第17章 大図書館にて
オルドピスには、三つの大図書館があります。彼らは(例外はありますが)各地の町に必ず図書館を置いて、その知育管理を徹底していました。芸術、建築、水道整備など彼らの持ち合わせる技術は「知識」と等号で結ばれています。と言っても、知識とは何かと問えば、それに答えるのは難しいことです。それは言語化され本にもなるでしょう。それは共有されるものであり、客観的に所有することのできるものです。しかし伝えなければならない技術の中には、頭の中で、ただ単純に言葉を繰り返すだけでは受け継がれないものもあります。彼らはそういうものも含めて「知識」と言っていました。例えば漁業の技とか、農業の技とか、教育や、生活における時間管理、人間同士の付き合い方、課題の提案の仕方などを。身体と心の統合、対象をリスペクトすること、そして、自分自身が自然の中に(人間の間に)生まれ育っていることの感覚をすら。
彼らは円滑な国政を敷くために多大な努力を払ってきました。それは、国民のひとりびとりが己の知育を心がけて始めて成ることのできる理想でした。イアリオの町でも、そうした献身が三百年もの間、とりあえずの平穏をそこに保ち続けてきたわけですが、彼女の町では、平穏のわけは呪縛にありました。すなわち、彼女の町における「知識」は全部そのためにあるものでした。この国でも、やはり、「知識」は国と個人を保存するための、生き抜くためのすべでした。
一人の人間の命とは(あるいは一国の国の命運は)はかないもので、その運命を左右するのはおよそたった一つの何ものかの力によるように、見えることがあります。しかしそのように見えたとしても、実際は、あらゆる物事が、関わっているのです。かたくなにその命を守ろうとすれば、澱みやいびつさはおのずから見えやすくなるでしょう。命は人間の認識がどのようにできるものではないのですから。認識は、どうしても後追いになります。そこから何か知恵が現れたとしても、なかんずくあるのはその知恵をどう生かすか、どう利用するかという人間の主体の態度なのです。そのようにして蓄積された知識を、人は、あやかる神のように崇めてしまうことはどうしてもあるのでしょう。そうした「知識」そのものを追ってみられる、オルドピスの国家運営の姿勢は、周辺国から称賛されるものにしても、傲慢に感じられるのもやむないものがありました。
かの国が、トラエルという町を、本当はどうしようとしていたか、イアリオはその真実を知った後、彼らが語る(騙る)知識の本質に、悪が同伴していたことを否応にも理解しました。
大図書館には世界に類を見ない数の書物がありました。三つあるその建物は三階建てで、その下にも幾層にも渡る地下階が広がっていました。大図書館はそれぞれに特徴的な外観を持っていました。それは丸と、直線と、対称性とを基調としたものでした。イアリオが初めて訪れた大図書館は、名前をシフルドといって、その特徴は丸でした。つまり、外装も、内装も、丸い形で統一されていたのです。曲線がうねうねと連なるそこは、まるで海の中を覗いているようでした。彼女は海に潜ったことはありませんでしたが、地上のいかなるものにも喩えられないその曲線の流れは、神秘性を湛えて、未知なる音楽が聞こえてくるようでした。奇妙で面白く、でも何のメッセージも受け取らない、飽きの来ないデザインでした。
イアリオはそこに、先日極めて率直な出会いを果たしたあの女の子を連れて来ていました。付き添いの少女はヒスバル=トルムオといって、あの大賢者の養子でした。ですが、少女は、自分のことをニクトと呼ぶように言いました。ニクトとは、ヤグルマギクのことで、彼女が養子として迎え入れられる時、両親からトルムオに宛てて添えられた花でした。その意味は、花は車の車輪によく似ていましたから、優秀だった彼女がその背中に人々を乗せても運べるような、国の奉仕者になってもらいたいと願われたものでした。しかし彼女の本名のヒスバルもまた別の花の名前でした。こちらはなよなよとした女性らしい、ピンクの花弁を垂らす美しい花でしたが、少女のヒスバルにとってまだ遠い将来に夢描く他のない、曖昧な自分像でした。彼女は「ニクト」の方を好んでいました。渾名と知りながら、でももう一つの自分の名前のように、彼女は彼女をそう呼んでもらっていました。頭のいい聡明な彼女は人の言うことをよく見聞きし分かり、自分のことを、その名の花のごとくオルドピスの何を担うべきかを知り行く轍の上にいるものだという、将来を描いて疑いませんでした。
しかし彼女は、今はまだ、どんな花にもなりえるまだまだどことなくあどけないつぼみでした。「ニクト」にしろ「ヒスバル」にしろ、その花が少女の中に融け込んで、本物の一輪になるにはもっと時間がかかることでしたが、そうなるに十分な頭脳と美貌の予兆は、すでに多分に見られました。彼女は努力を惜しみませんでした。人に、誰しもに夢や希望を与えられるような、前向きな力動が健気な彼女からは溢れていました。彼女を見ると、いかに自分そのものが咲き誇る可能性を探り、信じているかが分かるのです。
イアリオはたちまちこの少女が大事になりました。彼女を寝室に案内したニクトは、彼女の身の回りの世話をこまごまと担ってくれることにもなりました。ニクトは、外交の心得もあったのです。彼女の世話をする以前にも、小間使いのように賓客をもてなす経験をしていました。その時は少女自身から、やらせてほしいと賢人たちに頼んだ経緯があったのですが、今回は偶然なイアリオとの出会いもあったとはいえ、すんなりと彼女の世話を任されました。ニクトは彼女に懐きました。彼女は大図書館への案内を、少女に依頼しました。
大図書館シフルドは丸屋根を三つも連ねて堂々と来客を歓迎しました。その入り口は四方にありました。来場者は円形にくり抜かれた扉を入り、中を覗くと、まず中央に立つ巨大な柱とその周りにせわしく動き回る影の人々を目にします。そして一階にある本棚もすべてが円柱形か、外壁に沿った弧状でした。光は天井の採光窓とガラスの壁窓とから採り入れているのですが、本棚の上と内壁とに角度を変えられる鏡があり、室内に満遍なく光が届くように、鏡面の角度を一時間置きに調節していました。しかし、それでも建物の中ごろはあまり採光が届かなくて、それで大柱の周囲のここの役人…つまりは司書たちを影法師にしてしまっているのです。そこは本の貸し出しのカウンターになっていて、一階と二階に備えられていました。二階より一階の方が幅広く、柱に沿うように木製の机が来客のために弧を描きました。上に昇る石階段はその机の間に挟まれて、人々はその階段を足しげく昇り降りしていました。なぜなら、上も下も人がいっぱいだったからです。そこはオルドピスの国中からだけでなく、世界中からも人がやって来るのです。
イアリオは目を白黒させて、呆然とその様子を見つめました。コパ・デ・コパも都の城下も、人間がたくさん行き交っていましたが、ここほどに密集している場所は見たことがありません。人いきれが入り口にいるだけで迫ってきました。彼女はニクトに手を引かれました。そして人ごみの中、上のカウンターにまっすぐに連れて行かれました。ところで、オルドピスの本の貸し出しにはイアリオの町同様厳粛なルールがありました。ここではトラエルの町と違って、紙は十分な供給ができ、少なくとも一般民が入れる所の書架から本を自由に取って読んでもいいのですが、外へ持ち出す時には、審査に合格した証明書をカウンターに持って届出をせねばなりません。審査とは、国が行う書籍の取り扱いについての法律のテストです。
一般書架にたくさん並ぶ本は、勿論コピー本ですが、原本こそ地下に重々に管理されていました。複写師は、この国でちょっとした尊敬を抱かれる役職でした。図書館の司書は国の役人と同じ衣冠で、これもまた、人気のある職業でしたが、それはどの国でもどの時代でも同様だったでしょう。書物とは彼らの礼賛する知識の集合体であり、本を管理するということは、つまりは彼らの生きるすべの管理者でもあるのです。新しい知恵を生み出すのも重要なことですが、もしかしたらそれ以上の価値の重きをそこに置いているかもしれませんでした。
シフルドに取り込まれる光は淡く、建物内部の喉下を黄色く染めていました。もしかしたら屋外より多種多様な人々が、そこには密集していました。イアリオはどのように人を避けていったら上階の大柱に辿り着けるのかまるで分かりませんでしたが、ニクトの手引きのままに通って行けば、比較的直線を楽に歩けました。そして、弧を描く木机の前にやって来ました。
「フィマ、フィマ!」
少女の呼び掛けに、カウンターの向こうで返却本を片付けている最中の青年が、振り向きました。青年は痩せ型で背は高く、女性にもてそうな緩やかな空気と表情を持っていました。このような優男のタイプの人間を、イアリオは初めて見ました。トスクレアのような美男偉丈夫ではありませんが、それでも間違いなく異性に好意を持たれるだろう背格好と雰囲気は、彼女の町にいる強引な女垂らし共には一度も見かけないものでした。
彼もニクトのように、トルムオと養子縁組をしていました。それだけ有望で将来性豊かな秀才だと見込まれていたのです。
「ニクト!ああ、そちらが予約の入っていたお客さんだね。今行くから、待っていて!」
彼の声は優しく甘い匂いがして、思わず振り向く香りが立ちました。ニクトはにこにこして彼を待ちました。それは、イアリオを案内して来たというよりも、彼に会いに来たと言った方が正確に思える所作でした。
ここに来る途中に、イアリオはニクトから彼への気持ちが窺える話を聞いていました。少女はその渾名の花のようにぴょんぴょん飛びながら彼女に話をしました。
「これから行く、シフルドの図書館はもうほとんど本を読み尽くしちゃってね、それを自慢したら、私の今のお父さんになる人が…あのヒヒジジイがね、『それはよくやった。で、それでお前は満足かね?』と訊くの。『ほとんど満足よ。』と私が言ったら、『じゃあ私との養子縁組はこれで解散でよいな?もうここにいる必要はどこにもないのだろうから。田舎に帰ってよい。』だって!何よそんな言い方!て思ったけれど、あとで、私の兄にあたるフィマっていう人が、諭してくれたの。『勿論、満足してもいいけれども、だからって自慢するほどのことじゃないな。我々は、どの国にいると思うかい?書物は知恵だが、利用するのは国民だ。お前は一体何を利用したことがあるかい?折角付けた知恵や知識を、本当に扱えるようになって初めて満足が生まれるはずだな。本は、友だが、自分は、友とどう付き合っていくべきか。これを考えて初めて一人前だな。』なるほどと思った。ヒヒジジイは皮肉なことしか言わないの。いつも私を試す感じの、嫌な言葉を掛けてくるわ!でも、兄は優しくて、いつも私を慰めたり、元気付けたり、励ましてくれるの」
「お兄さんのこと、大好きなのね」
「うーん…」
ニクトは悩む素振りを見せました。
「そうかもしれないけど、あんまりそう言いたくないかも。微妙。だって、歳の差すごく離れているし、あっちはこっちを手なずけるのがうまいんだもの。兄だから…妹だから、そんな風に付き合ってもらっているとは思えないの。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。だから、尊敬はしているけれど、それ以上じゃないね」
「本当?」
少女はどう答えるべきか迷いました。
「例えば、こんなことがあったの。私が夜な夜な部屋を抜け出して、街へ繰り出して人間観察していたことがあったの。だって面白いんだもの!昼間、あれだけにぎやかで騒がしかったのに、夜もまだ同じようににぎやかで結構うるさいんだよ?子どもは寝る時間、よくそう言うけれど、夜中にはしゃぐ大人たちの顔は、なんだか普段は見せたことのない顔になっている気がしてね。一時期はまって、そうしているうちに、誰かがいつも私の後をつけてきているのに気が付いたの。おかしな監視者!帽子を目深に被って誰だか判らないようにしているのよ。それでいて格好はほんとおしゃれで、夜に着る絹の肩掛けを前に結んでいて見るからにお忍びの貴族のようだったの。でも、とても周りから目立たなくて、私は気持ち悪かった。こっそり抜け出しているという自信はあったから、まさか人攫いがこの街にいるとは思わなかったけれど、それでも狙いは私だってはっきりわかっていたから、どうにかしてその目の先から逃げよう逃げようと思ったの。そしたら、急に私に近づいてきて、逃げ場のない角に追い詰められて、身を固めたら、聞き覚えのある声で、
『おや?どうした?こんな時こそご自慢の知識で、窮地を脱してみるものだぞ、ニクト?』
私はすぐに、フィマだったとわかった。安心したけど、出し抜かれた気もした。きっとトルムオが私の夜遊びに気付いて、わざわざ彼をお目付けに付けたんだと考えたの。そうなると、ずっと、自分はあのヒヒジジイの手の上で泳いでた、てことになるから、私はすごく嫌な気分になって、ぶすっとしていた。そしたら、
『お嬢さんがお金も無しに夜な夜な街に繰り出して、何が面白いんだろうね。こんなことは感心しないから、これで終わりだよ、ニクト。さて、僕と一緒に夜の楽しみを味わいに行ってみるのもいいけれど、そんなことをしたら僕の外聞が好くなくなってしまうから、やめておこう。このお金で、今から言う所のお店に行ってごらん。きっとニクトの好きなものがずらりと並んでいるから、好きな物を買うことだ。だがね、約束だよ、成人もしていないうちは、真夜中の活動はこれきりだと』
紹介されたお店は、私でも食べられるもののある高級な料理店だった。それはトルムオも頼んでいない彼のさりげない計らい、みたいなものだったの。それ以来…えっとね…彼は、立派だなあって。よく私のこと見てくれているんだな、て思ってきたよ?」
イアリオの目には、金髪の少女は恋する乙女に見えました。フィマという彼女の兄の、豊かな胸の鼓動が、少女の身を包んでいることがよく感じられたのです。彼らは実の兄妹ではないので、実に健全な感情を抱いていたのです。だから、兄を好き、という表現は正しくなかったのでしょう。
少女の好きな、容姿端麗な男性は、薄暗い影の中からこちらを指して近づいてきました。彼は、長袖にぶかぶかのチョッキを着ている民族衣装のトラエルの町の者を、にこやかに迎えました。
「ええと、ルイーズ=イアリオ様で…目的の本は、こちらにございます」
