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破滅の町  作者: keisenyo
第二部 後
19/21

第19章 オグを追って

 一年がもう経ちました。イアリオがこの国へ来て、その調べ物は順調でした。トラエルの町の周辺の歴史もオグについても、書物からできるかぎりの知識は得ることができました。さて、それが町を出る時に彼女が知りたかったことのすべてかというと、今は、その知りたかったことの先に、心に沈殿するものがありました。頭に入れるだけの知識はもう十分かもしれません。これ以上はどのみち入ってはこないでしょう。ですが、それらはこれから起きるだろう現象の、彼女が予期したものの説明にはなっていませんでした。あの町で散々背中をせっついた、言い知れぬ焦りはまだ続いていました。あの町にいる時ほど、圧倒的ではなくなったにしろ。何かまだすることがあるのです。

 レーゼたちと約束した期日はあと二年の後でした。彼女は命を賭けてここに来ていましたが、まだその命を賭け足りない様子でした。首をもたげるものがありました。それは彼女の中で一年をかけて沈んできたもの、沈んだ底から、じわじわと持ち上がってくるものでした。雨後の芳醇な大地の匂いのように、大海原の強い波音のように。今まで、悪の主人であるオグに虐げられてきた集落は、数え切れないほどにありました。しかし、歴史上それと共に滅亡されてきた町が、つまり主人と共に消滅していった、あまりに巨大な魔法が掛かった時空が三つありました。ドルチエスト、マガド、クエボラといった町でした。それらは各々が特徴を持った滅び方をしました。ドルチエストは、町の半壊と共に、地面が陥没してオグの住処だった穴が埋め立てられました。マガドは、津波を受けて滅びました。クエボラは、町の外の大きな岩が、軒並み滑り落ちてきて、人々を悉く押し潰しました。それだけでは天災と思われるこうした被害をオグによるものと断定できるのは、その天災だけによるものではない人々の死が異様だからでした。

 マガドでは、人々の体はどこか必ず骨が折られていました。津波の衝撃によるものだとは判別ができないその骨折の仕方は、折られ方が一定でした。検証すると、それは人が関節技を決めた跡でした。どうやら互いに肉体を交錯し、異常な力をかけて、骨を折り合ったようなのでした。

 クエボラではその遺骸は互い違いに男女が重なりうなだれ合っていました。人々は団子になり、その上に無数の大岩が襲いかかったのでした。血は夥しく地面に撒き散らされ、黒々と土を変色させていました。まるで集団でその大岩の圧力を受け止めるために、彼らは待ち構えていたようでしたが、後でその在り様を見れば、積み上がった岩石の下のそれはなんとも奇妙でおぞましい結末を迎えた死体の群集でした。

 ドルチエストでは、死骸は耳から汚泥を垂れ流していました。髪はむしりとられ、その髪を手に握る死体もあって、お互いがお互いに何か奇妙なことをしていた跡を見つけることができました。クロウルダの記述にはこうあります。町の人々はどんどん不健康になっていった。僧侶たちは自分たちの祈りを押し進めるために、自分たち以外にも、禁欲を押しつけてきた。まるで壮大な祈りの玉をこしらえて、未知の扉にそれをぶつけ、壊し開かんとするようだった。半壊し陥没したその町の、周囲は今もとある宗教の勢力が支配していましたが、その僧侶たちはいまだに禁欲を自らに課していました。そして、滅びる前のドルチエストには教団の僧侶や一般の人々に混じるように、クロウルダたちも住んでいました。その町はクロウルダの手によって一から建てられたのではなく、彼らの追ってきたオグがそこに棲みついたことが分かったので、あとから彼らが住むようになったのです。そのおかげで、オグによって町はいかに滅びたのかが、他の町より詳細に記されていました。

 また、彼らに特有の霊の交信の技術を使って彼らにしか知りえないような情報も、得ていました。つまり、「人柱」の手段を用いることによって。ドルチエスト、マガド、クエボラにおいて、彼らはその仲間を殺し、あえて霊界に送り込んできたのです。彼らはそこにオグの片鱗を見つけ出しました。そこにあったものは、彼ら自身が美しき蒼き都にて、オグと共に消滅するまではいかなかった滅びを経験した後の、霊の交信によっても見つけられてきたものでした。それは、夕闇の中の星のように淡く光り、こちらをじっと眺め見つめていました。その寂しげな光の中に、人々の意識が黒く渦を巻いていました。自我のない、思いも不安定な、ただそこに浮遊して取り憑くべきものを待ち望んでいる。なおかつ言葉を言い澱む唇のように、いつまでも振れて揺れ続ける。

 霊には種類がありました。一人きりで、そこに漂うものもいれば、他のものと一緒になっているものも。彼らが見たオグの残滓は、消滅せずにこの世に取り残されてしまった、オグからも切り離された、無残な焼け跡でした。

 オグは、その消滅の後にそれ自身が滅びたことを確認されていました。移動の跡なく、分裂し殖えることも、限りなく小さくなることもなかったと、かの三町の廃墟を訪ね調査したクロウルダたちは認定しています。しかしもしそれを死と言えれば、彼の死の成り行きが、これまでに克明に観察されたことはありません。ドルチエストのクロウルダたちも、当時自らの感情に振り回されてしまい、他の者たちと同じように為すすべなく魔物の餌食になったのです。しかし彼らはその時も従来のように彼を慰める儀式を行っていました。彼の傍に居て、彼の身じろぎに耳を傾けて、人身御供もしていました。ですが彼が自らを消し飛ばそうとした時、クロウルダたちはドルチエストの人々のように禁欲の欲を刺激されました。それは、自我こそ自分の中に溢れさせるべきとすることでした。自分の中には自分自身だけがあるようにしたのでした。外側から入り込んでくる、他者の意識の一切を拒み、我が思いだけをこの身に宿らせようとすることでした。

 それは、かつてクロウルダたち自身が自ら身を滅ぼした時に従順になった感情と、実はまるで同じものでした。粛清をし、純潔さを保とうとする、人種の身の保全にすべてを振り切ったあの思想と。つまりは同族であれ他者に濁りを発見し、いかに小さく他愛の無い濁りであっても、許さない思想と。彼らは、滅亡の憂き目に遭った時、オグに唆される原因となったその態度まで、その後反省をして昇華してきていませんでした。…ドルチエストにいた彼らは、クロウルダ以外の、周りの者たちと同じように禁欲を自らに望むようになりましたが、それはだんだんとかつて犯した凄絶な粛清の向こう側まで行き着き、ついには、自らの粛清、までを望んでしまったのです。

 彼らは、オグと共に自分自身も亡んでしまえば、と思いました。オグこそ彼らの前世だと分かっていたからでした。そして、彼らの使命感を、オグの監視者としての自責の念を、増大してしまいました。もしかしたら少なからずドルチエスト滅亡の前に、このような考えを持つ者はクロウルダの中にいたかもしれません。しかしそれでは彼らが彼を監視し、世界を救うことなどできませんから、監視集団としては取り上げられない思想でした。ところがその根は、彼が死を望む時、厖大な生長を遂げて、神官たる役目も打ち捨てて()()()()()()彼の結末に身を添うこととなったのです。

 オグと共に、真に身を滅ぼした彼らは、それでもこの世に魂の欠片を残しました。あとからこの地にやって来た同士たちに、死後の霊界から、彼らに分かるかぎり何が起こったのかを伝えました。クロウルダたちは、このようにドルチエストで滅んだ身内と、マガド、クエボラで人柱になって身を捧げ、オグの残り火を見た者たちから、消滅前、消滅後のオグについての情報を集めました。そして、彼は一体どのような理由でどこへ消え去ったかの検証を行いました。また、ここに学問の国オルドピスの見地も加わりました。そして、人々と共に消滅した彼は、どうやら大いなる扉を開こうとしたようだ、と判りました。その扉は、レトラスという、まるで大河のような人の霊の流れへ、人魂が回帰するときに現れました。人は死後、自然にその扉を開けて、霊たちの流れに混じり溶け合って、そののちに再び生まれ変わるのだと、考えられていたのです。


「さてもこの町の歴史はどのあたりから始まったのだろう。あのクロウルダが建ててから?もしくは海賊が乗っ取ってから?」

 テオルドは、町の北側を守る高い峰を仰ぎながら、口の中でもごもごとそう言いました。

「人類の歴史はずっと昔からあるのだとしたら、僕たちの歴史もそうとはいえないか。僕たちの民族が抱える課題が、この歴史に影響を与える唯一のものだとはどうしても言えないだろう。だったら、一概に誰かのせいにしたり、これこそ原因だと調べられるかね?そうではない。唯一わかることは、自分がどうここに関わってきたか、それが微力たりといえ、どう力を与えたかということだね。それは、滅びの最中にはわからなくても、ずっと後になって、わかることだろう。願い事がかなうなんて、本当に素晴らしいことさ。本当にすごいことさ。でも、それが叶えられた力は一体どこから来たんだろうね。それに人生はそれで終わるはずがないんだから、その後の人生は何によって規定されるのか。人生はつつがなく続いていく。だったら、どうしてもっと迷わないんだろう。

 どうしてもっと不思議だと感じないのだろう。迷いや不思議はあちらからやって来る。僕たちを、がんじがらめにして。そうして解かれていく。一体何が、僕たちを規定しているか」

 彼は、誰に言うのでもなく呟きました。ただ自分のその言葉が、これから何か形作るような気がしました。言うことで、彼の思考が前に進んだからです。言わなければ、言う手前の何かは、心の中でずっと出口のない迷路を彷徨うような振舞いを見せるのです。

