らの語られる昔話の中に、そのガラスの剣器に様々な意味を込めて、殺人が起きる物語がありました。そのたびにその器は名称を変えたのです。嫉妬、激怒、誘惑、復讐などに。麗嬢キャロセルが恃んだのは、友愛と、情熱でした。弟に、その想いでもって私を突き刺して、と頼んだのです。彼女は愛を頼みませんでした。あれほどのことをしておきながら、姉は、歪んだ絶望を、彼に押し付けることしかしなかったのです。いいえ、死の間際、ちゃんと彼女は弟から愛を引き剥がしました。それで自分を貫いて、など到底頼めることではなかったのです。
恋人でもなく、親族の関係でもなくなる、友愛と情熱で、殺されることを望んだのです。
しかし、確かに、彼女は弟のことを愛していました。性交を求めるような我が物にする愛ではなく、あのフィマがニクトを愛でるような、本当に彼の成長を期待して手助けするための、愛を彼女は持っていました。弟もまた、そちらの愛も感じていました。茶色の希望がありました。彼女は自分の愛をごまかしました。自分のために、弟から、弟の愛を盗もうとしました。
どうして?
「さあ、これで君を突き刺そう」
弟が近づいてきました。
「悪夢かい?」
アラルはイアリオのように生まれる前の自分の過去を思い出していました。彼女はキャロセルと同化していました。目の前でくるくると回りながら嬉しそうに歌う白い服の少女はいつか自分自身になりました。
ギャアギャア。何かが遠くで叫んでいます。
「もう一度、君は死ぬんだよ。君を愛した者からそれを突き刺される。テスラ(友愛と情熱)がいいかい?また、最初からやり直しだ。
君は、彼女に友情しか頼んでいないだろう。愛が恐ろしいから。ヴォーゼはそれがわかっているよ。だから、彼女は悲しむしかないんだよ。君が討ち果たそうとした魔物、それは一体何だい?君自身が呼びつけた。君のために。君のわがままのために。そんなんで倒せるかい?オグは、君を求めたよ。わかるかい?オグの体の中にあるのは、人間の絶望だからだよ。
そのために人は生きているんだ。最も実現し難い望みは、絶望をすることだ。それは望みと反意だからね。だが望みを絶った霊は安らかに眠る。忘れることができるんだ。
残るのは、それを願った力なんだ。他人の中に、空中に、それは残る。本人だけさ、救われるのは。いいや、それは、救いになるかい?閉じた世界に一人だけ、それでいて満たされるかな?同じ過ちを繰り返すのさ。今までの自分を振り返ったことがあるかい?
大抵人間はそうしない。だって後ろ向きの考えは否定されるだろう?皆、前向きがいいのさ。何を踏んできたかはどうでもいいのさ。忘れてしまえ。くそくらえ。事故が起きてもしょうがない。キャロセル、ああキャロセル、僕はまだ君を想う。君を慕っている。どうして僕に自分を殺せと命じたんだい?ずっと僕は考えてきたよ。そしてやっとわかったよ。君は僕をただ愛していたんだ。素直になれなかっただけなんだ。だから…」
ギャアギャア。叫び声が近くなりました。アラルは一歩も動けませんでした。彼女の師匠の言葉が、うたになっていたからです。魔の響きが、その足を虜にしていました。彼女はまた意識が働かなくなりました。少年の影で、少女が今も歌っています。蒼白い炎を上げた少年が、つるぎを持って、ますますアラルに近寄ってきました。
「僕が、思い出させてあげたいんだ」
ギャアギャア
その時、アラルの小脇を何者かが潜り抜けようとしました。その気配に敏感に反応した体が勝手に動き、はっしとその者を捕らえました。それは、蒼白い顔をした老いた猿でした。いいえ、毛むくじゃらの人間にもそれは見えました。それは、アラルに片足を握られ逆さまになりながら、片手に彼女から先程洞窟内で奪ったたいまつを持って、空いたもう片方の手をばたばたさせていました。それは、目を真っ赤にして歯を剥き出しにして、吠えるように人の言葉を言いました。
「この、邪まや!邪まや!鍵返せ、金返せ!俺の懐失くし物、取り返せ!」
醜い老猿は空いている方の手で、何かわし掴むような動作をしました。アラルは急に胸が苦しくなりました。彼女の意識は暗く沈んでいき、猿のような人間を手放してしまいました。そして、自分がどこにいるのかも判別がつかないような、深い昏迷の闇の中に落ち込んでいきました…。
彼女は胸からあるものを猿に奪われました。それは青い鏡でした。魔鏡は神の宿るものとして拝まれることがあります。そこにその神が映されるのです。決して覗き込んではならないもの。そして陽に晒してはならないもの。神は、そこに閉じられ、人間に、その力を制御されます。
ですが鏡とは己を映し出すものです。そこに映るは自分自身なのです。アラルはそれを奪われました。つまり、自分自身の一部をその猿に奪われたのです。神のごとき力のある自分自身を。大き過ぎる望みを叶えるだけの力を具えた者を。