フィマは申請書と目録に目を通しながら、机の下から分厚い書物を出しました。しかしここは薄暗いので彼女からは題名がよく見えませんでした。そこに書かれている文字は、イアリオでも苦労せずに判るもののはずでした。文字も言葉も、時代が経てば変わっていくものですが、オルドピスから指導されて、トラエルの町では折々に修正がなされていたからです。しかし、あまりに目が慣れないので、彼女はフィマに本の名前を読み上げてもらいました。
「こちらは『歴史書・題は無し』、そしてこちらは、『古代からの滅亡』ですね?」
フィマは、目を上げて暗い中彼女の顔を確認しました。司書たちはこの環境に慣れていますから、人物も、本も誤ることなく確かめられました。彼の目が、ぎらりと光りました。イアリオはそんな視線を感じることなく、書物を取り上げて、題名を改めました。
「確かに…そう読めますね。よかった、自信がなかったから。他の国の本なんて、初めて見るものだから」
彼女がそう言ったのは、首都や首都に来るまでに見かけた街並みの看板や、商品などに書かれていた文字らしきものが、今までちゃんと読めなかったからでした。それは彼女にとってどれも知っているはずの文字でしたが、彼女の目についたのは多くが飾り文字で、またオルドピスには書体も数種あったのです。彼女はほっとしました。なお本が読めなかったら一大事だったからです。
そんな彼女を、彼は、次第に両目を大きく開かせ、じっと、食い入るように見つめました。彼のそうした変化にいち早く気付いたのはニクトでした。そして、彼のその反応の意味も、少女の中では明確に形作られました。
「ですが、もう一冊、実は注文したい本があるのです。民族史の、『放浪する海洋の民』という本です。こちらにありますか?」
「あ、ああ、すみませんがもう一度おっしゃってください」
イアリオはまた欲しい本の題名を言いました。前二冊は、トルムオが彼女に紹介した書物です。イアリオはトルムオの前を辞してから、翌日たっぷり一日の休息を取って、その日に大賢者から手書きの紹介状をいただきました。彼女に必要、もしくは手助けとなる本と、それらの本に関して講義を受けられる先生の名前が付されていました。彼女は連絡役の兵士を通じて前もって図書館に二冊の本を注文していました。彼女は本を読むことには慣れていますし、歴史の教師もしていましたから、自分に順番に必要な資料は何かすぐに判りました。最初に参照したかった二つの資料は、彼女の町の周囲の歴史に関したものでしたが、翌朝になって、その他にクロウルダについて直接書かれたものがほしいと思ったのです。そのクロウルダについての本は、トルムオからの紹介状には載っていませんでした。
それこそ、彼らには直接首都で会って話ができたはずですし、その方がより豊かな情報も得ることができたでしょうが、今は、自分のペースで少しずつ進みたい気持ちに彼女はなっていました。あの静謐な執務室の内側で明らかにされた、トラエルの町を出てきた者を包む存在の重みは、じかに、体ごと心ごと彼女を抱えていました。彼女は、あの町で抱いていた焦燥と同じものを、まだここでも感じていました。そして、それを捉えなければいけない義務を負いました。ですが、北の険しい山脈を越え、その先の森で陥ったその焦燥のままの速さで駆け抜けていくことは禁じられ、時間を、惜しまず、ゆっくりと使う、あの森で出会ったヒマバクとの緩やかな歩調のほどの態勢が、自分自身に望まれていました。
そしてまた、クロウルダについていえば、ハオスが来るよりずっと以前に、あの町の地下の都が滅びるよりも前に、その都の前身に彼らはいました。来たるべき破滅に向き合うということは…畢竟、彼らについても学ばねばならないのです。彼らの存在は、実はずっとトラエルの町の民に近いものでした。なぜなら、彼らの子孫も、町の民にはいたからです。
彼らに、すぐにもその歴史を直接訊くのではなく、イアリオはすべての勉強を書物から出発しようとしました。自分自身を捉えるために、まずは、整理する必要があったのです。
「もう一度、おっしゃってください」
目録を調べるフィマが、少し震える声でまた彼女に頼みました。三度、イアリオは同じ本の題名を伝えました。
「放浪する、海洋の民…と…すみませんが、我がシフルドの館にはございません。他の館にあるかどうか、これから調べますので、お時間をいただけますか?ああ、その場所でいいのです。そこにいらしてください。蝋燭が爪の分溶けるほどお待たせはしませんから…」
彼は、司書らしい迅速な動きで、木机に別の目録を引っ張り出して、ぱらぱらとページをめくりました。三つの図書館には、それぞれに重ならない本が収められているわけではありませんでした。互いに重複するものもあり、館ごとに、図書の色合いがあるかといえば違いました。一月ごとにそれぞれの目録は枚数を増やしました。複写本はできるだけ増やすように奨励されていて、新刊も、いずれはどの館でも手に入れられるようにされましたが、まだこの館にはないという本は多数あったのです。
「あちらにはあるようです。コルマエルの図書館に。そこに、依頼状を書いておきましょうか?ああ、いいえ、自分が行きましょう。行って、取ってきます。すぐにでも」
フィマはあせあせと机から身を乗り出して言いました。何をそんなに慌てるのかと、イアリオは首を傾げました。彼女の目の光が、正面の男性を再び虜にしました。彼は何事か知らず額に汗を滲ませていました。
「任せてください、あなたは特別なお客さんだと聞いていますから、決して必要以上にお待たせすることはありません。廊下でお待ちになってください。でなければ、近くの街路のベンチでお座りになっていてください。お疲れにならないように。きっと探しますから。待っていてくださいますね?」
青年は念を押して、強く相手を見つめると、木机を回り込もうとしました。彼の瞳はらんらんと燃えて、実に率直に疑いのない気持ちを表していました。イアリオもすぐに彼の心に気づきました。ですが、それはなかなか困ったことでした。彼女は、彼のために笑顔を作って、彼の気持ちこそ有難いものの、という、困惑した表情を浮かべました。
「ニクトのお兄さん、とても嬉しいのだけれど、依頼状で十分です。私は初めてここに来たばかりですから、別の図書館に行ってみるのも、興味深いのです」
しかし彼は一言も耳に入れませんでした。
「まあ、まあ、あなたがここから去るのならば、私はとても失礼なことをしてしまったと反省しなければなりません。どうかここにいてください、そして私を待っていてください!お願いしますよ!」
「フィマ!どうして…」
「ニクトはどうか彼女を見ていてくれないか!お前が付き添ってきたんだろう?失礼のないように、その人を休ませる場所へと連れて行ってくれ!僕はこの仕事をすぐにやらなきゃならないのだから!」
彼は颯爽と机を飛び越して、一目散に出入り口を指して走りました。背後から何度も声が掛けられましたが、うきうきした感情にすっかり身を委ね、すべての言葉を上の空にして、彼のすべきことだけを思っていました。
「フィマ!館内はばたばたとしてはならんぞう!」
青年は手を一本上に上げて、挨拶の代わりでしょうか、どたばたと行ってしまいました。
「あの人は誰だ。どういう人だ。そうだ、名前を覚えている。しかし、あんな名前や姓は聞いたことがないし、あの衣装も、今まで目にしたことがないものだ。気になる。気になる。でも彼女は一体誰なんだ?ニクトが連れ合いだった。ニクトが面倒を見ているんだ。ニクトに貴族の真似なんかできただろうか、でもきっとトルムオの爺さんがまたお目付けに当てたに違いない。何か特別な事情がある人なんだ。そして、良識があって、きちんとしている。そうでなければ、来たばかりの旅人に本を貸し出しするなど、ありえないことだから。彼女は信頼を国から得たんだ。どうして信頼されたんだろうか?その人となりだけで、そうした判断がされることなんてないから。彼女には真っ先に本が必要だった事情があるはずだ。ということは、調べることがあってこの国に来たはずだ。彼女の予約した文献、あれにヒントが隠されている!あれは実用的じゃない、みんな史料だ。彼女は何を調べに来た?ああ、いけない。必要以上の詮索をしてはいけない。それはあちらの事情をきちんと考えてはいない行為だ。僕は彼女に嫌われたくない。絶対に嫌われたくない。だってあんな人は初めてだから!あんなに光り輝いて見えて、突然、こんなに胸が苦しくなる相手なんて、この方一度も出会ったことがなかった!ああ、これは恋だ。明らかに僕は、あの人に恋をしている!なぜ、どうしてあの人を好いた?どんなところが、僕の胸にヒットしたんだ?一度の目撃で、僕は、あの人に心を奪われた。あの強い眼差し、ちりちりとほどけた髪、長いけれどもつんとした鼻、繊細な顎!眉毛は太くて、悩ましかった!目が僕を捕らえた時、走った稲妻は、決して一生忘れることはないだろう。ああ、たまらない!あの人を僕の胸に抱えたい!」
その衝撃は、一度も本気で何事かに向き合ったことのない青年に、文字通り稲妻のように走る感覚を体中に与えました。彼は、あっという間にそれに捕らえられてしまいました。日常は、彼にとってあくまでこなされるものでした。その中で、辻褄の合うことだけをやっていればいいのでした。彼は何も混乱せずにそうすることができて、いかなる風が周りに吹こうとそれに逆らわずに動くことが可能でした。それは彼の特殊能力でした。彼は、人間の隙間にいる自分というものを感じない性格でした。生活をしていく中で社会的存在である人間は、否が応にもその体が、その精神が、共同体からはみ出して、隙間に出てしまうのを感じることがありました。強力に何かを否定しようとする自分、暴力的に反応してしまう自分などを。しかし、そんな自分を如何ともし難いと諦めたり、または必死に捉えようと努力したりして、共同体に収まりのつくように変容していくものでした。
フィマは、頭のいい青年でした。ですが、それ以上に彼には社会の隙間を窺うようなことが自分に起きた時、その体をなくし、はみ出そうとするものを速やかに排除することができました。それは、彼の特別な力といってもよいものでした。彼は、元々非常な女垂らしでした。その気にならなくても、相手がその気になることがたくさん起きました。その容姿と声は、性のシンボルともなりえる端麗さで、彼が異性に飽くことはありませんでした。彼にとって、快楽は向こうからやって来るもので、それに充実していれば、生活は事足りました。彼は自分に悩む必要がありませんでした。悩みなどいらなかったのです。
ですが、イアリオと会ってしまい、彼は身の引きちぎれる思いがしていました。彼の大事な大事な一部が、相手の手に握られてしまった感じを、彼は受けました。それは彼の中を全部引っくり返して、彼をわけのわからない激情に突き落としました。彼は彼女を前にして何を一体受け止めたのでしょうか。それは、一般的ないわゆる一目惚れと、思われてもよかったでしょう。ですがそうなる理由がもしあるとすれば、それは全身的な、理屈のないことで、ほとんどすべての彼自身の存在を懸けざるをえなくなることでした。
彼は命を懸けたことがあったでしょうか。特に彼は、自分の体をなくすことができたのですが。例えば、たおやかに手を振る女の言いなりになって彼の体を預け。こちらから、おもむろに振った何かの仕草に吸い寄せられて、目の前に女性が来ることも。彼はそれを抱くだけでした。抱く、だけで、まるで、彼はいませんでした。心地よい感触がありました。茫然と彼はそれを受け止めていました。昔から彼はそうでした。彼はいつもにこやかでした。彼は人を好きになったことがあったでしょうか?それに近いものは感じても、それに苦しむということはなかったでしょう。彼はいつも笑っていました。人と彼とが強く結び付く経験はありませんでした。彼はいつも…母親の胎内にいるようでした。
フィマ=トルムオは、幼い頃に首都にやってきました。彼の両親は不在でした。彼一人だけが送られてきたのです。彼は当時からにこにこしていました。大勢の人々に世話をされて、孤児としても、思い悩むことはなかったのです。ですから、彼は人々に素直に感謝するすべをよく心得ていたのだと言うことができたかもしれません。彼は、天涯孤独の身を軽々と越えていく、得体の知れない善き力を十分に具えていたのです。父母が不在であれば…もしかしたら…自分の無様な感情や、色んな激しい衝動が、向くべき相手もいなかったかもしれません。自分と他者の比較という、大事な自己主張の心理的機構も、彼は一度も味わうことなく今まで育ってきたのです。
だからといって、彼の言葉に血が通っていないわけではなく、普通は気がつかない冷たさを彼は持っていたとしても、多くの人は、この美男子をつかまえて嫌な気分にならず、むしろ、夢を見るような美しい幻も現れてきて、彼に感謝するのです。けれど彼はどこにいるのでしょうか。いったい、ここにいるのに、人間の彼は、自分が人間の間にいるものと、感じることができない希薄感に支配されていました。
しかし、それらは彼の人としての一面にすぎないとも言えたでしょう。彼の声を、ちゃんとした人間の肉声として聴いていた人々もいたのです。彼の養父である老爺トルムオは彼の難しい性格を最初から知っていましたし、だからこそ、彼の後に養子としたニクトの世話の一部を、彼に任せもしたのです。強い愛に本当は餓えればこそ、かえって愛は希薄になることを、重々承知していたのです。
ニクトもまた彼の本当の声を聴いていました。彼の彼女への警告は嘘偽りなく聞こえ、そこに確かに愛情が含まれていることを彼女は感じていました。彼女は注意深く兄の言葉や仕草を見ていて、まだ年端のいかない彼女なりに、彼の生き方をよく解釈していました。彼女が彼を好きになった理由はただ、彼が彼女の面倒を見ていたというだけではありませんでした。
そして、イアリオもまた、彼の肉声を聴くことのできる力の持ち主でした。彼女は思わず彼を誘惑してしまいました。そんな気はさらさらなく、ましてやもてたという経験もない彼女は、彼の分かり易い反応にまったく驚いてしまいましたが、それがかえって、彼への注目を怠らないことにもなっていくのでした。
フィマには、ある危機が訪れていました。その危機は、イアリオがそのふるさとに覚えざるをえなくなったものにそっくりでした。そして、その危機をこそ、彼女は正体を暴こうとしていました。オグという、かつて人間が預けた悪の集合の成り行きを。