「それは物語なのではないだろうか。どのようにして僕たちは自分のことを知るのかといえば。僕たちはこの方法でしか自分を知ることはできないのではないか。あの事件が起きたからとか、こうした心情が働いたからとか、そんなことはごくごく一部だ。全部の世界がまるごと動く。自分はそのどこにいる?ここにいる。ここにいるとは一体何だ?今言った言葉を少し前に捉えたということだ。そしてその前に言った言葉もそのさらに少し前に、と。

 僕は無限の要素から成り立っている。だったら、僕という現象は、ずっと苦しみに満ちたもので、さらにずっと多い幸福にも満ちている。なぜなら、誕生は死を超えるから。死は生を支配するけど、その次の生は死を克服するから。人間が繰り返し生まれていることが本当なら、そこに、物語の意味がある。なぜなら、それは、人が人を理解する形だから。無限の言葉の羅列をそのまま肯定するからだ。物語には意味がある。永遠の時間の現象を、それはそのまま映すんだ」


 イアリオは、オルドピスの碩学の指導者に呼び出されました。室内の黒曜石に引かれた溝に、水が流れるあのいやでも清涼さを押し付けてくる一室で、彼女は待たされました。トルムオは一人の青年を連れてきました。青年は、彼女より少し年上に見えましたが、野性の無骨さを隠さずその身に漲らせていました。野生的でありながら、しかしどこか気品を具えていました。

「彼は、ロンドといいます。ロンド=フィオルド、大陸西方の戦士の部族の出で、私たちの世界中の、研究の手助けをしてもらっています。彼は非常に有能な人物です。是非あなたに引き合わせたくて、ここに来てもらいました」

 老爺は言い切り、長髪を後ろ手に縛ったこの大男を前に促しました。男は軽く会釈して、輝くイアリオの瞳を見ました。イアリオも、彼の淡いブルーの瞳を覗き込むように見つめました。

「ロンドです。よろしく」

 彼女は彼のその面差しに自分たちに似たものを感じました。それもそのはずで、西方のたくましい部族は彼女たちの先祖でもあるからです。彼女の手に黒い表紙の日記帳を託したハルロスの父親も、その部族の出身でした。彼女は彼に強く惹き付けられるものを感じました。彼女は困惑しました。それは、彼が彼女の性欲をかき乱すほど、異性としての魅力を存分に発揮していたからです。

 イアリオは思わず、自分自身を忘れないようにしないと、と自分に強く念じました。彼女はこれまで目の前にいる誰かに性欲に振り回さるような覚えは一度もありませんでしたが、はじめてその覚えを得たのです。そのどうにも抑えがたい、強烈な感覚を。彼女は慌てて故郷を、そこに住む人々を思い出し、自分は何のためにここまで来たのかその目的を心に蘇らせました。

 トルムオが彼を紹介したのは、彼がこれまでクロウルダの護衛を務めて、彼らと一緒にオグのかつての棲み家を訪ね歩いたことがあったからでした。彼は、オルドピスからとても厚い信頼を得ていました。クロウルダたちはその研究のために、今オグが棲みつき彼らが監視している水辺だけでなく、かつてオグによって滅ぼされた集落の跡を訪れることもあるのですが、そこは人が寄りつかず遺跡となっているような場所も多いので、盗賊や悪党がねぐらにしている場合がありました。彼らがオルドピスと手を組んだ後は、そのような場所に向かう時に大国から兵士たちを貸し出してもらうようになったのですが、ロンドは傭兵としてオルドピスに雇われていたのでその代わりを担ったのです。

 もとい、クロウルダによらず大国の研究者たちは皆、危険のある実地調査をする際はイアリオが森の端で出会ったように軍が守備を勤めました。クロウルダもそのように、オルドピスの雇われ研究者として迎え入れられたというわけです。ですが、オルドピスは、フィマのように彼女に劇的に影響を受けたと見えたような者が、自分たちから現れることを知りました。彼らは彼女をもっと慎重に見極める必要があると感じました。

 トルムオはイアリオが書物を読み尽くしたならば、次には彼女は直接オグの史跡を辿るべきだろうと考えていました。彼女は神官クロウルダの血も引いているだろうと思われたのです。トラエルの町には元々彼らがいたのですからその血が混じってもおかしくはないのですが、今や少数となるも千五百年以上も己の運命に呪縛された者たちの、独特の研究者臭がイアリオからも漂っていたのです。そして、その在り様はオルドピスに従属する学者のそれとは違い、たった一つの魂で、頭脳だけでなく、大分己の肉体すらも酷使して研究に打ち込む姿に見えました。というのも、彼女は単純に書物を読み進むのではなく、彼女の先祖の生い立ちに触れ一々共感を持ちながら、咀嚼し味わうように、昔の人々の冒険に傍で立ち会っていたのです。それは彼女が黒表紙の日記帳の著者に心を寄り添わせたように、あるいは三百年前、地面の下で滅びた人々に恐れではなく悼みと敬意で接しようとしたように、彼女は過去に生きた人間すべてに自分の共感と空想を及ぶかぎり全力で注ぎ入れたのでした。

 ですが、その姿勢はまた何かに追い立てられているようにも見えるものでした。それは、オグの秘密を暴こうと犠牲を厭わず無限に努力する、クロウルダの取る姿とも重ねられるものでした。


 ロンド=フィオルドという冒険者は、彼女との旅にうってつけだろうと思われました。それは彼がオルドピス外部の人間であることと同時に、そのほどほど天真爛漫な性格もあってでした。彼は、世界に対して謙虚さを持ちつつも必要以上のことを知ろうとしない性格でした。どんな相手にも敬意を持って接する人間で、分け隔てせず、何かに囚われることのない精神の持ち主でした。そして、いかなる困難が降りかかっても彼は冷静で、事物に対し常に余裕と、真贋を見極める洞察力とを具えていました。彼を慕い、彼に随って行動する者は大勢いました。ですが、彼は自分の子分や家来といった関係は持たず、友人かあるいは弟子として、その大勢と付き合いました。いざとなれば、彼の味方に付く者は三百人を下らず、さらにその三百人が人を集めれば、一体いかほどの人間が彼の下につどうのかわからないほどでした。

 この男の印象を、イアリオは見誤ることなく受け取れました。彼女は自分とよく似たものを彼から感じたのです。彼は西方の部族の王の血こそ受け継いでませんが、その傍流の血を引いていました。狩猟と採取を好む彼らは他国との交易で富み、また交易隊の守備兵として雇われ、そのたくましい力を揮いました。いくさがあれば駆けつけ、なお名声を得ようと働く傭兵となりました。彼らは一度も自ら戦争を仕掛けたことはなく、侵略の欲を持たぬ民族でした。彼らに隣接した土地に住む者たちはそんな彼らの特性をよく理解し、彼らの力をうまく借りながら自分たちの土地を守り続けてきました。

 しかし、陸戦は無敵の彼らも、海戦に長けた海賊共には敗北を喫してしまいました。彼らの幾割かが奴隷となり、あの海賊国家の兵隊として、侵略の手先として働くことを余儀なくされるのです。それから幾十年後、海賊の連れてきた兵士の方が支配者たちより数を増やし、下克上が相成ります。ですが、兵士たちはそれまでの上司のやり方を真似て更なる海洋国家の発展を望み、むべなるかな、政治の手法までは真似ることができなかったために、内側から瓦解する羽目に陥るのです。いいえ、あの場所には、眠っているといえいにしえの怪物が地下に潜みました。そして、人には到底扱え切れないくらいたくさんの黄金がその傍にはありました。

 西方の戦士だった彼らは、自らの欲望に向き合えるほどその純真さに翳りがなかったのかもしれません。人を支配することも、財産を溜め込むことも、彼らはしたことがなかったのです。人間の欲望に果てしがないことを、彼らはトラエルの町で、初めて知りました。

 一方、海賊に盗られずに居残った敗北の戦士たちは、否応にも自分たちを省みることとなりました。彼らは海辺に居を構えていなかったために、侵略者たちには厖大な数の戦士を供するだけ供すると、あとは何も要求されませんでした。とはいえ、彼らに隣接する海辺の民族は、彼らの庇護を解かれ海賊たちに搾取されることとなりました。トラエルの地下街で叛乱が起き、偽王たちが次々に都から落ち延びていった後も、その土地は植民地であり続けました。海の侵略者は、その財力と交易力を遺憾なく用い、西方の戦士たちにはとても用意できない最新の武具を装備していました。いくさに負けた戦士たちは、自らに足りなかった力は何なのか、探し求めるように、隣国のみならず、大陸中に、足を伸ばし始めました。

 それから四百年近くが経ち、海賊はすっかり威勢を失くし、情勢も様変わりしましたが、大陸はオルドピスという新興国家が席巻し、その支配域を拡大していきました。西方の戦士たちは遠方の国々と文化交流するほど多くの旅人を輩出しました。昔と変わらず隊商の守護を担う中で、その剛力を錆び付かせずに己の知恵を鍛えていったのです。その中で、各地に大勢の仲間を持つようなカリスマ性のある者も誕生しました。その中の一人が、ロンド=フィオルドという偉丈夫でした。細々(こまごま)しい隣人同士の軋轢など、ちっぽけなことだと意に介さず、より大きなフィールドで人同士の付き合いを説く、彼の天真爛漫さは多くの人間の心をつかみました。そして彼は正義感が強く、義を押し通す責任感も持ち合わせました。死者には無言の哀悼を、生者には情けを、友人には喜びをという竹を割ったような態度が、彼と出会う人々に人間らしいすっきりとした目覚めを味わわせました。

