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井上鈴は学校でいちばん可愛い  作者: 恵梨奈孝彦
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暗転


 部室。絵里奈、康一郎、光、高彦、鈴、板付き。長机の奥側、一番下手側に絵里奈が立っている。康一郎、絵里奈よりやや上手側に長机について客席側に座っている。体は上手側を向けている。高彦、長机の上手側の端に、客席から見て奥側に座っている。体は下手側を向けている。光と鈴、長机の奥の壁にぴったり張り付いて座っている。長机から距離を取っている感じ。光が下手側、鈴が上手側。

絵里奈「今日はみんなにお土産があるのよ!」

高彦 「土産?」

絵里奈「如月公演も終わったことだし、たまにはいいでしょ、こういうのも」

絵里奈、大きめのバックからタッパーを幾つも取り出す。長机の上に置く。康一郎、タッパーを机の真ん中に移動させる。

絵里奈「スイートポテトに、大学芋に、栗きんとん!」

康一郎「イモが好きなんですか?」

絵里奈「あんたは黙ってなさい」

康一郎「すみません…」

絵里奈「お母さんがどういうわけか、薩摩芋を買いすぎたのよ、だから…」

高彦 「(タッパーを開けながら)へええ、すごいな」

絵里奈「みんなあたしが作ったのよ!」

高彦 「昨日の功労者だ。田中、まずおまえが食え」

康一郎「は…」

 絵里奈、康一郎をぎろりとにらむ。

康一郎「自分はちょっと甘いものが苦手で…」

高彦 「そうだったか? (振り返って)加藤、井上…」

鈴  「いりません」

光  「いらない」

高彦 「どうしたんだよおまえら…、誰も食べようとしないってことは……、絵里奈おまえ、さっき自分で作ったって言ったな」

絵里奈「そうよ」

高彦 「まさか中にマスタードかなんか…」

絵里奈「入ってないわよ!」

高彦 「確かおまえ、シュークリームのフタを丁寧に剥がした後、中のカスタードを全部きれいにスプーンで掬い取って、中にチューブ一本分の洋辛子を入れておれに食べさせたことが…」

絵里奈「そんな昔のことを言うなあ!」

高彦 「……、わかった! 要するに自分が食べたかったわけか」

絵里奈「文句が多いわよ、食べるの? 食べないの?」

高彦 「もちろん食べるさ」

絵里奈「別にあんたのためだけに作ってきたわけじゃ…」

高彦 「それでもうれしいよ、ありがとう。しかし一人だけだと食べづらいな。うまそうだぞ。加藤、井上…」

鈴  「鈴は、虫歯がちょっと」

光  「和風洋風を問わずスイーツは女の敵」

高彦 「そうなのか? (隣にあった椅子を引く)絵里奈、こっちに来い。いっしょに食べよう」

絵里奈「ふーん。あんたそんなにあたしに隣に来てほしいんだ!」

高彦 「昨日あんなに具合が悪かったのにこんなに張り切って大丈夫だったか?まあ、それだけ減らず口を叩けるんだったら平気のようだな」

絵里奈「ふん、あんたに心配されるほどヤワじゃないわよ。(顔がにやけている)えへへ…」

 絵里奈、上手側に歩き出そうとする。

光  「(冷ややかな声)由比藤、新条の隣に座りたいのならば、言わなければならないことがあるはず!」

絵里奈「あっ、あんた…知ってるの?」

光  「昨日あなたの携帯からわたしの携帯に電話がかかってきた」

絵里奈「あたしは電話なんか…」

光  「おそらくあなたは、部室で携帯を取り出した時に、うっかり短縮番号と通話ボタンを押してしまった。携帯を通して、昨日の部室でのあなた達のやりとりが全て聞こえてきた」

高彦 「何だ、どういうことだ?」

絵里奈「言わないで…。お願いだから言わないで…」

光  「あなたが言わないならわたしが言う」

高彦 「(落ち着いた声だが、聞きようによっては凄みのある声)絵里奈」

絵里奈「な、なに…」

高彦 「説明しろ」

絵里奈「言っても怒らない?」

鈴  「鈴は前から言おうと思ってましたけどね。新条先輩もコウイチも、女の子を無責任に甘やかしすぎです!」

光  「やはりわたしが…」

絵里奈「待って。言う。言うから!」

高彦 「早く言え」

絵里奈「だからその…、昨日のアレは、田中くんのテストだったのよ!」

高彦 「テスト?」

絵里奈「そう、演技力テスト。あたしが倒れていて、あんたにあたしが気絶していると信じさせられるかどうか…」

高彦 「田中」

康一郎「ひゃっ、ひゃいっ!」

高彦 「食え」

康一郎「しかし…」

 高彦、机を平手でバンッと叩く。康一郎と絵里奈、ビクッとする。

高彦 「食えっ!」

康一郎「はいい!」

 康一郎、あわてて手づかみで食べ始める。

高彦 「それで、本当にしたのか?」

康一郎「…何をですか?」

高彦 「……人工呼吸」

康一郎「やってません! 絶対やってません!」

絵里奈「そうよ! あたしがこんな奴にそんなことさせるわけないじゃないの!」

康一郎「なんだかぼくの扱いがいちばんひどいですね…」

光  「自業自得」

鈴  「自業自得ね」

絵里奈「自業自得だわ」

高彦 「(絵里奈に)おまえには言う資格はないぞ」

絵里奈「うっ…」

 しばらく全員沈黙する。康一郎だけが必死に食べ続ける。

高彦 「おまえ本当に甘いもの駄目なのか?」

康一郎「はい…」

高彦 「それでも食え」

康一郎「はい…」

 またしばらく全員沈黙する。康一郎、顔を上げる。

康一郎「せめてお茶か何か…」

高彦 「井上、水道水でも持ってきてやれ」

鈴  「はい。(康一郎を見て)ちょっと待っててね。今から鈴が下水道の水をくんできてあげるから!」

 鈴、立ち上がって上手側に走っていく。

康一郎「おい、鈴、待て!」

 鈴、上手側に退場。

光  「(絵里奈を見て)あなたは新条にまだ肝心なことを話していない」

絵里奈「えっ…」

光  「(高彦を見て)由比藤は顔が近づいてきたらパッと目を開けて、あなたのキス顔を携帯のカメラで撮るつもりだった」

絵里奈「ちょっとそれは!」

光  「しかもその写真をインターネットにアップロードしようとさえ考えていた」

絵里奈「ちょっと、いくらあたしでも、まさかそこまで…」

光  「この耳で聞いた。井上も聞いている」

 鈴、手にコップを持って上手から登場。

鈴  「おまちどおさま!」

康一郎「おい、それは…」

鈴  「水道水よ」

康一郎「まさか…」

 鈴、高彦の後ろを通って、長机の康一郎の前にトンと置く。

鈴  「飲みなさい!」

高彦 「おい、井上」

鈴  「はい」

高彦 「アップロードのことは聞いたか?」

鈴  「先輩のキス顔のことですか?」

高彦 「はあ…(ためいきをつく)」

絵里奈「ちょっとぉ! あた…」

鈴  「(絵里奈の台詞にかぶせるように、田中に言う)絵里奈先輩のお菓子は食べられても、鈴がくんだ水は飲めないの!」

高彦 「おまえは酔っぱらった上司か」

康一郎「(鈴に)あの、これは…」

 鈴、もとの椅子に座る。

鈴  「心配しなくても上水道の水よ」

康一郎「何だよ、それならそうとはやく…」

 康一郎、コップを手に取る。

鈴  「女子トイレの洗面所の水道からくんできたんだけどね」

康一郎「何でだ? 水道なら他にいくらでも…」

鈴  「(高い声で)さっさと飲め!」

 康一郎、コップを手にとって眉間にしわを寄せて首を傾げる。

 高彦、立ったままの絵里奈に向き直る。

高彦 「おい、由比と…」

絵里奈「絵里奈っ!」

 絵里奈、必死の目で高彦を見る。

康一郎、これよりずっとコップを片手に小声でうんうんうなり続ける。

絵里奈「あた、あたしは絵里奈…」

鈴  「(小声で)これだけ追いつめられても、その特権だけは失いたくないんですね…」

高彦 「絵里奈…」

絵里奈「なに…」

 高彦、立ち上がる。

高彦 「なにじゃねえよ。言いたいことは沢山あるが、いちばん言わなきゃならないことだけを言っておく。人の生き死にの冗談なんか最低だ! 今度こんなことをしやがったら、絶対に許しゃしねえぞ…(指さす)たとえおまえでもな!」