青年が生まれてはじめて強烈な一目惚れを体験して悶える一方、イアリオは、毎日取り憑かれたように借りてきた本を読んでいました。ニクトが度々訪ねてきて、欲しいものはないか色々窺うのですが、彼女は、二冊の書物を手に取って以来、まるで流水が滝壺に流れるがごとく、文字の洪水を受け止めていました。人間がこんなにも紙でできたものを眺める機会などあるものかというくらいに、やつれ、疲れても、ページを繰る手の動きは止まらず一定でした。用を足す時などやむなく席をはずす場合の他、彼女は片時も本を手放しませんでした。勿論、今までたくさんの書物を一度に読む機会はありました。墓丘の上で出会った白光の天女たちの不可思議な言葉を調べようとした時に、またその前にも彼女が教員になろうとして歴史の勉学に励んでいた時に、限られた資料とはいえ役に立つものは片っ端から参照した時期がありました。ですが、都の大図書館を訪れた後の今の読み方は半ば異常で、貧しさに喘ぐ人間がいちどきに食べ物を与えられたように、彼女はがつがつと文字を貪っていました。頭の中に入ってくる文字の描き出す物語を、彼女はかつて聞いたもののように、つまりは昔話のように、鮮明に、想像ができました。文とは不思議なものだと彼女は思いました。それは、現在起きていることではないのに、一語一語が、ありえた過去を物語っているのです。
ありえたもの、という過去の感覚を、彼女は持っていました。決してその場に自分が立っていたのではない過去に、彼女はあくまで想像で近づくことのできることだと考えていたのです。イアリオにとっての歴史とはそのようなものでした。それは、あの町の地下の探索に出掛ける前も、同じでした。大人たちの言うことが、どれほど脚色に染まっていても、本当のことと語られることとが違っても、ありえたことを彼女は信じられました。なぜなら、そうでなければ明瞭に空想することなどできないからです。はたして子供たちに語られる昔話は、本当に起きたことでしょうか?そうでなくとも、彼らは物語に親しみます。
一方で、テオルドなどは、真に歴史を重んじました。彼にとって、歴史とは連綿と続く心のお化けでした。彼の町がもたらす伝統の束縛も、彼の女系の祖先がもたらす怖いお話も、どちらも彼には本当でした。両方とも、人の悪を含む昔語りであり、彼にとって、まことに痛々しいものでした。歴史は彼女のように想像で近づくものではなく、人の心が創り続けてきたものだったのです。しかしイアリオにとって、それは大事な食料のようなものでした。彼女はハルロスの日記も手に入れて、なおさらにそのように思いました。人間が生きるために、必要な、大切なもの。多くの物語はいったいこのようなものでした。何が昔話を子供たちに語るのかといえば、彼らの健康と成長を祈るためです。そして彼らの興味関心を呼び覚まし、世界に意識を開かせるためです。もしかしたらそれは、ひょっとしたら、イラ本人と彼女の子孫も同じ目的だったかもしれません。
何も、昔話は健全無毒なものばかりではありません。大抵が微毒を持つものです。しかし、それならそれが語り継がれたという事実は、何を語っているのでしょうか。彼も彼女も、その本当のところを感じていました。人間の生業の中にある、確か過ぎる行動というものに。
イアリオは、公から彼女にあてがわれた部屋で、本を読み進めていました。その部屋は国家の来賓がしばらく滞在する時に使われるものでしたが、小宮殿のほど近くにあり、建物は二階建てで、塔はなく四角く落ち着いた風情で、内庭と外庭がありました。宮殿や大図書館には窓枠にガラスが嵌められていて、それが反射する陽光が輝かしくて慣れぬ間はどうしても気になりましたが、彼女が泊まることとなった公館の外壁の窓はただ奥まっていてガラスが使われておらず、また装飾も最低限で華美ではなく、小気味のいい外観をしていました。それに外壁の色は肌色で、柔らかく日の光を反射し、オルドピスに来たばかりの外国人に都の街並みはやや目に刺激のあるものでしたが、その刺激から守られていました。部屋もまた簡素な色彩が基調で、彼女はほっとしました。コパ・デ・コパのような室内では落ち着くことができません。まして、先日泊まった小宮殿の部屋も、豪華な幕が壁に飾られ、調度品も触れるに憚るような意匠があって、居心地がよいとは言えませんでした。とはいえ、さすがに来賓用の部屋でしたから、凝った彫刻はなくとも調度類はぴかぴかに磨かれて、ベッドはふかふかで、布団は毎日天日に干して入れ替えてくれました。彼女は可能なかぎり、自分でできることは自分でしたいと思っていましたが、いざ長期滞在となるであろうここでの生活が始まれば、用意されたものはとても気配りが行き届いて、かつ過不足がありませんでした。イアリオはひたすらに、ここに来た使命を果たすべく動くことができたのです。それにふさわしい環境は、彼女の手で作り出されず、周りで整えられました。
おかげで彼女は、何も思い煩うことなく、むさぼるように図書を読むことができました。彼女は体力の限界までそれを続けました。ありつく食事もろくに喉を通さぬほどで、ひたすら打ち込んでいたのです。心配したニクトがさすがにイアリオに忠告しました。
「お風呂にも入らないで、睡眠も十分に取らないで、このままやつれて死んでしまえば、私たちは非常に悲しむわ!それだけじゃない、わが国の沽券に関わってしまうもの、なんとかして、あなたを元の姿に戻して外出させることにするからね!」
彼女の世話を言い付かったニクトは、イアリオがどんな人間かその様子を細かく観察しながら、彼女の姿勢には何も口を挟まぬつもりでしたが、ついに我慢がならなくなりました。大賢者トルムオの養子である少女は、始めからイアリオの世話役に決まっていたのではありませんでしたが、どうやら適任だと思われ、トルムオはこれを認めました。といっても少女を預かる身として、彼に葛藤がなかったわけではありません。トラエルという町から否応なしに飛び出した人間を、どのように扱うべきかはまことに慎重に討議されることでした。それはかの町に秘匿すべき埋蔵量の黄金が存在するだけではなく、オグという、とても人間には対峙できない怪物が、その悪の息吹で人々を破滅に導くことが分かっていたからです。彼女がどうしてその手先で決してないなどと判断ができるものでしょうか。
彼女は籠の中でしばらく監視し続けねばならない対象でした。彼女を世話する者も、また活動を制限しなければなりませんでした。ニクトこそまだ養父の管理下にあり、行動を制限しやすい都合のいい人物でした。少女を彼女の使用人に当てることは異論なく、ただその親が或る覚悟を求められるだけでした。
「一体、イアリオの国では何日に休みの日があるの?」
少女が訊きました。イアリオは書物に指のしおりを挟んで、顔を上げました。
「ここでは、何日ごとにあるの?」
「六日ごとだけど、あなたは、もう二回分の休みをふいにしているわ!」
少女はかなり憤激していました。
「私の町でも同じだわ。ニクト、でもね、きちんと休まなくてはならないという決まり事はないよ。案外、人間の体って丈夫なんだから!」
と言いながら、彼女は両肘を引き上げてみせましたが、思った以上に引き上がらなくて、自分でちょっと驚きました。
「そうは言ってもね、誰だって心配するよ。あなたはたった一人でこの国に来ていて、そうでなくたって一人の女性なんだから。いくら使者だからって無理はしていけないの!この意見は、私の我が儘に聞こえる?」
イアリオは素直に首を振りました。
「でも…私の方が、我が儘かもしれないけれど、こんな風に考えるわ」
彼女はニクトに応えながら、頭の中はずっと歴史でいっぱいでした。だから、少女に向けて言うのではなく、その歴史に言わされるようなことを言いました。
「本当は、自分の命なんてどうでもいいって。なぜなら、それだけの覚悟でここに来ているからね。私は生かされているのよ。そして、行かされた。自分で行った。色々な導きはあったけれど、結局は、ここに好き好んで来てしまったのは私だわ。
何か、自分の前に巨大な壁があるの。私はそれを乗り越えようとしている。でも可能かどうか、わからない。一人で来てしまったことは、間違いだったかもしれない。そう思っているわ。ああ…何だか、情けない。早速反省かしら。目的の場所に来て、かねてやりたかったことを、今現実にできているのに」
彼女にしてはこの言葉はしおらしいものでしたが、町を出て冒険に出掛けてから、いいえ、あの地下都市に潜る間、いなくなったテオルドを探しに行きながらピロットの背中を追うことになった少女時代にも、それは幾度も直面した感情でした。彼女は今、人間の隙間にいる感覚が、鋭敏になっていました。浮き上がってくる事実の過去の積み重ねと、下に沈み込むどうしようもない人間の心の現実との、隙間に彼女はいました。両者は分かれ、しかし、そのどちらにも自分は両足を掛けて立っていました。独り言のように彼女はそうしたことをニクトに呟きました。ニクトは心配そうに彼女の様子をうかがうばかりでした。
ですが、そうは呟くもののさすがにイアリオも自分の体力の限界を感じました。腕は上がらなくなっていました。また、日の当たらない場所にばかりいることもよくないことだと思いました。従来、彼女は体を動かすことが好きでしたから、なおさらでした。彼女は、少しだけ休眠を摂り、食べ物も口に入れました。まだ日は高くなりかけでしたので、その日一日は休息することに決めて、イアリオはニクトに連れられていくことにしました。少女は、彼女を都から傍の、山の手に連れて行きました。都の周囲に聳える丘と比べても、その五倍ほどの高さの小山ですが、周りに同じくらいの高さのものが連なっていて、可愛らしいこぶの山脈を草原につくり出しているところでした。彼女たちはピクニックの準備をして行きました。弁当箱を提げて、イアリオの裸足と、ニクトのサンダルが、しゅっしゅっと、草を掻き分け小気味よく山肌を進んでいきました。真夏の空は、クリアに、太く短い草の絨毯に覆われた緑の斜面を照らす太陽の光を燦々と透過させていました。イアリオは歩きながら、この辺りにある植物を目に留めました。白い花と黒い花は、長い弁を四つに分けて共に同じ形に開き、ゆっくりと揺れながら頷いていました。所々に群生する細い幹の木立は、どうも可愛げがなく、どこか寂しそうでした。そして、たまに見かける小石と砂の混じった草の禿げた地面は、いかにも暑そうに蒸気を吹いているようでした。イアリオの町では夏でも海に近いので、長袖の襦袢ははずさなくとも過ごせましたが、ここではそうもいかない気がしました。都には部屋も街中も暑気払いの涼気に溢れて、激しく動かないかぎりは汗だくになることはなさそうでしたが、どうしようかと彼女は悩みました。ぽたぽたと汗が滴り、止まりません。
「イアリオ、暑そう」ニクトが歯をきらりとさせて言いました。少女は上下セパレートの、都の市民が着るような露出の高い服を着ていました。国賓の使用人たちは袖も裾も長い物を着ることになっていたのですが、彼女との最初の出会いがそもそも普通の衣装だったので、このままでいいとイアリオもオルドピス側も認証したのでした。「でも、その服は変えられないの?」
ニクトはイアリオの長袖長裾の民族衣装を指差して言いました。イアリオは、この暑さに対処するならばこの国の人々のような衣服に、まるごと変えてしまった方がいいようにも思いました。でも、そうすれば自分はあの町の人間だということが遠くに離れていってしまいそうに思いました。今も、ただ腕まくりするだけでも、袖をちょっとだけ切ってみることも、まるで皮膚をめくるような痛みを自分は感じてしまいかねない気がしました。
「変えられないわ」イアリオは呟くように言いました。「いくら暑くてもね。なぜだかわからないけれど」
小山のてっぺんに立つと、遮るもののない風が来て、幾分楽になりました。さわさわと空気が揺れて、イアリオのちりちりの鬢も、楽しげに膨らみました。少女の金髪ははたはたと広がって、蝶のようでした。ところで、彼女たちには護衛がついていました。二人が大図書館に行った時も、兵士が傍で監視していました。イアリオの処遇は、彼女がこの国に来てから首都を訪れた後も変わりませんでした。彼女は自由ではありませんでした。それは、オグの影響を受けたと思われる人間をこちらで野放しにするわけにはいかないからでしたが、彼女には、まだその理由を知らせていませんでした。
オルドピスは、あらゆることを想定していました。彼らは非常に恐れていました。人の悪意の塊に、明らかに影響を受けた人間が、自らの、囲いの中から外へ出ることを、
やむにやまれず選択したことを。
クロウルダのハオスが、彼女について確かめられたことを、オルドピスは伺っていました。あのオグの中に自分の前世を持つ彼女が、何か、途方もない変化を求めていることを、人身御供となった彼の死後の魂は伝えてきました。塊となった悪が、自分の消滅を望んでいて、そのために非常に大勢の生者の意思を望んでいることも明らかにされました。いにしえの悪と彼女は、見るからに同期していました。彼女を野放しにするのは明らかに危険で、監禁か、さもなくば殺害することまで大国では討議されていたのです。
しかしそこは、学術に重きを置く国家で、彼女を監視し観察し、またとない歴史の機会から学びを得る選択こそ結論を勝ち取りました。十二歳と年若いニクトを彼女の傍に置くことにしたのも、少女を含めて管理下に置き易いからでしたが、それにはもう一つ理由がありました。少女は、実はクロウルダでした。イアリオがトルムオの執務室で老賢者と相対している時に、ニクトはその裏庭で、その民族の長と遊んでいたのです。彼らにはオグと強く結び付く特殊な感覚がありましたが、それは決してオグに誘惑されてしまう心の弱さを増長したものではなく、あくまで悪の監視者となる祈祷師、神官たる潔斎(身を清らかにすること)につながるものでした。ニクトが彼女に懐いたのはたまたまで、少女の他に使用人候補はいたのですが、かえってまたとない人選の流れとなったのでした。
ですが、あいにく彼女から重大に思われる影響を受けてしまった、可哀そうな人間が一人いました。すかさず、オルドピスは彼女を一目見ただけでたちまち恋患いに陥ることとなった青年を、監視下に置き検証を始めました。
野山の上で、イアリオたちは弁当を広げました。木枠の箱に丁寧に盛り付けられたトマトサラダと、干しブドウ入りの柔らかいパンは、とてもおいしくて笑顔が漏れました。イアリオは、眼下に細い川の支流があるのを見つけました。食事が済むとそこへ行って、二人は兵士の視線も感じながら、思い切りよく遊びました。イアリオは、川の縁に石で囲いを作って、その中に魚を追い込み、素早く生簀をつくってみせました。