 彼は定住せずに国々を経巡り歩き、そのうちにオルドピスと接触しました。オルドピスは、この男を有意義な隣人と認めました。つまり、敵対せず仲良くなることで、生まれる利があると判断したのです。しかし、彼としては大国の領内も見聞したく思いました。オルドピスは外国籍の人間に対して厳しい法を敷いていましたから、いくら名の知れたロンド=フィオルドといえ自由にかの領地へ踏み入れることはできませんでした。そこで、彼は大国の示すある条件を呑むことにしました。オルドピスの隊商、あるいは研究者たちの護衛を務めるならば、そのかぎりにおいて領土内を見聞できるものとすると。

 それ以降、彼は長らく大国に身を寄せ、その領内を巡り歩きました。オルドピスは今も周辺に領土を拡大しゆく国でしたが、決して侵略を旨とはせず、その法治を受け入れる国を周囲に広げている最中でした。ただ、彼らの法があまりに新しく、受け付け難いと感じる部族も当然ながらいました。イアリオが訪れたコパ・デ・コパという商業都市も、ここ三十年に編入された土地柄で、その周りにはまだ彼らに仕事や土地を奪われたなどと感じ、恨む人間も残っていたのです。ロンドはそんな人々とも接触しました。彼は彼らの恨みを和らげました。大国外の土地を指差し、どうにも祖国で暮らすのが苦痛なら、自分が新しい居場所を用意してやると言ったのです。彼にはそれが用意できました。彼を信頼し彼が信頼する者たちがその受け入れ先となったのです。彼は、オルドピスに来るまでも、来てからも、人々の苦痛や悲しみと接触し続けてきました。そして、持って生まれた明るさと豪快さで、それに応え続けてきたのでした。

 イアリオは、この男の生い立ちと性格とを、初見でにわかに分かりました。彼と、彼女は似たものを互いに持ち合っていました。彼を彼女に引き合わせるのにオルドピス内で反対する議論がなかったわけではありません。しかしトルムオがそれを収め、彼に彼女を一任するように事を運びました。勿論、トルムオはイアリオがオグの史跡巡りを始めれば、彼だけを随わせるつもりはなく、オルドピスの研究者と兵隊も、必要な数だけ同行させるつもりでした。しかし、彼女に近いところで奉仕するのは彼のような外部の人間であることが良いと考えていました。それに、いずれロンドから彼女の印象と感想を聞き出し、忌憚なき客観で、ルイーズ=イアリオの影響力を、つまりはオグののさばる力をさらに測れるだろうという目論みもありました。

 彼らは、オグの、人々を彼と共に滅亡させる力の行く手をその領土に広げられることこそを心配したのです。


 自分と、よく似た人。かつ、自分ととても違って見える人。そんな相手がもし自分と善い(あるいは悪くともよい)性質を共有しているなら、どうやら人は惚れてしまうようです。また、それが受けつけ難い自分の性質であったら、強烈に嫌ってもしまうようです。彼女はふるさとで嫌いな人間に出会ってきました。ピロットも初めは嫌いなところがあり、それは彼女が惹かれ続けるところでもありました。彼女は、テオルドも嫌っていました。しかし、三人はとてもよく似ているところがありました。

 彼女の独特な善性を分かち持つ者がいたとすれば、それはレーゼだったかもしれません。それに気づくのに、彼女は大変、大変に、時間をかけましたが。そして善性はおろか、彼は彼女の影の部分も担う力がありました。彼と彼女は同じ悪性を所有していました。その力に、彼の恋人であるシオン=ハリトはくるまれることを望みました。

 その力とは、人が最初に抱く想いに等しく、最初の、想い合う人間に抱くものでした。自分の親に。自分の子に。そして、それは様々な変遷を経ながら、人間を苦しめます。あるいは、様々な旅路を経て、本当の元に戻ります。真実がありながら、それは虚偽を含む、危険な認識、恐ろしき偏愛でした。そして、何よりも純粋で、畏まらず、畏れ多い認識でもありました。

 その力に、何の変哲もなく穏やかな生活を暮らしていたはずの、青年フィマは()てられてしまいました。いいえ、はじめから、青年はその力に親和性がありました。幻の母親と真実の母親との区別がつかない、その生い立ちから已む無く自分の世界を歪めた、その力。ルイーズ=イアリオにはその力に基づく大きな歪みがありました。しかしその歪みのために、彼女は自分自身を町から出て行かさざるをを得なかったのです。

 イアリオは、自分がロンドの前で裸になって立つのを想像しました。トルムオの石室から、自分の部屋に戻って改めて、自身に起きた性欲を見つめようとしたのです。抱いてください、と彼の前で彼女は言うのでしょうか。私の初めてをもらってください、などと言い添えて。

 彼女は、生まれて初めて本気で自分の処女を散らすことを考えました。それはなぜでしょうか?彼女はわが身を自分のものだけにしておくことを、どうも望まぬことに感じ出しました。そして、その感覚は大変に強いものでした。一人きりでここに来て、意味の分からない出来事の調べ物をするために、身ひとつ命懸けでしたのに。誰かと共にいたいなどと、まして、子を望みたいなどと、言える立場にはいないはずでしたのに。


「思い人がいるのに、そんな風に感じているの?私は、どうかと思うけれど」

 ニクトが、愛らしいくりくりした瞳をイアリオに向けて、言いました。

「その覚悟がなくて、体を預けてしまうなんて、考えられない!」

 イアリオはニクトに自分の性欲について隠すことなく語りました。彼女はこれまで、自分の故郷について、黄金や魔物のことなど話すことのできない事以外の、自分のプライベートに関した話せることは、ほとんどその少女に明らかにしていました。自分が教師だったこと、歴史が好きだったこと、小さな頃から、恋をしていたこと、その恋の相手が突然いなくなったこと。そして、折角新しい恋に目覚めても、それは横恋慕になってしまっていることなどを。

「もっともよね。もっともだわ。でも、そう感じてしまうのは、何か原因があるはずだと思うの。私の持ってる辞書には答えが載っていないから、自分で探す他なくて」

「ふうん」

 ニクトは相槌を打って、足を蹴りました。

「どうなっちゃうかわからないのよ、自分が」

 イアリオは微笑みました。魅力に溢れた微笑みでした。決してやましさに裏打ちされた危険な魅力ではなくて、前向きさしか浮かばない、成長途上の思春期のような晴れた微笑みでした。ニクトはどきりとしながら、一生懸命自分に考えられることを考えました。

「でもね、あたしもどうなっちゃうかわからなかったよ。フィマに仕掛けた時…あったのは、覚悟だけだもの。どうなってもいいから、今だけ、勇気を起こそうとして」

 ニクトもどきりとする表情をしました。その勇気によって欲しいものを獲得できて今や自分が誇らしい、というものではなく、その勇気を振り絞った時に、見せていただろうどうなるかわからない決断の顔でした。

「そうね」

 イアリオは相手を褒めたく思いました。ですがそれはできませんでした。彼女は首を振り、天井を仰ぎ、額に手を当てました。

「でも、話して、ちょっと気が楽になったかもしれない。何が原因なのか、あんまりすぐにはわからないけど、今は、そんな気持ちを持っているって自覚している。それが大事なのかもね。私、結局、経験がないのよ。だから、色々と深くも考え込んでしまっているのね」

「ふうん、そう」

 ニクトはまた足で地面を蹴りました。どこかつまらなそうに。

「何か不満そうね」

「だって、イアリオは相談しているようで、自分で解決したがっているようだから。あたし、別に必要ないんじゃないかなって」

「そんな風に思ったの?」

 イアリオは目を丸くしました。

「でも、そうしてきっと、あなたは自分の問題を解決してきたんだね。きっと、結局自分で見つけてきたんだ。ふふっあたしだってそうだもの。だから、あたし、こう思うの。あなたは大丈夫だって。だって傍にいて落ち着くもの!迷ってないの。ぐちぐちと悩んでもいない。大人だね、ほんと、イアリオって。

 絶対にイアリオを好きになる人はいるよ。自分は横恋慕している、て言ってたね。でも、あなたは決して不幸にはならないと思うよ。どんなに気持ちに振り回されたって…あたしはイアリオじゃないから、ほんとのところはわからなくはあるけど…お互いにさ、でも、なんだか大丈夫なんじゃないかってことは、わかるでしょ?」

 ニクトがイアリオに抱いていた印象は、そのまま彼女からニクトに抱くものと同じでした。こここそ彼女たちがよく似ているところでした。イアリオにはニクトの言葉がよくわかる気がしました。


 イアリオはロンドを誘って街に出てみることにしました。いずれ、彼女が調査の旅に彼を供にするのならば、今のうちにその人となりを知っておいて損はないだろうという算段もありました。でもそれ以上に、今、彼女は自分を知りたがりました。もしロンドに抱く感情が本物なら、自分はそのまま彼に抱かれてもいいとすら思いました。

 ニクトや、トラエルの町のハリトは、イアリオの肢体に憧れを抱いていました。その豊満な体つきは、女性から見ても男性から見ても魅力に満ちていました。おまけに彼女は背が高く、肉付きもいいので目立ちました。トラエルの町で、彼女は名物にもなっていました。ですから噂にもなったのです。彼女が、地下の墓場に行っているのは、黄金のためではないのかというあらぬ噂です。彼女を信頼する人間は多くても、胡散臭そうに見る人々もいたのです。なぜなら彼女はずっと独身で、活動的で、明るかったからです。落ち込む彼女を見ることができたのはその家族だけでした。イアリオは、レーゼやハリトにも、暗い顔は見せまいとしていたのです。彼女は裏表のないような性格に見え、それは子供たちからは人気を獲得していましたが、大人たちには人間臭さを感じさせない異質なものも読み取らせました。しかし、彼女には裏も表もあることを、初めて見つけたのは、他でもないレーゼでした。