 絵里奈、二回パチパチとまばたきをする。

右手の中指と人差し指で、鼻と目の間をこする。

高彦 「わかったか…」

絵里奈「な、何よえらそうに‥」

高彦 「返事は!」

絵里奈「はいっ!」

高彦 「今日は帰らせてもらうぞ」

 高彦、カバンに荷物をつめて上手側に歩き出す。

絵里奈「勝手にしたら…」

 高彦、歩きながらつぶやくように言う。

高彦 「まったく…、えらい恥をかいてしまった…」

 高彦、上手側に退場。絵里奈、高彦の去った上手側をじっと見ている。

絵里奈「(独白 多少わざとらしくなってもよい)あんたは恥なんかかいてないわよ…。だってきのうのあんた、ものすご

くカッコよかったもの。それにひきかえ、あたしは…」

 絵里奈、いきなり全員を見回してはっきりした声で言う。

絵里奈「恥をかかせたのはちょっと悪かったわね!」

光  「恥をかいたのはあなた」

絵里奈「ぐ……」

光  「新条の態度は昨日から一貫して毅然としている。それに比べてあなたは…」

絵里奈「うるさい!」

光  「告白さえできないくせに、いきなりキスしてほしいなどと望むこと自体がおかしい」

鈴  「いくら好きだからって、やっていいことと悪いことがあります」

絵里奈「へええ、あんたたち。あたしの気持ち知ってるんだ…。よくもあいつの前で、あたしに大恥かかせてくれたわね!」

光  「あなたの気持ちなど、その視線の先を見ていれば誰でもわかる」

絵里奈「…だったらなんであいつはわからないのよ」

光  「あなたが臆病だから」

絵里奈「…何よそれ」

光  「背中に目がついている人間などいるか」

絵里奈「当たり前じゃないの」

光  「あなたはいつも新条の後ろ姿か、彼が去った後のドアか、さっきまで彼がいた所をじっと見ている。そんなこと

をしても本人にわかるはずがない」

 康一郎、コップを机に置く。

康一郎「それについては部長のみを責めるのは酷でしょう。新条先輩はこの上なく素直な人です。そこにあるものをありのままにしか見ようとしません。美人の同級生がしつこくからかってくるのはバカにしているからだとしか思わず、実は自分にかまってほしいからなどとは考えない。倒れている人を見たら気絶しているとしか思わず、自分に何かをしてほしいからだなんて、決して考えない人です」

光  「それを利用して彼を騙そうとするのはいっそう許し難い。これより由比藤絵里奈の部長職の解任と、由比藤及び田中康一郎両名の除名決議を行う。賛成者は挙手するように」

康一郎「ちょっと待って下さい!」

絵里奈「(落ち着いた声で)そんな決議認められないわ」

光  「あなたたち二人には投票権はおろか発言権もない。顧問の山本教諭には事後承諾を受ければすむ」

絵里奈「そんな大事なことをあいつがいない所で決めるつもり? そんなこと許されないわ。…あんたそうは思わないの?」

光  「…あなたは新条にさんざん迷惑をかけていながら、結局最後は彼に頼る」

絵里奈「あんたも高彦に頼ってるじゃないの! 如月公演の演出で三年の先輩全員と対立した時のことを忘れたの!」

光  「あの時は三年生より、私の意見の方が道理に叶っていた。彼女らは後輩のわたしに指図されるのが不愉快なあまり、感情的になっていただけだった」

絵里奈「誰がどっちが正しかったかなんて話をしてるのよ。あの時はあいつが先輩のクラスを一つ一つ訪ねて、辛抱強く説得して、ようやくあんたの思い通りの演出ができた。高彦がいなければどうにもならなかった」

光  「無論感謝している」

絵里奈「あんたが困ってたらあいつが動くだろうってことを見越してたんじゃないの? 確かにあたしは最後にはあいつに頼るけどね、あんたは最初から頼ってるじゃないの!」

光  「わたしはあなたのように一方的に迷惑をかけていない。新条の役に立っている」

絵里奈「あんたがいつ、あいつの役に立ったのよ…」

光  「今日、あなたの嘘を暴いた」

絵里奈「あいつを傷つけただけじゃないの!」

鈴  「そうですね…。相当傷ついているはずです。新条先輩、また部活に来るでしょうか」

絵里奈「来るに決まってるわ」

鈴  「どうして言い切れるんですか?」

絵里奈「あいつがあたしを、手放すわけがないでしょ!」

鈴  「先輩のその自信は、一体どこからきてるんですか?」

絵里奈「(鈴を見てニヤリと笑う)あんたたち知らないのぉ? あいつ実は、もんのすごい面食いなのよ」

鈴  「絵里奈先輩の自信の根拠って、まさかそれだけですかぁ?」

光  「おまえはいつ新条のものになった」

絵里奈「あたしが、そう決めた時から!」

鈴  「新条先輩は、絵里奈先輩が自分のものだと知ってるんですか?」

絵里奈「だから昨日、教えてやろうと思ったの!」

鈴  「そういえば昨日はバレンタインデーでしたね」

絵里奈「そういうことよ」

鈴  「トラウマになると思います」

絵里奈「トラウマ?」

鈴  「新条先輩、毎年この日が来るたびに、昨日絵里奈先輩にされたことを思い出すでしょうね」

 絵里奈、思い切り鈴をにらみつける。

康一郎「トラウマですか。そんなのは後でいくらでも取り返しがつくでしょうが、それよりもはるかに深刻な問題があります」

絵里奈「何よそれ」

 康一郎、座ったまま絵里奈の顔を見上げる。

康一郎「もしかしたら新条先輩は、これから決して部長にキスしようとしないかもしれません」

 絵里奈、一瞬茫然とした顔をする。

絵里奈「田中! そこどきなさい!」

 康一郎、立って下手側に移動。絵里奈、さっき高彦に勧められた椅子を下手側に動かし、長机の壁側に座る。光と鈴に背を向けて、下手側に体を向ける。手づかみでスイーツをむしゃむしゃ食べ始める。

絵里奈「何でこうなるのよ。好きな人にさわりたくて。さわってもらいたくて。大事にしてもらいたくて。可愛がってもらいたくて。ただそれだけなのに…」

 絵里奈の口の中の食べ物が見えている。

絵里奈「あいつを傷つけたいなんて思ってなかった。あいつを悲しませたいなんて思ったことは一度もない。それなのに…。世界でいちばん好きな人を傷つけて…。この世でいちばん尊敬している人に軽蔑されて…」

鈴  「なんだか台詞が芝居がかってません?」

康一郎「演劇部だからな」

絵里奈「なんでこうなるのよう…」

光  「あんなやり方をするから。きちんと順序を踏んで告白から始めれば、いつかその日がきたはず」

絵里奈「あたしはもう我慢できないの! もう待つのはいやなのよう!

うぐっ…ひっくひっく…ずるずる、むしゃむしゃ…ひっくひっく、ずるずる、むしゃむしゃ…ひっくひっくひっく、ずるずるずる…(役者が口で言ってもいい。滑稽感を出す)」

光  「役者のくせに泣くのがヘタ。美人がだいなし」

康一郎「そこからわかるんですか?」

光  「見なくてもわかる。正面から見たら食欲がなくなる」

絵里奈「ずるずるずるごほっこほっ…」

 絵里奈、机のコップを掴む。

康一郎「部長、それは!」

絵里奈「なあにぃ? 『鈴ちゃんがボクのために持ってきたんだから飲んじゃいや?』知らないわよそんなの」

 絵里奈、コップに口をつける。

康一郎「トイレの水です」

絵里奈「ぷはっ!」

 絵里奈、口から水を吹き出す。

康一郎「汚いですよ…」

絵里奈「なによさっきからあんたたち! 泣き顔が汚いだとか、食べ方が下品だとか!」

康一郎「そこまで言ってません…」

絵里奈「こんなあたしが、いまさらカッコつけてどうなるのよ!」

 康一郎、上手側を見て言う。

康一郎「あ、新条先輩」

 絵里奈、ビクッとする。慌ててスカートのポケットからハンカチを出して目を拭い、鼻を拭き、最後に口を拭う。ハンカチを床に投げ捨てる。ゆっくりと上手側を見る。誰もいない。鬼のような顔をして振り返り、立ち上がって康一郎をにらむ。