「これで手づかみでも獲れるわ。ほら!」
そう言って、一番大きくて生きのいい魚を、両手で掴んでみせました。ニクトはあっけにとられて見ていました。川に浸かったイアリオは、人魚のように輝いて見えました。
決して見目の悪くないイアリオは、まだ乙女でした。その感性はいまだに少女のものを残していました。今、彼女は自分の町にいませんでした。たった一人でこんな場所にまで来ていたのでした。三百年間堅持された、恐怖と怯えから出来上がった囲いを脱して、そのはるか彼方の空の真下で水面にはしゃぎました。
大人になった彼女は、想い人だったピロットを地下にて再び発見したものの、いささかも彼を失った時から変化していない部分がありました。あの十二歳のときから。ニクトとイアリオは獲った魚を調味料なしで焼いて食べました。魚はその身をぷりっとさせて、ほのかな青臭さを口いっぱいにさせて、少女と少女のようなイアリオを、満足させました。
その翌日でした。ニクトがイアリオの部屋を訪ねると、彼女は裸で、裸身を光に晒していました。それは本当に綺麗な体でした。お尻のわずかに下ったところに染みがありました。肩甲骨がやや高めでしょうか。背中は少し肉厚で、首は長く、太めでした。裸はどこか崩れていれば、醜く見えてしまうものですが、その崩れが、ニクトの目にはかえって見たこともない美しさに変わっていました。彼女は振り返り、ニクトに笑ってみせました。
昨夜も、彼女はほとんど徹夜をしていました。明るくなる頃に寝入って、午前中の今に起床したばかりでしたが、少女のように、その体は充実していました。大変!と、ニクトは慌てて扉を閉めました。そうするまで、わずかな間でしたが、少女はしばらくぼうっとしてその裸身に見入っていました。
完璧でない女性の裸は、誰に見せてもいいものではありませんでした。それがありえぬほど完璧ならば、石像のように、美しさに溜息をつくばかりなのでしょうが。しかしニクトの目に映ったのは、まったくそれとは異なる人の美でした。金髪の女の子はベッドに急いで向かって、タオルケットを一枚、寝床から引っ張って彼女の裸身を包みました。豊かな胸が少女の腕の中ほどに当たりました。少女の腕は縮こまりました。そして、一挙に、ニクトはこの女性が好きになりました。窓から満ちる太陽のあかりが、透けるほど薄い布を、それに包まれてしまった成熟した体は、ひらひらとさせました。桃色が辺りに立ち込みました。
その瞬間、世界は青く沈みました。少女はまだ甘酸っぱいかたちを口の中に頬張っている十二歳でした。世界に手に負えないものがあることを知る子供でした。にもかかわらず、この場において、ただ一つ、許せないことがありました。
「お母さんは、こう言っていたわ。みだらに人に全身を見せるものではないって」
ニクトはなぜか祈りたくなりました。自分が触れたこの体が、たった一人の誰かのものになるようにと。ハリトも、彼女の女としての幸せを願ったことがありましたが、それと同様に、少女もあまりに性的な魅力に溢れるイアリオの裸身を、心配し、心からそれがまことにふさわしい相手に貰われるのを、無意識に願いました。彼女らを巡って、右からラッパが、左からテューバが、鳴りました。その高音と低音は、意識しながら、互いの周りを巡り巡りました。
完成した女性の肌が間近に迫って、少女の唇は震えていました。目が濡れた様に光っていました。いやでも性を意識しなければならないはずの、ありのままの健康な体が、今、少女のものだけになっていることに、少女は恐怖すら感じました。勿論頭脳明晰な金髪の少女には性の知識がありました。そのための授業は書物による座学だけではなく、教育に慎重なオルドピスでは、実践とまではいかなくてももっと立ち入ったことを教えていました。体の構造も、恋愛の果ての到達も、夫婦となり子供が生まれる責任を負うことも、性にはまつわっていました。少女はその知識を一辺に頭の中でおさらいしました。そして、ニクトはイアリオの体に同性愛の興奮を覚えたのではなく、彼女に一目惚れをしてしまった人間を頭に思い描きました。
少女の腕に包まれたイアリオは、少女の中にある性の意識にも触れました。はっと、彼女はニクトの中に、その一人の人間が大きな影を作っていることを感じました。ニクトは、イアリオに想い人の存在を明らかにしていました。ですが、その人物に自分が惚れられてしまった後、少女にそれについての気持ちを訊いていませんでした。
彼女はニクトの柔らかな腕に抱かれて、自分が、このくらいの子どもと同じ背丈に返ってしまった気がしました。そして、ふと、なぜこのくらいの年齢の時に、性に色付き始める頃に普通抱くような言葉と気持ちを、大事に大事に自分自身にしまい続けていたのだろうと思いました。あれっと彼女は思いました。ニクトに抱かれた自分の体が、ぶるっと震えました。それまで、素っ裸でも、全然構わない気分のいい朝でしたのに。彼女はこの時間帯ならば部屋を訪ねるのは少女くらいだと分かっているから、全部の服を脱いでいたのです。なぜ、そんなことをしたのか。そのような気分になったとしか、彼女には言いようのないことでしたが、随分と殻を破り曝け出されたくなったのは、その身の上にこびりつく歴史だけでなく、またがんじがらめのような運命たる導きによるものに定まることもなく、その心も、肉体も当然に、生そのもの、心と体の結びつくものこそ彼女の内側から出て行こうとしたからでした。しかし、危ういものでした。人の裸身というものは。それは、誰に対しても誘惑する力を発揮し、持て余されうるもので、世界の隙間にはみ出すものでした。生は、社会など遥かに悠々と超える力を持っていました。彼女はしかしここに到達する過程を、あの町の地下に十年ぶりに潜ることになった時から経ていました。殻は破られるものでした。そして、
破られる殻を持っているのは、彼女だけではありませんでした。いいえ、誰もが破られる殻を持っているものです。そして、今にも破ろうとしているのは、あの町と、その下に居る怪物でした。
彼女は人の視線を感じました。今、そこにいるのは己の裸を見せてもいい少女だけでした。ですが、ニクトは自分以外の誰かに見られたら大変!と感じて、彼女に駆け寄り、タオルで包んだのです。イアリオは自分の体が薄い布で包まれたのは、なぜかと分からず、しかし少し経って、分かりました。彼女が裸になるのは彼女の町では自分の家か、あるいは沐浴のための森の中だけでしたが、ここは彼女の国の外でした。自分の町でするように、彼女は裸になったつもりでした。しかしここに来るまで彼女はたくさんの人と出会いました。ゆっくり、彼女はそれまでに自分がいなかった環境に慣れてくる最中でした。
自分の体が、誰かに見られうる、なんてことは、それまで考えてもみないことでした。彼女のボディは、彼女以外のものになることを、それまで想像をしたことがなかったのです。しかし、今は違いました。本当は違いました。
あれっ?あれ…?どうして私はここにいるのだろう、と彼女は思いました。ニクトが好いている相手を彼女は知っていました。ということは、ニクトは、彼のものになりたがっているのでしょう。塞いでしまっていた性への意識が、とめどなく、彼女の心の中に立ち昇ってくるようでした。自分は…?と、彼女は思いました。そして、
どうして自分は、こんな使命を背負っているのだろうか、と考えました。クロウルダとオグのことを調べなければならないような。
彼女は急速に自我が空虚になるのを覚えました。それまでこれぞ「私」と認識していた自画像が、薄らぎました。彼女の顔面は紅くなりました。少女と彼女の、二人の眼差しは、まるでどちらが年上で年下なのか、わからなくなりました。苦しみがイアリオの胸を襲いました。たとえようもない苦しさが、胸の奥から、表に昇ろうと貫きました。まずい、まずいと彼女は思いました。何かに囚われている。どうにかして、収めなければ!彼女は、自分の胸をぎゅっと掴みました。それが物であるかのように。
今まで、もしかしたら彼女は自分を物のように扱っていたのかもしれません。多くの人に、自分は育てられたという自覚は、彼女にあまり芽生えていませんでした。そのことは、理屈に留まっていたのです。人間の隙間にいながら、彼女は屁理屈を繰り返したのです。しかし教師にはなれました。誰かを育てることはできました。ですが、はたして自分を育てていたのでしょうか?彼女は、自分に起きた経験を、しっかりと自分に根付かせていたのでしょうか?
その女性は少女に抱かれ、口の中から吐息を吐き出しました。女性は少女を向き直り、ちりちりの前髪の下で、くっきりと、その両目を瞬かせ、胸元の相手を、優しく包みました。その時、女性と少女は二人揃って次のステージに進みました。イアリオはえいやっと体を翻して、自分をくるんでいたタオルケットでニクトを包みました。急に目の前が見えなくなった少女は、きゃっと叫んでばたばたしました。ニクトは慌てて腕を掻き、タオルケットの端に両手の指を引っ掛けました。自分に巻きついた布をはずしてみると、そこに、立派な肢体を曝け出した年上の女性が光の中にいました。
少女は顔を真っ赤にして、これではいけないと幾度も叫びながら訴えました。イアリオは明るく笑って、少女をからかいました。しかし、次の瞬間、
彼女が好きだと分かった相手の名前が、自然と頭に浮かびました。彼女は明るく笑い続けました。ですが、その体の半分が、何度も何度も、泣き叫ぶようでした。彼女は知りませんでした。この過程こそオグを知る道標となっていることを。自分の、自分への裏切りが、自分の悪と、つながっていることを。
その夜、イアリオは徹夜を止めました。すると途方もない夢を見ました。彼女は雄の鳥でした。眼下に一艘の小舟があるのを見て、その鳥はその舳先に降り立ちました。すると、舟の中にいた男の子が、いきなり彼女を後ろから引っつかみ、ばたばたと暴れる彼女をそのまま毛をむしり頭蓋骨を折って、食べてしまいました。その少年はピロットでした。「いいんだよ」鳥は、霊魂になって言いました。
「私を栄養にして生き長らえるなら、それでも」
―――洞窟の中で、ピロットは目を覚ましました。彼は怖い表情をして石の上に座っていました。
それまで、彼は夢うつつの中を彷徨っていました。彼は、そのうつつの最中二人の人間に会ったような気がしました。彼よりは年下の、この洞窟の上の町に住んでいる者たちでした。彼は思い出しました。彼は笑いました。
「オグ、オグ、か…生意気だ。まるで幻のような悪魔に、この俺がたぶらかされてしまうものか」
しかし、彼はその悪魔との戦いで、自らの体の一部を犠牲にしていました。そのショックもあり、しばらく意識を混迷させていたのです。彼は、一つの悪魔と対峙できるほどその身に悪を宿していました。しかし、己の悪を守るために、彼は犠牲を捧げなければなりませんでした。
彼こそイアリオの前世を含んだオグに、己を一部を手渡しました。まるで、夢の中で彼女が彼に喰われたように。彼は十二歳の少年の頃、この暗闇から出てゆく前にその顔をどんな人間の表情にもなれる、都合の良いかたちに合わせることができるようになっていました。地下で黄金を見た彼は、その残酷な快感を懐中とするために、表情を失い、感情を露わにすることを遠ざけたのです。しかし、それから成長した彼は、海外を股にかけ残酷な活躍をした彼は、彼が懇意となった人間を守るために、懇意となった人間の前世に、彼の片腕を差し出していました。
オグは、それで退きました。代わりに、彼は彼女に抱き締められました。その一時に記憶をなくした彼は、ようやく、何が起こったかを思い出しました。彼はにやりと笑いました。ぞくりとするほど、寂しそうににやりと笑いました。暗闇で彼はついに自我に目覚めたのです。もはやいかなるものも彼をコントロールできなくなったのです。彼は誰かに剣を突きたてるべく、海の外側からここへ戻ってきたのです。その相手がようやく分かりました。それは誘惑者。オグの中にいた者でした。そして、オグと、向き合うことができた者でした。
「ああ、もう、ずっと長々とした夢を見ていたのだな」
彼は石から立ち上がりました。何も見ることができない真っ暗闇をぐるっと見渡して、こう言いました。
「ようやく俺は、そう、本当の活動が始められるのか。まずは、上の黄金を洗いざらい運ぼう。そうして俺の、自分の王国を築こう。ああ、確かに、もう俺には分かっている。俺はあの町を破壊する」
一つの破局点に向かって、
「食べるんだ。喰らうんだ。そうすれば俺はやっと俺自身の形になれる。今まで俺は誰なのか知らない人間になっていたんだ。
もう、それは終わるんだ」
彼が正しく自由になるために。
三大図書館の一つ、コルマエルの館は、直径が三百メートルにも及ぶ円柱型の建物でした。その壁はどっしりとして黒く、周りを威圧する風情を持っていました。かの館は外壁以外は直線で一切が仕切られていました。館外の庭も、館内の円の中も、意識的に規律正しい直線の幾何学模様をつくり出していました。それは、彼らがこの世は円の連続だと考えるような思想を持っていたからです。円とは閉じた輪で、外と内とを区切る形のことでした。物質は皆輪郭を持ち、それ自身とそれ自身でないものを区別しています。しかし、それは重なり合い、互いに影響を及ぼし合いながら、この世に存在しています。
この互いの関係性を、オルドピスの学問では観念的に、円に象徴して捉えるのです。その円は、彼らに拠ればまっすぐな線で区切ることができました。直線で円を割り、ばらばらに分解すると、その円の中身が詳しく調べられるものと彼らは考えました。つまり生き物の体なら、部位ごとに分解してみることで、脚の役割、手の役割、内臓、首、頭の役割など、それぞれの性能がよりよく解る、といったことでした。彼らは生物などに限らず、あらゆる物事を一つずつの円として捉えました。そして、それぞれの性質をよく理解していくことで、人間にとって必要な知識が増えていくと信じたのです。この思想を模したのが、コルマエル館の幾何学構造でした。
かといって彼らが科学の信望者だというわけではありません。オルドピスの人々は自然に大きな敬意を払っていました。それには呪術的な力も働いていると感じられていました。ですがその自然に対して、人が影響を及ぼすことができるようになった領域は、徐々にですが増えていると思っていました。コルマエルの図書館はまったく切り立った壁の連続でした。しかし採光を考えてよくつくられていて、書架付近はそれほど暗さを覚えませんでした。とはいえ初めて入館した人間にとっては、いくら調和の取れたデザインだとしても壁の配置は入り組んでいて、まるで迷路にはまり込んでしまったように感じられました。