 彼女から誘われ、ロンドは随いました。彼は次の仕事相手の依頼とみて彼女についてきましたが、彼も彼で、イアリオには不思議な心地を覚えていました。彼は、もしかしたら目の前の女性はとびきりの女かもしれないぞ、と思い始めていました。街を歩く二人は、二人とも背が高く、外国人ですからとても目立ちました。並んで歩けば似合いのカップルのようにも見られたでしょうが、二人は依頼者とその受諾者の距離で進みました。彼はオルドピス人のような服装をしていず、サンダルを履かず裸足で、まるで野ざらしな脛を見せた短い焦げ茶色のパンツと、活動的な革当てのシャツを着けて、その上から短い裾の羽毛の織物をかけていました。羽毛の織物は彼の普段着ではなく、オルドピスに入国を許された者の衣装の一つでした。イアリオは故郷の衣装そのままでしたが、それが許されたのはその衣服で明らかに外国人だと判るためで、彼の普段の着物は下穿きくらいでしたから、彼が一目で入国者だと判るように羽織物がオルドピスから用意されたのです。

 イアリオは、彼と一人分以上の距離を空けながら、前後に、時に真横に、連れ添って歩きました。そのうち彼女は、この男が自分に歩調を合わせて注意深く次の依頼者のことを探ろうとしているのがわかりました。護衛としての勤めを果たすために、そうして相手の空気を感じ取ろうとしていたのです。この男が、どうしてオルドピスから信頼に足る外国人だと紹介されたか、彼女にはわかる気がしました。

「少し、どこかに座りましょうか。落ち着いて話ができればと思うんですが」

 彼は言われるままにイアリオについて、太い腕を広げた大きな二本の樹の間の石のベンチに並び座りました。ロンドはまだ、彼女がわざわざこの国まで来て、何の目的でどんな旅をしているのか聞いていませんでした。彼はあまり依頼者の詳しいいきさつなどを聞こうとしないようにしていました。クロウルダについても、彼らがどのようにオグを調査しているか聞き及んでいませんでした。彼らを守るためにはするべきことをしていましたが。

 彼は、自分にできることは限界があると知っていました。だから、その限界の見極めをするために護衛の相手はよく観察しましたが、個人的な事情などには踏み込まなかったのです。彼女に対しても、そのようなあるがままの姿勢で臨みました。しかし彼は、彼女を前にして、強いて意識してその姿勢を保とうとしました。彼女からまったく不可思議な魅力が溢れ出ていて、彼の側に疑問が次々に浮かんできてしまっていたからでした。相手はとても涼やかな目をしていました。唇は厚く愛情に満ちているようでした。頬は黄色で、髪は黒く、ちりちりにほどけていました。それを、後ろ手に縛り、衣服の上で、跳ねるように振りました。手は、長く、脚は、健康でした。この女性は一体どこから来たのか、そのような疑問を彼は持ってしまい、ずっとその問いを頭の中に繰り返させてしまいました。

 彼は、彼女がクロウルダの親戚だということはトルムオから聞いて知っていました。つまり、彼の果たすことになる護衛も、今まで通りのものになることも予想できました。彼は距離を置きながら、彼女をよく見つめました。そしてわかったことは、クロウルダの中に見えることのあった病的な恐怖心が、彼女の中にもあるようだということでした。しかしその表れ方は、クロウルダたちとは大分違っているようにも見えました。自分たちが恐怖の只中にあることを彼らは隠さない風潮がありましたが。彼女には豊かな母性が垣間見られ、それでいて少女のようでした。年齢の分からない雰囲気を醸し出し、容易には自分をさらけ出さない淑女の匂いがしながら、何もかもを、ひけらかしているようにも思えました。

 気が付けばロンドはうっとりとこの女性を眺めていました。彼はまるで聖女を前にしているような気がしました。

 二人は沈黙を守りました。こうしているだけで互いをじっと分かりゆくようでした。イアリオの側でも彼をよく観察し、彼の一挙手一投足が、常に彼女を立てていることを感じました。彼らの間に流れる時間は、空気を伝って、お互いを譲り合っていました。譲り合う中で、しっかりと、互いの存在を感じ合っていました。

「あなたは話をしたい、とおっしゃった」

 ロンドが、おもむろに口を開きました。漏れ出た言葉は、葉のように、風を滑って向こうの耳に届きました。

「どんな話ですか?こうしてじっと黙っているのも、いいかもしれませんが」

「そうですね。私も、あなたと同じ考えです」

「じゃあ、ずっと黙っていますか?」

 イアリオはにこりと微笑みました。彼に向かって。その時、空気の流れが一変し、世界中が、こちらを向いたように彼は感じました。彼女に見られ、目を向けられ、彼は彼女を取り巻く世界にも見つめられたように感じたのです。フィマも、彼女と相対した時に、ロンドと同じように、彼女が引き連れた彼女の周りの世界を感じていました。あるいは、彼女の中に存分に昇華された、トラエルの町そのものを。ロンドは、相手が迫ってくるようでした。黙っているだけで、とてつもない量の何かが、ぴりぴりと肌を撫ぜて自分に流れ込んでくるようでした。

「私は、ご存知かもしれませんが、オルドピスの遥か西方、ニムゲトクという地方の出です。そこはかつて戦士の国で、今ではすっかり平穏になってしまいましたが、男たちは力自慢で女たちも弓に長けています。この体はその賜物です。あなたを守り切る自信は、あります」

 ロンドはこうしてわざわざ自分の役割を告白しました。自分が出した質問からの答えを、待っていられるほど、心は落ち着かなくなっていました。イアリオはじっとこの男を見つめました。

「どうしてオルドピスに?」

 彼女は訊きました。

「ああ、野で拾われたのです。私は故郷を出て遊び呆けていました。義賊のようなことをしましたが、どうしてそれは、盗賊となんら変わらないことでした。でも、義心には溢れていました。自分の力を持て余していて、この国に、傭兵に近い形で雇われました」

 彼は穏やかな口調で話しました。ですが、すっかりどぎまぎしていました。それは、彼女が訊いたことが、先に述べた自己紹介よりも踏み込んだ、自分の告白となるからでした。

「長いのですか?」

「そうですね…かれこれ、十年近くは経つでしょう」

「結婚はしているの?」

 不意な質問でした。彼は、正直に答えました。

「まさか!地元ならともかく、こちらの地方で、私に似合う女なんていませんよ」

 それを聴いて、イアリオは不思議な気持ちになりました。この男が伴侶を持っていない、というところにではなく、現在はそれが当然だろうと感じたからでした。なぜそんなことを感じたのでしょう。ですが二人は相当似通った者同士でした。不思議と、彼が未婚であることが、この男への信頼につながるのを彼女は感覚しました。

「あなたはどこの国の生まれで?」

 今度は彼が、自分が告白したことと同じことを訊きました。

「私?それは…ちょっと言えないのです。大変な所で、秘密にしておかなくてはならないので。でもいずれ…戻らなければなりません。ここから西方にあります」

 彼女はちょっと言葉を切りました。彼と自分たちとの相貌の似通いを言うつもりだったのです。彼女は自分たちの歴史を改めて思い返しました。どこで彼が自分たちと似ているのか、思い出すようにわかりました。

「そして、もしかしたらあなたのふるさととも関連があるかもしれません」

 彼は、密かに唾を飲みましたが、その音は彼女には聞かれませんでした。

「それは私も感じました。あなたの骨格や相貌は、私たちのものととてもよく似ているから。

 じゃあ、その昔に分かたれた同一民族の子孫なんですね」

 まさに、自分の思っていたことを言われて、イアリオは驚きました。彼女は急に自分に恥ずかしさを覚えました。だから、こんなことも言いました。

「多分…それと、私たちはひょっとしたらクロウルダの血族でもあるのです」

「…それも、もしかしたらと感じました。私たちに似ていないところは、まさにそれだと思いました」

 彼女は、背後でがたん、と扉が閉じられる音を聞いたような気がしました。まるであの世とこの世を隔てる門が、閉め下ろされたかのような。どこかで彼女はあの天女たちの言った、聴いた時はまるでその意味が分からなかった言葉が、急に、理解できるようになった気がしました。あの墓丘で出会った天女たちが、もし自分たちのご先祖なら…と、彼女は前よりも明確に、想像できました。もしかしたらあんな風に出現したのは、クロウルダたちが死んだ後も自らこの世に霊魂として残り、仲間に通信ができたという、それと同じようなことだったのではないか…?そう考えられたのです。

 彼女はあれを幻だとして片付けようとした時期がありましたが、それは向こうの話がよく理解できなかったからで、その時は自分の手にも余るものだったからでした。今は、違いました。

「ロンド、あなたに私から依頼するのは、私の旅路の護衛ですが、あなたはこれまでクロウルダについてオグの史跡を回ったと伺いました。つまり、これまであなたが巡った場所を、もう一度、私と共に来てもらうことになります。でも、その時はオルドピスによる私を監視するための、兵士も混ざっているはずでしょう。

 私は、クロウルダは歴史の毒に当てられた民族だと感じています。なぜ彼らだけがオグと呼ばれる凶悪な魔物を追うさだめにあるのか。ですが、私もまた、そうなのです。彼らのように、いいえ彼らより、とびきり濃い毒の持ち主かもしれません。それは、決して忘れられず、変化しないのです。昔、先祖がした凶悪な行いが、今も自分たちを蝕んでいるのです。その蝕みを見定めるために、その蝕みがどんな結果をもたらすのか、それを知りに、私はここへ来て、あなたと共に、オグを巡る旅に出ようとしています。でも、どうやら自分は、この国からたいそう怖がられている。オグという魔物の影響が、私の国を支配し始めているから、その影響が私たちの国から外に出ないかと。

