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破滅の町  作者: keisenyo
第二部 後
16/21

第16章 学術都市

 惑わす者が、そこにいました。彼は、テオルドという名前でした。

 彼は、ある一つの計略を目論んでいました。それは、かの町を壊すことに違いありませんでしたが、それだけでなく、彼の故郷の人々を真に自由にしてあげることでした。彼は、今も地下に居続けているいにしえの怨念であるイラの直系の子孫でしたが、彼の目的は彼女のそれとは違うものでした。遠い先祖は破滅を望んでいました。しかし、彼は生きている人間の代表でもありました。彼は、もともと偉丈夫ではありません。もやしっ子で、体を動かすのは不得手です。そんな彼が、このような壮大な計画を立てられたのは、誰よりも一番本を読んでいるからでしょうか。空想が、現実を動かそうとしているからでしょうか。いいえ、彼の素肌は敏感で、人の考えを通してしまうからです。彼は町中の人間の考えることがわかりました。

 それは彼に魔物が宿る前からでした。そして、その体にオグが宿ったために、それはもっともっと可能なことになりました。彼は人の思考に潜む悪魔の様子を見ていました。自由になりたい!そう望む、人々の本当の願望をよくわかっていたのです。誰も、本当は黄金を守り続けようとは思っていないのです。そうしなければならないことは理解しても、奇妙な熱にあてられ続けて集団心理に自己を投げ入れていても、伝統と習慣に埋没しても、変えてはならない、あるいは変えようがない黄金は、すべて守られるべき正しい場所に存在しているはずでした。そこは、地下の暗闇ではありませんでした。そこは、人間の各々の記憶の中に、悲痛な感情の向けるべき先にあるはずでした。彼らはそれを克服していませんでした。地面を蓋で閉じることは、目を背け、あるべき場所にないものを、いたずらに、封印してしまうことでした。

 人々はこう感じているはずでした。僕たちは、私たちは、このようにして生きていたかっただろうか。いいや違う。はじめから望んでいたのは、死人とともに生きることではなく、どのように生きるべきかを、自分で決めることだ、と。三百年もの間、滅びが人々の中で舞い続けました。十五人の子供たちがあの暗闇に入ってから、町は、とうとうふるさとをどのように捉えて彼ら自身がどのように生きるべきか、よくよく考える必要のある時代に来ていました。

 しかし、決してあの町の多数の人間がこのようなことを意識したのではありません。全体の意識が変化するなど大きな出来事が起きてからなのです。それはまだ、テオルドが掘り起こした、そしてまたイアリオも掘り出そうとした、一つのニーズにすぎなかったといえるでしょう。

 ところが、そこにはオグという魔物がいました。オグは、今にも自分の全存在を、終末にかけてしまおうとしていました。彼はその重たい身体にこれ以上人々の暗黒の意識を宿せなくなったのです。悪を繰り返してきたその身体は、はじめから自分は何を望んできたのか次第に明確にわかり始めていたのです。しかし、オグは人間の悪の意識で、その中に自我はありませんでした。オグは、その集合全体でした。つまり、彼が望んだということは…彼が、それに気付いたということは…その中に閉じ込められた、あまたの人間の一つ一つの意識が、そう思い始めたということでした。

 テオルドは、人間の体を持ち、オグの精神を所持していました。彼はこれ以上我慢のならない段階にきていました。彼の元々の体もオグのようでしたが、一人の人間の悪意をだけただ実現させるために、産み落とされたのかというと、そんなはずがありませんでした。イラからの代の、すべての母体は、彼の内部に結集される形で宿っています。ひとりびとりの諦念と恨みと果てしない怒りと憎しみが、そのひとりひとりの中で解放されるのを望んだのではなく、彼の肉体でこそ滅びるのを待っていたのです。彼は、痛々しい肉体を持っていました。ですから、なんとしても、彼の代で終わらせるしかなかったのでした。テオルドの顔が見えるでしょうか?想像力が溢れるも、その空想の力は世界を嫌なものに溢れ返させていました。その目の色は暗く、どんよりとしていますが、その目は何よりも過去を語ります。彼の体に怨念が刻まれたのだという、途方もない烙印です。しかし彼の暗い情念は、ヤーガットの弟ハムザスや、シオン=ハリトの兄シダ=ハリトなどの暗黒の心を焚きつけるも、一方で、ルイーズ=イアリオをいささかとも焦がすことはありませんでした。

 彼にとって、彼女は未知でした。彼にとって、彼女は他の町人と同じ人格の持ち主ではなかったのです。彼は彼女をコントロールできませんでした。けれど、テオルドにはなんとなくイアリオが何を考えどんなことを起こそうとしているか、わかる気がしました。その時はまだ彼は気がついていませんでした。自分はイアリオと同一の機軸上の、しかしそれぞれの道を歩いていたのだと。彼と彼女では、歩みが異なりましたが、いざ向き合っている実情は、まったく同一なのでした。


 オルドピスの首都デラスの北側には、一本の大河が流れていました。あのコパ・デ・コパを通過していった川面の水は、この川にも流れていました。ですが、首都はその岸辺から、何キロか南へ離れたところに建てられていました。首都と大河は太い道路でつながれ、道と河の交わる所には集落が砦のように堅牢な要塞を築き上げていました。デラスは四方の丘から臨める低地にありました。一見この地勢は他国から攻め込まれやすく、防御がまったく機能しないように見えました。四方の丘や周囲の山々に砦が建っているものの、実際都まで敵の侵入を許したことはこれまで何度もありました。それでもこのように眼下に広がる壮麗な都の姿を、この国を訪れたいかなる人々にも見せつける必要がありました。

 その国がどんな理念と威容を兼ね揃えているかを、都の形は見せていました。それは書物という知の集積を国の柱に据えている、学問の国の矜持そのものでした。彼らの武は、言い換えれば知恵でした。この都市は、攻め込まれた時の備えを用意するものではなく、彼らの国家運営こそ物語り、軍事国家ではなく外交をこそ重んじる国であることを示していたのです。しかしいざ攻められても中央の三つの大図書館は固い守備を誇る要塞へと変じ、何ヶ月も持ち堪えることができました。その間、得意の外交が力を発揮し、彼らの知の恩恵に与っている国々が、援軍を寄越すのを待つことができました。

 彼らの知の技を、求めない国などありませんでした。それは独占も望まれましたが、他国がそれを許しませんでした。彼らのうまい手練手管もあったものですが、降りかかった火の粉は度々すさまじい数の援軍が巻き起こす猛風で消すことができたのでした。しかし、誰も、その国家運営を、傲然そのものだと疑う者はいませんでした。

 イアリオは、自分を情けなく思っていました。丘を下り、いよいよ宏大な網の目の地上都市に入ろうと大門に向かっているさなかに、鳥籠の中にいる自身を思って、決意しか固めることができないことに苛立ちを覚えたのです。彼女は彼女の意志でここに来ようとして来ましたが、思いがけず向こうから手を差し伸べられました。そのことに、戸惑っていることもありました。途中からこうして自分の足を使わずに目的地へ到達してしまい、何ともいえない恥ずかしさも感じたのです。

 しかし彼女の皮膚は、まったくあらゆる感覚に吹きさらされていました。その状態は今やオグと同化したテオルドとほとんど同じでした。彼らの予感はある方向を指し示し、事態は一刻一刻それに近づいていることをよくよく知っていました。彼女は何より答えを欲しました。その予感の行く末を、誰よりも詳しく知りたくてここまで町から飛び出してきたのです。ところが、なんということか、ゆっくり、ゆっくり、彼女を乗せた馬車は彼女に壮麗な街並みをたっぷり見せつけるようにして進んでいきました。それもそのはず、オルドピスの首長は遊行を終え明日都に到着ということなので、それに合わせて、イアリオの馬車は進んでいたのです。彼女は首長に会うなどどうでもいいことだと考えていました。勿論嘘をつき続けるためには通り抜けなければならない関門だと捉えていましたが、そのために何をするのかは、具体的な準備をまったくしませんでした。彼女は度胸とはったりだけで乗り切ってやろうと心に決めてしまったのです。彼女の側にはトスクレアが付き添っていました。彼はコパ・デ・コパからずっと連れ添い、何とか賓客をもてなそうとして、いろいろと工夫をしてくれていました。車に乗ったままでも気が滅入るからと、都に来るまでもたびたび外に連れ出し、彼女が脱出できないくらい厳格な守りの陣を兵士たちで敷きながらでしたが、水浴びやピクニックなどを供してくれたのでした。イアリオも美貌の男性が側にいれば悪い気はしません。コパ・デ・コパから出て四日後に、彼が妻子持ちであると聞いてしまって、ときめきは多少減ってしまいましたが、悦びは一向に消えませんでした。イアリオは年上の男性にこれほど私心をかき乱されたことがありませんでした。まるで少女に戻ってしまったような、幼い気持ちがどうしても先行してしまいました。勿論自分の使命は緊張を持って抱いているものの、少なくとも故郷を離れた解放感と、思いがけぬ殿方の優しさが、彼女を虜にしようと囁き誘うのです。そしていざ、目的の場所に到達してみると、自分が誘惑されていたことを思い知り、そのことが自分を恥ずかしく、情けなくも思えさせたのです。トスクレアが自分の手を引くたび、イアリオはぎょっとしました。まるで内臓が半分縦に切られて、それぞれがまちまちに活動しているように感じました。その誘惑と、ふるさとで感じていた言い知れぬ焦燥とが、体の中でまったくばらばらに働いていたのです。