絵里奈「たなかぁ!」

康一郎「ジョークです、ジョーク! 空気を和やかにするための、罪のない冗談です!」

絵里奈「冗談だったら、笑えるようなことを言え!」

 絵里奈、スイートポテトをつかんで、田中に投げつけようとする。

光  「おまえが言うな」

康一郎「食べ物を粗末にしちゃいけません!」

絵里奈「あいつが食べてくれないんだったら、こんなもの生ゴミと同じよ!」

 鈴、上手側を見て言う。

鈴  「あれぇ新条先輩、忘れ物ですか?」

 高彦、上手から登場。

絵里奈、下手の康一郎に体を向けたまま言う。

絵里奈「いくらあたしでも二度も同じ手にひっかからないわよ!」

高彦 「絵里奈」

 絵里奈、ビクッとする。スイートポテトを机に置き、高彦に背を向けたまま返事をする。

絵里奈「な、何よ…」

高彦 「外を歩いていたら頭が冷えてきた。おまえのことが気になってな」

絵里奈「あたしのことなんか気にしてくれなくても結構よ」

高彦 「もし加藤と井上に見捨てられたなら、その時は田中に頼れ。頭のいい奴だし、面倒見もいい」

絵里奈「あんたそんなこと言いにきたの?」

高彦 「(康一郎を見て)田中…、絵里奈を頼むぞ」

絵里奈「(何か言おうとした康一郎を目で制して)何よ、それ。えっらそうに。あんたいったいあたしの何なの!」

鈴  「(小声で)たしか所有者だったんじゃ…」

 康一郎、鈴をぐっとにらむ。

鈴は小さく鼻を鳴らしてそっぽを向く。

高彦 「おれはおまえの…」

 絵里奈、肩をぴくりと震わせる。絵里奈を除く全員が高彦の口元に注目する。緊張感。

高彦 「味方だ」

全員微動だにしない。

高彦 「自分が軽んじられていることはわかっているが、それでもおまえの味方でいたい。田中に頼り切れなくなった時は、おれを頼れ」

鈴  「(小声で)やっぱり芝居がかってますね」

光  「(小声で)演劇部だから」

絵里奈「言いたいことはそれだけ?」

高彦 「そうだ」

絵里奈「だったらさっさと帰りなさい。もうもどってくるんじゃないわよ!」

 高彦、少しとまどったような顔をするが上手側に退場。鈴がそれを顔だけで見送る。

絵里奈「あいつ…、もう行った?」

鈴  「はい。完全に気配が消えました」

光  「やはり、器が大きい」

鈴  「(上手側をにらみながら)また中途半端なことを言って…」

康一郎「(絵里奈をやさしく見ながら)由比藤先輩、がんばりましたね…」

絵里奈「(突然)うわぁぁぁっ、うをぁぁぁっ、うわぁぁぁっ…」

 絵里奈、子供泣き。あごにしわをよせて、顔全体をくしゃくしゃにする。体全体で泣く。15ページの滑稽感のある泣き方ではなく、悲壮感を出す。泣きながら口の中に大学芋を詰めこむ。ライトが消える。暗闇の中で絵里奈の泣き声だけが響く。


 暗転


 部室。絵里奈、光、鈴、板付き。

 長机の一番下手側、所謂お誕生日席に絵里奈が座る。続いて壁側に光、その上手側に鈴。前のシーンとは違い距離はとっておらず全員がテーブルを囲んでいる感じ。絵里奈、腹を気にしながらしきりに上手側をチラチラ見ている。

光  「部長、今日の議題について説明して欲しい」

絵里奈「待ちなさいよ、三人しかいないじゃないの」

鈴  「コウイチならすぐにもどってきますよ」

絵里奈「……あいつけっこう子供っぽいところがあるから、先に始めたりすると拗ねたりしてあとが面倒だわ」

光  「田中はそんなに子供っぽくない」

鈴  「そうですね、始めましょうか」

絵里奈「そうじゃなくて高彦のことよ!」

光  「新条なら来ない」

絵里奈「あんたのところに連絡があったの? あたし聞いてないわよ!」

鈴  「絵里奈先輩、昨日新条先輩に最後に何て言ったか覚えてます?」

光  「『もう』」

鈴  「『もどってくるんじゃ』」

光  「『ないわよ』」

絵里奈「あれは、昨日はもうもどってきてほしくないっていう意味で、今日はまた普通に…」

鈴  「絵里奈先輩、そんなこと言ってませんでしたよ」

絵里奈「昨日のあたしにそんな余裕があるわけないでしょ!」

光  「そういうわけで新条は来ない」

絵里奈「あんたたち聞いてなかったの! あいつはあたしの味方だって言ってくれたわ!」

鈴  「新条先輩は、まずあたしたちに見捨てられたらコウイチを頼れ、コウイチに頼れなくなったら自分に頼れ、と言っていました。つまり『ギリギリになるまでおれに頼るな』っていうことじゃないですか?」

絵里奈「あいつは必ずくるわよ!」

光  「なぜそう言えるんです?」

絵里奈「鈴ちゃんは知らないだろうけどね、あいつが演劇部に入ったのは、もともとあたし目当てなのよ」

鈴  「それって、二年近く前の話ですよね。昨日の絵里奈先輩を見たら、どうなんでしょ…。」

 絵里奈、急に不安そうな顔になる。

光  「部長、今日の議題について…」

絵里奈「(手を組んでいる)高彦が、来てくれますように、来てくれますように…」

光  「部長が故障したので副部長のわたしから問題提起を行う」

絵里奈「来てくれますように、来てくれますように、来てくれますように…」

光  「如月公演は無事終了したわけだが、同時に我々は大きな問題を抱えている。知っての通り演劇をやるにはある程度の人数が必要だが、三十人以上いた三年生がごっそり引退してしまった」

絵里奈「来てくれますように、来てくれますように、来てくれますように…」

光  「由比藤、うるさい」

鈴  「気にしないで続けて下さい」

光  「つまり四月に一年生を大量に入れなければならないわけだが、そのための新入生歓迎劇を作るためには絶対的に人数が足りない。今我々は一、二年生全て合わせてわずかに五人」