イアリオは頼んでいた本を借りてくるためにこの館を訪れました。その本は前にフィマが請け負い、彼自身が取ってくると言って館から飛ぶように駆け出していったものでした。彼は、そのすぐ後兵士たちに捕まれて、国賓の図書の用事であるからしかるべき手続きが必要だと言われ、少し質問を受けたのちに帰されていました。それ以来、まだ彼は彼女に会っていませんでした。オルドピスは彼を、かの町から脱出してきた人間が最初に誘惑した相手として認定しました。しかし、これ以上彼女に関わらせないようにするなどということはせず、彼を観察することにしました。司書である彼は、彼女が新たに図書を借りに来る他は、イアリオと会う機会がありませんでした。ですがニクトを通して、彼女との接点を持てていると彼は考えました。彼女を想う気持ちは日に日に募る一方でしたが、きっとまた出会えると信じて、その時を待ち侘びていました。
さてイアリオは最初の大図書館、曲線うねるシフルドの館で直接所望した書物をやっと借りてくることができたのですが、他の二冊は大分読み進めていて、ほとんど終わりかけていました。それ以外にも彼女はすでにたくさんの本を借りてきていました。すぐに用意される本もあれば、貸し出しに時間のかかる本もありましたが、とにかく彼女は自分の町の周辺の歴史を調べまくりました。彼女はオルドピスとクロウルダの期待に沿うような答弁を待たれていました。あの町で起きている、自分自身に覆い被さる焦燥の原因となっているものを、言語化することを望まれていました。そのために彼女は自分の得意な歴史から進もうとしていました。過去が整理されれば、自ずと現在がよく見えてくるだろうと考えてのことでしたが、大国の首脳トルムオからも、そのような段階を踏んだほうが良いとアドバイスを受けていました。
彼女は自分の町の来し方を、オグやクロウルダの歴史よりもまず先に調べることになりました。しかし、勿論、黄金都市の所在が率直に書かれている本などここオルドピスにもありません。彼女は、歴史学の教師でしたから、すでにある程度の世界中の趨勢は心得ていました。しかし、彼女が参照した資料は町に三百年間保存されてきたものが主で、オルドピスから輸入されたものも多少ありましたが、それらは最新のものとはいえませんでした。それに、町に保存される書物は、町によって取捨選択されていることが考えられました。彼女は正確な情報を欲しました。オルドピスにある数々の資料、あるいは歴史書は、恰好の情報を提供してくれました。何より、彼女は自分の知識を上回る知識が欲しいから、あの町から出て行ったのです。
オルドピスの図書から、彼女の町を直接調べることはできませんでしたが、その町は今や大国の隣国となっていました。すなわち、大国の歴史の歩みを調べれば、相当その周辺の事情が明らかにされました。伝説ではこの辺りは高い山を含めない低地はかつて海の中に沈んでいたと言われています。しかし、人類は高地に逃げおおせ、海の水が引き、住むことのできる陸地が増えてくると、彼らは山から下り始め、だんだんと人口を増やしていったということです。それがこの辺りの歴史の始まりでした。イアリオはずっとその始まりから書物に記されている史実を追っていきました。彼女の町で蓄えた知識に加えた補填は数知れずありました。彼女は夢中になって読み進めていきましたが、世界史は、無論オルドピスの周辺に留まりません。「歴史書・題は無し」あるいは「古代からの滅亡」には、世界中の古代史が取り扱われていました。彼女はまずそこから彼女の町の周囲の過去を窺いました。特に、三百年前より前、海賊の都がそこにでき上がるまでの過程を知ろうとしました。
事の趨勢は色々とありましたが、彼女に重要だと思われる事象は、やはり直近の歴史、海を巡る激しい攻防が行われた二百から四百年前の海洋史でした。その頃オルドピスはまだ国として存在していず、ほとんどが内陸の小国として独立していました。彼らは激しく対立する海洋国家からは離れて、比較的平和に、かつ独自の文化圏を確立しつつありました。のちに互いに結託して大国を開こうとする前に、学術を基礎とする国造りに積極的になるほど軍事面ではさほど脅威がなかったのです。とはいえ、今後力に任せたいくさに巻き込まれてしまう可能性を考えて、彼らは自分たちの学問を武器に、多方面外交を展開していくのです。その結果、内陸の大国は生まれ、徐々に、その勢力を陸端に伸ばしていくのです。
彼女はオルドピスそのものの歴史にも興味がありましたが、それはいくらでも今後調べられるものとして脇に置きました。当時激しかったのは港湾都市を抱える国々による海の勢力争いでした。特に海賊が勢いを持つ時代、三つの大勢力のいずれかが海の覇権を握るだろうと目されていました。中でもデラルクト=ムルース率いる勢力は、ほとんどその手にそれを握りかけていました。
彼は彼女の町の真下にある都がその手で自らを壊す、およそ三百年前より三十年が下った時代に活躍しました。彼は、トラエルの町の地下の港湾都市に居を構えた海賊たちの子孫でした。世界史には彼の隆盛とその後の没落の様子まで詳しく描かれています。そして、彼の名前はイアリオの町の国史にも登場していました。海洋史には彼以前の海の勇者たち、つまり彼に血の繋がる上古の海賊や、テオルドの先祖ムジクンド率いる、海賊から下克上を果たした戦士らも紹介されていましたが、彼らについては町の史料にも詳細な記述があり、むしろ町にあるものの方がより詳しく書いてある内容もありました。イアリオはオルドピスで手に入れた史料から彼らの歴史と彼らに繋がるより古い時代を検めましたが、さほど興味を引くものはなく、むしろムルースが辿った足跡の方が、なぜだろうと頭をひねるほどじっくりと考察を求められました。なぜなら、彼の没落は彼女の町の地下にある、黄金を巡るものだったからでした。
かの黄金都市をつくり上げたのは偽者の王を祭り上げた海賊国家でした。そのやり方はもしかしたら今や大国であるオルドピス建国の由来とほぼ似ていたかもしれません。より強い力を得るように、小さなまとまりは大きなまとまりとなったのですが、兵士どもの下克上が起きるまで、それは三大勢力のうちの一つとなりました。彼らは諸国から様々な市民や奴隷たちを連れていき、あの穴蔵の港を開発し続けました。戦士たちに追われるまで支配者となった彼らは元来が王侯貴族に連なる血の持ち主で、身を持ち崩したり、出生が遅れたために兄弟から追放されたりした者たちでした。彼らは巷の人々よりは金持ちで、小さいながら個人事業主となれました。海には数々の増資のチャンスがありました。貿易などに乗り出した彼らは競合相手と盛んにせめぎ合いました。船には武器が必要で、奪い合いに応える軍備が欲されました。そこで、彼らは船団などを組み、組織立っていくのですが、必要以上に兵士や投石器を揃えられた者たちは、その生業をほとんど海賊業へと移していったのです。
彼らは富を蓄えられましたが、根無し草の事業主でした。彼らはそれこそ故郷を追放されているのです。偽りでもいいから、根を張れる場所を捜し求めました。選ばれたのが石窟の港で、神官クロウルダがその地へ移ってきたオグを奉り封印していた所でした。彼らはクロウルダを追い払い、そこに彼らの国を建てました。
オグは、一度目覚め、彼らがそこに侵入する前後、人々の命を残酷に奪っていました。魔物は魔物としては大量の悪をその時に食べていました。オグは神官追放後も、その時のように暴れ回ることはしませんでした。満腹となり、長い眠りに就いたのです。魔物になんら邪魔されることのなかった、むしろ魔物に侵略の手助けをされたことにもなった海賊たちは、その地でしばらくの間この世の春を謳歌することになりました。ですが、魔物と海賊たちの関係については歴史書に詳しく書かれていることではありません。
さて、その後の話になりますが、自分たちよりも数に勝る兵士たちに国を乗っ取られることとなった海賊どもは、ほぞを噛み悔しがりました。彼らはこの恨みを決して忘れませんでした。もっとも、彼らの溜め込んだ黄金がそっくり奪われてしまったのです。欲に飽くなき手負いの海賊は、復讐を誓い、別の土地で力を蓄えました。四十年後、彼らは方々の海をほとんど手中とするほど拡大し、いざ彼らの奪われし土地へと、乗り込むこととなりました。
彼らは彼らの血族がかつて支配したその都市がすでに滅びたことを知りませんでした。彼らはまだ強力な軍隊がその地を支配していると思い込んでいました。その頃、周囲の国々ではまだムジクンドの時代に黄金の国から派遣された管領が、依然仮の支配を担っていました。無論、送られた赴任者たちは何度か石窟の都に連絡を寄越していました。ですが、一切返事は返らず、偵察隊を、あるいは兵力を差し向けても、海からの侵入は暗礁によって阻まれ、陸路は都の北方の山脈の最西端からしか進軍ができなかったために、呼び込まれ後退を許されず全滅させられていました。彼らは国で何が起きたかまったく知ることはできず、その後何十年と経つ中で、故郷とのつながりを薄めそれぞれの地方にあたかも土俗の貴族であったかのように、馴染む努力をしたのでした。
彼らはまた、母国に生じた異常を隠し通してもきました。民草は平和であればよく、強力な軍事力を持った国の翼の下に自分たちはいると考えてきましたから、内政は穏やかで、再び国同士の戦乱が起きる事態になるまでは特別な叛乱もしませんでした。かの国の亡びは世界中に隠れました。
しかし海賊たちは、かの裏切り者たちの勇猛なる進撃が、ある時期にぷつりと途絶えたことに注目していました。ですがそれは力を蓄えるためかもしれぬと、じっと様子を見ていました。内政に何らかの事変があったとしても、そこは軍事国家であり、大きくは変わらないだろうと見ていたのです。しかし、彼らもまた諜報を試み、陸伝いに人を送っていました。彼らなりに慎重に街の奪取を計画したのですが、生憎調査から無事帰って来られた者はいませんでした。ところが、ある時彼らは町の人間から見えないところに物見やぐらを建てることができました。
国を追われし海賊一党は、海からの侵入をはじめから諦めていました。なぜなら国を奪った兵士たちも名うての船乗りであり、海戦を通じて版図を拡大していったからです。海賊側が記憶に留めた暗礁の場所もあてになるはずもなく、かつての上司たちの反撃を拒むための策略も、敵は十分に巡らせているに違いないと疑いませんでした。そこで、海賊どもは、陸からの侵略を試みることになったのです。そしてそのために、彼らは彼らを裏切った兵士たちが支配する国以外の、一帯の港を手中に収めました。いいえ、彼らの目的のために、対立していた勢力を呑み込み、都を取り戻す戦力を増強したのでした。海賊たちは町の東側と北側に聳え立つ山脈をぐるっと回って、なんとか山を越えて侵入する道を切り開き、暗き都の様子を窺うやぐらを森の中に隠し建てました。しかし、海上の攻防ならまだしも、陸上の戦略というものに彼らは馴染みませんでした。
亡びし都の子孫である町人の警備の拠点は、森の中、山際、相当標高の高い場所にも置かれていました。トラエルの町の資料には、この時の海賊たちの建てた櫓の場所が詳細に記録されています。どのくらいの期間に建てたか、何人ほどで仕事をこなしたか、などが、参照できて、イアリオもこの記録に目を通していました。それは、彼女が町から脱出するための手がかりを探していた時でしたが、つまり、このように記録に残っているということは、彼らは誘い込まれたのです。トラエルの町の人々は周到な用意をして侵略者を一網打尽にしようと策略を練っていました。浅はかな侵略者たちは、まんまとその罠に嵌り、監視者の目が届かないと思い込んだ道を見つけて意気揚々とそこからいくさを仕掛けたのです。確かに兵站を用意し、長い補給路を山越しに整備し、時間をかけて奪われたものを取り戻そうと計画を練った海賊側ではありましたが、かつての彼らのように偽王を通じたまとまりはなく、烏合の衆に近い連中が血気に逸って黄金を求めたのを、頭目ムルースは抑えることができませんでした。それだけ町側、つまりは彼らから見たら強大な軍事力を持つ兵士たちは、陸から自分たちが襲われることなどないもののように、隙だらけの背中を見せつけていたのです。
襲う時は今と、功に焦るならず者たちは、一団となって敵の背後に襲いかかりました。暗黒の市街へと。敵の背後からは海に面した港湾が塞がれた大蓋を見ることができませんでした。岩窟の上にできた小さな町には市民がいて、彼らの突然の襲撃に不意を突かれ、すっかりうろたえたように見えました。結果、ネズミ捕りの罠は残酷に、彼らを捕まえ滅ぼしました。暗闇には火が灯され赤々と街中を照らしていました。黄金が至る所で山積みにされていました。彼らは兵士たちの姿がないことに疑問を持つ前に、その金の輝きに心を奪われました。そして、奥へ奥へとネズミのように誘い込まれました。彼らこそ不意を突かれ、徐々に徐々に減っていく仲間たちの姿に気を留めることなく、初めて、あるいは長い月日を越えて再び見出した黄金の都の姿にだけ目を囚われているうちに、一方的な全滅へと向かったのでした。
無論のことですが親玉ムルースはここにはいませんでした。彼はまったく手痛い打撃を被り退くしかありませんでした。櫓は壊され、補給路に追っ手がかかり、山脈よりほうほうの体で逃げてくる部下たちと共に、苦虫を噛み潰しながら彼は海へと退却しました。ムルースはこの痛手はいまだ健在なる勇猛な戦士らによるものとして疑いませんでした。そしてあらかたの戦力を失い、また結託した他勢力の信頼もなくし、彼自身の力はまっ逆さまに墜落する翼のように凋落しました。
町の人々はこのような日のために普段から訓練を怠りませんでした。未曾有の亡びから約三十年が経って、なんとか人口は増えたものの、明らかに戦争などに耐えうる国力は存在しませんでした。彼らは閉ざされた土地に引き篭もり、可能な限りのゲリラ戦法を取らざるをえないことをよく解っていました。想定される侵略者は彼ら以外の者たちすべてなのです。