 そう、偉丈夫に引かれる彼女の手は、あの町の人間の手でした。イアリオは、そうでなければ、この出会いにいたく感謝したく思いました。彼女はトスクレアの美しい眼差しをじっと食い入るように見ることがありましたが、その眼差しを彼は吸収してしまいました。にこやかに笑って、あくまで彼女を癒そうとするのです。イアリオはわざわざ苦味を口の中に探して味わわなければなりませんでした。そうしなければ、あちらからやって来た誘惑に、駆られてしまいそうでした。町を飛び出してきたうら若い女性の心理は、まったく自由にここから羽ばたいてもいいのでした。コパ・デ・コパの上質なしつらえの寝室に案内されてしまった衝撃がまだ胸を突いていました。彼女はこうした方面にはある意味無防備に近かったのです。懇切丁寧に出迎えられ、かえって毒を口に盛られるかのような心地にさせられたのでした。

 都市は、その色合いが金銀に輝いて見えました。光の粉が、散っているように感じられました。それは街の活気が提供してくれるからでしょう。絶え間のない子供たちの笑顔と声がそうさせるのでしょう。まるでこここそが世界の中心で…本当にここから光の帯が、四方に走っているようにも思われます。イアリオはこれまでコパ・デ・コパ以外にもオルドピスの市を、町の隅の方とはいえ回ってきましたが、これほど人間が活躍している様を見るのは初めてでした。建物よりも人が見えます。勿論、建築物も綺麗で外観はとてもさっぱりして、旅行者を楽しませる仕掛けもちらほらと窺えますが、田舎もののイアリオが出てきて、最も驚いたのが人の多さなのでした。彼らの街は、深い黄色を基調としていました。素朴なレンガの色をそのままにして、その凹凸で、建物に変化を与えていました。パステル画風の壁に見えたのは、実はレンガ一色一色を巧みに変化させて組み上げたまこと芸術の壁面でした。イアリオはそれを絵だと思い込んだので、トスクレアに尋ねると、彼は丁寧に解説してくれました。

「よく見てください。一つ一つの色がしっかり四角いでしょう?我々は絵画をこのように表すことができます。この芸術はまだ我々の国にしか存在していないようですね」

 彼はにこやかに答えました。ついでにイアリオはもう一つ訊いてみました。

「オルドピスは学問の国と聞いてますが、絵や彫刻も盛んなのですか」

 イアリオの脳裏にはハリトの兄弟、シダ=ハリトが浮かびました。ついでに、彼の取り憑かれたような朦朧とした表情も思い出しました。

「そうではありません。盛んなのは学問であって、絵や彫刻なのではありません。絵や彫刻は、この国においては学問の矢の先に当たるものなのです。ですから知の産物だといえるのです」

「そうですか」

 イアリオはわかったようなわからないような返事を返しました。二人は馬車から下りて、都道を連れ立って歩きました。これはイアリオがねだったからですが、婦人の安全を一番に期しているトスクレアは渋々彼女に従ってくれました。彼女は一応、ここで人ごみにまぎれて逃走するイメージを持ってみようと道に降りたのです。鎧をがちゃがちゃさせながらでしたが、彼らはメインストリートを離れ、ショーウィンドウと木陰の散歩道を回りました。トスクレアは店先に並ばれている色々な品物を紹介してくれました。イアリオは興味深く話を聴きました。オルドピスの国内の地域やその他の国がどのような名前でどのような並びになっているのか、彼女の町では子供の頃の授業では学びませんでしたが、歴史教師となった彼女はおおまかにですがある程度は知っていました。そのおかげで、地方の経済も取り仕切る上官トスクレアの造形の深い流通の話も、彼女はついていくことができたのでした。やがて二人は噴水を正面にした石のベンチに腰掛けました。噴水は彼女の町にはないものでしたが、レーゼがこれを将来造ろうと夢見ていたように、町の書庫にある本には載っていて閲覧することができました。そして、なぜ、彼があんなにもその夢に情熱を持つことになったかは、実際に本物を目にしてよくわかりました。勿論、彼は本物は見ていないのですが。ちらちらと降る空中の水飛沫は、亜熱帯の暑気をかき散らし、なおかつ清涼とともに心の落ち着きをもくれました。彼女は深く座席に座り、頭の中をその涼しさでいっぱいにしました。そして、前かがみになって銀の甲冑のトスクレアを斜め上に見上げました。すると、銀色に輝く彼の胸当てが、丁度トスクレアの顎の先に重なるように光って、彼の顔を誰かとだぶらせました。青い目は、その時茶がかった灰色に、整った顔立ちは、真四角になったようでした。彼女はレーゼの顔を思い出したのですが、瞬けば、そこには美貌の騎士が再び現れました。

 思えばイアリオにとっては、今この場所にいることは、故郷より何倍も幻想に近しい体験でした。町から出てくることは禁忌でしたから。しかし、その幻と現実は逆転したようでした。彼女は戦慄をどことなく覚えました。トスクレアの言葉は、まったく噴水の飛沫のように耳にちらちらと心地よく入り、それこそ幻か現実か、曖昧なものに聞かせました。そして、受身である彼女の耳にはその言葉がいやに攻撃的に聞こえることもありました。

「ここに来る品物は、決して世界中から手に入れたものではありません。ここは大きな都市ですが、大きな見本市ではないのですから。ですが、勿論物珍しい高級品はあります。数々の国が、我々に好意を寄せているのです。それは実際に売られています。買うことができるのです。交易は果てしなく学問の翼を諸外国に届けてくれます。向こうの国の文化がこちらに紹介されればされるほど、私たちの国の学びの成果があちらに届くことは紛れもないでしょう。ショーウィンドウに飾られている品々は、我々と向こうの国々との握手の交換の結晶なのですよ」

 イアリオは彼の言葉の端々に、彼の国がいかに優れた知性を具え魅力的かを伝えようとする意図が含まれていることに気付きました。彼の自国の紹介の仕方は、彼女の聞いたかぎりでは、森の民のそれととてもよく似ていました。森に住む人々と都の住人たちは、ほとんど同じ顔つきと体つきでした。肌の色は濃淡があり様々でしたが、頑強で肉付きがよく、芯の入ったような硬さの黒髪に、丸顔で、脚太でした。都の住人のなかにはトスクレアのように金髪の者や、様々な体型の人間がちらほらいましたが、彼女の町からすれば住人の服装はどちらも原色に溢れていました。両者は考え方も似ていて当然だったのでしょうか。森の民はずっとオルドピスを嫌っている感じでしたが。イアリオは、彼の手を見ました。篭手からすっと伸びた手の平は、長くて、どきりとするほど大きく思えました。

「でもこんな笑い話もあります。昔はもっと自由にあちこちで商売ができたのです。今は制限してなるべく富を均一に保とうとして、工夫をしていますが。一つの建物が、世界中の品々を売り出したとして大々的に広報したのです。そこにはまさに全世界から集めた価値ある物が、勢揃いしていました。ところが都の人々は一個もこの店から品物を買いませんでした。買うのが勿体なかったのです。だってそうでしょう、折角きれいに陳列してある物品を眺めているだけで我々は満足なのに、そこから少々の数だけ拝借して我が物にするなんて!惜しい気がしてならなかったのです。商売の国ではこうした考え方は決して理解されないものらしいですが、だとすれば、その建物の持ち主は我が国民性をよくよく理解せずにいたわけです。そこで、お店はそのまま博物館になってしまいました。店主もそのまま学者になってしまいました、とさ」

 彼の語り口調に乗せられたのもありますが、イアリオは思わずくすり、と笑いました。その時、何羽かの白い鳩が、彼女たちの足元に降り立ちました。

「白鳩は、平和の象徴だとされていることをご存知ですか。それは、彼らの真っ白な羽にはいかな翳りも見られないからです。戦は日常の翳りです。オルドピスは、その名の通り、秩序と平和を共に成り立たせていく覚悟の、国名です。しかしご存知ですか?鳩たちは現在のような白無垢の翼を手に入れるために、厖大な時間をかけてきたのです。昔は灰色だったり黒だったり、他の色が混ざっていたのです。すなわち、平和とはそれ以外のものを克服して、初めて掴めるものだということを、白鳩は示すのです」