鈴  「光先輩たしか、昨日その五人の中からさらに二人減らそうとしませんでした? 三人で何をしようと思ってたんですかぁ?」

光  「井上、うるさい」

絵里奈「来てくれますように、来てくれますように、来てくれますように…」

光  「つまり我々は、人数を増やすには人数が足りないという深刻なジレンマに陥っている」

絵里奈「(腹に手を当てながら)来てくれますように、来てくれますように、来てくれますように…」

高彦、上手から登場。

高彦 「(眠そうな声で)おはよ」

光  「おはよう」

鈴  「おはようござ…」

 絵里奈、勢いよく立ち上がる。

絵里奈「キターーーーーーーーーーーーッ」

高彦 「やかましい」

鈴  「来ましたね」

光  「やっぱり来た」

絵里奈「やっぱり?」

 絵里奈、鈴と光の方を見て話を聞き始める。

鈴  「だけどまさか…」

光  「まさか、とは」

鈴  「部活を辞めるとか言いに来たんじゃ…」

 絵里奈、高彦の方を向く。

絵里奈「高彦!」

高彦 「なんだよ」

絵里奈「(叫ぶ)あんたいったい、何しに来たわけ!」

 高彦、上半身を少しだけ反らせる。絵里奈、叫んだ後口を押さえる。鈴、頭を抱える。

光  「バカだ、この女…」

 高彦、姿勢をもどす。動じていない。

高彦 「おまえを許しに来た」

 絵里奈、茫然とする。

鈴  「本当に芝居がかってますね」

光  「演劇部だから」

絵里奈「……あたしは別に、あんたに許してほしいわけじゃないわよ!」

高彦 「おれはおまえを許したい」

絵里奈「なら勝手にしなさい!」

高彦 「そうか、ありがとう」

絵里奈「あんたに感謝される筋合いはないわ!」

高彦 「それでもおれはおまえに感謝している。ありがとう」

絵里奈「そのつもりならなんでさっさと来ないのよ! あんたあたしを待たせるのが趣味なの?」

高彦 「いろいろ事情があるんだ」

絵里奈「その『いろいろ』を詳しくあたしに説明しなさい!」

光  「ニュアンスが変わってきた」

絵里奈「しつこいぞ、今日のおまえは! せっかくさりげなく入ってこようと思ったのに全部ぶちこわしだ」

鈴  「芝居モードを解除しましたね」

高彦 「田中はどうした」

鈴  「トイレです。昨日芋を大量に食べたから通じがよくなってるみたいですよ」

 高彦、腹に手を当てている絵里奈をちらりと見る。

絵里奈「あたしは違うわよ、バカッ!」

高彦 「そうか、だったらいいんだ」

絵里奈「なにがいいのよ。もとはといえばあんたのせいじゃないの!」

光  「新条のせいでお腹が…」

鈴  「まさか…先輩!」

 光と鈴、高彦をぎろりと睨む。

高彦 「ま、待て! おまえら何を考えてるんだ!」

鈴  「フン、冗談ですよ。新条先輩にそんな甲斐性があったらこんなワケのわからないことになっていないはずです」

高彦 「おまえといい絵里奈といい、おれの男の尊厳を何だと思ってるんだ…」

絵里奈「あんたさっき、許してくれるって言ったじゃないの! 一度許したことをむしかえすなんて、あんたらしくないわよ!」

鈴  「うわぁ…」

光  「逆ギレ…」

鈴  「だけどさり気なく相手を持ち上げてる…」

光  「いやらしい…」

高彦 「まあ、それだけ言いに来たわけだ。もう今日は帰っていいか? なんだか居づらい」

絵里奈「何甘ったれてるのよ! 演劇部の危機なのよ! さっさと座りなさい!」

 高彦、一番上手側のお誕生日席に座る。絵里奈、プリントを全員にまわす。

絵里奈「それに演劇部が今までやった企画がくわしく書いてあるからね。それを参考にして、少人数で出来そうな企画の意見を述べなさい!」

光  「この資料を作ったのはわたし」

高彦 「そうか、加藤。ご苦労さん」

絵里奈「ご苦労さん、って偉そうに…」

光  「由比藤うるさい。会議に集中しろ」

 絵里奈、光をキッとにらむ。しばらく全員で静かにプリントを読む。突然「プッ」という可愛らしい音がする。全員ピクリと体を震わせるがそのままプリントを読んでいるフリをする。気まずい沈黙。

絵里奈「(突然)高彦!」

高彦 「なんだ」

絵里奈「閉めきってるんだから気をつけなさいよ!」

高彦 「ん? ああ、すまん」

 再び全員でプリントを読むフリをする。また気まずい沈黙。高彦、立ち上がる。

絵里奈「どうしたのよ!」

高彦 「窓を開けるんだよ」

 高彦、下手側の絵里奈の後ろの窓を見る。

絵里奈「座りなさい」

高彦 「は?」

絵里奈「いいから座れ!」

高彦 「だからおれは窓を…」

絵里奈「あんたそこを動くんじゃないわよ…。もし一歩でも動いたら…」

高彦 「おれを殺すとか言うなよ。昨日生死にかかわる冗談はやめろって言ったよな」

絵里奈「冗談なんかじゃないわよ…。あたし本気だからね…」

高彦 「何だ? 本気でおれを殺す気か?」

絵里奈「あたし死ぬからね。本当に死ぬからね…」

高彦 「あっ、ちょっと違った!」

絵里奈「あんたを殺して、あたしも死ぬ!」

高彦 「やっぱりおれ死ぬんだ!」

絵里奈「さっさと座りなさい!」

 高彦、座る。

高彦 「絵里奈」

絵里奈「何よっ!」

高彦 「ならおまえが開けろ」

絵里奈「いやっ!」

高彦 「はあ?」

絵里奈「絶対いやっ!」

高彦 「あのな、おれは窓を開けろって言ってるだけだぞ!」

絵里奈「あんたいつからあたしに命令できるほど偉くなったのよ!」

高彦 「だからおれが開けると…」

絵里奈「立つなぁぁぁぁっ!」

高彦 「だったら自分でやれ」

絵里奈「いやよ! それじゃあたしが犯人みたいじゃないの!」

高彦 「はあ…加藤」

光  「いや」

高彦 「は?」

光  「この流れだと窓を開けた者が犯人だということになる」

高彦 「だからおれがしたと…」

絵里奈「あんたは座ってなさい!」

光  「好きな男の子の前で肛門から臭いガスをもらしてしまうなど、女のすることではない。女の尊厳を失った以上、あなたは彼女を田中と同様に扱うべきだ」

絵里奈「ケンカ売ってんの、あんた!」

光  「と、由比藤はそんな風に考えている」

高彦 「おれはそんなことを考えてないぞ、絵里奈」

絵里奈「絵里奈って言った! いま絵里奈って言った! やっぱりあたしが犯人だと思ってるんだ!」

高彦 「なら、ゆいと…」

絵里奈「ハァ? あたしの名前忘れたの!」

高彦 「だから…、おれがおまえに開けろって言ってるのは、おまえが一番窓に近いからだ!」

絵里奈「あたし今ので完全に拗ねたからね! 絶対に開けないわよ!」

高彦 「はあ…、井上」

 鈴、サッと立ちあがる。

高彦 「窓開けろ」

鈴  「はい。ただし新条先輩には覚悟を決めてもらいます」

高彦 「覚悟?」

鈴  「この流れだと、あの窓を開けるということは犯人だと認めることであり、女の尊厳を失うことでもあります。鈴はお嫁にいけなくなります。女に恥をかかせた以上先輩にはその責任を…」

絵里奈「鈴ちゃん! 座りなさい! なんてこと言ってるのよ!」

鈴  「絵里奈先輩がおととい言おうとしたことですよね」

 鈴、座る。

絵里奈「恥をかけば結婚できるんだったら、今ごろあたしはチャペルの中よ!」

鈴  「なら絵里奈先輩が開ければ…」

絵里奈「いやっ!」

高彦 「だからおれが開けると…」

絵里奈「こっちくんなぁぁぁっ! ばかぁぁぁっ!」

高彦 「いい加減にしろ、バカ女ども!」

 高彦、拳で机をバンッと叩く。三人ともビクッとする。

高彦 「たかが屁で死ぬだの尊厳だの責任だの、大げさなこと抜かしやがって。ちょっと外出てるから、誰でもいいから窓開けとけ! もどってきてまだモメてるようだったら、本当に見捨てるぞ。わかってるな…、三人ともだ!」