気が付くと、アラルは薄暗い暗闇にいました。何もかもが帳に覆われた、もしくは濃い霧に呑まれた、重苦しい空気が漂っていました。ただ、ぴちゃっぴちゃっと水の跳ねる音がして、川が頼りなく流れるせせらぎも聞こえました。アラルは立ち上がると、前方に、湖を見つけました。その上に何か立ち込めています。靄か、あるいは霊でしょうか。それは彼女の方に黒い手を伸ばし、掴みかかりました。アラルは抵抗ができませんでした。ゆっくりと、覆い被さられ、組み伏せられて、アラルは体をまさぐられました。…
彼女はふと目を覚まして、大声で叫びました。洞窟に反響するべきその声は、彼女の耳元だけに響きました。先ほどの夢の中よりは明るさのある、暗闇にいました。手で地面を探ると、とても湿っています。まるで…人の肉のように。ぬくもりがあり、柔らかく、女性器のような手触りです。
明るさは、背後の岩場から届いていました。彼女は耳の中を探りました。すると、川の藻がたっぷりとそこに詰まっていました。藻を取ると、川のせせらぎが耳に入り、ここが、あの小島のある川原の近くだと思いました。確かに岩場まで足を運ぶと、川が流れ、その下流には緑の島が浮かんでいました。…どれほどの時間が流れたか知りませんが、太陽は、まだ狭い崖の上方にありました。この亀裂は東西にまっすぐ切り裂かれているのでしょうか。遠方から届く光はきらきらと一日はこれから始まるのだと言わんばかりに輝いていました。
アラルは上流の方を見ました。そこは黒々として渦を巻いて、澱んでいるように見えました。光が当たっているにもかかわらず、泥と藻が混じっているのか、臭い匂いまでしていました。アラルはこんな話を覚えていました。世界の果てから来る川の水は、水源近くが澱んでいて、臭いもするし、なぜか黒い。それはあの世から流れてくる水だからだ。その水は飲んではいけない。生きたまま飲めば命を壊すし、死んでから飲めば魂を壊す。人をやめ、悪魔になりたいならばご馳走になれ。
その話の語り部は、海の向こうからやってきたあの大きな獣の伝説の続きに、この話を並べました。身体がばらばらになったあとのその獣は、血の涙を流すようになったのです。その涙が、あの世の河川になっていると、伝説は語りました。獣はあの世とこの世を繋ぐ、もしくは、分断している、世界の母のように目されました。獣は、世界中のものをその腹に放り込み、生まれ変わらせていたからです。
血の涙の河川は、飲んだ者を、人ではなくさせました。物語はそれを飲めば悪魔になると伝えています。しかし人間らしさとは何でしょう。それは悪をも含みます。人ではなくなるということは、その人から、何か離れるのかもしれません。強さ、弱さ、儚さ、あどけなさ、生まれ持った性質が、何かの形に変質するのかもしれません。邪悪は美術にも現れます。
いいえ、母親とは何でしょう。もし、すべての人間がすべてのものの母になるという概念があれば。つまり、自分が関わってあらゆるものに(少しでも)変容の機会を与えているという観念があれば。世界は本当は創り合っているものなのです。あらゆる存在が、母だといえるでしょう。そしてそのための苦しみは、人を鬱にさせます。
その母こそ、自分が新たに生み出してしまったものを、血の涙でもって見つめるようになったからです。アラルはその水を飲んだのでしょうか。彼女は誰よりも今この世の河川の水源に近い所にいました。人が母親の胎内から産まれ出た時に、生命が始まるなら、その場所は、ほとんど子宮の入り口だったかもしれません。羊水はどこでしょうか。
そこにありました。ぶよぶよの、巨体を持った、ほとんど水の怪物はその近くにいました。どろどろと地震のような鼓の音が鳴り響きました。彼女は懐に予備のたいまつを持っていました。幸い、それは湿っておらず、火を付けられました。輝く炎は周囲を照らし、ぬめぬめした岩肌を黒々と浮かび上がらせています。手元には剣がありました。彼女は目覚めてからいつそれを握ったか分かりませんでした。そのきらりと光る切っ先を、彼女は確かめ、握る柄に力を込めると、川の方ではなく、この洞窟の奥へと進んでいきました。どうしても討たなければならない相手に思いました。どうしても葬り去らなければいけない相手に感じました。おそらくはこの先にいる者を。この先で自分を待ち構えている者を。
彼女は奥へ進みました。すると、白い明かりが、前方から淡く広がっていました。ますます鼓の音が近づいてきました。それは轟く魔物の鼓動でしょうか。それとも
無限に続く自分の世を越えた心臓の音でしょうか。彼女はたいまつを下に置き、両手を剣の柄に添えました。
白い明かりは子宮のようにやわらかく広がった洞穴の空間の上部から差し込んでいました。明け方の夜空のように白み、その真下に、怪物がいました。無限の手足、無限の内臓、無限の性器を、その透明な体に包んだ大きな化け物は、彼女の方にゆっくりと向き直りました。彼には翼が生えていました。彼自身を運ぶことはできない、その体に比して小さな翼が、三対、六枚。彼女は怯えました。彼女は気を逸しました。怪物は…その顔は…自分だったからです。
「私…!?」
夢の中で、イアリオはアラルと共に呟きました。天から降り注ぐ神秘的な白光に彼女も魔物も包まれました。そして、魔物の巨体が彼女に傾ぎ、あっという間に、まるごとそれを呑み込みました。