 彼は夢を見ているように言いました。少なくとも彼女にはそう聞こえましたが、彼は文字通りには決して言ってはいなかったでしょう。ちなみにキリスト教世界で白鳩が平和の象徴とされるのは、聖書において大洪水時にノアが箱舟から放った鳩が、大地から水が引いてきたことを示すオリーブの枝を嘴に挟んで戻ってきたことに由来します。オルドピス諸国においては丸ごとそれと同じ伝説はありませんが、実はよく似た話が伝わっていました。

「ああ、私の話が長く過ぎましたね…え、そうではなかった?では、もう少し話を続けてもいいでしょうか。今からおよそ三百年前、この国はその芽を開きました。というのは、元々、複数の小国家がこの一帯を支配していたのですが、各々が結託することで、それぞれの力を大きくしようとしたのです。この国の名前は最初から決まっていました。理念が先行したのです。彼らはきっと、いがみ合う理由がすでに存在するような同盟を組んでは何も役に立たなくなることを知っていたのですね。お互いの利益不利益を優先させる条約では、仕方なく結ぶようなもので、すぐに破棄される可能性を含んでいますから。彼らはしっかりと考えたのです。彼らは国のトップたちですが、彼らのために国はあるのか。そうではなく、もし彼らが逆に国民のためにあるのなら、何といっても平和が望まれるのだと。平和、とは何か。それは人民の人民による政治だった。人々は政治に何を願うか。それは隣国との争いのない平坦な社会なのです。誰も争い事を好まない。少なくとも、我々の土地では」

 話を続けたトスクレアは、意外にも少しだけ疲れ切った表情を見せました。イアリオはその顔にはっと気付いたのですが、彼は彼女の方を見て、笑い掛けました。

「いけない、私としたことが。ああ、あなたは、人の話を聞くのが上手な方のようですね?私の話が、どこかあなたの中に染み透っていくようだ。何でも話せる、そうした気分になってしまっています。あなたは客賓、私は案内役なのに。今、私が疲労した表情を浮かべたのを、間違いなくあなたは発見された。でもまだ話足りない、そう思ってしまう。…騒動はけしてなくなるものではないのです。平安の維持も、これ以上むつかしいことはない。まだまだ新しいものの考え方なのです。諸外国はいまだ戦うことによって勝ち取る利益を重視しているのです。市井の間でも。だから、我が国は国名にこの名を選んだのですが。私たちはいつも新しい事件にまみえます。試行錯誤の繰り返しなのです。私たちは平和の維持に学問を据えた。試行錯誤こそがこの理念を推進していく力になるのだと確信しているからです。記憶と、記録と、その反省とが、きっと人々を正しい方向に変えていく、と。だから、我々は我が国に誇りを持っているのです。ああ、これが一番言いたいことだった」

 彼は、一息ついて、相手の目を見つめました。彼は一生懸命に話してしまいました。自分の意見を彼女にどこまで聞き入れてもらえたのか、そうして確かめようとしました。しかし、相手の目の中は曇って見えました。たゆたう霧ばかりが漂っているようでした。トスクレアには彼女の意思が量り兼ねました。ですが、彼女の故郷でもそうだったように、イアリオの目の前だと、誰もがまったく一人の個人に戻ってしまうところがありました。シオン=ハリトもそうでしたし、十五人の仲間だったアツタオロも、ピロットも、彼女に真正面から受け止められ、彼らの姿をそのまま彼らに返すような、姿見の鏡のように話を聴かれてしまうのです。そして彼らは、跳ね返された自分の心を見つめたのです。

 トスクレアは、まるで剣閃のように様々に彼の思うことをその女性にぶつけていました。彼女の案内役のはずが、彼女をまるで相談役にしていました。彼は自分の話を中止し、役割が自分と相手とで逆になってしまったことを、しまったと思いました。彼は少し萎縮しました。そして、本来の役目に戻ろうとしました。彼は目の前の女性をぶれない心で見つめようとしました。

 彼からじっと目を離さないで、彼を見ているのは、誰でしょうか。彼はこの女性の正体を知っており、その背中に背負っている宿命も諒解していました。名前も、身の上も知っていました。しかしその女性は誰でしょう。いざ面と向き合った時に、彼にはそれがわかりませんでした。目の前の女性はただただ美しい女性でした。ほつれた髪が顔にかかる、静粛な、しかし威厳のある、もしかしたら自分など太刀打ちできないかもしれないと思わせる。ふと、彼はその人の瞳に映る、彼自身の像が明るくなって見えました。翳りが薄くなり、白い明光の中にいました。いかにも、この晴天の空の下、陽の下に、屈託なく。彼は笑いました。

「どうやらわかってくれたようですね」

 イアリオは彼に微笑みを返しました。疑いが晴れたような彼の笑顔が、逆に彼女をほっとさせたのでした。二人は互いを見つめ続けました。「あなたといると…」トスクレアが、小さな声で囁きました。

「私そのものが暴かれてしまう気がする。

 あなたの町について、私は様々に聞き及んでいます。かの町と我々が長の年月交流を続けて、あなた方に危機が及ぶ時、我々が助けなければならないということは承知しています。どうか安心なさってください。今にも咲き誇ろうとしている小さき花を、ここで摘み取ってしまうわけにはいきませんから」

 彼は、現在彼女のトラエルの町が危機的状況に遭っていると聞いていました。それがどのような状況かは知りませんでしたが、とにかく町から出てきた者は、使者として丁重にもてなせと命令を受けていました。また彼らが逃げ出すような素振りを見せた場合は、強制的に保護せよとも言い渡されていました。彼はその事情を推測するしかありませんでしたが、三百年に及ぶかの町のあらましは心得ていました。しかし、その知識の中にオグはいませんでした。彼は、きっと町はその小さな保護区から解放される時期が訪れたのだろうと考えていました。その上で、その台詞となったのですが、

 すっかり彼はイアリオに惚れる心を感じていました。だから、そう言ったのでした。彼には彼女の年齢が少しも判りませんでした。少女のようでもあり、自分よりもずっと年上にも感ぜられました。失礼にならないような言い方を彼は用いました。それでも言い足りない言葉があるように、彼は感じました。

「しかし、なぜあなたが…使者なのでしょうか。いいえ、私が詮索していいことでは決してありませんね。どうか、ご無礼をお許しください」

「いえ、そんな…」

「あなたは不思議な人だ。初めて訪れる国にいながら堂々としている。肝が据わっている。だから使者にも選ばれたのでしょう。

 あなたといると、こちらが試されている気がする。どうしてか…やはり、大変な情報をあなたはこちらにもたらしに来てくれたのだと、疑いえません。実際大変なのはあなたの国なのでしょう?それなのに、萎縮してしまうのはどうやらこちら側です。我々にできることは、何でもいたします。そのように約束しているからです。危難はできるだけ遠ざけ、あなたの町を、守り通すことを誓います」

 騎士は、こうべを垂れました。イアリオはどうしていいかわかりませんでした。彼女の町の何についてが、彼や彼らに伝わっているか、とても推測できなかったからです。彼女は使者ではないのです。町も、危機的な状態にあるには違いないのでしょうが、彼の言うほど現実に差し迫ったものだとは、個人的な推量的な恐れが彼女にあるにしろまだ思ってもみませんでした。彼女にわかることは焦燥だけなのです。

 戸惑いこそ、一々と彼女の手にあるようでした。そして、オグと同化したテオルドが、人を惑わす者の立場を取っているなら、イアリオは、その惑わしに気が付く者でした。テオルドが、あちらのふるさとで人々を混乱の期に陥れている最中に、彼女はその混乱の根本をその足で辿ることを行っているのです。

 騎士は、石のベンチの裏側に据えられた花壇にある、青紫に可憐に咲く手の平ほどの大きさの花を摘み取って、彼女に渡しました。「この花が、あなたの身代わりになるように。あなたはこの花のように、近く大地に咲き誇る」

 トスクレアはその花に自国の意志を託しました。彼はもうすでに彼女という人間を輩出した、その目には見ぬ小国に尊敬の念を抱きました。そして、その小国こそ、自国のようにあらゆる国々から認められるよう、くびきから解き放たれるならばなおいいと思ったのでした。

 イアリオは胸がいっぱいになりました。彼の言葉は彼女の町まで含んだものとは気づかなくても、そうであればいいと思いました。咲くことのまだない花は、蕾の状態でした。彼女は二十五歳でした。しかし、彼女がいつしか背負ってしまった重荷が、花弁をいまだ開かせない固い芽ぐみの状態をつくっていたのだとしたら、それが開花するのは、今の後でした。開花とは未来でした。その将来から、逆に、道は延ばされているのです。そして、その道は、あちらからもこちらからも延ばされているようです。未来と今は互いに手を伸ばし合っているのでしょう。彩り豊かに、音楽を奏でるように…否定しがたいものは、ただ、自分の来し方でした。黄金のように変え難いものは、過去でした。蕾は花開きます。自然に。だから人は生きられるのでしょう。