 康一郎、上手からハンカチで手を拭きながら登場。

康一郎「あ、新条先輩、おはようござ…」

高彦 「空気が悪い! 窓開けておけ!」

 高彦、上手に退場。康一郎、下手側に移動。窓を開けながら言う。

康一郎「部長、また何かやらかしましたか? 毎日あんなにやさしい人を怒らせてたら、いくら部長でも…」

絵里奈「(康一郎に背を向けたまま)あたしがやらかしたわけじゃないわよ!」

光  「あなたがやらかした」

鈴  「絵里奈先輩、やらかしましたね。そっちから音が聞こえました」

絵里奈「(叫ぶ)あんたたち、趣味なの! あいつの前であたしに恥をかかせるのが趣味なの!」

光  「ならあなたの趣味は新条に甘えることなのか」

鈴  「昨日あんなことがあったのに、まだ新条先輩に濡れ衣を着せようとしたからです」

絵里奈「あたしはあいつの前でだけはカッコつけたいの!」

鈴  「今更です。おかげで鈴まで怒られました!」

絵里奈「今更って、あんたねえ!」

 絵里奈、立ち上がる。しかしすぐに腹に手を当てる。

絵里奈「どうやらお通じがあるみたいね。ちょっと行ってくるわ」

 絵里奈、上手側から退場。

絵里奈「あの人は新条先輩がいないと、本当にオバサンだなあ…」

鈴  「ふん。女の子なんて男がいない所ではみんなそんなものよ」

康一郎「うわ…、おれの男の尊厳が…」

鈴  「新条先輩もあんたも、下らないことにこだわるわね。あんたも絵里奈先輩に男として見られたいわけ?」

康一郎「当たり前だ」

 鈴、顔をそむけて小さく鼻を鳴らす。

高彦、上手から登場。そのまま中央へ。

高彦 「絵里奈はどうした」

鈴  「トイレです。大だと言ってました」

高彦 「(語気鋭く)井上!」

鈴  「(あわてて真顔になる)すみません! 調子に乗りました!」

高彦 「加藤、おまえもだ! なんださっきのあれは! あれじゃタチの悪いイジメだ!」

 光、立ち上がって長机の前に出る。

光  「由比藤のような美少女も、わたし達と同じ、人間であることに違いはない」

高彦 「当たり前だ」

光  「放屁もすれば大小の排泄もする。生理も来れば下着も汚す」

高彦 「よせ。おまえの品格が落ちる」

光  「しかしあなたは由比藤をまるでそれがない女のようにとらえている」

高彦 「人と接する時に『こいつもトイレに行くんだな』とかいちいち考える奴がいるか?」

光  「あなたは無邪気なお姫様のように扱っているが、由比藤ほどなまぐさい女はいない」

 絵里奈、上手から登場。ハンカチで手を拭いているが、高彦の姿を見てあわててスカートのポケットに隠す。 光、高彦の後ろに絵里奈を認める。

光  「おかえり、由比藤。大にしては早かった」

 高彦、光を見据えながら左足を一歩出し、体を半身にさせて右手を水平に挙げる。

光、目をつぶる。

絵里奈「(女の子らしい声)やめて!」

 高彦、振り返る。

絵里奈「ごめんなさい…。あたしが悪かったから、やめて!」

高彦 「しかし…」

絵里奈「ねえ高彦…、ちょっと外してくれない? あなたのいない所で話がしたいの…」

高彦 「だけどなおまえ…」

絵里奈「お願い!」

 高彦、後ろを気にしながら上手に退場。それを見送っていた絵里奈、退場を確認してから体ごと振り返り、光を平手打ちにする。

田中、後ずさる。鈴、動じていない。

光  「何をする。新条にならともかく、あなたに打たれるすじは…」

絵里奈「(声がもどる)あんたあたしの前で、あいつに恥をかかせるつもり?」

光  「意味がわからない」

絵里奈「男が女を殴ったらね、恥にしかならないのよ!」

光  「そういう考えこそが女が男と対等になることへの障害になる。女を無条件で弱者であるとし、強くなるための努力を放棄させる!」

絵里奈「何をおばんくさいこと言ってるのよ。あんたのお母さんは『男と同等に働けるようになるように』って、男でも女でも通用する『光』って名前をつけたそうね。あんたの、書き言葉みたいなしゃべり方や、誰でも苗字で呼ぶっていう習慣は男言葉でも女言葉でもないってことかしら? お母さんの影響なわけ? そんなだからあんたは女役も男役もできないのよ!」

光  「わたしの母親はフェミニストではあるが仕事一辺倒の人間ではない。わたしが生まれてからはずっと家庭にいてくれている」

絵里奈「専門職に就いている女が起こしやすい勘違いね。世間の普通の女たちは、女性の社会進出とか、地位向上とかそんなもののために働いているわけじゃないの。生活するのにお金がいるのよ! あんたの家は両親ともに医者だったわね。娘のためにずっと家にいるなんてよほど生活に余裕がなければできないことよ」

光  「医者というものは誰にでもなれるわけではない。わたしの母はそこらの男たちよりずっと努力したから…」

絵里奈「当たり前じゃないの! 誰でもなれて、みんなが医者になっちゃったら、誰がゴハン作るのよ。誰がコーヒー運ぶのよ。誰がスーパーでバーコード読むのよ! あたしのママはずうっとレジ係の仕事をしてパパの収入を支えながらあたしを高校に通わせてるのよ」

光  「しかしあなた自身はそれに甘えて、わたしよりお金を使っている」

絵里奈「あんたの両親の職業は誰でも知ってるわ。あんたが質素なのは親の躾が厳しいからで、貧乏だからとは誰も思わない。あたしのパパとママはね、あたしが学校で肩身が狭い思いをしないようにしてくれてるのよ!」

光  「それでいいと思っていること自体が他人や男に頼る癖がついている証拠」

絵里奈「あんたも高彦に頼ってるわね」

光  「如月公演ではわたしが演出を担当し、舞台の外での仕切りは新条がやった。二人で作り出したと言ってもいい。あなたのようにただ迷惑をかけているわけではない。対等の関係と言える」

絵里奈「評価されたのはあんただけね」

光  「演出自体はわたし一人でやった」

絵里奈「あんたの書くホンは颯爽とした女が男をやりこめるっていう話ばっかり」

光  「あの男たちにはそうされる理由があった」

絵里奈「最後にやられる理由づけのためにあらかじめ悪いことさせてるだけでしょうが。二十世紀のテレビ時代劇じゃあるまいし『けっ、女のくせに』なんて言う男がホントにいると思う? いないわよねえ。だってそんなこと言ったら、そいつの『男が下がる』もの! 男はね、男に威張られるのをすごく嫌がるけど、女に威張られるのは案外平気なのよ。だから笑って見ていられる。あんたの舞台は、物語そのものが男に甘えることで成立してるのよ。現実世界の鬱憤を晴らすために舞台の上で女を活躍させる。そして登場人物と同化していい気持ちになる。あたしは本当に可愛がってもらうから、あいつが見ている前でオナニーしたりしないわ!」

光、絵里奈を平手打ち。絵里奈ニヤリと笑う。

絵里奈「あんた知ってる? 女のケンカはね…先に手を出した方が負けなのよ!」

 絵里奈、光を平手打ち。以後罵り合いながら叩き合う。

光  「鳥頭め。さっき自分から手を出したのを忘れたか」

絵里奈「あれはケンカじゃなくて教育よ、教育!」

康一郎「(二人の回りをうろうろしながら)ちょっと、やめてください、やめて!

   鈴! おまえも見物してないで止めたらどうだ!」

鈴、下手側に移動して座り、長机の箱からケーキを取り出して包丁で切って食べ始める。

鈴  「女のケンカなんかほっときゃいいのよ。男が間に入るとバカを見るわよ」

 絵里奈と光、髪の毛をつかみ合ってぐるぐる回り、舞台中央で絵里奈が下手側、光が上手側で静止する。互いの髪はつかんだまま。

絵里奈「離しなさい!」

光  「そっちこそ離せ!」

絵里奈「(視線を上手側へ)あ…、高彦」

光  「おまえでもあるまいしそんな手にひっかかるか。新条が私達のこんな醜態を見て黙っているはずがない」

絵里奈「ビクッとしたわね。何が対等の関係よ。あたしと同じじゃない。いくら普段偉そうにしてても、本気のあいつには絶対に逆らえないくせに!」

光  「逆らえないのではなく逆らわない。その必要がない」

鈴  「二人ともさっき逆らってたじゃないですか。コウイチが来る前に誰か窓を開けてたらここまでこじれませんでした。鈴は開けようとしましたからね。この人の言う通りにすれば後悔しないとわかってるのにわざわざ逆らうなんて、どこのガキですか」

絵里奈「あの時あいつは本気じゃなかった」

鈴  「あてになりません。新条先輩の気持ちを読み違えて大恥かいた人がいましたねえ」

絵里奈「……あんたたちも高彦と田中君の前で恥をかかせてやる。下剤を飲ませて大道具の倉庫に閉じこめてやる! この二人のことだからきっと、嫌な顔ひとつせずにあんたたちの『生き恥』をきれいに片づけてくれるわよ!」