 ロンド。私は最近、よく夢を見ます。どれも非常に印象深い夢です…多分、私自身のこれからを占うような内容なのでしょう。でも、何とつながりがあるのかは、まだわかりません。しかしまるでその夢を見るために、ここへ調べ物をしに来たかのようです」

 彼女の言葉を聞いて、ロンドはもどかしく感じました。自分が何を納得すればいいのかよくわからなかったのです。彼女は自分のことを隠しながら、自分に起きている変化も含めて、どのような旅へと彼に付き添いを頼んでいるかを語っているようでした。彼は彼女の言葉をよく咀嚼する必要があると思いました。しかし、それはまた彼女自身も同じで、彼と共にゆく行程が、いかなるものになるのか甚だ想像できませんでした。

「場所を変えましょうか」

 二人とも黙り込んでしまった後で、イアリオは立ち上がり、彼を誘いました。オルドピス中に走る上水道が、飲用の水を汲むために地面の下から飛び出して剥き出しになった箇所がありました。噴水と同じ仕組みで水を上に持ち上げ、大人の背丈の半分ほどの高さに積まれた石橋の、丸い窪みの内側に水を集めていました。都には清涼な空気がずっと流れていましたが、それは噴水やこうした水道設備があるからでした。街の中にいるかぎり長袖の下着を着用しているイアリオも、涼しさの恩恵を受けられたのです。

 水は、滝のように流れ落ちる工夫が凝らされた所もありました。都の端の方にある、小さな林の中にそれはありました。黒い石に囲まれた泉に小さな滝は迸り、飛沫が嬉しそうに飛び跳ねていました。彼女はそこにロンドを連れて行きました。

 そこで足を停めた彼女をロンドはじっと見つめました。どうやら淑女は緊張しているらしい、と彼は感じました。ここで言う必要のあることを、いつ言おうかと決めかねているように見えたからです。

「いいですね、こういう場所は。何か、水のそばは気が落ち着きますから」

 彼は思わずそう言いました。

「こうした場所でないと話せないこともありますからね」

 イアリオはただそう言いました。ロンドは黙り、彼女の次の言葉を待ちました。しかし彼は、ねっとりとした強い感触と、興奮した熱が、喉下に迫るのを感じました。彼はやはりこの女に心を囚われ、この女と共に旅ができる喜びを、自分は感じているんだと思わずにはいられませんでした。

 一方で彼女は、自慰の苦しさを、一気に解決しようとしていました。その意を決したのは自分のためでした。彼女の目は彼を伴って歩いていくうちにすでに熱く濡れていました。抑え切れない性の疼きが、周りは涼やかなのに、迸っていました。

 ロンドも彼女の様子に気がつきました。彼であれその相手であれ、一度は経験したことのあるその苦痛は、なるべく早く取り除かれることを願うのです。彼は、この女性を、異性として認識して、その訴える症状に自分もできることをしようと全身が疼きましたが

 紅潮したイアリオの頬に、月光の瞬きを見て、後ずさりしました。彼はぎょっとして、今しがた突き上げた自身の興奮を、穏やかに拭い取りました。彼は、目の前の相手が処女だと分かりました。それは、いたずらに触れることのかなわぬ肢体を持っているということであり、男を呼び込むも、その固い結び目を振りほどくことは相当な覚悟がなければならなかったのです。しかしまた、彼は、この女性がまるで体に子を宿しているようにも、勘違いをしました。処女の母体などありえませんが。

「どうやら、自分は」

 彼は彼女に頭を下げました。

「本当に、あなたを守るだけのようだ」


 彼女は風邪を引いてしまい、数日寝込みました。またそれまでの疲れが一度に出た様子でした。ですが、それがはたして療養になったかというと、彼女は立て続けにまた印象深い夢を見て、それにうなされる始末でした。風邪を引くと、感覚が敏感になり、うつろな状態になりながら、幻も見えてしまうことがあります。しかし彼女の見る幻影は、すべて意味を持つものでした。

 彼女は、いつのまにか自分の見るものがどんなものであれ、それと向き合えるようになっていました。新しく見た夢は、とても原画的な夢でした。彼女はそれを、オルドピスの指導者と、クロウルダの長にも聞いてもらうことにしました。なぜなら、その夢がこれからのオグの追跡に強く関わっているものだと、彼女自身、確信していたからでした。

「よろしい。我々もあなたの見た夢に興味がある。あなたの直感を、信じましょう」

 トルムオにも促され、夢の話は表舞台を獲得しました。

「夢の中で、私は霧の中にいました。濃霧といえるミルク色の眼前を、かき分けかき分け、私は歩いていきました。そして、緑の芝の生えた小島を見つけて、その上に立ちました。狭い谷底の、川のど真ん中でした。太陽が、ちょうど頭上に現れて、谷底を照らしてくれました。その太陽に、黒いしみがついて、しみはどんどん広がっていって、やがてお日さまを翳らせて、ああ、人の顔に、なりました。私も知っている人間の顔です。苦しみに満ちた表情で、いつかこの街を壊してやると言っていました。この街とは、あの町でしょう。私のふるさとの…

 私に弟はいませんが、別の夢では二つ歳の離れた兄弟がいました。彼は、私を愛してくれて、私も彼を愛していました。でも、私はそこでは病弱で、自由に外に出られない体でした。私は、弟から貞操を奪い、がんじがらめの愛に没入しました。ところが、弟はその家で相続権のある人間だったために、嫌でも私と離れる運命でした。私は彼に頼みました。彼の手で、自分を殺してくれと。彼は、手ずから私を殺し、その苦痛のために自害しました。私が殺したのです。自分をも、彼をも。なぜか、その時の私の名前を覚えています。キャロセル、キャロセルと呼ばれました。

 別の夢で、私は曖昧な魔物の群れに追いかけられていました。霧が、形を成したような、でも、粘土のようにぐにゃぐにゃしていて、暗闇のようによく見えないものでした。あてどなく私は逃げ惑い、大きな穴に落ちて、再び地上に帰ってきたとき、私は操り人形になっていました。体中が冷たくて、心臓の音が聞こえないのです。私は人を一人殺し、生まれ育った村を後にしました。それで私は人々から信頼を失うことをよく知っていた。それでも『お前はよくやった』と、誰かが私を褒めました。

 私は人を食べる夢も見ました。原初的な文化では、人肉を食べる風習があったようですが、それのようでした。きっと、食べていた相手は打ち倒した敵だったと思うのですが、敵の肉を喰らうとその力が自分に入る、と思い込んでいたのですね。実際、その夢では敵だった者の体に宿ったパワーを間違いなく食べている気がした。けれど、同時にただ空腹だったから貪るように食っていた、とも感じられたのです。自分たち以外は、皆獣や家畜と同様ですから。

 ある夢では、私は良妻でした。しかし、夫は帰らぬ人になっていました。私はひどく視力が弱ってしまって、その薬を買うために夫は出て行ったきり、消息を絶ってしまったのです。でも私は彼の帰りを信じました。いつまでも、いつまでも、新しい人が私に結婚を申し込んできても、やり過ごして、六十余年やもめでいました。私は化石のようになりました。岩のように口を閉ざして、殻に閉じ籠もったのです。…」

 自分の見た夢を打ち明けながら、イアリオは寒気がするのを我慢しました。それらの夢を見た時は、印象深かっただけでした。でも、口にすると、それらが恐ろしい物語を紡ぐようで、体がばらばらになるのを感じました。

「この国へ来てから、自分は滅多に夢は見ないのですが、その数が多くなっていきました。故郷を離れると、こうなるものなんでしょうか。私は、夢を見るたび体が熱くなりました。何かが私の中で変わっていき、それをそうした形で、体験していたようでした。まだこの国へ来て一年強ですが、勉強はここでできることはもうほとんどしたように感じます。本をいっぱい読みました。私の国と、あなたの国との関係、その周辺の歴史を丹念に調べていって、またオグの資料を読み漁って、自分が出来てくる成長の過程を読んでいるような気がしました。知識は私のものになるべきものは私のものになったでしょう。だから、これからはクロウルダのように、私もオグの遍歴を足を運んで調べてみたいのです…」

 トルムオとニングはイアリオの申し出を受け入れ、彼女の出立の日取りを決めました。その従者に、クロウルダの者と、オルドピスの者と、護衛としてロンドとその配下の者が充てられました。彼女について来る人数は始め六人でしたが、出立直前に、また旅の途中で、何人か増えていきました。


 旅先でも彼女は夢を見ました。印象に強く残ったあれらの夢の続きもあれば、もっと違うのもありました。

「私の大好きな人間が、私から離れていった。私はかまどでパンを焼いていた。ある日、かつての恋人が私の所へ来て、私から子供を奪っていった。これは俺の子供だ、と言いながら。私は連れ去られるままに、何もできなかった。二度と子供には会えなかった」

「隣に座る私の伴侶が、くるくると違う顔になった。私は驚いて彼を突き飛ばした。そうしたら相手はもぬけの殻だった。私は人形を相手にしゃべっていたのだ。いや、顔は元通りになり、私の愛する人間にその体も戻った。私は彼を正面から眺めて、一体、それまで自分は彼の何を見ていたのか知らんと考えた。私は自分の気持ちも判らなかったのだ」