 弦楽器が重い音を奏でます。過去が無ければ、未来は望めぬという。


 花開いた学問の都は、計算し尽くされた感のある美麗さを、街行く人々に見せてくれました。その壁も配置も、道路の延びる角度も形も全部が彼らの成果なのでしょう。上から覗けば立派な幾何学の模様だった都市は、中に入れば直線は曲線と交じり合い、芸術は何らかの狙いをもって、目の中に飛び込んできました。住民の服装はコパ・デ・コパで見たものよりもより肌が露出していました。腹回りの面積が増えて、二股のパンツも膝上までからげ上げていたのです。二の腕や肩も出ていて、イアリオは目が回りそうでした。この都はコパ・デ・コパや彼女の町よりももっと温暖な気候なのでこうなのですが、森の民よりは控えめだとはいえ、慣れるのに時間がかかりそうでした。彼女の周りをガードする兵士たちも鎧をはずせば同様の出立ちでしたが、胸当てや膝当て、それに小手などを装着しているために彼女が恥ずかしくなるほどではありませんでした。都の地面には砂が撒かれていました。そして、コパ・デ・コパ同様彼らは草履に近い靴を履いていました。街の人々は背丈は彼女と同じくらいですが、より幅広の骨格を具えて、脚太でした。そして大抵が彼女のふるさとより色黒でしたが、中にはびっくりするほど透き通るような白さの人間もいました。また明らかに地元の住民でない形姿の者も多くいました。彼女は人種というものを意識したことはないものの、彼女の町は元々は海賊が連れてきた奴隷たちの集団でしたので、一つの民族とはいえない様々な顔と容姿が見られました。ですが、この国の都で彼女から見ても驚くような姿の者たちを目にした時、イアリオは彼らがどこでどのように育ったのか、自分のあらゆる歴史や地理学の知識を総動員しても分からず、興味をそそられました。

 人々の服の色は、やはり原色が多く、見慣れぬうちは目に痛いものでしたが、コパ・デ・コパと比べてみると決してあれほど派手ではなく、実際は黄色が基調の都のレンガの壁面に溶け込むような、この街に合った素晴らしい配色でした。高い建物の上から見ればその色は地面にも溶けていきます。行儀良く整列して見える緑色の野草は、地下に配備した石筒の水道の真上に根を垂らし、水の行方を、砂葺きの道路に示していました。広い十字路の中央に必ずある噴水は日を背にすれば、七色のカーテンをこしらえてくれました。この国の都の設計者がつくった、これほど神経が細かく行き届いた街並みは、間違いなく、訪れた外国人たちを驚かせ、このような高い技術を持っている彼らを尊敬させ、あるいは妬ましく思わせました。この国を欲しがるよう唆せもすれば、仲良くなるよう努力もさせたのです。

 ところがイアリオは、どうしてこんなに進んだ発展した技術を持った国が、自分の小さな小さな町を、大事な友人のように扱ってくれるのか、疑わしく思えました。レーゼがあの町に造りたいといった、人工のオアシスはいくつもここに見られます。街の、中心部へ行けば行くほど、イアリオは自分が窮屈になっていく気がしました。彼女がここまで来て確かめたかったのは、オグというまるで正体の分からない怪物のいる彼女の町が、一体どんな風に変わっていってしまうのかということでした。しかし、彼女が今いるこの大都市の方が、よく分からない怪物に思えました。彼女に向かって協力すると約束した者が傍にいて連れ添っていますが、ついた嘘がどこまで通用するのか、脱出する機会はどこで訪れるのか、そればかりが彼女の頭の片隅で繰り返されるようになりました。

 ですから、街周りの散歩も終えて再び乗り込んだ馬車が彼女を乗せてそのまま大宮殿の広場の真ん中を進んでいく時、イアリオは喉にむかつきを覚えました。いざこの国の首長との面会の場で、どこまで流暢に自分は必然的な言葉を選び出していくのか、リハーサルを心の中で試しましたが、とてもとても時間が足りないと感じたのです。彼女は重い気分で広場を通り過ぎ、小宮殿の入り口である馬車ごと通れる細木のアーチをくぐりました。人工的に植えられゆるやかにこうべを垂れた幾本もの立ち木が、隣同士交差し合いながら上に伸び、反対側のものと道の真上で手を結んでいたのです。この小宮殿は元は王族の住んでいたものを、来賓用の宿泊施設として改装していました。警護は何重も敷かれていて、見回りの兵士の多さにすっかりイアリオは意気消沈してしまいました。つまり、もはや、翌日はトスクレアに案内されるままにこの国の指導者に会わなければならない、ということなのです。彼女は嘘をつき続けることを選びましたが、今の今まで姿をくらませる機会もずっと窺っていました。ついに後者は訪れないことを悟り、まったく騙す準備も整わぬまま、翌朝を待たねばならないことになりました。


 翌朝も昨日と同じ晴天が晴れ渡り、浮かんだ雲はどことなく足早に走っていきました。上空は風が強く、都の西側の縁もその風を浴びていましたが、盆地につくられた都市においてはそれは和らいでいました。イアリオは再度馬車に乗せられました。そして大宮殿へと向かいました。小宮殿も大宮殿も、土台に巨石を敷き、上方はレンガ造りでしたが、小宮殿は一階部分が、大宮殿は一階と二階が、四角く切り出された巨石を積み上げていました。そのずしんとした灰色の威容は漆喰などで覆われてはおらず、表面はぴかぴかに磨かれていました。彼女を乗せた輿は大宮殿の広場を折れ、王宮に向かう巨大な石門の下をくぐっていきました。階段の下で馬が止まりました。彼女は否応にもその体の中心に太い芯があることを意識しました。それは、これからいかなる艱難辛苦に臨むのかまったく想像ができない分、体の方がそれに堪える用意をしたのです。もはや悩んでいてもしょうがない!と、イアリオはなおもふらふらとし続ける気持ちを打ち切ろうとしました。ともかくも、堂々としていなければならないのです。自分は使者だと偽り続けるために。けれど、嘘はついてしまったのだから、その後始末はつけることになることもある。私の罪が暴かれるのなら、それを贖おう。そうした覚悟は持とう。…彼女は、大国の思わぬ待遇に呑まれ、気圧されていました。それで彼女の意識は、自分の弱みを目指して突き進みもしました。ですが、結局は、イアリオは彼女の町を出て行く時と同じ、あの冒険のはじまりに戻りました。

 石段を昇ると、押し開けられた鉄の扉が、彼女を出迎えました。門扉には柔らかなビロードの織物が上から提げられていて無骨な鉄の色合いを隠し、色彩豊かな入り口を(かたど)っていました。イアリオはその門の上の巨石の梁に、金色の縁取りをされた蛇のような生き物が、とぐろを巻いてじっとこちらを見つめている、彫り物を見つけました。

「あれは?」

「ご存知ないですか?ペルモットという、神話に出てくる蛇神です。大地は海の上に浮かび、その大地の下の海底に棲むとされる巨大な生き物です。幾度かの大津波を引き起こした張本人でありながら、心に慈悲を持ち、雨という慈雨を降らせもします。我々の守り神です」

 ペルモットは彼女も知っていました。大海の水を司る古代の神で、彼女の町の先祖たち、滅びの都の住人たちこそその信者でした。特に海賊の成り上がり者たちには、重要な怪神だったのです。今では(海神こそ三百年前の滅びを何かと結びつけてくれるような働きはしてくれませんでしたから)海から遠のいたためもあって、町にはペルモットの社も立てていませんが、彼らの祭りの中に、かつての信仰の面影があります。豊穣祭には、蛇のとぐろに見立てた味付け縄が、炎の前に据えられるのです。

 ところでオルドピスは内陸の国でした。河からも恵みの水は受けているとはいえ、ペルモットを愛する国としては珍しい土地柄でした。彼らの意志は、その国名に刻まれているように、不断の努力と試行錯誤が強いられるものでしたが、その努力の矛先は遠く過去をも見据えていました。過去からの体験の反省こそが新しい経験と技術をもたらしてくれると固く信じ込んでいたのです。そこで、彼らはこの世界を何度も襲い反故にしてきた強大な壊滅現象…大海嘯の産み手である、蛇の神の力を、畏れることで自らに強く引きつけたのでした。破壊と生誕の奥深い象徴であるその水こそ、学問が隣り合わせの必然的な運命であると、彼らには感じられたのです。しかし、イアリオにはペルモットの名前はエアロスやイピリスほどの、さだめの力を感じませんでした。それはオルドピスの人々が、自分の運命を左右するのは、自分の意識であるという確信を胸に、その神を信仰していたからかもしれません。刻苦勉励を奨励し、おちこぼれは自らの責任という考えは彼らに広く存在しました。それは一方で個人の我欲の強さをいかにも表し、周辺国や、国民の中でもちらほら現れる森人となることを希望する者たちに、ある種の胡散臭さときな臭さを嗅ぎ取らせる匂いを発していました。その、苦しみの切磋琢磨こそが、現在の彼らの生の充実に他なりませんが。

