潔癖ゾンビ
「イザベラさん!! あなた、また聖水を飲みましたね!!」
床に倒れ込みうずくまっている彼女の毛先が分解されて、パラパラと宙を舞う粒子が、ステンドグラスから差し込む太陽の光を反射して光り輝いています。ほんの一瞬、その神々しささえ感じられる情景に呆けていた自分を叱咤し、彼女の傍に駆け寄りました。
「……すみません……つい、出来心で……水割りでほんの一口程度なら大丈夫かと思って……」
「そんな訳ないでしょう! 浄化が始まっているじゃないですか!! ほら、早く口を開けて!!」
彼女の頭を膝に乗せ、口元に中和剤入りのボトルを当てて、少しずつ飲ませます。
「……ぷはっ……ごめんなさい……ありがとうございます…………神様って本当に意地悪ですよね……まるで小さなアリを苛めて……楽しそうに遊んでいる子供みたいです……」
教会の神父という立場でありながら、彼女の本来許されざる不謹慎な発言に、私は何も言い返すことができませんでした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
彼女は、ある朝突然、教会に現れてこう言いました。
「神父様……どうか私を浄化して下さい」
私は混乱しました。目の前にいるのは紛うことなき正真正銘のゾンビ。意味のある人語を喋ることすら非常に珍しいのに、よりによって自らの浄化を希望するなんて。奇妙な悪夢でも見ているような心境でしたが、とりあえず言葉が通じるようなので彼女の話を聞くことにしました。助けを求める者には誰であろうと手を差し伸べるというのが、主の教えですから。
イザベラと名乗った彼女の言によれば、物心ついたときには自分の肉体、ゾンビという種族そのものへの嫌悪感を覚えていたそうです。私は冒険者ではありませんから詳しく知りませんでしたが、ゾンビは肉体の腐敗と再生を同時に繰り返しているとのことでした。確かに、ただ腐っていくだけの生き物なら自然に消滅しているはずです。
彼女の魂は不潔なものに対してどうしようもない拒絶反応を示しているようでした。なぜそのようなことが起こったのかは謎ですが、腐りながら生き続ける肉体に宿ることがどれほどの苦痛であるかは容易に想像できます。
「……あなたの言う通り、体内で腐敗と再生が同時に行われているのだとすれば、その仕組みを研究することで腐敗を止めることもできるのではないしょうか?」
「……本当に、そんなことが……?」
「……あくまでも単なる推測に過ぎません。それでも、試してみる価値はあるでしょう?」
正直、その場しのぎ、苦し紛れの思い付きでした。村人に襲い掛かるゾンビがいれば、魔法や聖水を使って浄化することを躊躇ったりしません。でも、こうして意思や感情を持っている彼女の生を終わらせることなんて、臆病な私には到底できなかったのです。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
知り合いの調薬師から薬学の基礎を教わりながら、私達は密かに実験を重ねました。どうやら聖水の効果というのは、ゾンビの持つ再生能力を弱めることで、彼らの腐敗を加速させ、浄化するものだと分かりました。そこで、聖水とは反対の効能、つまり再生能力を高めるような薬を作り出すことにしたのです。
完成した中和薬は聖水の効果を打ち消すことが出来ました。ですが、残念なことに単体で服用しても彼女の身体に一切変化は見られません。彼女はその結果に酷く落ち込み、時々私の目を盗んでは聖水を口にするようになりました。彼女にとっては最も忌むべき腐敗を進める毒薬だというのに。
私は、なにが正解なのか分からなくなっていました。ひょっとすると出会ったあの日に、彼女の願い通りに浄化してあげることが、彼女にとっても私にとっても最善だったのではないかと思い悩むこともしばしばありました。けれども、今では彼女の命を奪うなんてことは想像すらできなくなってしまったのです。何故なら私は彼女のことが……
ドン ドン ドン