「隣人同士がいさかいを起こしている。私はそれに巻き込まれてしまい、ナイフ飛び交う戦場をただ頭を抱えてやり過ごそうとしていた。一方でパン焼き釜は共同で使うものだと主張し、一方でそれは個人のものだと言い張った。社会のための個人か、個人のための社会かという言い争いだった。互いにお互いをよく理解しようなどとは思わなかった。争いはエスカレートし、憎悪ばかりが募り、果ては殺し合いまでになった。相手を排除すればいいと両者とも思ったのだった。彼らのいる共同体は真っ二つに分かれ、殲滅をし合い、そして誰もがいなくなった」

 まるで、その夢たちは子供の頃聞いた、テオルドの母親の話のようでした。イアリオは体中を毒で侵されている気がしました。でもその毒は、他から注入されたのではありませんでした。自分で自分に打っているようでした。しかしその夢たちは(先の夢たちも)、彼女が今までの何某かの経験から、無意識に引き出した要素を象っていたかもしれません。暗い地下を抱えるあの町にずっと潜在するものを、引き出したものかもしれません。

 でもそれなら、自分のものでもある。私が子供たちにも伝えてきたものの中に、そうしたものもあるかもしれない。そんな風に彼女は考えました。彼女は夢の内容が自分とは切っても切り離せないもののように思え、そうした自分が、他の誰かと関わった時に体中を流れる毒は、相手に決して届かないものかどうか、分からないと思いました。

 彼女の相貌は、この旅を通じて変わっていきました。まるで男性のような、険しさと頑なさとが合わさった、柔和さの無い深い孤独を湛えるものへと。

 彼女にとっては、誰かを愛することと、この旅路は同じだったかもしれません。彼女はオルドピスの首都を出てから片時も故郷のレーゼの顔を頭の中から離しませんでした。出発の日だけ、首都で世話になった学者や研究者、メイドたちや兵士らに、また可愛らしいニクトやフィマに、別れの挨拶をして回る時はそうではありませんでしたが。(フィマは、少しの間の休暇を利用して、この時に都に帰ってきていました。)彼女は旅の途中自分のそばにずっとロンドを置きました。彼は彼女に忠実な盾となりました。オグの食い荒らしたと思われる史跡を巡る中、そこにはまだ盗賊や悪漢たちが塒として利用している所もあって、彼女らは彼らの襲撃を受けることもありました。しかし、まったく彼とその部下は対応に慣れたもので、オルドピスの兵士と協力して悉く撃退しました。イアリオもまた、戦いで活躍することがありました。元々彼女は父親から、早朝の日課として武道の手ほどきを受けていました。子供の頃、ピロットと鬼ごっこのような喧嘩をした時、彼女は少年ピロットの体を投げたりすっ飛ばしたりする体術を使っていましたが、それは父親に教えられたものでした。

 彼女は盗賊を、その時のように投げ飛ばしたのです。これにはロンドたちも、拍手喝采でした。しかし、オグに滅ぼされた史跡を見た時の彼女の動揺は、盗賊のように易々と退治はできませんでした。訪れた町村の跡は、草木に覆われ、うらぶれるままでしたが、人間が破壊した痕跡が、はっきりと残っていました。火に焼けて、あるいは大槌によって壊され、いかに小さな村でもその痕は、途方もなく穏やかでない狂った惨状を残し物語りました。剣もありました。鍬もありました。鋭く尖った(やじり)もありました。あちらこちらに朽ちたそれが落ちていました。もし戦火がそこを訪れ、戦によって壊されたのだとしたら、鈍色に光るそれは村じゅうにあるものではないでしょう。集落の入り口か、砦となる所に、あるいは防衛の中心となるところに集まるもののはずです。それは、村じゅうに広く散らばり、村じゅうで争いがあったことを指し示していたのです。

 底知れぬ冷気が住居跡を漂っていました。イアリオは足元から冷え冷えした空気を感じましたが、その空気は、以前知ったものでした。あの街で、地下都市で。彼女は何か、集落が口を開けて、その犬歯を訪問者に見せびらかしているように思えました。その損壊の痕は、悲哀とか移ろいゆく時の流れとかを伝えず、訪れる者を脅かしました。ロンドたちは、彼女の反応を見つめました。彼らは繰り返しこのような現場に来ていたので、今更驚くことはありませんが、彼女は、皆に見つめられているのをわかりながら、ぶるぶると全身を震わせ、膝から崩れてしまいました。あの悪が、蔓延ると、こうしたことが起きたのです。

 喘ぎながら、イアリオはレーゼを呼びました。呼んでも仕方ないと思いながら、それでも心に念じました。すると、傍らにいるロンドの匂いに気づきました。ロンドは体臭で彼女の体を包んでくれました。それで彼女はほっとしました。しかし落ち着いて、滅びた住居跡に目を廻らすと、これが、自分のことのごとく思われました。そんなはずがありません。そんなはずはないのですが、人間の歴史の底の底から見上げれば、ひょっとしたらどんなことも昔も今も同じように繰り返していたかもしれないのです。彼女は前世というものを信じていたわけではありません。ですが、クロウルダや、オルドピスの学者などからそのような概念を聞いていました。オグには、あらゆる人間の前世の犯した悪が、同居していると…

 滅びた集落の、その滅びの理由と人々の阿鼻叫喚は、すべて悪に吸い込まれたのでしょう。そのように現場でクロウルダたちは説明しました。まるで夢と同じようだ、と彼女は感じました。あれらの夢とこの史跡は、同じように見えました。彼女は何かを正しく思い出せないように感じました。このような遺跡を何遍も見ていくうちに、幾度も幾度も通過していくうちに、何かを思い出せないことが分かっていったのです。

 彼女の内側にあった焦燥は、日に日に増していきました。それは、トラエルの町にいた時から継続していたものでしたが、オグを巡る旅の瞬間瞬間で、焦燥は爆発的に巨大になりました。


 もし、母親は自分の子供を産んでから、また、新しいその人の人生が始まるのだとすれば。一体、何が、体をつくり、心をつくっていくのでしょうか。人と共に歩む人生、人と共に離れ離れになる人生を経て、自分の体は、どうなっていくのでしょうか。ただ生まれ交わっていく存在の響音は。打ち捨てられた錆だらけの剣器。破壊の跡は、その時に起きたことの波紋を現在に伝えてきました。かつて、そこにいた人間の。母の胎内から生まれた胎児たちの。母から離れて、暮らしてきた人々の。彼らの波紋は、陽炎のように浮遊していました。遠い過去のそうした景色は、今起きつつある新たな波紋と同じでした。イアリオの持つそれと、響き合っていたのです。そしてそれは、別段彼女の町だけでこれから起こりうることではなかったのです。

 彼女の脳裏に、墓丘で出会った天女の相貌が浮かびました。名前を、確かヴォーゼといいました。彼女はなぜか、その相手をいとおしく思いました。何をあちらは伝えてきたのか、それを探る旅をしていたのですが、あちらはそれを伝えずにはいられなかったと言いました。目の前の現象は、すべて共鳴の結晶かもしれません。自分と他者との。彼女は息苦しくなりました。遥か遠い過去と今がつながる交点に、自分がいることをひたすら感じて。しかし、その感傷は、彼女が再び地下都市に入った時に、覚えたものと一緒でした。なぜ今までこの場所を供養する者がいなかったのかという…。

 訪れた森の中に、また村の残骸がありました。野ざらしの骨たちは、上を向いて、しきりに泣いているようでした。骨たちは皆、同じ場所に固まっていました。そして、そこには桶や、針刺しや、手包丁や、器なども集まっていました。クロウルダによると、この村の人々は毒を食らったようで、その方法は水に混ぜたり、金属の先端などに付けたりして、様々な形で互いに与え合ったということです。毒は、即効性のあるものではなく、村人には毒と認識されていなかったものでした。つまり、神秘性のある、ご利益の深い液体でした。クロウルダは渋い顔でこの有様を見ていました。

 大昔の彼らが自民族に行った粛清は、すべてのクロウルダ人に薬を盛ることによって行われました。純潔以外は(あるいはその薬の薬効に耐えうる身体以外は)命を落とすようにしたのです。そして、その薬の効き目は、彼らが崩壊した時強められました。より純潔を選別するために。

 森の中の村人たちは、彼らと同じようなことをしました。そして、助かった者はいませんでした。彼らの中に、笑い声を上げる者がいました。クロウルダのここで人柱となった霊はその声を聞きました。自らが為したことの、おかしさに、気づいた者の嘲笑を。その笑いは、イアリオのふるさとでもかつて叫ばれていました。オグはこういった村を渡り歩きました。

 彼の通過した場所で、人々は己の悪に呑まれ、身を破滅させて、浮かばれない死霊となりました。ある村では、壊れた笛が、強張った骨の手元にありました。その人は音楽が好きだったのでしょう。でもその笛の口には毒が塗られていました。誰もが誰かを憎む権利があるとすれば、それはいつ弾けるか、判りませんでした。オグは、そうした憎む感情を逆撫でにする、人間悪を刺激します。やってもいいことと悪いことの判断は、彼の前ではつきません。ただ衝動が人間を襲うのです。それは、生命の最も根深い感覚なのかもしれません。ある町では、骨に幾重にも刃が突き刺さっていました。皆が彼を破壊したのです。たった一人の人間を襲う悪意は、時に束になることがあります。その町では、たった一人を犠牲にしてその悪意は終わりませんでした。次々に、犠牲となる者を探さねば、彼らの深い憎しみは解消されませんでした。彼らは被支配階級の人々でした。他国から攻められ、権利の悉くを奪われたのです。渦巻く憎悪は、オグによって刺激されました。それは、彼らの義憤や抵抗の意思へつながらず、自らの弱さを目指しました。自分たちに生まれた弱々しい者を、体の不自由な者たちを、こぞって攻撃しました。しかしどんな人間も皆弱点を持っているものです。