とはいえ、亡びが訪れてから、彼らはまずその土地で畑を掘り起こし種を撒き、自給自足の生活ができるようにならなければ、黄金を守り、隠し通すなぞできないことでした。彼らは種を求めました。穀物の備蓄は都にあれど種子はその手にありませんでした。そして農耕に従事した人間などいませんでしたから、まずは必死で知識を共有するようになりました。手がかりは都に残されていた書物の中になければならないと、生き抜くためのすべを各人協働して文字に習いました。役に立つ書物はありました。
彼らは陸伝いに種を手に入れる必要のあることを知りました。もっとも海への出入り口は自らの手で塞いでしまったのですから。北方に聳える山脈の西端に構える峠から、内陸の町に彼らは穀物やさまざまな野菜と果物の種子を求め出て、帰ることができました。馬や牛、豚など家畜類はそもそも海賊の時代以前からその土地にはいて、放牧するための牧場も牧草も、町から東側の山脈に至るまで、広々と開けていました。また牧夫は海賊時代にも戦士時代にも雇われていましたので、獣肉の確保の心配はいりませんでした。漁のできる人材もいましたが、彼らは海の釣り師であって、川漁の専門家ではありませんでした。とはいえ網漁の心得があったので、川魚は岸の隅や岩の下に隠れることを知ったあとは、集団での追い込み漁の指揮を執り新しい食物の確保に成功しました。
農作業が軌道に乗るまで彼らは時間がかかりました。ですが彼らが切り拓いた土地は土壌豊かな穀倉地でした。以後三百年間ほとんど飢えることのない食物を提供できるほどでしたので、もし彼らの方針が変わって外国と交易などができたとしたら、小富をその町に蓄えることができたでしょう。ですがそれはせず、余るようになった食物は、彼らの小さな町を多少は潤す回り金となったのです。さて、食べる物の心配のなくなった町の人々は、まず人口を増やす要請に駆られました。複婚を制度化し、医師、特に産婆医の補充を目指しました。医師はもとから割と十分いました。彼らこそ亡びの前後に冷静な意思決定を継続できたからです。とはいえ、彼らは岩窟の中という、空気の籠もる不健康な場所で生活していたので、身体はあまり丈夫ではありませんでした。生まれてくる子供も、初期は長生きできませんでした。
それでも徐々に人口を増やすことができ、彼らは次のステップを踏むことにしました。十分な戦力の増強と、町を守り切る戦略の構築を目指して、町を挙げた取り組みを行いました。大量に残存した武器を彼らは地下から表に上げて、蔵に保存していましたが、戦いの得意な人間は町に皆無と言ってよく、どのように残された武器を取り扱っていいか彼らには分かりませんでした。ですから今の彼らに扱うことのできる武器をつくり出すことを彼らは考えました。勿論、残存するもので彼らは訓練をしていましたが、侵攻を想定し対外戦を勝ち抜くために鍛えられた戦士用の武具はとにかく大きく、敵の刃先のかすらない射程を持つものがほとんどでしたので、市街地などでの防衛戦のための取り回しの良い武器は少なく、それも曲がっていたり柄の握りが特殊だったりと素直に扱えるものではありませんでした。そこで、彼らは炉を造り、武具を溶かして再利用することにしました。亡びた都にもたくさんの工房があって機能はしましたが、煙が出ては海から見えますので、東の山際に、海岸線からは隠れる場所に石炉は造られました。亡びを生き延びた人々の中で鍛冶師と石工は最も割合を占めていました。もとい、戦士の国になってから都にいる人間で最も多いのはその二種の職業の人々でした。
彼らは女子供でも使える武器をつくり出し、特に森の中や市街で急襲できる、急峻な山でも振り回せるほどの長さを持った、細身の剣を量産しました。また鏃を大量に生産し、木製の弓を相当確保しようとしました。これもまた残されたものは大型のものばかりで、超射程であり、幅を取りました。彼らは弓術に関しては町から北、あるいは北東の森林に棲む原住の民に教えを請いました。森の中で獣を撃つための弓こそ彼らの戦略に合うものでした。
こうして彼らの力に見合う軍備に見通しを付け、訓練を施し、防衛網の策定を完了したのは亡びよりおよそ二十五年が経った頃でした。それまで亡国の管領が偵察を送ってきたり、小隊を編成してきたりしたのを曲がりなりにも中途半端な装備で彼らは撃退に成功しました。その時の相手は敵性ではなかったので、だまし討ちには丁度いい勢力ではありましたが、どのようにして町を守ったらいいか、そのシミュレーションとしてはまったく良い経験になったのです。
そして、デラルクト=ムルース率いる海賊たちとの戦いとなります。ムルースたちはまんまと敵の策に呑まれました。数の上では圧倒的に無勢である町人たちに、陸上の戦いの経験値の無い者たちはだまし討たれ、相手がいかなる姿で戦っているのか見ることなく、背を向けて逃走したのでした。手痛い打撃を被った親玉のムルースは、敵の大きさをここに知りました。みるみる力を失った彼は、後事を子孫に託しましたが、恨み忘れず、再び黄金を目指すならばもっと周到に準備しもっと裏をかくようにせよと言い残しました。
やがて、故国に残した黄金とその時代を忘れられないかつての大海賊の形見は、再びトラエルの町とまみえます。なんと七十年かけて、彼らは都につながる穴を山の下に開けました。そこから、黄金を車で運ぼうとしたのです。大胆不敵なこの作戦は、デラルクトの子孫が行い、彼の三代下のジグルドがその貫通に立ち会いました。彼らに連綿と続く故郷への執着は、まさに岩をも通す一念となり、亡都より東の山系から伸びた穴は、地面の下さえ通り、直接地下の都につながりました。都まで貫いたその穴こそ、ハリトとレーゼがイアリオ抜きで地下に降り、彼らが初めてオグに遭遇した、地下都市の東地区の壁際の水溜りでした。そこでオグに触れたハリトは気を逸し、目覚めて自分を甲斐甲斐しく看護していたレーゼを激しく誘惑したのです。
ジグルドは手押し車を都に持ち込み、部下を長々と穴蔵に配置して、黄金を迅速に外に運ぶ手段を整えました。ところが、町はこの異変に素早く気付きました。亡びから百年が経ち、町の人間による地下街の見回りは頻繁には行われなくなり、定期的にも月に一回程度になっていました。ジグルドがそこに穴を通したのは定期点検の狭間の期間でした。にもかかわらず、虫の知らせが町人の誰の心にも届きました。人々は地下に見回りを立てて、密かに活動する海賊どもの動きを素早く捉えることができたのです。外敵は排泄されることになりました。人々は地下に水の道を造り、海からの水を引き入れることにしたのです。その工事は敵に気取られぬように行われました。海賊たちの行動パターンを速やかに把握したのち、彼らはわざと地下都市に盛大に明かりを灯しました。東地区の一角だけに町人の大勢を引き入れ、あたかも眠りに就いていた街が起き出したように見せかけました。当然、敵の空けた穴にはまったく気づかないふりをします。その間に瞬く間に工事を終えて、夜が訪れると、一夜前のように明かりをなくし、海賊たちを待ち構えました。黄金の荷役や、穴の入り口に引き上げた手押し車にそれを載せる役目の男たちなどが、夜の間にぞろぞろとやって来るのを彼らは確認しました。賊たちの長ジグルドは穴の中の人づてに街の様子を窺っていました。彼はどれほど時間をかけてこの盗みを成功させればいいかと考えました。穴は目立たぬ所に空けることができました。賊共は計算してその場所に至ったのではなく、ほとんど偶然で都の隅に到達ができたのですが、夜のうちに出入り口を貫通させると偵察を都中に放つも、その近辺で黄金の塊が積み上げられているのを発見したのです。手押し車はすでに穴口まで運ばれ、早速偵察員らは早土産としてその塊の一つを持ち出していました。ただ、街に人の気配がその時になかったこと、また海側は暗く月の光も見えなかったことに、彼らは異常さを感じていました。どれほどふるさとを確かめればいいか、黄金を盗み出すのを優先させるべきかを、首領は決断しなければなりませんでした。
彼らは街に人が溢れ出したのを見て穴へと引っ込みましたが、それが自分たちへの反応かどうか確かめられませんでした。なんらかの不自然さをジグルトは認識しましたが、貫通した穴を見つけられることが最も目的の失敗につながることでした。そして、目的ははっきりしていました。彼らは奪われた故郷を攻め落とすことなどまったく考えていませんでした。できることは彼らをそこまで凋落させた者たちに一矢のみ報いることでした。元々彼らのものだった金を再び彼らの手に戻すこと。その盗みの成功の程度こそ復讐の成否が決められるのです。彼らはできるだけ黄金を盗み出すことを一念に置きました。街の明かりが消える夜、黒い装束に身を包んだ明らかな盗賊は、小さく燻る灯を掲げて街中に金を探し求め、見つけ出したものは片っ端から穴蔵へと持ち運びました。町の人々はこれを暗闇で監視し、しばらく彼らを泳がせて、海水を引き入れる水道の栓を引き抜きました。ちなみに、地下街の方々に黄金の塊があったのは、亡びの日に支配者たる戦士が自滅の戦争を起こした際に、市民たちも黄金の取り合いをしたからでした。生き延びた人々はそれをそのままにしておきました。触れるのも吐き気を催すものだったからです。
海水は穴の中で作業していた者共をあっという間に溺れさせました。穴の位置は町側の人間にとっても好都合でした。都の拡張のために削られた岩窟は、港付近こそ海水面よりかさ上げしていましたが、その向こうは落ち窪むようにやや下降していたのです。そのようにして掘り下げることで、できうるかぎり地面の上に出ないように空間を広げていったのです。その一方で街の中心部は盛り上がり、権威付けされていて、秘密の海の出入り口をその下に隠していました。ピロットが小舟で脱出したのはその出入り口でした。海賊たちの空けた穴は、海水面よりも下に位置しました。水の道さえ渡せば、彼らは水没しました。
水の刑に処せられず、街側に居残った賊は皆捕縛され、彼らの企てを洗いざらい白状させるまで生かされました。このようにしてまた失敗したにもかかわらず、それからも海賊の子孫は幾度もかの都に入ろうと試みました。ですが悉く排除され続け、長い年月が経ちました。三百年も過ぎると、彼らを突き動かしてきた復讐の怨念もだんだんと薄れていきました。十二歳のピロットとテオルドが出会った、ハビデル=トアロという盗賊が、少女の頃遭遇した海賊の端くれも、血の怨念にくたびれその支配から逃れようとするほどに。
史上の事実はこのようなものでした。ジグルド=ムルースが彼らの一族によって掘削していた穴を貫通しようとした年代、今からおよそ二百年前には、トラエルの町の東山脈以東はすでにオルドピスの管轄化にありました。オルドピスはムルース一味の残党を捕縛していました。そこで彼らの記録に詳しく一党の顛末が描かれることとなったのですが、黄金にまつわる件は伏せられました。イアリオは、地下の街に侵入した郎党の名前も目的も知っていましたから、記録された町の外における彼らの行く末は、軽い想像だけで補えました。
その上で彼女は彼らの足跡を反芻し、じっくりと考察する破目になりました。それは、ある海賊一族の物語というより、あの町に関わる者たちの一つの結末に思えたのです。元々、町の人間は地下に溜められた黄金を用いて繁栄など考えていませんでした。それは、いかにもある兵器のように、巨大な戦力と同等のものでした。そこに蓄えられ過ぎているために、猛烈な幻想をもたらすこととなる、ひどい覚醒剤と一緒のものだったのです。
海賊も、彼ら町人も、その力の正体をよく知っていました。その力の結果を分かっていました。海賊の方がその利用する方法をよりよく知っていたでしょう。彼らがそれを奪ってきたのですから。そして、そのままそれは彼らの力の象徴ともなりました。
しかし、たくさんの黄金はただの象徴でした。量といい質といい、それはそこにあるだけでした。人がそれを掘り出すまで、山の中にあり、川底にあり、人がそれに価値を見出し、奪い合いをするまでになったもので、人しかその価値を知らないのです。人間にしかその魅惑は効かないものでした。
「まるで、ムルースは自らの力を自ら失っていったかのよう」
イアリオは、自分でもよく分からないことを呟きました。
「それが望みだった…?いや、変なことを言っているな。でも、彼らの意志はよく理解できるな。…理解でき過ぎるくらいに」
彼女は言語化できませんでしたが、ムルースの血統は、黄金の醸す強烈な誘惑から結果解放されました。誘惑というより、魂のくびきから。そのように彼らの歴史を読み解きはじめたイアリオは、彼らの結末が町に関わる者の一つの未来だったというだけでなく、彼女の町そのものが向かっている歴史の一つの姿なのではないだろうかと、疑うようになったのでした。
さて、町の人々を襲った脅威はこれだけではありませんでした。彼らの土地は、かつて海賊たちを栄えさせたように、海の交通の要衝でありました。まだ海を巡る戦いは続いていました。とは言っても、かつて繁栄した海賊の力は著しく後退し、新興国による海戦がトラエルの町の近辺でも繰り広げられるということになります。海賊どもは、いまだにそこを戦士たちが支配していると思い込んでいたので、ジグルドの代になってもずっとその海岸線には近寄らずにいました。しかし百年も経てば、いい加減、沈黙を続けるかつての強国の話など聞かなくなっています。新しく誕生した海洋国家は、新しい港の開発を望みました。それにとても都合のいい場所が、町のあるかの土地でした。しかし、見た目にも絶壁が上陸を阻み、暗礁も入り組み隠れていたので、到底港など建設できないとも思われてきました。
ですが、ある時、船からクレーンに吊り下げられた石矢が放たれて、人工の外壁を打ち壊してしまいました。船長などが鬱憤晴らしに部下にそう命令したのでしょう。そこにある岩壁はカモフラージュだと暴かれてしまったのです。
船長は国王に申し出、この土地を攻め落とす許可を得ました。暗礁は埋め立てれば湾を建設できます。しかしそのための土石は海上からでは輸送ができません。彼らは陸路からトラエルへ攻め込もうとしました。それも海賊のように、陸戦に不慣れな者たちに任せたのではなく、傭兵も入れて、本格的な戦争を挑みました。しかし、幾度もそこから外敵が追い払われたように、彼らもまた猛烈な反撃に遭い、退治され追い返されてしまいました。
ですが、この襲撃の時、町の人間は相当な危機を覚えました。彼らには未知の武器が、攻め寄せる敵方に使われていたのです。例えば、形状がぐねぐねとうねり裂傷を与えやすくした剣だったり、治療の方法のない毒が塗られた刃や穂先などを、敵は携えていました。また爆発するように火を飛ばす箱を見たのも初めてでした。