教会の扉を乱暴にノックする音が響きました。こんな夜中に来客が訪れることは珍しいのですが……ドアを開けると酒臭い息を吐く男達が数人、猟銃を抱えて立っていました。
「こんな時間に一体どうしたんですか?」
「神父さん~……あんた、最近こそこそ何か悪さをしてるんじゃないですかぁ? 村でゾンビを匿ってるんじゃないかって噂が立ってるんですよ。近頃、いつも教会にイヤ~な臭いが漂ってるってね。窓越しにそれらしき姿を見かけたものもいるらしいんだ」
最近、用心が足りていなかったかもしれません。特に私の嗅覚は、とっくに麻痺してしまっていましたので。まさか、イザベラさんの姿まで見られていたとは思いませんでした。
「何でも女のゾンビだったって言う奴がいるんですよねぇ……神父さん、あんたぁ、聖職者のくせに、まさかそいつと毎晩お楽しみしてるわけじゃないよなあ?」
下卑た笑い声をあげて腹を抱える男達。思わず怒りで視界が真っ赤に染まりましたが、唐突に後ろから聞こえた怒鳴り声で我に返りました。
「……神父様を侮辱することは許しません!! この方が、私のために、一体どれほど必死に尽くしてくれたと思っているんですか!!」
「イザベラさん……何で……」
男達の前までツカツカと歩みを進める彼女。彼らは慌てて一斉に銃を構えました。
「……驚いた……こんなにはっきり言葉を喋るゾンビがいるとは……おい、それ以上近づいたら撃つぞ!! おあっ……やべぇ」
ダァン
酔いのせいかふらついた男は誤って引き金をひき、握られた銃から弾が放たれ、彼女の右腕は宙を舞い、黒い血が辺り一面に噴き出しました。
「ひぃっ……お、俺は悪くねえぞ!! 危険なゾンビを教会に匿うほうが間違ってるだろ!! ちくしょうっ!!!」
男達は捨て台詞を吐いて、その場を一目散に逃げていきました。彼らを追いかけ殴り倒したいという衝動を何とか抑えつけ、私は倒れ伏しているイザベラさんの元に近づき、そして目を疑いました。
「えっ……どうして……腕が……」
確かに吹き飛んだはずの彼女の右腕は、何事もなかったかのようにそこにありました。
「……もしかしたら、あの薬の効果かもしれません。気付いたら元通りになっていて……」
そんな……彼女の腐敗を止めるために開発した薬だったのに……これではまるで……
「……私、もう、ゾンビですらない化け物ですね……でも、いいんです」
私の目をじっと見つめる彼女。
「もしあのまま私が死んだら、きっと神父様は一生自分を責め続けることになってしまうでしょう? だから、これでいいんです……」
ああ、神よ。このように清らかな心を持っている者が、どうしてここまで残酷な運命を背負わなければならないのですか。
彼女は、まだふらつく足で立ち上がり、そのまま教会を出ていこうとしました。
「待ってください! どこへ行くつもりですか?」
「彼らがもっとたくさん村人を引き連れてくる前にここを去ります。神父様は、私に無理矢理脅されていたと説明して下さい……今まで、本当にお世話になりました……」
深々と礼をする彼女。ぽたぽたと床に落ちる雫。私は、ようやく覚悟を決めることが出来ました。
「分かりました。でも、あなたを一人にするつもりは毛頭ありませんよ。私も……いえ、僕も付いて行きます」
「そんな……神父様まで巻き込む訳には……」
「僕は、その体に生まれて苦しむあなたを助けてあげることができなかった……迷っているあなたを導くことも叶わなかった……だけど、ヒーローにも神父にもなり損なってしまった僕でも、あなたと一緒に迷いながら道を探すことはできるはずです!」
「……アラン様……」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
僕とイザベラは、それから誰にも気づかれないように、こっそりと村を抜け出しました。握っている彼女の手からは少しも温もりを感じることができませんでしたが、確かにそこに存在する繋がりだけは、もう決して見失わないと、僕は心の中で神に誓ったのでした。