 破滅と誕生をその渾身に漲らせる淡い水の神を上にして、イアリオは門をくぐり、宮殿の大広間へと進みました。赤い絨毯がまっすぐ伸びて、向こうの階段に続いています。獅子や、龍や、複数の動物を合わせたような見たことも想像したこともない生物が、床石の上に大小に三列並ぶ真紅の織物に穿たれています。これははたして学問の国に似つかわしい意匠なのかと、イアリオは思いました。もしかしたらどんな空想も未知も足元にひれ伏そうとする心意気を、見せつけているのかとも思いましたが、そうではありませんでした。ペルモットの像を宮の門上に上げるほどなのですから、彼らが未知に対して常に尊上の念を持ち続けるという、その意思の表れだったのです。

 宮殿の外壁は石造りでしたが、内装は木と石が組み合わさり、柔らかくも荘重かつ威厳ある風格が具わっていました。これは小宮殿も同じでしたが、大宮殿のつるりとした木の柱には、オルドピスにおいて敬虔と知恵を言い表す色である紫の線が、いくつも彫り刻まれていました。それはいくつもの文字が重ねられていたのですが、そのデザインは直線から構成されたつむじ風のように見えました。刻まれた言葉は、まさに彼らの国名である、平和と秩序を言い指す古来の言い方でした。(「オルダル」「ピスト」という単語を組み合わせて彼らはその国名にしています。しかし古代では「平和」と「秩序」は意味の分かれた言葉ではなく、「リザレクタ」と言えば両方の意味を含みました。柱に書かれたのはこの名前で、直線ばかりの古い文字で彫刻されました。)

 一人の騎士が、門内から彼女を迎えました。王宮は彼が案内するとして、トスクレアの付き添いはここまでとなりました。トスクレアは、胸に拳を当てて敬礼の意思を表示すると、颯爽と翻り、門を下りていきました。イアリオの服装は、トラエルの町を出てきたばかりのものでした。あちこちがかすれ、擦り切れ、とても、きちんとした来殿者の装いではありませんが、それでも、身体はまっすぐな視線とすっと伸びた背筋とを具え、然るべき遣使の雰囲気を纏いました。イアリオは、殿内のここで、彼らの指導者に会う前に自分の身の上を明かすべきかと考えてみました。これほどの対応をされながら、偽りの姿勢を保ったまま話し合いなどできないと感じたのです。しかし、そうするのは話がいざどちらに流れるかを見極めてからだと思いました。自分の私事が問題にされるのか、それともあの町の現状をこそ本当にこの国は知りたがっていて、私事など問題にはならないのか。彼女はまだ、こんなにも丁寧に接してくれる訳を詳しくかの国から伺ってはいないのです。この親切に報いるには、こちらも適切な態度が必要だと、彼女は思いました。

 大壁に、大きな上向きの鉤が付けられ、そこに旗が下ろされていました。金銀の細い線が様々な角度に引かれていて、敷物にあった生物の生き生きとした曲線ではなく何か象徴的な、でも確かに訴えかける、魔術的な模様が見えました。殿内は明るく灯火がかがられ、揺らめく炎はちりちりと空気を燃やしながら清楚に立ち昇っています。広間には鎧に身を包んだ兵士が見回りに歩いていて、貴族のような派手な衣装の人間もいましたが複数壁際に固まって何か囁いていました。その貴族たちはオルドピスの人間ではなく、外国人のようでした。彼女は紅の絨毯の奥に重厚に居座る広い階段の、その脇に連れられて行きました。そこから折れ曲がり、何階にも突き抜けた吹き抜けの下の幅広の廊下を、音もなく通っていきました。彼女は靴を履いていないのです。石の廊下を彼らも草履でしゅっしゅっと小さな音を立てるほどでしたが、イアリオの裸足は、平たい床も噛みました。彼女の珍しい服装に目を留め誰が来たのだろうと振り返る者は、学者や、貴族や、民間の医者などがいましたが、彼らは陳情を持って来るも、それがいかにこの国では実現不可能かということを説明され終わってきた者たちですから、きっとこの新しい来訪者の要望書も、破棄されるに違いないと意地悪い笑みを浮かべました。

 大廊下は光を包み、柱の隙間から取り入れた光線は、柔らかい色合いの壁に響き、音楽を奏でました。光だけでなく、どこからか本物の音楽も聞こえました。ずっと遠くから、しかも上から、弦楽器の演奏が鳴っていました。爪弾く音色がどこまでも美しく、金色に聞こえました。今にもどこからか踊り子たちがやって来てもいいような、抑揚があり、それでいてノーブルな、まったく王宮にふさわしい水の飛沫のようにきらめく音楽でした。

 オルドピスの指導者、最高責任者は、碩学の博士であり、学者の頂点に君臨する者でした。彼のいる執務室の前まで来て、イアリオは兵士に中へ入るように促されました。紫の縁取りの堅い扉が開いて、中に入ると、彼女は、水の岩場に迷い込んだ気がしました。部屋の左右には黒曜石でつくられた麗しい涼やかな水の流れがあり、そこに小さな観賞用の草花が様々に彩りを添えて、執務室を沈黙で守っていたのです。その真ん中には来客用の銀のテーブルがしつらえられて、透明な椅子が数脚きちんと間を空けて控えていました。ガラス作りのその椅子の角には銀色の花びらがちゅんちゅんと控えめに散っていました。

「ようこそ」

 部屋の奥に、薄い紫色のローブをまとった、年老いた人間がいました。重そうな石の机が、執務室の一番奥側にあって、その後ろ側に、彼は控えていました。何重にも重ねられた紙の束が石机に数列並んでいて、ペンと、ペン立てと、真っ白い紙がその横に載っていました。さらにその背後には分厚い本棚が数棹、壁に取り付けられていました。その本棚の隙間には、枝垂れた薄紫の鈴生りの花が、花瓶からふるふるとこぼれていました。イアリオは高揚した気持ちも抱えながらここまで来たのですが、清涼な空気漂うこの部屋の雰囲気にくるまれ、すっかり心が落ち着いてしまいました。彼女は軽く、目の前の老人に会釈をしました。そして、目を上げると、老人の深い色の瞳が、彼女の顔を撫でつけた気がしました。その瞬間、彼女は自分の目を曇らせました。

 向こうにこちらの心の中を洗いざらい探られてしまう感じがしたのです。碩学の国長(くにおさ)は、人心の把握も長けている、心の学問の使い手でもありました。

「イアリオ殿」

 老人はさっと手を出し、イアリオにガラスの椅子に座るよう勧めました。そして、自分は対面の座席に腰掛けました。両方ともに、羽毛のクッションが敷かれていました。座席はひんやりとしていて、少し触るだけで頭脳が冷たく冷ややかになりました。彼女の背後で入り口が閉められ、弦をかき鳴らすあの音楽は遮断されました。ここが特別の空間であることは、否が応にも認められました。イアリオは目を瞑り、自分の心が、意図していたよりもずっと落ち着き払い、それでいて、気持ちがしっかりとしているのを確認しました。彼は、二度咳払いをしてのち、じっと、何事か考える仕草をしました。彼はイアリオに微笑みかけました。その意図がよくわからずに、イアリオは戸惑う気色を浮かべましたが、この老人なら、私が相手をだまそうとしているかなんてすぐに判ってしまうだろうと気がつきました。そこは待ったのない裁判所でした。被告は、しかしある核心を胸に収めて、その熱を感じながら、いかなる裁きも待とうとしました。沈黙の時間が流れました。その時が経てば経つほど、鼓動は大きく、いや増しに増していくようでしたが、気は晴れて負けませんでした。

 やっと賢人の口が動き出しました。重い大きな鐘の音が、太い柱の真上から、決定的に響きました。

「私が一番あなたに会うのを恐れていたのです。あなたの持って来る情報が、いかに真実であるか、空想するだけでこちらが大変な思いになるのです。イアリオ殿。私はトルムオといいますが、この国を預かる碩学の大賢者の地位にいます。よくぞ、来られた」

 その自己紹介は、ぎこちなく、まるで、裁かれるのは今からこちらなのだと言いたげでした。イアリオは、空気の端々の沈黙に、壁が迫り来るような逼迫感を味わいました。その力は徐々に強くなっていくようでした。

 トルムオは大きな息を吐きました。これから会話する内容の重さが、先に彼の肺いっぱいに満ちていたのでした。

「閉ざされし扉は封印が開くのを待つ。それは人間が自分で付けた約束事であるのに、忘れた場所と時と、秘密の土地で、行われる。今、その扉が開こうとしていて、あなたはここへやって来た」