彼らは、果たして未来永劫この場所を、自分たちで守り続けられるのかと思いました。そして、このままひっそりと暮らしていていいのか、と迷いました。
そこでいよいよと登場してくるのが、かの大国のオルドピスです。実は、それまでオルドピスは何度も人を彼らに送っていました。けれど、使者も敵も区別なく町人たちは殺し続けてきました。外部の助力など請おうとは思っていなかった町ですが、しかしはじめてここに、そのかたくなな態度に風穴が開きました。
彼らと大国は、この時最初の面識を交わしたわけではありません。テオルドの先祖であり、黒表紙の日記の著者ハルロスの父親である、大戦士と名高かったムジクンド=テオルドの治世から、かの国とは深い交流を持っていました。とはいってもまだオルドピスは国々が合併して誕生していず、のちにその一地方となる国との交流でしたが。ムジクンドは、当時から内政や学問に精力を注いでいた、内陸の国に政治を学ぼうとしていたのです。ところが、栄光輝く大戦士の国も、その懸念であった内政の綻びによって滅亡しました。
オルドピスは、かの国を殊更に深く気にかけていました。国同士が近いという地理的条件はもとよりも、まったく内情が知られていなかったからです。使者も殺されては打つ手がありませんが、それでも大国は繰り返し幾度も手紙を矢に括って彼らに撃ち込みました。彼らの亡びから、百五十年が経ちました。
町の方でも「オルドピス」という国の名はよく知られるようになりました。ただ、彼らは戦士時代にその国と自分たちは手を結んでいたことを覚えていて、よほどのことがなければ相手にしない態度を取り続けていました。しかし彼らは使者をやむなく葬っているところがありました。もはやそれは伝統の態度となりつつあり、自分たちの黄金を守るために、自分たち以外の人間は排斥するしかなかったのです。…ですが、彼らはよくよく考えてみなければならないことに気がつきました。実は自分たちが相当進退窮まっていたのです。海洋国と、オルドピスと、両国に同時にも攻め込まれうる可能性があったのです。そして、両国とも彼らが未知の武器をまだまだ持っているかもしれないということになれば…。もし一方と手を組むことができれば、一方は退けられるかもしれません。
ですが、彼らの黄金は、その瞬間から彼らのものではなくなってしまうでしょう。オルドピスは一貫して柔軟な姿勢を取り続けていました。オルドピスは町の内政不干渉を、そして、町とオルドピスとの間の関わり方の一切を、町の側から調整できる、と約束してきました。
町はついにその姿勢に折れ、かの国と手を結ぶことにしましたが、表向きは完全な鎖国を継続しました。オルドピスからの使者だけが唯一町を訪れることができ、それ以外の人間はまた引き入れては縊り殺していました。しかしその気になれば、かの国は大挙して黄金都市を我が物にできたはずでした。人口の差と装備の差は歴然で、かの町の内実を知れば知るほど、その弱点を突くのは難しくなくなっていったのです。そうしなかったのは、大国のエゴイズムによるところでした。つまり、学者国家は一つの町の行く末を見守ることで、その研究の欲を満たそうと努めたのです。またいつでも利用できる黄金宝物が自国の足下にないことも、隠し金庫を持つようなもので彼らを利することでした。
彼らがいかにトラエルの町と付き合おうとしていたか、現在の大国の指導者トルムオから、歴史書を紐解き終えたのちに、イアリオは詳しく伝え聞きました。というのも、もはやかの町への関わりの主題は彼らにとってオグに変わり、その他にある秘密は彼女にこそ明かされる必要があったからです。
それは残酷な宣言でもありました。イアリオは、オルドピスはオグの危険性に鑑みて、町を見殺しにする可能性もあることを、共に伝達されたのです。
オルドピスにとってオグがかの滅亡都市に潜んでいると判ってから、彼らの歴史学、民俗学、政治学等からいくらでも観察欲を満たすことのできた、いつでも攻め込まれ黄金を剥奪されうる、真実はみじめでどちらにしろ悲惨な未来が待ち受けている町は、大国さえ及び腰とならずにはいられない人間悪の集合が眠る、常に監視を怠ってはならない町へと変わりました。彼らはトラエルの町に対する外交の方針を、町に伝えぬ間に変更しました。それはしかし彼らにとって町は観察の対象であることは変わらないことでした。
黄金の都の亡びから三百年、すでに、町の周囲は広く大国の管轄化にありました。これも町の人々は知らないことでした。ところで、大国には世界でも最新鋭の装備がありました。彼らによって、周りの国々は技術をコントロールされるくらいになっていました。オルドピスほどに危険な国はありません。知恵は力以上に支配をもたらすものです。彼らの外交力は、トラエルの町一帯の海域、陸域から、他の国を遠ざけるほどの圧力がありました。山脈の北に広がる森に住む人々はともかく、その周辺とは皆同盟を結び、互いの領地交換などの手段を講じて、すっかりトラエルの町の周りは彼らの領土となっていたのです。黄金都市を隠し通す秘密裏の画策はまったく完全でした。町の人々は、そうとは知らず外敵に怯える必要はなくなったのです。
「トラエル」という名前はオルドピスが勝手に付けたもので、町人はそのような名前で自分たちが呼称されていることを知りません。その名の意味は現代語にはなく、古語にありました。咲くことのない花、しかし世界の原初に一度だけ咲いたことがあるとされる、古い物語にある花の名前でした。
シフルドという、丸を基調とした館、そしてコルマエルという、円を区切る直線を主体とした館に続き、三つ目の大図書館はメカトキオという、対称性をこれでもかとモチーフにした建造物でした。丸と四角、海と平原、なびくものと動かぬもの、食物と金属、など、一対の美術が棚となり書物を並べていました。それぞれの棚の一つ一つは物として左右対称なものの、隣に非対称な概念を持つものを並べていたのです。イアリオなどはこの大図書館に近づきたくありませんでした。彼らの思想が露骨にいやらしく伝わってくる所だったからです。
同質性と異質性の区別から、学問は始まります。メカトキオ館はその基礎的な思想を表した建築でした。様々なモチーフは美観を具えており、とげとげしくはないものでしたが、自分の町の歴史とともに、大国の思惑も勉強したイアリオにとっては、彼女のふるさとはこんな風にこの国からは見られていたのだという、その独特の視線を突きつけられているようでした。彼らにとっておそらく世界は観察欲の対象にとどまるもの、決してフレンドリーには近づかないものであると、館全体が宣言しているように感じられたのでした。
さて、オルドピスの首都デラスにある、どの大図書館の裏手にも、こんもりとした森がありました。壁に囲まれた中にある一ヘクタールにも満たないその森には、一言も会話を交わしてはならないという決まりごとがありました。そこは沈思の森で、沈黙の中での思考が尊ばれた場所でした。イアリオはシフルド館の森に、用事があって来ていました。
浴びるように呑んだ書物の言葉は、今、彼女の中で滔々と流れる川のごとく静かに沈黙していました。勿論、激しく濁流のように暴れまわった後でした。彼女はとりあえず人の歴史として町の周囲の在り様を理解しました。というのは、これからオグ、クロウルダという、精神性の強い者たちの理解を始めるからです。といってもあらゆる歴史は人同士の感情の蠢きであって、それに強く働き掛けた事象こそ歴史として記憶に留められるものです。しかし、古の魔物とそれを追う神官を知ろうとすれば、時代時代に一瞬、閃光のように光る想いの羅列ではまったく片付かない、連綿と続く鎖縛としてある心理と向き合わなければならないのです。それは、彼女の町が拘るものに等しく、黄金の神秘がそこに住む人々を捕らえて離さないのと同じでした。いくら大国の本当の計画に嫌悪感を持っても、あるいは数々の国が周りに起きて廃れても、今も彼女の焦燥につながるものはそんな歴史的事実を超えた恐ろしい現象でした。そしてそれへの理解がこれから始まるのです。
森には、フィマがいました。彼女はニクトから彼の様子を聞いていました。そこで、彼に会って話をしようとしたのです。というのは、彼が依然彼女に思い入れていて、狂ってしまうほど苦しんでいると伺ったからでした。仕事も手につかないほどになって、日々彼女に会えないことを苦悶し、ニクトに彼女はどう過ごしているか、オルドピスから提供しているサービスに満足しているか、などということを訊くばかりになっていました。
彼はどうやらそのことを他の女性たちにも話しているようでした。彼に寄ってくる、彼を都合のいい男として見做している、あるいは、彼のことが放っておくことのできない女たちは、そんな彼をいたく強く抱き締めました。急にそれまで見せたことのない弱々しさを、彼が見せるようになったからです。
それでも彼はずっとまるで子供でした。彼は言いなりでした。新しく、今まで感じたことがない、むくつけき感情が沸々と燃え滾っても。それはちっとも収まらなくても。彼は、彼を抱き締める女に当り散らしました。彼は自分を抑えられませんでした。彼は柔軟ではなかったのです。一見非常に柔らかく世を渡りこなしているように見えても、実は彼はただ時流に乗るだけで、自分を試してはいなかったのです。そして、彼の中に自らの言葉はありませんでした。
彼の中には他人の言葉だけがありました。
イアリオは、彼が出会ってきたどんな女性ともタイプが違いました。彼がしてやられたのは、彼女を一目見た時に、その目の中に強靭な意志とたくましさを見出したことでした。イアリオはとにかく強い意志を持っていました。彼女の心理は数々の事件に遭って目まぐるしく揺れ動くことがあっても、レーゼ、そしてハリトが彼女を慕ったように、彼女の傍にいると安心感を得られるのです。それに、何かが彼女の行動を阻んだことは、これまで一度もありませんでした。真っ直ぐな意志、それは誰もがある程度持っているものでした。しかし、それを彼はまったく持っていませんでした。
親は自分の子を育てるために、否応なくそれを自分の中に持たなければならなくなるものでしょう。また、子供は、子供の立場から、それを親に認め、また欲求するでしょう。彼にはそれがありませんでした。それがない事情が、始めから、彼が彼自身をうまく捌きながら生きていく道のりを用意したのです。彼は、そうとは知らず彼の中に本質的に欲していたものを、イアリオに発見してしまったのです。瞬時にして彼は彼女に憧れてしまいました。おかげで何も手がつかなくなるほどに、意識は焦燥し、ただ暴れるだけの人に時折なっていました。ニクトは彼に、今までどおり、自分の兄としてちゃんとして、しっかりしてと言いました。ですが、まったく効果がありませんでした。それまで自分になかったものを埋め合わせられてしまうものに出会った彼は、生まれて初めて、気が狂うほどの恋愛を体験したのです。
そして、そのうち、彼は今まで自分はただ一人で世間を泳いでいることに気がつきました。彼は幾人もの女性とうわべでも付き合うことができましたが、その相手が、唯一彼だけを恋人として見做していたかというと、そうではありませんでした。彼はまったく一対一の人間関係を築いてこなかったのです。勿論、後見人として国の指導者ともなったトルムオはいましたが、トルムオに彼は親としての姿勢を要求することはありませんでした。彼はただ頭のいい学生でした。
彼はまるで自分をばらばらにしてみんなに預けてもらっているかのようでした。彼は人々の付き人のように、人々の言うことに従っていました。ところが、イアリオの目の前で、彼はただの一人になりました。ばらばらだった自分の体を急いでかき集めねばならなくなりました。フィマ=トルムオに及ぶ命の危険は、ここに在りました。
当たり前の日常など、脆くも崩れ去ることは起こります。現実は、気づかない乱流を用意しているものです。そこで、人は木っ端のようにただあぶられます。
とはいえ、なんとか乗り切ることのできるのもまた人です。彼は彼唯一人のいる空間にいました。イアリオを、彼が想う時。その時の彼は、味わったことのない苦しみにただ殴られ続けるばかりでしたが、その
充実は、ただ彼だけのものでした。彼だけが乗り切ることができる。自分自身の進化を、見つけられるただ一つの場所に、彼はいました。
大図書館の裏手にある、沈思の森は、それぞれの人間に、まるでただ一つの場所を提供しているようでした。彼は森の中の小さめの冷たい石椅子に腰掛け、果物の皮を剥いていました。そうすると心が落ち着きました。彼は、彼女に会う機会がようやく訪れたことを、僥倖というより、天からまた落とされた奇跡だと思いました。そして、それが決まった時に起きた気持ちは決して逸るものではなく、冷たく落ち着いていました。彼は彼の想いを吐露するだけだったからです。彼女と会った時に。異性に対する緊張は彼にはなく、彼女を異性として認めれば、いつものように、言葉は出てくると彼は信じられました。ところが、指定の場所に来てみると、彼はわくわくする気持ちを抑え切れませんでした。自分が彼女によって変わりゆく可能性を、その時の彼は感じました。共同で、変わっていくことを、彼は願いました。彼と、彼女が。
そうした経験も彼にはなかったのです。それは危険でした。ですが、あらゆることが、共同で変わっていくことを、彼は知りませんでした。彼には知らないことだらけでした。頭のいい彼は、世界において、無知無学に等しい立場でした。
彼はうつむき沈黙したまま果物の皮を向いていました。そんな彼の肩越しから、すっと手が伸ばされました。彼はびっくりして振り返りました。伸ばされた手は女のものでした。それも、筋張った、まるで労働の後のような、張り詰めた筋肉さえ感じられる手でしたが、それは女を主張していました。ああ、一度出会っただけで、紛れもなく彼はその人を愛しくなってしまっていました。何ヶ月かの後、再びまみえても、そのただならぬ感触はまったく減じず、彼はその人のことが何よりも大事でした。彼は子供っぽく頬を赤らめました。それは異性の誘惑に応えるものではなく、他人の魅力的な母親を見た時に見せるものでした。彼は何かを言いかけました。でも、ここでは一言も口に出してはいけませんでした。