光  「何という下品な発想。顔のきれいな女は想像することが汚い」

 鈴、包丁を握って立ち上がる。

鈴  「そんなことになったらあたしは生きていられない。どんなに怖くても死ぬしかない。なら今のうちに…」

康一郎、絵里奈の方に向かおうとする鈴の前に立ちふさがる。

康一郎「何をブツブツ言ってる。まさか…本気じゃないよな! 部長が本当にやるわけないだろ。戯れ言だ、戯れ言!」

鈴  「邪魔するんならあんたも…。いや、あんたが死ねば最悪の事態は避けられるわね…」

 鈴、包丁を左から右へ、右から左へと二回振り回す。康一郎、かわすものの後ろに下がろうとはしない。

康一郎「…人殺しなんざキチガイのすることだ。おまえみたいなやさしい女のやることじゃねえ」

鈴  「フン。普段あたしを褒めたことなんかないくせに。こんな時だけ持ち上げるんじゃないわよ!」

 康一郎、まっすぐ突いてきた鈴の手首を左手でつかみ、右手で肩をつかんで柔道の内股を放つ。顔は苦しそうだが動作は滑らか。

康一郎「(投げながら)受け身取れよ!」

 鈴、空中で一回転する。床に叩き付けられないように康一郎が鈴の右手を左手でぐっと引く。鈴、尻餅をつく。

鈴  「(怒った声)痛いっ!」

 鈴、包丁を床に落とす。すぐに体を半回転させて包丁を取ろうとする。康一郎、包丁の上に覆い被さって床に腹這いになる(顔は客席側)。鈴、康一郎の頭のそばに立つ。

鈴  「あんた暴力を使わなきゃ女に言うことも聞かせられないの!」

康一郎「新条先輩とは違うんだ…」

鈴  「情けないわね…。いいから、そのお腹の下にあるものを渡しなさい!」

 鈴、康一郎の肩をガンガン蹴飛ばす。しまいには頭をぎりぎり踏みつける。

康一郎「おい…、足どけろ。いてえ…」

鈴  「だったら包丁を渡せ!」

康一郎「どけないなら強引な手を使うぞ…」

鈴  「今のあんたにできるかしらね…」

康一郎「今度のおまえの公演の衣装は『水色と白のストライプ』がいいんじゃ…」

 鈴、スカートを押さえて飛び退く。

鈴  「エッチ! 責任取らせるわよ!」

康一郎「公演の衣装の話をしただけだ」

 康一郎、わずかに腰を浮かせる。

鈴  「何ゴソゴソしてんの? まさか女の子には言えないような、恥ずかしい理由じゃないでしょうね…」

康一郎「言うなぁ!」

 鈴、康一郎の腰に近づき、足を上げる。

康一郎「おいっ、それだけはやめろ。鈴、鈴ちゃん。お願いだからやめて…」

鈴  「あたしはやさしいから立ち上がれとは言わないわ。やめてほしかったら包丁渡しなさい!」

康一郎「(客席を見据えて言う)やれ!」

 鈴、康一郎の腰を勢いよく踏みつける。

康一郎「ぎゃぁぁぁっ!」

光  「井上! おまえは刃物で襲い、頭を踏みつけ、恥をかかせ、足の下に敷いている男に、今まさに守られていることが恥ずかしくないのか!」

鈴  「恥ずかしくないですよ、だってあたし女の子だもん! だからこいつは命がけで鈴を守って当たり前なの! それが男の尊厳でしょ!」

康一郎「尊厳どころか男でいられなくなりそうなんだが…」

光  「その時は鈴があんたを女にしてあげる…。あたしの女にしてあげるわ」

 鈴、康一郎の尻をグリグリ踏みにじる。

康一郎「て、てめえ…何てこと言いやがる」

光  「何なんだおまえらは! 男に守られなきゃ生きられないのか! そんな女がいるからいつまでも…」

絵里奈「一緒にするんじゃないわよ! あいつがあたしを守るのは、女だからじゃなくてあたしだから。あいつにあたしが必要だから! だからあいつはあたしを守る。だからあいつをあたしは守る!」

康一郎「ノロケてないで逃げて下さい!」

絵里奈「田中君、この子はね…、どこまで自分を守るか君を試してるのよ。包丁渡されたらかえって困るわよ」

康一郎「関係ありません。こいつが殺人者になる確率が一%でもあるなら自分はここで這い蹲っているしかないんです」

絵里奈「それだけじゃないけどね。この子はあたし以上に嫉妬深い。それに自分を守るもう一つの方法を君が取らなかったことを拗ねている。こういう女をそばに置いとくと苦労するわよ」

康一郎「意味がわかりません」

鈴  「鈴をほったらかしにするなあ!」

 鈴、康一郎の背中に飛び乗る。

康一郎「ぐえっ!」

鈴、尻をぺったり康一郎の背中につけてアヒル座りをする。

康一郎「おまえ…おれの体の下に刃物があるのを忘れてないか」

絵里奈「ほらね」

光  「おまえがいつ新条を守った?」

康一郎「うわ…、それはもう終わったと思ったのにむしかえした!」

絵里奈「あんたに説明する必要はないわ」

光  「おまえはいつ新条のものになった」

康一郎「もっと前の話までむしかえしちゃったよ、この人!」

鈴  「いやね、女って…」

康一郎「おまえ、さっきの話だけじゃなくて一昨日のことまでむしかえしたよな」

鈴  「(康一郎の尻を撫でながら)今何て言ったの? 『鈴、おまえの女になりたい』って言ったのかしら?」

康一郎「何も言ってません…」

光  「新条に『ごめんなさい』はおろか『ありがとう』さえも言えない女が、彼を守るなどかたはらいたい」

絵里奈「あいつはあたしを手に入れることができる。あたしの『ありがとう』はね、たった五文字の言葉じゃないの!」

光  「ただのレトリック。言葉の遊び。新条がおまえを奴隷扱いするか。今まで以上に丁寧に扱われるだけ」

絵里奈「あいつがもし『脱げ』って言ったら、あたしはここで丸裸になるわよ!」

 康一郎、ビクッとする。

鈴  「好きな男の人にオナラの臭いを嗅がれるだけでも死ぬほど恥ずかしがる人が何を言ってるんですか! 先輩はね、結婚して十年経っても『いやぁ、電気を消してぇ』とか言うタイプですよ。だからコウイチ、反応するな」

康一郎「気づいたのか…」

鈴  「もちろん」

康一郎「軽蔑したか?」

鈴  「当然」

康一郎「部長も気づいたか?」

鈴、唇を噛む。上手側を向いて叫ぶ。

鈴  「きゃあああっ! 誰か来てえ! こいつあたしの下着を覗いたわよ!」

康一郎「…これで学校にいられなくなるな」

鈴  「…鈴の方が、ね」

康一郎「…守りきれなかった」

鈴  「(顔をしかめて)この甲斐性なし!」

高彦 「何やってんだ、おまえら!」

 高彦、上手から登場。絵里奈と光、同時に互いの髪を放す。

鈴、慌てて上手側にどいて立ち上がる。

康一郎、左脇を下にして横に体を立てて新条と鈴の視界を遮る。客席側を見て片頬で笑い、右手で包丁を舞台奥に滑らせる。包丁、長机の下で静止。康一郎、立つ。以後暗転まで常に包丁と鈴の間に立つ。

光  「(頭を下げながら)由比藤、すまなかった。ごめんなさい」

 絵里奈、先に謝られ下げかけた頭を上げる。

鈴  「コウイチ、ごめんね」

康一郎「いや、いい」

鈴  「あんたも謝りなさいよ!」

康一郎「おれが何かしたか?」

鈴  「……青と白のシマシマ!」

康一郎「(スカートに視線を移す)それは青というより水色…」

鈴  「みなさーん! こいつはあたしが今どんなパンツをはいているかを知って…」

康一郎「すいません調子に乗りましたもうしませんごめんなさい許して下さい」

 絵里奈、腕組みをしてそっぽを向いている。

高彦 「絵里奈、おまえも謝れ」

絵里奈「いやよ! 絶対いや!」

高彦 「絵里奈!」

絵里奈「何であたしが謝らなきゃならないのよ! もともとこいつが悪いじゃないの! それにさっきあたしが謝ってあげたの忘れたの? 光に気があるわけ? だったら演劇なんかやめて二人でベタベタしてりゃいいじゃない!」

 高彦、手を頭の上に振り上げる。

絵里奈「なに? 女を殴るつもり? あんたがこんなに恥ずかしい奴とは思わなかったわ!」

高彦 「残念だったな、絵里奈。おれはとっても恥ずかしい奴なんだよ」

 高彦、手を振り下ろす。絵里奈、体を引く。目をつぶって顔をそらす。

高彦の手、絵里奈の頭の上にポンと置かれる。

高彦を除く全員 「え?」

 高彦、絵里奈の髪をやさしく撫で始める。

絵里奈「ばか…何やってんのよ。恥ずかしいじゃないの!」

高彦 「おれは恥ずかしい奴なんだ」

絵里奈、両拳を握ってぷるぷる震える。内股。掴み合いで乱れた髪が元にもどっていく。

高彦 「謝らなければ撫で続けるぞ」

絵里奈「こらっ、イイ子イイ子するな! 小指で耳の上を撫でるなぁ。…もう、わかったわよ! 光、ごめんなさい!」

 高彦、手を下ろす。絵里奈、手を目で追う。

絵里奈「みんなの前でなんてことするのよ! 鈴ちゃんに笑われるじゃないの!」

鈴  「むしろキレそうなんですが…」

康一郎「おまえ最近、部長にキツイぞ…」

鈴  「誰のせいかしら?」

康一郎「誰のせいって…」

 鈴、康一郎を睨む。

康一郎、高彦を見る。

光、高彦を見る。

絵里奈、高彦を見る。

高彦 「なんでほぼ全員俺を見てるんだ?」

絵里奈「あたしあんたのさっきみたいな所は大っ嫌い。あたしぶたれるつもりだったのに…。何でカッコつけるのよ。あたしを好きならもっとジタバタしなさいよ! 焦らして意地悪したあたしも悪かったけど、あたし女の子よ! それを乗り越えてこっちにきてほしいっていうのは贅沢なの?」