 トルムオはゆったりと歌うように語りかけてきました。

「あの町で実際に起きた三百年前の出来事と、その罪と。かの魔物は然るべくしてそこにいただろう。あなたはその両方のちからに突かれてやってきたはずですね。我々の同士ハオスが、それを知らせてくれた。使者とは、カモフラージュのものでありながら、本当は、まったく使者なのです。あなたはここへ、その知らせを届けに来てくれた。じわじわと広がる魔の勢いが、たまらずに一人の人間を外に飛び出させるくらい、かの町では、事態が進行しつつあるのですね。私たちは待っていましたよ」

 ふわりと空気が流れました。それは、賢者から、彼女へ。空気が歪みました。まるでガラスが割れてしまったようです。

「人間は…どんな態度をもって、この試練に臨むべきだろうか。きっと、全世界の人々が直面するはずの問題なのです。しかし、それを意識し発見できるのは、ほんのわずかだ。悪魔は人の口から出てきた。それは我らから分離した。けれど、また、こちらに向かおうとしている。それは、元々我らの一部だから」

 ぎくり、とイアリオは身を震わせました。彼女は、まだ、オグの正体を知っていませんが、それは今しがた、彼の喉元から言葉として出てきたのです。

「だから人間に影響を与える。敏感な者たちはもう気がついている。あなたのように、どうしようもない、焦燥に駆られてしまうのですよ。オグという悪魔が、出現しようとしているのですから」

「どこまで知っているのです?」

 イアリオは尋ねました。

「ひょっとして、私の町から、もうすでに、別の使者がやって来ているのでしょうか?」

 トルムオは首を振りました。

「いいえ、使者はあなた、ただ一人。もしくは、ハオスがあなたの町から情報を送ってくるのです。彼とあなたは会って何を話しましたか?彼は特殊な民族の出なのですが、死して、霊魂が言葉をこちらに寄越してくるのですよ。あなたのことも…」

 彼女は霊が瞬間に時空を超える力を有していることを知りませんでした。しかし、トルムオが言ったことは事実だろうと自然に思われました。驚くよりも、あの白い光芒を纏った地下でしか出会わなかった男との邂逅を、色々と思い出しました。

「彼に、言われたのです。私が、この街へ来るように」

「そうでしたか」

 トルムオは再び目を瞑り、心の中に、ハオスを思い浮かべました。そうして霊たる彼との交流を意図したのではありません。死んだ彼を、供養する、静謐な気持ちになっていたのです。

「クロウルダの運命は…あなたはご存知か?かの魔物とともにあります。それを生涯の役割と認識する、彼らの生き方は、私には止められぬものの、痛い気持ちにはなるのですよ。ですが、彼があなたを連れて来た!その姿勢には誠実に応えねばならない。イアリオ殿。私は別に、正式な町からの使者を出迎えたのではない。ここに、運命の導きが決定した、恐るべき事態を鑑みて、一層の努力を払うために裁かれに来たのです」

「と、いうと?」

 彼女の唇がかすかに震えました。

「あなたは使者であると嘘をつき、自分の意志で、ここまで来られた。それがたちまち恐ろしいことだと我々には受け取られるのです。何がこの邂逅を用意したのか。静かに、物静かに考えなければいけない。トラエルの町は、巨大な遺産を懐に抱えて、身動きの取れない、身を縛る町です。かの町の人間は皆それぞれがあの黄金を守らなければならないと、自負している。それは強すぎるくらいです。誰もがその秘密を外へ洩らしてはならないとされる。命を懸けて、彼らは己の町へ閉じ籠もっている」

 トルムオはふいに左手を動かしました。イアリオの前で、弧を描き、丸い円を書いて、彼は彼女を見つめました。

「脱出は重罪なり。死をもってあまりある罪だといいます。彼らと、私たちは契約を結んでいます。彼らの町から出て行った者は、私たちの責任で、拘束すると。彼らに引き渡すかこちらで処刑するのかは任されています。ですが、今は、過去と事情が違う。以前ならあなたの身の上は、こちらのものであり、あなたに自由はありません。トラエルの秘密を、我々も洩らすことはできなかったからです。かの町に眠る黄金は、とりもなおさず戦争の火種ですからね。でも今は、それよりももっと大きな畏怖すべき力が目覚めようとしていて、それが一番懸念されるのです。言ってみれば、黄金そのものを司る力が、神とも呼べる威力が、出現の時を待っているのだという、破滅的な懸念です。それもまだ秘密の材料ではあるのですが、だからこそ、あなたとは手を組まねばなりません」

 ふいに、細かい木琴の音が、かたかたかたりと、頭上で流れたようでした。シンバルも、鳴りました。

「私は…」

「そうです」

「導かれて、ここに来たと?」

「ええ」

 大賢者は頷きました。

「そうですか」

 イアリオは、呟くように言いました。むらむらと不思議な怒りが立ち昇ってくるようでした。ですが、この清涼な部屋の空気が無理矢理に荒ぶろうとする心を押し付けました。イアリオは、どうしていいかわからず、座ったまま立ち尽くしていました。自分の息が、あの暗い闇の中でするように、口の周りだけに、押し留まっていました。彼女は、今までの緊張感が連れていった天井の裏にも等しい高さから、一気に引き摺り下ろされて、地べたを這いずり回される、内臓の奥に痛みを覚えるような、命の張り詰めた糸をその身に感じました。彼女の肉体が悲鳴を上げました。心よりも、体の方が、先導していった、その先に、今いるこの場所があったのです。いいえ、どちらが本当は先だったか。何かがずっと、置いてけぼりでした。

 彼女の嘘はすでに看破されていました。彼女は手の平で転がる起きあがりこぼしの人形のようでした。彼女の脱出は前々から知られていたのです。彼らはそれをわかっていたというのです。ハオスは、いえハオスが、彼の皮肉な意図でもって、彼女をこの場所まで走って来させたのです。納得ができるでしょうか。物静かに背後でハープがちりんとかき鳴らされました。

 でも、彼女は、自分の立場をゆっくりと理解するしかありませんでした。コップの中で、かき回し棒が上下に揺れました。攪拌は切るように、行われました。記憶は混ぜっ返されるのではなく、糸のように、繋ぎ止めていったのです。内容が、おのずとそう繋がっていったのでした。閉じられた部屋に、風が舞ったようでした。イアリオの髪は、揺れてないのに、揺れたみたいでした。

「私の騙りは初めから見破られていて、ここまで連れて来られた、と?そうですか。いいえ、なぜ、それならそうと早くにおっしゃってくれなかったのでしょうか。ここに来る間までの怯えた日にちを返してもらいたいものです。ああ、しかし、それ以上に私はあなた方を疑ってやむなくなってしまいました!信頼してもいいものか、どうか。はっきりとおっしゃってください」

 イアリオは困惑を隠そうとしませんでした。ここに来た以上、彼女の今後は向こうに委ねられていることを、十分わかっていたのです。ですが、その要求はトルムオには通じませんでした。

「それは、おそらくこちらからの要望でもありましょう。我々はまだ手を組んでいませんから。いにしえの怪物を退治するのは、おそらくあなたもわかっていらっしゃるとおり、不可能なのですよ。かの魔物を、監視する以外に我々はすることがないのです。ただクロウルダだけが、それを慰めうる…」

 紫服の老人は、手を叩きました。四回鳴らされた後で、彼の後方から、かたりと物音がしました。それは木の掛け金を回した音でした。この部屋には裏口がありました。花いっぱいに咲き誇る小さな花壇が、香しい匂いを銀のテーブルまで届けてくれる、美しい庭が向こうにありました。そこへの出入り口が開いて、本棚の傍が、暖かい陽の溜まる場所になって、清涼な部屋に、まことの光が届きました。上二階にガラス張りの窓をこしらえている執務室は十分に明るく感じられていたのですが、それでも、まともな陽光は目に直接柔らかな光を届けてくれました。苦しみが癒されました。そう感じたのはイアリオでした。重い金管楽器の音が響きます。光の中にたくさん咲く花を、人の影が邪魔をしました。彼もまた老人でした。トルムオよりも幾分かは若く見えましたが、厳しい顔つきに、ぼさぼさの髭が似合っていました。彼は細長く、手の指もその背と同じように先細っていました。どこか、病み上がりの人間のような、不健康さを感じさせました。

「初めまして。クロウルダの、ニングという者です。私はハオスの師に当たる者です。イアリオ殿」

 イアリオは立ち上がろうとしましたが、ニングがそれを制しました。

「そのままで…いいのです。私もそちらに腰掛けましょう」

 彼の声は、前に聞いたハオスのように、いやに響きの良い音声でした。高めの音を出す、金属製の鐘を思わせるものでした。それは祈りのようにも響き、辛気臭さも蓄えていました。