イアリオはじっと彼を見つめて、森の出口を指差しました。彼はついていきました。密集した木立を抜ける間、彼は彼女の豊かに伸びる後ろ髪や、その背中、肩、前後に揺れる手の平などを見ました。彼はそこにおぶさりたいと思いました。陵辱したいとも思いました。まるで母親のように、無防備な異性のように見える、特別な人を、彼はどうしていいかわかりません。彼には親がいなかったのです。彼にはいとおしい唯一の恋人もいなかったのです。人間の、善と悪が、急に一挙に彼の表に表れ出ようとしていました。彼が体験したことのない、誰もが体験したことのある、人の本性が、包み隠さず表面に浮かび上がってこようとしました。彼にしか感じられない熱いものが、その全身どころか、その足元の地面まで熱して焦がそうとするほど、彼の体から溢れ出ました。
心配して彼らの様子を見に来たニクトが、森の出口で待っていました。ニクトは、自分のことばかり考えていました。というのも、彼女の心は彼にあり、彼が、イアリオのことばかり考えてくれていては困るからです。実際、仕事が手につかなくなる彼を見て、心配にはなりましたが、それは解決可能な事案だということをよく知っていました。イアリオとの関係がはっきりすればいいのです。でも、その結果が「付き合う」ことになれば、著しく彼女の立場は苦しくなります。イアリオがどれだけいい加減な性格ではないか、まことに生真面目で故郷の問題を背負っているその背中を、何ヶ月もの間見ていました。そんな女性が、彼を選ぶとなったら。それは本当の出会いなのでしょう。
ニクトは彼がイアリオを見初め、彼が彼女の話ばかりするようになったのを、なぜか好ましく聴いていました。彼と少女は同意見だったのです。わざわざふるさとを出てまで、この国に一体何の用事があるのか、その詳しいところは聞いていませんが、彼女の、強い意志は少女も憧れるところがあったのです。しかし、彼女が自分の恋敵となるような想像はできず、腑に落ちなさは感じていました。彼女がフィマの相手をするとは考えられなかったからです。そこで、ニクトは彼女に彼の話を振り、どう思うか訊いてみました。
その回答は想像通りでした。彼女は、彼の想いが真剣なら、それに応えなければいけないと返事したのです。この時少女は少し恐ろしさを感じました。任務を持った人がその任務を疎かにするとは思わなくとも、思わぬ道筋が成り立ってしまうかもしれないと思ったのです。
ですが、イアリオは少女に相談しました。フィマについて、どうすればいいか。頭の良い少女は、自分の恋の筋道をそこで描き出しました。少女はフィマの心に揺らぎが欲しかったのです。まだ成人もしていない自分は彼の眼中にもないかもしれませんが、それでも、だんだんと、自分を異性として見て欲しく思ったのです。その仕掛けを少女は彼とイアリオにつくり出しました。そして、その計画はうまくいくものとは限らず、思わぬ方向に行ってしまうことも、破綻してしまうこともありえました。
森の出口に差し掛かり、フィマは、少女を目に入れませんでした。イアリオはニクトをちらりと見て、少女の指差した方角に歩を進めました。図書館の邸内の、人の少ない物静かな、会話のできる所へ行きました。フィマの体はふわりとニクトの気配を感じました。少女の気持ちが、彼の全身を包み込みました。その気持ちはただ恋心だけを含んだものではありませんでした。彼は愚かにもそれに返答ができませんでした。ひらりと白い雲が現れて、上の空に翻りました。まるでいざなうように。フィマは、こうしているだけで幸せでした。素敵な女性の後ろをついていくだけで。年下の女性の想いにくるまれているだけで。彼は誰かに導かれるままに生きていて、それでずっと暮らしていけると思っていました。ですが、何か、得体の知れないものが、彼の足元からせり上がってきました。そして、ずるずると、その地下から誕生したものに自分が引きずられる感じがしました。彼の足を取る何かに、彼は苛立ちました。
それは何でしょう。彼が、一度もそれと対決していないもの。彼自身の裏側にあるもの。彼はその時にこう思っていませんでした。殺してでもイアリオを手に入れたいと。彼には大きな穴が空けられていて、それが彼女によってしか埋められるはずはないと感じていることを。こくりこくりと、地面が喉を潤していきました。彼の熱い想いを、彼の体が漏らしてその足元を熱しているものを。彼の、表立った浮世の性格をそれは呑み込んでいきました。ゆっくりと、着実に、彼はそれまでの彼を失いつつありました。彼にとって至上の美貌の相手を見つけて、明らかに、彼は自分が溶けてなくなっていく予感を抱えました。彼はそれに耽溺しましたが、溶けていくのは彼の自我でした。自分を描いた自画像でした。しかし、フィマは、歩きながらイアリオの背中を見ていて、鋭く何かに気づき始めました。彼女の背に、それが背負っているものが見えました。重く、ひび割れていて、古い亀の甲羅のように、異常に大きくのしかかって見えました。ああ、この人は、と彼は思いました。大変な使命を持っているんだ。
彼女の詳しい出生など尋ねたことはありません。彼は、彼女と接触したことで兵士たちに拘束されるも、それこそ彼女がオルドピスにとって著しく大事な来客だと知っただけでした。それだけで彼に予想されるのは、彼女が、そのふるさととオルドピスをつなぐ橋渡し役として来ているのであろうということと、その彼女の国が、何らかの危機に見舞われているがためにこうして厳重にも護られているのかもしれない、というところまででした。彼は、シフルド館の邸内で波立つ曲線のオブジェを視界に入れつつ、彼女につけられた幾人かの護衛の人間を目の端に捉えていました。
しかし、彼の目には彼女の背中は、或る宿命的な悲劇を彼に語り、命運の行き先を彼に伝えました。彼は目の前の恋にすっかり瞼を塞がれながら、その実、決して盲目ではありませんでした。彼は確かに彼女を観察し、鋭く彼女の来し方を感じていました。それは、彼女が自分の町の歴史を一通り学び終えて、それ以上の自分の来し方を感覚し始めたためかもしれません。彼女を覆うもの、彼女の町を覆うものは、彼女の周りから解け始めていました。彼の見立てのとおり、イアリオは、自分の背中に、怪物を抱えているような気がしました。町の歴史を俯瞰し終えてなお、一体、自分たちはどこから来たのだろうと訝るところまで来ていました。海賊の時代からの始まりを回顧しても、それが自分たちを育てたもの、苦しめたものだとはまったく言い切れませんでした。そして、そこまで考えなければ、より遠くまで見通さなければ、まず、自分たちを認められないようでした。あの町は、オルドピスからも匿われていて、自分たちで隠れることを選んだつもりが、いつしかそれを選ばされている状況にも、なっていて。重い、重い、重力がかかる。
エアロスという、思いついた力の言葉は…どうしようもなく、彼女に訴え掛けてきていました。イアリオは、できるだけ人が自分に関わらないように努める必要があると思いました。オグは、なぜ、あの場所で眠っていたのでしょうか。天女たちの言葉通りならば、どうしてあの場所で破滅の時を迎えんとするのでしょうか。トルムオは町からはじき出されたように飛び出してきた彼女を、恐れていると言いました。その率直な言が、どこかよくわかる自分がいます。そうした理解を、進んでオルドピスは手伝いました。護衛は彼女についているのではなく、市民についているのです。オグに見初められた町の人間から、その未知の力にあてられぬために。
三人は小さな噴水のある憩いの場にやって来ました。反り返った丸羽が外側に開いた彫刻の間から、水が勢い良く噴射しました。水は輝き、小さな子供が歓声を上げました。彼女はいきなり振り返りました。フィマは驚きました。
彼女はまったくの自由人に見えました。重いものを背負った背中を背後に隠したからでしょうか。彼は思わず、ぎくりとしました。
「あなたに、これを渡そうと思って」
イアリオは手に金貨を握り締めていました。それは、レーゼから貰った、貴重な金の粒でした。彼女は手を開き、それを彼に見せました。
「なぜ」
フィマはぼんやりと呟きました。
「あなたから労働を買おうと思って」
イアリオはにべもなく言いました。
「これでは足りない?」
彼はあたふたとしました。思ってもみなかったことが、今起きたからです。
「いいや、そんなことは、あの…」
彼女は一度目を伏せ、改めて、彼に眼差しを向けました。
「私は籠の中の鳥だわ。でも、私の力で、自分のものを持ちたいと思ってね」
その眼差しは自由でした。
「あなたのできることの範疇でいいから。例えば、好きな果物とか、植物とか、私のお金で買ってきてほしいの。私はここで、とてもいい待遇をさせてもらっている。快適よ。だけど、やっぱり、自分が本当に欲しいものは、手ずから手に入れたく思うのよ」
彼女は本当のことを言っていませんでした。彼女はニクトと相談して、二人でこうしようと決めていました。別に、フィマから労働を買ったとて、彼女は彼に働かせようとは思っていませんでした。彼を引き離すために、冷たい態度をわざと取ったのです。自分と会う機会を彼に与え、彼女は彼にまったく気がないことを、伝えるために。
フィマは、二人にまるで子供のように扱われました。彼の心は、二人を凌駕するものでも、並び立つものでもありませんでした。フィマは、ただ求めてくる甘えん坊のままでした。ですがそうと知らずも、彼はいじらしく反発する気持ちになりました。
「受け取れませんよ」
フィマは両手で遮りました。
「こんなものは。僕はこんなもので測れる奉仕の心を持ってはいませんから。
僕の心は、もっと漲り、あなたに近づくことを望んでいます。いいですか?僕の命運は一瞬で決しました。僕はあなたに惚れてしまったのです。いいですか?僕は決して諦めませんよ。決してお金の額で僕とあなたとの関係は契約されないのです。僕の心はあなたのものです。僕を信頼してくださいませんか?」
彼は彼女にこうべを垂れました。
「僕をあなたの下へ参上させてください」
イアリオはまんじりとそれを見ていました。彼の心を理解しようとしました。どれほどの覚悟があるのか、それに、自分が動かされる、余地はあるのか。結論は素早く出ました。
「それはできないわ」
彼女は鋭く断りました。
「だって、私、あなたくらいにあなたのことを想えないもの。私以外にあなたは惚れられる相手を見つけるべきよ。もしかしたら、今のあなたのように、あなたをそう見ている誰かがいるかもしれないよ」
イアリオは二人から離れた所にいるニクトを胸元に引き寄せた気持ちでそう言いました。彼女は、少女からその思いのたけを聴いていました。その想いにとても自分は敵わないと知っていました。いいえ
故郷に残した真の想い人に対する気持ちとそれは比較して何の遜色はないと、確認したくないことを、確認してしまったために
「駄目です。あなたでなければ」
「いいえ、必ず私以外に誰かはいるわ。もしそれにあなたが気づけば、私はその関係を祝福するよ」
「僕と、あなたとの関係を祝福してください」
「絶対にそうしてはいけないわ」
彼女は言下に言い切りました。
「なぜですか?」
彼女は混乱しました。自分が、なぜこの場所に来ているのか。自分は、矢も盾もたまらずこうしてここに来てしまったけれど、その原因は、あの天女たちの言葉を調べるため。オグという魔物を、窺うためだったのだが。
「私は操を立てなければいけないからよ」
彼女はニクトとの打ち合わせにはないことを言いました。
「私のふるさとが震えているの。そうしている場合ではないの。あなたの申し込みは、嬉しいわ。だけど、絶対に、そうしたことは都合よく私の自由にできないことなの。私は強いさだめに結ばれているけど、それも私自身が選んだことだから…」
フィマは、じっとイアリオを見つめました。その背後にいる魔物が、じわじわと彼女の背中を這い登ってくる気がしました。
彼の見立ては正しいものでした。ですが彼は、愚かにも、彼女を解放してあげたいと思いました。その実力は、まったく彼にはないのに。
「この金貨は、あなたのその思いを伝達するのに最もふさわしい手段なのですか」
「そうよ。その通り」
その通りでありながら、まったく、その通りではない想いが溢れました。
「では、あなたは僕に対して何も答えていない。僕の慕情は、あなたを包んで安らがせるだけの、大らかさがきっとあります。あなたのそばに置いてください。でなければ、あなたはずっと、あなたを支配したさだめとやらに苦しむままでしょうから。あなたの背中にそのさだめが乗っかっているのが見えます。僕は、あなたがそれに苦しむのであれば、自分も苦しい。僕は、あなたを解放してあげたい」
その台詞には、彼の正確な観察眼が見つけた事柄と、彼が普段から使っていた、決まり文句じみた口説きの言葉が混ざっていました。イアリオはしっかりと彼を見ました。恐ろしく何ものにも縛られていない自由な眼差しが空中を舞い踊りました。フィマは、再びぎくりとして身を引きました。彼は、彼女が自分から身を引かせるように彼に要求していることはわかりました。彼の恋心には応えられないと。ですが、もしかしたらそれだけではないと、感じました。
彼は、自分が彼女にできることを、少しだけ分かりました。それは決して彼の欲望を満たすようなものではありませんが、当のイアリオ自身もまだほとんど気づいていないことが、この場で明かりに晒されたのです。彼女は、そして町は、他者にそれを望んでいました。そう、どれほど心を閉ざした人間がいても、いくら世界を拒絶した者がいても、それは、世界にいるかぎり彼らに求められるのです。
「こんなことをしても…」
目の前の女性はふと呟き、首を斜めにかしげました。その悩ましさは年下の二人にも分からない深遠さを覗かせました。
「無効なことだったね。あなたの正直な気持ちは分かったわ。でもそれには私は絶対に応えられない。…変だね。でも、こうした要求も正確だったような気がする。あなたたちに、私は一体何を任せたがっているのだろう」
イアリオは言葉を口にしました。自分にもよく分かっていない言葉を。
「金の粒は、無効だわ。どうしてこんなものが必要になったんだろう。人間は、愚かだわ。きちんと伝えなければならなかったんだ」
そうして寂しそうに後足を下げました。イアリオは立ち去りました。彼は、放っておかれました。ただ子供のような心だけが、この場所で弄ばれ、浮遊しました。
「絶対に、あの女を、僕のものにしてやる」
彼の唇の動きはそう言いました。彼の頭上にせり出した樹の小枝に、小鳥が留まって、ピイピイ、ピイピイ、飛び跳ねました。
「うるさいな」
彼は苛立たしそうに上に向かって手を振り払いました。何かに青年は耐えられそうにありませんでした。