高彦 「おい…(絵里奈をしばらく見つめる)誰だこいつに酒飲ませたのは!」

鈴  「お酒は飲んでません。鈴の手作りケーキです。隠し味にブランデーをボトル二本分入れました」

鈴、箱を持ってきて高彦の鼻先へ。高彦、天井を仰ぐ。

高彦 「ちっとも隠れてねえ! こんな状態で会議なんかやれるか! 今日は解散だ! 解散! 帰るぞ!」

絵里奈「なんであんたが仕切るのよ! 部長はあたしよ!」

高彦 「おまえは一人じゃ危なそうだな。一緒に来い」

絵里奈「あたしに命令するなあ!」

高彦 「いいからおまえは、黙っておれについて来い!」

 高彦以外、全員硬直。

絵里奈「あ、あんた…そんなこと…ブランデー二本で言っちゃっていいの?」

高彦 「おれは酒も飲んでねえし、ケーキもおまえのスイーツも食ってねえ!」

絵里奈「据え膳食わなかった奴が何を言うかあ!」

高彦 「慣用句の使い方が間違ってるぞ!」

康一郎「間違ってません。あとそれはブランデーじゃなくて缶チューハイです!」

 高彦、絵里奈の手をつかんで引きずる。

高彦 「とっとと来い!」

絵里奈「そんなに強く握ったら痛いじゃないの…。やさしくないんだから…」

高彦と絵里奈、舞台上手端。この時高彦の顔は上手側。絵里奈、引きずられながら光を見てニヤリと笑う。思い切りあかんべえをする。光、上手側に踏みだそうとする。康一郎、背後から声をかける。

康一郎「行かない方がいいです!」

 高彦と絵里奈、退場。光、上手を見たまま。

光  「私はあんな媚びた様な関係は嫌だ」

鈴  「この場合、光先輩じゃなくて新条先輩の好みが重要です。男は『互いに独立した対等な関係』なんかより、無警戒に甘えられた方が嬉しいんですよ」

光  「私にはあんな風に、相手に一方的に依存するようなことはできない!」

鈴  「できないことを自慢してどうするんですか」

康一郎「鈴、いい加減にしろ。……だけどこうとは言えるかもしれません。男でも女でも異性のパートナーを選ぶのはどんな理由であってもいいし、どんな理由もなくていい」

光  「(天を仰ぐ。急に女言葉)ならあたしは、どうしたらいいの?」


暗転 アナウンス「出演者の休養のため二十分間休憩をいただきます…」


部室。高彦と康一郎板付き。長机の奥側に並ぶ。高彦上手側。康一郎下手側。以下相手が話している時は弁当を食べている

高彦 「昨日おれのいない間にそんなことがあったのか。つまりあいつらの極端な言動は…」

康一郎「酔っぱらってたからです。さっき副部長が、部長が謝りに来たと言ってました。自分は気にしていないし、部長も気にしていないと言っていたと…」

高彦 「…本当に気にしてないと思うか?」

康一郎「全然」

高彦 「だけどそれだけ本音をぶちまけあって殴り合いまでしたんだ。互いに前よりすっきりしているかもしれない」

康一郎「昭和時代の青春ドラマじゃないんですよ。あの時代の一種の様式美であって、昔の人だって河原で殴り合えば友情が芽生えるとか思っていたわけじゃありません。殴られれば根に持つのが当たり前です」

高彦 「山本先生は…ダメだろうな」

康一郎「あの人は我々より子供っぽい。指導していて生徒が自分の思い通りの反応をしないとキレます。相手に気を使わせているだけです。『おれは間違ってるか』とよく言いますが、間違っていようがいまいが、何かの役に立つわけではありません」

高彦 「おまえの演説も役に立たないぞ」

康一郎「それならとてもためになる話をしましょう。十五日に、なぜ部長は最後まで先輩に謝らなかったのでしょう?」

高彦 「そうだったか?」

康一郎「自分はあの時ハラハラしながら『早く謝ればいいのに』とずっと思いながら見ていました。だけど部長は、どんなに謝りたくても謝るわけにはいかなかったんです」

高彦 「意地っ張りなだけだろう」

康一郎「たとえ謝っても許されないかもしれない。それほど自分のしたことは重い。しかし部長が謝っても許さなければ先輩の『男が下がる』ことになります。部長は何よりもそれを恐れました」

高彦 「大げさだ! おれは…」

康一郎「これは鈴から聞きましたが、昨日『許されたいわけではない』と先輩に言ったのも、許されなくても仕方がないと思っていたからです」

高彦 「あいつがおれの『男』なんか気にするか?」

康一郎「あの三人の中で、というより五人の中で部長が一番そういうことを気にします。あの日、先輩が一度出て行った時にこんなことがありました。先輩が入ってきたと勘違いした部長は、(以下その通りの動作をする)入り口に背中を向け、ハンカチを出して目を拭い、鼻を拭き、最後に口を拭きました。部長が先輩に一番見られたくないのはまず鼻水、次に口の汚れでしょう。なのになぜこんな順番になったのか?」

高彦 「上から順番、じゃないか?」

康一郎「その後部長は、ハンカチを床に投げ捨てました。(ハンカチをぽとりと落とす)涙を拭いたことも、先輩に知られたくなかったんです」

高彦 「プライドが高いからな、あいつは」

 康一郎、向き直る。

康一郎「プライドの問題なら先輩より、自分や鈴に涙を見られたがらないはずです。俗に『女の子を泣かせるのは重罪』と言います。自分が泣けば先輩の方が悪いような空気になってしまうかもしれない。しかしあの件で悪いのは自分であって先輩ではない。先輩には一片の罪悪感も持たせない。絶対に先輩を悪役にはさせない。謝らなかったのも、涙を隠し通したのも、背中を向けて真っ青な顔を隠して憎まれ口を言い続けたのも、何より『もう、もどってきてほしくない』と言ったのも、時間が経てば変えたくなってしまうこの主題を、最後まで貫くためでした」

高彦 「それじゃ大損だ」

康一郎「部長は先輩に軽蔑される恐怖と自分が孤立する危険を受ける引き替えに、あなたの尊厳を得た。本人にとっては悪いレートではなかったのでしょう」

高彦 「(ぽつりと)強いな…」

康一郎「なんかムカッとしました!」

高彦 「おまえはおれに説教できる立場か」

康一郎、立ち上がる。

康一郎「そんなことはどうでもいいんだ!」

高彦、箸で康一郎を椅子に促す。

高彦 「わかったから座れ」

康一郎、座る。

康一郎「失礼しました…」

高彦 「確かにおまえの立場なんかどうでもいい」

康一郎「今ものすごくひどいことを言われた気がする!」

高彦 「それよりおまえに聞きたいことがあるんだが…」

康一郎「しかも他の話を始めようとしてるよ、この人!」

高彦 「……その、だ。もしかしたら絵里奈はおれのことを…」

康一郎「その話は止めましょう。時間の無駄だ」

高彦 「嫌いではないのかもしれな…」

康一郎「だから時間の無駄です! 後半に入ってお客さんも疲れてるんですよ! なんで開幕五分で誰でもわかることを言い出すんですか! だいたいなんで自分に聞くんです? 部長に聞けばいいじゃないですか!」

高彦 「あいつに聞いたら告白になっちまうだろうが!」

康一郎「告白してください。部長の気持ちが確実に安定します」

高彦 「告白を告白以外の目的に使うのか?」

康一郎「もし先輩が告白したくないのならそんな作戦はたとえ成功しても意味がない。だけどしたいのなら話は別です」

高彦 「……受けると思うか?」

康一郎「…難しいでしょうね。この騒動が起きる前ならともかく、部長はあれで周りを見ている人です。はっきりした返事はできないんじゃないですか。だけど受けることが出来なくても、部長の気持ちは救われます」

高彦 「おれが、救われないな」

康一郎「…考えてみれば五人の部活で、部長副部長ともに女子で、男子はいつも下っ端で、めんどくさいことばかりやらされて…、なんで今も我々は普段自分たちをバカにしている連中のためにこんなことをしてるんでしょうか…」

高彦 「しょうがないだろう、演劇部だからな…」

康一郎「演劇部ですからね…」

高彦 「やめよう。悲しくなってきた」

康一郎「今の状態の方が一昨日よりマシとも言える。二対一では孤立しているのは一人だけですが、バラバラだということは全員が孤立しているということです。女には女どうしの連帯が絶対に必要だ。元にもどろうとするはずです」