 イアリオはふと彼の裾に隠れて少女が立っているのに気づきました。少女は中を窺っていました。金髪のボブ・ヘアーの、人形のような可愛らしい子どもでした。彼女と、イアリオは目を合わせました。二人は、きらきらとした、互いの目つきを認め合いました。出会いには、すぐにもお互いの考えていることが分かり合えてしまう、不思議な最初の邂逅があります。二人の交わした視線はまさにそれでした。お互いに得難い出会いがたった今起きたのだとわかりました。それまでの重たい音色の楽奏は、りんりんと、軽やかに鈴が鳴って曲調を変えたようでした。

 その幻の楽器群を奏でていたのは、世界でした。

 扉が閉まりました。女の子は、花畑の中に、一人だけ置いておかれました。イアリオは目を瞑りました。たった今目に留めた、可愛らしい相手を、吸い込むように、心の中に間を取ったのです。ぬくもりが、あちらにあります。

 ここには、冷たさがあります。冷徹な積み重ねられた事実と思惑だけがあります。クロウルダの長が、薄い唇を開きました。

「いかにも彼は、人間の柱になって、あの町の地下にいる巨大な怪物に喰われました。しかし、そうすることで我々に、特別な知らせをもたらしてくれました。クロウルダは、このようにしてかの魔物をずっと慰め続けてきた民族です。我々の魂は、しばらく生きるのです。オグに喰われるとは、不可思議な現象で、恐らく誰もがあの魔物の中に自分の悪意を棲まわせているからでしょう、生きた声を届けてくれるのです。こちら側に、実際、あの悪魔の中に何がいるか」

 イアリオは恐ろしくなりました。ここで、ずっと知りたかったオグの正体をたった今知らされているのです。

「あれは、旧時代に人々の悪意を塗り固めて出来た怪物です。ですが、人の悪意とは宙に浮かんでいるのです。かつて抱いた悪意、現在抱いている悪意。それは、人間の傍を離れて、ふわふわと浮いています。魂がそれを手放すのです。そして、それは誰かに取り憑きます。自分自身に取り憑くことが、ほとんどですが。悪意は創造されるのです。古いものなどありません。それは、常に新しい!

 だから、例えば言語によって過去あったようにしゃべることは、かなわないのです。いつも生まれ変わって、次々に殻を交換するのです。わかりますか。継続するのがそれなのです。もう一人の自分と言っていい。だから、オグにはあらゆる人間のそれが潜んでいるのです。自分の傍ら、己の影そのものが。あれは、いにしえの世に、それを全部集めた。だから、我々の霊魂の一部が、あれなのです。ゆえに、あの中に入れば、これは我々だからこそできる技なのですが、我らと交信ができるのです」

 ニングは立て続けにオグの本質を言いましたが、あまりに続けざまで、イアリオは混乱しました。トルムオがそれを案じて、もう一度噛み砕きながら伝えました。つまり、かの魔物は輪廻転生する人間の心の一部そのもので、すべての人間が、彼に自分の幽霊を預けているというのです。クロウルダはその秘密の技術で、彼らとその彼らの一部である、オグに取り込まれた悪意の霊との結びつきを辿って、遠隔地でも交信できる手段があるということでした。ハオスが死んでもなおしばらくは、オグを通じて、クロウルダは死霊となった彼と言わば無線ができたのでした。

 碩学の長は噛み砕いた説明のあとに続けて言いました。

「苦しみは糧になります。十分な糧となれば、それはある哲学を有します。立派な御殿が建つのです。きらやかに、民族の太い轍をなおさらに太く、消せぬようにするのです。クロウルダの歩みは、まるで一枚の羊皮紙(契約の紙)のように、確固として動かない大岩のごとき歴史の真実で、それは称えられるべきものなのですよ」

 トルムオは慰めるようにそう言って、彼女を見ました。彼はハオスの死が彼らにどのように扱われたか、丁寧にイアリオに伝えました。そして、オルドピスは、クロウルダのそのような伝統を芯から敬う心を持っていることも、同時に伝えたのです。

 彼の、トラエルという小さな町から来た女性にも、まるで呪われた伝統を持ってしまった民族の代表者にも、両方に示した細やかな心遣いに、彼女は気づきませんでした。イアリオは目を瞠って、中空を見つめていました。彼女は心の中で、ニングの話をよくよく噛み砕きました。そして、なぜ彼女がここに連れて来られたか、自然と理解できる素地を見つけました。彼らは、知りたいのです。オグを、監視する者として、表立ちつつある危険な事態を、敏感に察知する能力を多分に持った、彼女から情報を引き出したい。

「どうしてあなたは町から出てきたのですか?なぜ、命の危険を冒してまで!」

 その言葉は、彼女がその耳で聞いたものではありませんが、無意識に響いてきました。それは監視者の声でした。彼女の町は、クロウルダからもオルドピスからも、見つめられ続けていたのです。

「あの巨大すぎる悪にはとても手が出せない。だから、これからどうなるのか、その手掛かりを、当事者であるあなたが一番所持しているのです」

 そういった言葉も、本当は聞いていません。軋むような弦の震えが高音帯で鳴っています。

「オグとは何者ですか?」

 それは、実際にイアリオが言った言葉でした。

「私は…」

「いにしえより生き永らえる怪物です。ですが、それは人間の暗黒の意識であり、元々は人間の一部だったものです。彼はより大きな一つの実体だったのですが、ばらばらになり、いくつかに分かれました。あなたの町の下にいる者以外にも、オグはいるのです。これまで、彼は自らを滅ぼす巨大な破滅をもたらしたことがありました。それは三度起きて、いずれも大変な惨事を引き起こしましたが、今、おそらくそれが再び起きつつあるのです。あなたの町で」

 大賢者が、言葉を引き伸ばし引き伸ばし丁寧に言いました。

「それが私の感じていたこと…?」

「あなたが何を思い、町から飛び出さざるをえなかったか、それは非常に大事なことです。ただし、我々に分かることといえばそれくらいなのです。

 彼の破滅は、すなわち回帰なのです。彼は、消滅するのですが、それにはたくさんの、非常に多くの命の犠牲が必要です。そうでなくば神話のエアロスのごとき大嵐は起きず、彼は膨大な悪意を消し飛ばすことができません。なぜなら、大いなる循環の流れに乗ってしか、彼の時間は進んでいかないのです。彼は変化をかたくなに拒む、まさに、黄金の存在なのです。この世にいるかぎりにおいては。

 黄金は決して腐食しませんが、霊は永遠回帰の流れに乗れば、いずれはなくなり、まったくかたちを変えられます。その場所は、レトラスといいます。レトラスに到達するには、多くの霊魂がそこへ行きたいと願わなければなりません。オグは、それ自体では決してかの流れに行き着けません。なぜなら、彼は人の霊の、一部ですから。だから、彼は生者も巻き込んで同じものを、同一に望ませるようにするのです」

 イアリオは、自分の体がびくびくと痙攣するのを覚えました。回帰…消滅…それは…あの町が、ずっと潜在的に抱いていた、願望ではないでしょうか?黄金を守るだけの、閉ざされた国が、本当は望んでいた、魂の本質ではないでしょうか?いいえ、そんなことは、あの町の誰もがおくびにも出さないことですが。

 変わってはならないという呪縛はなぜ生み出されたのでしょうか?あらゆるものの本質は変化にこそあるのではないでしょうか?

 それを信頼できない人間が、傲慢にも現在の生だけに執着して。一体人は、何を災いと考えるのか。彼女は煮え滾る何かの欲動をここで感じました。

 だと、すれば…!