 彼らはそれを攻撃しました。滅びるまで。

 別の町で、イアリオは笑い合う彫刻を見ました。石の形はまあるくて、二人の子供が、微笑ましく向き合っていました。その辺りに細かい骨が散乱していました。餓死した人々の骨でした。ここにいた人々は永遠の平安を誓いました。彼らにとって永遠の平安は現実にはありませんでした。祈りの中にありました。祈りと願いの彼方にしか平和はないようでした。

 イアリオはこれらのような滅亡の跡すべてに、身も心も皆共鳴しました。彼女は、厖大な情報の洪水を浴び、すっかり顔つきを変えてしまいました。無口になり、ひたすら目をぎらぎら輝かせるようになりました。

 オグの足跡は、人間の人間に生まれてきたことによる痛々しい記憶を、ひたすらに訴えてきました。それらが全部、彼女の故郷のあらましを、また、行く末を、示していました。彼女はこうした病的な絶望の跡の、子孫でした。そうした病的な絶望を、理解することのできる人間でした。悉く絶望は、彼女に訴えかけました。自分を、見てくれと。自分を、慰めてくれと。およそ芸術は、言葉は、色と形象は、音楽は、人によって見出されるそれらは、何のためにあるのでしょうか。

 いいえ、絶望とは、見つけ出されるためにあるのです。実際に起きたことは、皆昇華されるためにあるのです。


 世界中に礼をします。その先に、相手がいました。明確な自分自身と、二つ一つになるような。命の手はないがしろにされて、今片手を振りほどいています。その時、追い続ける魔物が増えました。


 羽ばたく鳥が、足元から大ジャンプしました。風に乗り切れなかったのでしょう、ばたばたと、地面を這って、けたたましい鳴き声を上げて、もう一度大地を蹴りました。どこか怪我しているのでしょう、バランスを崩した飛行体勢は、ふらふらとして危なっかしく、空気はするすると翼の下から逃げてしまいます。それでも、雄々しく嘴を突き出して、真っ直ぐに飛ぼうと懸命でした。鳥は、黒い翼に赤い色の筋を持ち、目は丸くて黒く、腹は白く、少しぼてっとした体型でした。病気のような頭はずるっと剥けていました。尾は長く、立派でした。

 その廃墟にいた、独り群れから取り残された鳥でした。ちょうど日が真上から射していました。イアリオは、息を呑みながらその光景を見ていました。なぜなら彼女が見てきた滅亡した町村のすべての人々は、このように、孤独にあえいだのではないかと思ったからです。彼女の町の、先祖たちも。それが正解でした。そのような感傷が正解でした。鳥は、何を思いながら、うまく羽ばたけないままに空を目指すのか。何も思えないままに、ただひたすら翼を動かしていたとすれば。

 地震が起きました。地面がたいそうぐらぐらと揺れて、廃墟から大分離れた所の、大地に亀裂が入りました。その時イアリオは夢を見ました。堂々とした白昼夢でした。彼女が今立っている廃墟にかつて見た景色が重なって見えたのです。彼女の町の、北側にある、その昔交通の要衝ともなっていた、山脈西端の峠下の町でした。ピロットと、テオルドと、子供の頃訪れた遺跡でした。

 鳥は、地震に驚いたためか、ぐらぐらと揺れる地面にとてつもない危険を感じたせいか、飛び方を思い出し、あるいはどこか怪我しながらもうまい具合に翼を動かせる方法を見つけ出し、ふらふらと、危なっかしく、飛んでいきました。ふいに彼女は、その鳥が随分かわいらしく見えました。隠すことのない怪我を、あるいは未熟さを、この目に見せてくれたように思ったのです。彼女は彼に共感しました。その時に

 懐に、腹の内側に、不思議なあたたかい熱を感じました。まるでその中に何かいるような。

 絶望の肯定を、人は、どこで行えるのか。彼女はまだ、それを自分が身をもって行おうとしているのを知りません。しかし、イアリオは、自分自身に挑むような気持ちが溢れ出してくるのを感じました。白昼にも夢を見るようになって。いよいよ、幻と、夢そのものと対峙せねばいけなくなったように感じたのです。自分に見えてくるものすべてと。自分が見てきたもの、すべてと。私から、こちらから、覗き込むようにしなければ。あちらから、向こうから、見せられてばかりいるのではなくて。

 彼女はじっと眠れる場所を探しました。そこには一人で寝なければなりませんでした。誰かを伴うことなく、彼女自身が身をもって夢に臨むために。ちょうどいい所がありました。そこは、かつて月台として使われていた所でした。月を見るための台、神事を行うための台です。そこでの月読みの神事は二人の占者、暦読みの専門化が二つ並んだ仰向けの寝床に横たわり、一晩をかけて月の満ち欠けの変化しないことを確かめるというものでした。

 壁や樹などに隠れていない剥き出しの場所に、その月台はありました。彼女はロンドに、そこで自分が夢のために眠ることにしたと言いました。

「クロウルダは、霊となって交信するために、自分の身を捧げられるんだったね。私は、彼らのようにはできないわ。でも、できるかもしれない。それが目的ではないけれど、もう、白日にも夢を見るようになってしまった。こうなったら一辺に見ておこうと思うの」

 無口だった彼女が久々に口を開けました。

「どうか、まとめて眠れる時間をちょうだい。でも地震があった直後に言うことではないね」

「そちらの意思のままに。何があっても、あなたを守り抜くと誓ったことだ。言うとおりにしよう」

 イアリオは笑いました。美しい笑顔だとロンドは思いましたが、面窶(おもやつ)れのあるままにまるで最期の合戦に臨む者が見せる顔にも映りました。

 しかし、眠るまでの時間はまだありました。彼女は、クロウルダに案内されてこの土地に彼らが埋めたという、森の中の石版まで連れて行かれました。

「どうしてここに、こんなものを?」

 ロンドも訝しげに首をひねりました。石版はぶ厚く、何枚にも渡って土の中に隠れていました。そこにはたくさんの文字が彫られていました。それは彼にとっても初めて見る彼らの習性でした。物を残すことをおよそ彼らはしないのです。

「クロウルダの願いであったのです。これは、我々の書いたものですが、その内容はこの場所で生き残った人間の言葉です。我らが霊となって読み取った、あの世の声ではなく。それを書きつけて、慰霊のために埋めました。イアリオさん、あなたの閲覧した資料に中身は載っていましたが、今一度読んでみますか?」

 イアリオは頷きました。そこにはこう書かれていました。…


「霧の魔物来たる。それは私に毒を入れた。人間の悪意を増幅する猛毒だった。だがそれも私に原因がある。心の隙間がそれを入れるだけ大きかったのは、この土地で恐らく私だけだったのだ。私には妬む相手がいた。愛する者を獲られた恨みは大きかった。私は負けたのだ。私はみじめだった。私には力がなかった。私は独りぼっちだった。

 私はいけないことをした。私は、相手の大切なものを奪った。彼らの子供を、崖から突き落とした。私は笑った。私の悪は、彼らのせいだったと思い込んだ。私を選ばなかったあの女のせいにした。衝撃は町中に走った。この世で最も醜い悪が行われたことを、誰もが恐れた。私一人が粛清されればよかったのだ。ただそれだけだ。しかし、あの二人を恨んでいたのは私だけではなかった。事件の容疑は誰にでもかけられた。彼らの子供たちですら人から恨みを買っていた。霧が町に立ち込めた。魔物は私たちの心を覗いていた。

 確かに私がこの手を下したのに、誰もがその可能性のあるように疑われた。疑念は嫌悪に、嫌悪はさらに憎悪になって、この町を取り込んだ。誰が殺しをやったか、確定せずに、ただ憎しみだけが膨らんでいった。忘れればよかったのだ。彼らが泣き叫んでも無視すればよかったのだ。彼らだって相応の仕打ちを受けたも同然だったから。いいや、決してそうではなかった。誰もが彼らを恨んでいても、やってはいけないことが絶対にある。人の命を奪ってもいいほど、彼らは悪人ではないのだから。そこには落差があった。亀裂があった。それらは耐え難い時間を私たちに要請した。

 ある時、誰かがあの二人を殺した。それは町じゅうの合意であるようにされた。人から嫌われてもその涙は真実だから、すべての人間が、彼らを放ってはおけなかった。あの涙への共感をすべきではないと、私たちは思ったのだ。悪人に同情は許されないのだ。

 では、彼らが死んで、皆が安らいだろうか?死という、最も嫌悪すべき結末。それを我々が望んだことは。結末は我がことのように私たちには感じられた。彼らに愛は向けられなかったか?そうだ、確かにそうだ。皆が彼らを愛せなかった。

 事実と我々の精神の落差が、彼らの死を納得させた。我々は彼らを殺した。しかしそれは当然だと後から思った。そこには深々とした亀裂が走っていた。我々の精神と事実の前後に。私たちはその後、まったくどこか心に余裕をなくし、せっかちになった。互いに暴言を吐き合うようになった。何かの土台をなくしたのだ。

 恐ろしさが急速に蔓延した。誰かの刃が常に、自分に向けられているのではないかと思った。そんなことはないことだったのに。誰かが私の頭を叩いた。私は相手に叩き返した。それで相手は絶命した。そんなことがふいに起きた。そんなことは私だけに起きたことではなかった。