「私に、いったいどうしてほしいのでしょうか?」

 彼女は訊きました。


「簡単なことです。あなたの感覚が、いかなるものか、私たちに教えてほしいのです。そしてできるだけ犠牲者を出さない努力を惜しまずに進めていかなければならない。ヒントはあなたの感覚にあります。

 それを言葉にして出してほしいのです。いいですか。人間は簡単に悪意の意のままに貪られえますが、それとどう向き合うか、一生を賭けて探る勇気はないものです。反省はできますが、本当にそれを、自分の手に操作できるものへは変えられない。絶対に自らに引き付けられないのです。悪意は、人から分かれた。しかし永劫の人の友と言っていい!もし、人がこれと向き合えるなら、人間の数だけその向き合い方は変わります。あなたはそれをおそらく言葉にできる人間だ。

 そうでなければ、明確な意識を持ちながらあの町に留まることはできないなどという判断はできないでしょうから。悪が暴れようとしている現場で、耐えられなくなるということはないですから。大勢がそれに巻き込まれるのです。あなたは、あなた自身の位置取りを変えて、その現場を、明確に把捉しようとしてこの場にいらっしゃったのでは?」

 ニングが言ったことは、その通りでした。彼の言ったことは、霊魂となった死後のハオスから彼に伝えられた情報でした。ハオスは、いつか彼女をして「悪を超えし者」と言っていました。それは、こうした意味でした。

 彼らの言っていることはわかりました。そしてまた、自分の目的もそれ以外にありませんでした。しかしイアリオは躊躇しました。……あの天女たちが、どうして自分の前に現れたかをもう一度思い出してみれば、オグだけが、あの町の事情だけが……彼女の焦燥感につながっていたのではないようだったからです。クロウルダとオルドピスは、彼女の回答を待ちました。しかし彼女は、まごつきました。

 ニングは、

「いいでしょう。決して焦ってはならない。焦れば言葉は歪み、正しく伝えられないものです。あなたはたった今ここへ来たばかりですから。我々は待ちます。あなたに時間を与えます」

 そう言って、部屋を辞しました。彼の言葉は、とてつもなく重く、イアリオには感じられました。

「イアリオ殿。もしよかったら、我らの図書館を訪ねてみるのもよろしいでしょう。そして、もしよければあなたにオグや歴史を講義してもかまいません。正確な知識が言葉の表れを助けるものです。あなたに必要なことは、皆、このオルドピスが用意して進ぜましょう」

 トルムオはじっとイアリオの顔を見入りました。彼の学問で、彼女の意識を測ったのです。彼女の役割は決していました。あの町に誕生した者して、これから起きるべき現象の正確な観察者たるように、天女たちからも、おそらくは地下で出会った亡霊からも、委ねられたのです。その重々しい役目が泥のようにねばねばと、背中と足元を這いずっていました。

 しかしそのような役割の重さに、今まで彼女は潰されることなく、このオルドピスの首都まで来たのでした。

 イアリオは少し憔悴した心持ちで、目の前のトルムオを見上げました。

「私に起きていることが」

 彼女はおもむろに話し始めました。

「あの町で起きることに関連しているのは、言わずもがなです。でも、どうして、私なのでしょうか。どうして、よりによってこの自分なのでしょうか?いいえ、そんなこと、追求しても始まらない。それが私に起きている、それだけが、正しくわかることだから。私はなぜ出て行ったか、その原因ともなった焦燥は、ずっと、旅に出てからも消えないでいます。

 その理由は、ただちにここで言うことはできません。時間を下さるとおっしゃいました。私に知識を提供してくれると、言ってもらえました。それが、真実私の望みでしたから、私からこれ以上何を願うことがあるでしょうか。でも、今は、かろうじて縋りつくことのできる唯一の希望さえ、かすんで見えるのです。私は何を、予感しているのでしょうか。


 あの町の破滅です。そう、破滅です。


 でもそれが、どのようにして起きるかは、まだわかりませんが。だから、私は知りに来たのです。逃れられないさだめを、克服するためのすべを。本当に逃れえないのかを。それとも、こう言えばいいでしょうか。私は、ここに、自分の役目を果たしに来たのだと。いいえ、それしか、今は、表現しえない。自分は逃げ出したい。かろうじて、希望や期待ができるものなら、私はそれに。でも、いいえ、本当にやるべきことが目の前に見えているから、逆に、私は疲れました。

 私の理由が、はっきりしたから。私は恐れているのです。未来を」

 ここまで言って、力は尽きました。彼女は、情けない自分自身を感じていました。ここまで来て、ようやく不可解な不安や焦燥が解きほぐされうる場所まで辿り着いたというのに。彼女は独りを強く感じました。たった一人でこの道を歩いていかねばならないことに、強迫感と、強い怖れが迫ったのです。

 しかしそれも今さらでした。ずっと今さらでした。今更だから、情けなかったのです。

 ところが、彼女は一人ではありませんでした。そういう心の状態に、イアリオはならざるをえない理屈があったのでした。彼女は多くの人間にその背中を押してもらっていました。レーゼやハリト、母親にも、そして、あの暗黒の都にいる者たちにも。計り知れない不安にも、どこか、対峙できる強さが彼女に宿ったとしたら、それは、彼女一人だけの力ではありませんでした。しかし、これから向き合わねばならないことになるものを、正確に予感もしていました。オグという、いにしえの怪物を、彼女は正確に調べなくてはいけないのです。それはつまり、自分の一部を、調べるということなのです。

 それは、これから、自分の中にある強大な悪そのものに出会っていくのだということ。


(括弧をして、笑顔になれば、誰もがちやほやとしてくれるものではありません。それが生きるすべだと言っても立派である以外は、何の価値もありません。その人間は、どのようにして生きているのでしょうか。そう、括弧をして、笑顔を作って、そうして誰もを騙しながら、自分の存在を守り切る、挑戦をしています。それが、人間の価値でしょう。もし、そうした人生の可能性を知りながら、そうではない生き方を選択したとしたら、また、新しい価値がその人物には表れるのでしょう。たとえそれが事実を鑑みない、もっと括弧ばかりの「嘘吐き」だとしても、人間は、生きています。かつて、その昔に誕生して確かに生きたことのある。そして、転生をして、再び生きた。

 流れはこちら側にあります。あちらには、本物らしき、影の言葉の群れがあります。それでも、それだからこそ、人は、影を追うことしかできないのでしょう。きっと、本物らしき、価値判断が惑わされるものをこそ、信じ続けるものでしょう。揺さぶられるのが、人なのです。括弧は、恰好。なればその恰好を選択したことが、人間の業なのでしょう。)


 その括弧の中身は、彼女の、その時の覚悟のかたちでした。どんな恰好を選んだとて、自分は変わらず、ここに来ることとなっていた理由はいつからか存在し続けていました。何を選んだとしても、彼女は彼女だったのです。過去は、いつまでもどこまでも本人を追いかけるものでした。

 イアリオは立ち上がって、その場を辞そうとしました。トルムオは、彼女の気持ちを慮って、自ら扉を開けてその向こうに控えていた兵士に彼女の保護と手厚いもてなしを命じました。彼女は兵士について、廊下を歩いていきました。ふらふらとした足取りで、何度も兵士から「大丈夫ですか?」と声を掛けられた気がしますが、定かにも憶えていませんでした。ところが、石の廊下をぱたぱたとはしゃぐようにして歩いてくるなんともあどけない足音に、彼女の頭蓋骨はきりきりと上がりました。同時に背骨もまっすぐ上がり、見かけよりも背丈がぐんと伸びて見えました。昔の職業的な癖が、彼女の身体に命じたのです。どんな時も、子供の前では、自分はしっかりと立つように。

 こんな時なのに、と彼女は内心苦笑しました。それこそ、括弧でくくった自分のあらましをここで披露しているようでした。彼女は、自分を嘘吐きに違いない、と思い始めていたのです。あまりに存在の重い課題が、自分の体を押さえつけていました。ですが、そこから浮き上がってくる、表面なる意識の浮動がありました。すべて嘘っぽい、軽い、定まらない鈍い苦しみを感じさせるもの。まるで借り物のような軽いもの。

 ところが、そのような心の迷宮に迷い込んだのも一瞬でした。

「こら、お嬢様!」

 やって来たのは、別の兵隊に追いかけられた、トルムオの執務室の向こうの花畑に見かけたあの可愛らしい女の子でした。その庭で見た時よりも、近づき、再び彼女と目と目が会いました。イアリオの気分は混乱と冷たさから翻って素直な温かみを復活させました。

 金髪のボブ・ヘアーが揺れて、彼女の前で立ち止まりました。

「お姉さん、背が高いんだね。それに、肌もキレイ」

 女の子は、小鳥の囀る声で鳴きました。

「うらやましいな。お姉さん、体つきも相当、女らしいものね。私もそうなりたいなあ」

 少女は十二、三歳ほどの年齢でしょうか。あどけなさの残る小さな顔は、美しく、目もくりくりとして魅力的ですが、時折、大人の表情も垣間見えるような、著しい成長の途上の、どちらつかずの思春期の危うさをも持っていました。彼女はまたこの少女と目と目を合わせて、ああ、やはりたちまち気が合う子だな、と思いました。そうだ、ハリトにもこの子は似ている。なんとなくやんちゃそうな匂いがするもの。……

「もしかしてあなたも、町の中じゃ、素っ裸でいたら気が楽なのに、と思ったりする方?」

 女の子はきゃっきゃっと笑いました。それで、互いにどんなことを考えているか、二人とも判りました。隣でイアリオを先導していた兵士が粟を食ったようにまごまごとしていましたが、二人には、まったく気にならないことでした。少女が八重歯をきらりとさせて、彼女の手を引きました。

「案内してあげるよ!」

「どこへ?」

「お姉さんのお部屋にだよ!あたし、知ってるから!」

 二人は良い友達になれそうでした。ですが、イアリオはどうも失礼になったかしらと、まごつく兵士を振り返りました。

「この子に案内してもらうことにするわ。早速いい友達ができたって、あなたたちの指導者に伝えてちょうだい!」

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