 暗闇がその巣をこちらに作った。私がきっかけをつくったのだった。いや、私だけがその契機になったとはいえない。それにあれは、事実だったか幻だったのか。いつだったか思い出せない。町の入り口、門を開き、外にいる者たちを私は呼び込んだ。門からは魔物たちが溢れんばかりに折り重なって、この町に侵入してきた。魔物たちは大きく膨れて大きな人の形になった。巨人たちは口を開けて次々と私たちを呑み込んでいった。呑み込んで私たちそのもののかたちになった。私は演説をしていた…『諸君、諸君は、変わらなければいけない!変化の暁にこそ絶対的な幸福が訪れるのだ!』ともかく熱に浮かされて、言い知れぬ恐怖とそれを克服しようとする怒りに押されて、私は必死になって叫んだ。

 私は変わることを求めた。変わらなければならぬと思った。しかし何から?それは分からない。私は櫓の上から演説をしていた。私の乗っていた櫓の下に、巨人どもがつどっていた。奴らは「おいで、おいで」とこちらを誘った。

 私は逃げ場を失った。足元で民衆が鉈を振るい、櫓を壊そうとしていた。その時、この見張り台は何かのシンボルだった。多分、私たちの感情は一致していただろう。土台を失くした私たちが、変わるべきなのだという感情は。足元につどう巨人たちがこう言った。

『我々にはあなたたちが必要だ』

『なのに、あなたたちが我々を必要としないのはなぜだ?』

『我々をあなたたちは遠ざける。しかし、二つとも元々一つだったのに。なぜあなたたちは我々を怖れる?』

『本当に恐ろしいのは、あなたたちだろうに』

『食らい尽くせ。かつて人間がしたように。世界中にしたように。今度は我々の番だ』

 私たちは食らわれた。恐怖に、絶望に、食らわれた。ここにあるのは白い手だ。血の色を失い、まるで死人のような。私たちはもう奴らと一緒だ。

 これは、私たちだけに用意された運命だろうか?生き残った私は考える。いや、違う。あの魔物どもの中には、数限りない過去の記憶が満載だった。私はそのページを紐解いた。これから生まれる命も、やがては我々のように、破滅するだろうことが載っていた。それは絶望の図書だった。それはそれを呼び、新しい仲間を増やす。それが願いで、その祈りは強力なのだ。この、楔の連鎖、断ち切れるものか。

 我らの悪が、我らを追い、我らを追い詰め、我らを殺した」


 クロウルダは生き残った町の人の言葉を、彼らの書物にのみならず、石に書きつけ彫ったのは、ありのままをそこに記して奉じたかったからでした。悪に唆されて死んでしまったこの場所の、人々に。魔物に冒されて生き延びる人間は、破滅が訪れた集落に多少は存在しましたが、大抵は何が起きたか分からず混乱の極みに達した人々でした。ところがその町では、このようにはっきりした記憶を持って、生存した証言者がいました。クロウルダたちは彼らの秘術で霊界の深みに降りようとすることはこの遺跡では行いませんでした。人柱となった彼らの犠牲者は、人々を襲った異常な苦痛を霊界から調べるだけ調べると、そのままその場の鎮魂を司る精霊と化するのですが、ここではその必要がなかったために、別の形の供養を選んだのです。

 そして、この町で最初の犠牲となった家族は、確かに近隣に目立つ一家でした。自慢をいとわず、武器を(ふる)い、作物の育ちがやたらといい畑を守っていました。生き残った男は一番目にオグに潜り込まれた人間ではありませんでした。クロウルダはそれも確かめず本にも石版にも男の証言だけを書いていますが、その一家こそ町の人間悪を刺激するような振る舞いをし始めたのです。ただ、かの悪が町中を巡った後、魔物の思惑のとおりそこが自滅の崩壊をするのはまこと容易でした。というのも、男の証言のとおり、自らに妬みという深い醜い悪がそれぞれにあることを確かめた人々は、それとなく互いを監視し始め、子殺しという最も醜悪な事件が発生した後、それは幾分か解放という悦楽を指し示したのです。その悦楽は皆のものでした。

 彼らは泣き叫ぶ両親の嘆きを耐えられぬものに感じました。そして自らに目覚めた強烈な嫉妬はその出口を求めました。単純な差別。否定。棄却に。それだけのことをこの町の人々がしてしまったのには土台がありました。彼らは月台をつくり暦を読むのに力を入れるほど、農業に精を出すのをいとわない真面目な性格でした。その底辺には、集団的力動が、つまりは少数が抜きん出た力を持つことを否定する、全体主義的な心が潜みました。彼らは被支配に抗せず自分たちの仕事に忠実に取り組むのを営みの核としたのです。

 彼らは善人であり悪人が隣人に生まれることを拒みました。ですが善人ほど人間悪に敏感になるものでした。悪そのものを否定することほど、悪であるとは、思いもしないことでした。オグは、それを

 知っていたのです。

「オグは、この町へ来た。そして、町を呑み込んだ…?いいえ、ここが彼を求めたんだわ、きっと。そうしなければ、そうしなければ、

 何も跡形もなくなるもの」

 イアリオは険しい表情で土にうずめられた石版を見つめました。

「だから、跡が残ったんだ。オグは、機能だから。この町に破滅をもたらして、それでいいと済んだんだ。さらさらと訪れたにすぎない。彼は彼らの悪を聞いたにすぎない。彼は呼ばれて来ただけだ」

 彼女は少し混乱したことを言いました。ですが、実際石版に書きつけられたこと以上に行われた破滅の過程は、そこに保存されていました。彼女は、石版に遺された声の主も、ここに訪れた悪意の化け物の気分も、なぜか皆分かるようでした。

 そして、彼女はオグがただ訪れただけだった集落と、彼が人々を巻き込んで自ら消滅していった、三つの町で起きただろうことの違いを、考えられるようにまでなりました。オグは人の何に惹かれて動いたのか。そして人の何を唆して滅ぼしていったのか。その時それは何を呑み込んだか。一つ一つ、滅びの現場を巡ってきた彼女には、大国の都で自分のふるさとの歴史を辿り、そのあらましを深く理解しそれぞれの時代に共感できるようになった、人間、それこそ人と人の間にいる者として、()()()()()()()ことのできる力が具わるようになっていました。そして、その力は悪意に呑まれた人々の苦しみも、また、()()()()()()()()()()()()事情も、すべて同一の(まな)板の上に乗せられるほど、透徹した物の見方をできるようにしました。そして、さらにその力は、彼女がかねてから得ようとしていた、あの町の未来、天女たちが伝えた文言に及ぶ認識に届きました。言わば、彼女の町の三百年前の出来事はオグに通過されただけの町村の結末であり、そこにこれから訪れようとする未来は、彼が人々を巻き込んで消滅する、三つの町で起きた終末なのです。

 彼女はこの違いを(あらた)めました。そしてその違いを愛でる者の姿を思い描きました。その異なりを、愛でる者。過程と結末と、走駆と雪崩と、そして臨場と。あらゆる物語の結論。それは、それには終わりがあること。はじまりがあること。

 オグの終わりを愛でる者。彼女の町に生まれた、ある男。額の出っ張った、物暗い顔の、勉学家。


 彼女はロンドだけを、あの月台の上に呼びました。夕陽が赤々と西空を照らし、眠るべき夜が近づいてきました。

「私は大変に怖いわ」

 彼女は自分の肩に、彼の手を置いてもらいました。

「夢を、一辺に見ようとしている。きっと、過去の世界をどこまでも覗き込むようになると思う。何を見せられるかな。それがどんな夢でも、多分、私はきっと理解できると思うわ。そこまで、私の旅路は進んでしまった!世界中から、私に向かって働き掛けてくれたよう。ここまで私を連れて来るために。

 私は自分を、言葉のように思うわ」

 ロンドはじっと黙っていました。彼女の肩に手を置いていると、その言葉の息遣いも、声を出すことによる身体の振動も、よく分かります。

「言葉のように、乾いている。まるで、中身がない。言葉って、昔の人間が使っていたものよね。自分より昔の。それを借りて、自分は話すことができるけれど、自分は、その言葉みたい。

 私は自分がどれほど体と心がばらばらなのか、わかってきたよ。本心もわからずにやってきたよう。オルドピスから出て、自分のふるさとから出て、この旅は人間の、後悔ばかりを感じているようだ。私は、どれだけ好きと思っても、叶いはしないことを、自分でしてしまった。私は自分の望むように本当は生きていなかった。本当の望みすらよくわからなかった。

 ああ、嫌だわ。私は自分の言葉すら言えない、なんて思っちゃう。言葉は全部、すでに言われた言葉だから。

 ああ、嫌だわ。私に、生きている実感なんかあっただろうか。そんな風に、このオグを巡る旅では、感じるようになったわ。でも、すべて人間がしたこと。人間がすべて感じたことなの。私がしたこと。彼らの思いがよく分かった。それはそこに今でもあった。世界中にはそれがあったわ」

 彼女は遥かに悲しい目をしました。今まで見てきたものを、こうして彼女は言葉にしました。

「ご免ね。私が、何言ってるか、わかる?」

 ロンドは答えました。

「あなたの深い悲しみがずっと伝わってくる」

 二人の間を風が滑りました。その風は、いつから吹かれたものでしょうか。今?それとも果てしない太古からでしょうか?

「そして、今更だが、俺は契約以上に、あなたを大切に思っている」


「俺は誓おう。あなたがこれからいかなる夢を見ても、自分はその夢を見るあなたを守る。だが、それは今まで通りだ」


 彼女はにっこりと微笑みました。そして、長い夢の準備に入るために食事を済ませ、小さな泉に禊に入りました。彼女は体を洗いました。爪も洗いました。水を落として、もはやぼろぼろになってしまった故郷の衣服に袖を通しました。全身をさっぱりとさせて、物静かに夜を待ちました。

 ゆっくりと訪れるまどろみの中、いよいよ、彼女の胎を出来上がらせるための、恐ろしい夢が、始まりました。

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