高彦 「女どうしか…。確かに『面白そうだ』という理由でおれに恥をかかせようとした奴に、男どうしだというだけでおれは今協力しようとしているしな」

康一郎「誰がそんなことを?」

高彦 「絵里奈から聞いた」

康一郎「全くあの人は…、新条先輩がからむと何でもやるなあ…」

高彦 「もともとおまえらがあんなことをしなければこんな面倒なことにならなかったんだ」

康一郎「原因なんてどうでもいいんです。時間は巻き戻せません。それを言うなら先輩が人工呼吸をしさえすれば全て丸く収まりました」

高彦 「俺が恥をかけばすんだしな。いくらあいつでもアップロードまではしないだろうし」

康一郎「まだそんなことを言ってるんですか? 自分は部長があれを言い出した時点でこの人には別の思惑があるとすぐ気がつきました。部長はね、あなたを三日悲しませるくらいなら死んだ方がマシだという人ですよ!」

高彦 「…そうなのか?」

康一郎「ちょっと言い過ぎましたね」

高彦 「何だよそりゃ」

康一郎「だけどあなたをそんな目に合わせた奴がいたら、相手がどこの誰だろうがなぶり殺しにします。これは本当にやりますよ」

高彦 「怖いこと言うなよ」

康一郎「どちらにしろ時間は巻き戻らないんです。これからどうするか、です」

高彦 「それでこれか」

 高彦、A4用紙の束を持ち上げる。

康一郎「『女が女で、男が男であるとはどういうことか』『女が男を、男が女を守るとはどういうことか』『尊厳とは何か』『恥とは』『自分が女であるとはどういうことなのだろうか』そんなことを考えても答えなんか出てくる筈がありません。答えが出ないことを考えていると必ず気が滅入ります。特にいけないのは『あの時自分はどうすれば良かったのか』という奴です。そんなことを考えていられるのは、我々が今暇だからです」

高彦 「今の俺達が暇か?」

康一郎「みんな新入生歓迎劇をやることを半ば諦めてるじゃないですか。だからこんなことをしていられるんです。悩むんなら『大道具は間に合うだろうか』とか『この台詞でいいんだろうか』とか、ある日答えが必ず出ることで悩むべきです」

高彦 「おまえ見た目はサワヤカな美少年のくせに、言うことがおっさん臭いぞ」

康一郎「演劇部はみんな考える事も話す事もやる事も高校生らしくありません。先輩こそ、部長を見る目がおっさんそのものの時があります。あんな目で他の女子を見たらボコボコにされますよ」

高彦 「あんなに乱暴な女がそんなにたくさんいてたまるか」

康一郎「部長にです」

高彦 「このホンなんだが、暗転の時は必ず誰かがハケているわけだから、スイッチの操作はできる」

康一郎「幸い全員上手にハケます」

高彦 「メリハリがないな」

康一郎「それは演出次第でしょう。小講堂の舞台の蛍光灯のスイッチは上手にあります」

高彦 「音楽や照明はどうするんだ」

康一郎「CDに編集して流しっぱなしにすればいいんです。照明は舞台にいない役者がやればいい。五人板の上にいる時はベタ明かりです。下手の窓は如月公演の大道具を流用すればいいし、ずっと制服だから衣装替えの心配もいらない。小道具はここにあるものを持っていけばいいし金がかかりません」

高彦 「裏方も含めて五人で全てやるんだ。体力が持つか」

康一郎「途中で休憩を入れます。それにずっと同じ場所ですから装置をワラう必要がない。暗転も速くすみます」

高彦 「それこそメリハリがない」

康一郎「それも演出次第です」

高彦 「何でも演出任せだな」

康一郎「ホン書きなんてそんなものです。何よりこのホンの面白い所は、演出次第で主人公が憎たらしくも可愛らしくもなる所です」

高彦 「それだけ揺れが大きいっていうことだろうが。それで結末はどうするんだ」

康一郎「それはこれから決める。いや、決まると言った方がいいですね」

高彦「よくわからないが、大体あいつらがやりたがるか? モノがモノだけに一人でも反対がいれば絶対公演できないぞ」

康一郎「博打ではありますがノーリスクハイリターンの賭です。このまま何もしなければ演劇部が自然消滅するだけです。これを提案してはじかれたとしても我々が失うものは何ない。しかも上手くいけばバラバラな気持ちを元に戻すことができます。この作戦は成功した時の事だけを考えればいい」

高彦 「主演女優が受けると思えん」

康一郎「必ず食いついてきます。部長のためにでっかい餌が用意してある」

高彦 「そんなものすぐ気づかれるだろう」

康一郎「餌と知りつつ飲み込みますよ」

高彦 「加藤は」

康一郎「副部長が前から構想していたネタに、『ツンデレっぽい女の子が巻き起こすドタバタ劇』っていうのがあります」

高彦 「どこかで聞いたような話だな…」

康一郎「面白い話なんてみんな似たようなものです。副部長には演出をやってもらいましょう。問題は鈴を釣るための餌がないことです」

高彦 「そうか?」

康一郎「そこでこの劇のタイトルを『井上鈴は学校でいちばん可愛い』とします」

高彦 「あざといっ!」

康一郎「かまいません。この企画そのものがあざといんです。だけど確かに三人とも美少女で通る容姿をしてますが、部長は群を抜いています。容貌は大切です。芸達者な平凡な顔をした役者より素人同然の美男の方がお客さんを楽しませるということもある」

高彦 「おまえのその顔で言われると不愉快だ」

康一郎「部長はすでにいくつかの劇団から、なんと芸能プロからもオファーが来ているそうです。それを考えると題名に偽りありということにはなりますが」

突然舞台の照明が落ち、高彦にのみスポットライトが当たる。

高彦 「照明係を怒らせたな…」

康一郎「……『可愛い』っていうのは間違いじゃないかもしれません」

高彦 「確かにな。絵里奈の顔っていうのは整いすぎていて何だか近寄りがたい時がある。井上の丸顔のほうが愛嬌が」

高彦を照らしていたスポットライトが消え、康一郎にのみライトが当たる。

康一郎「照明チーフがものすごい焼き餅焼きなのは知ってるはずです」

高彦 「できれば知りたくなかったな…」

康一郎「何かあったんですか?」

高彦 「ここでは言えない」

康一郎「…何て言うか、部長は可愛いというより清楚な感じがしますね」

高彦 「おれはあいつを見てると白のワンピースを着せたくなるんだ。できれば麦わら帽子で素足にサンダルを履か…」

ライトが消え、暗闇になる。

康一郎「今度は誰が怒ってるんでしょうか」

高彦 「演出だろうな。メタな話をやめてさっさと本筋にもどれということだ…。おれはこの企画を面白いと思うよ」

 舞台にパッと灯りがつく。

康一郎「先輩が格好いい分、自分が土下座したり這い蹲ったり頭を踏まれたりと、三枚目になればメリハリが利きます」

高彦 「それも演出しだいだな。それはともかく絵里奈の奴だが、彼氏彼女という肩書きにするより、今のままの方が関係が長く続くんじゃないかと考えていた節がある」

康一郎「…鏡持ってきてあげましょうか?」

高彦 「いらん! ただ昨日あいつを撫でながら思ったんだが、実はあいつは、やたら丁寧に扱われるより、多少乱暴にされてもいいから特別に扱われたいんじゃなかろうか」

康一郎「はぁ…」

高彦 「呆れた声を出すな。おれだって恥ずかしいんだ」

康一郎「いや、何て言うか今更感が…」

 高彦、立ち上がって康一郎の方を向く。

高彦 「あいつが絶対に告白の返事をせずにはいられない所まで追いつめる。本物の博打だ。宝を手にするか全てを失うか。ハイリスクハイリターン。勝者一人のゼロサムゲームだ」

康一郎「何をする気ですか?」

高彦 「時間を巻き戻す」

康一郎「そんなことが…」

高彦 「おれにはできるんだよ」

康一郎「どうしてですか?」

高彦 「(偽悪的に笑う)演劇部だからだ」


暗転


部室。絵里奈、高彦、康一郎板付き。

絵里奈、舞台中央で立っていた姿勢から、床に上半身を起こし下手側に足を投げ出した姿勢に座る。その上手側に康一郎が、さらに上手側に高彦が立っている。顔は互いを向く。

絵里奈「それじゃ、ちょうど三人いるから、最初のシーンの稽古をするわよ!」

高彦 「そこばっかりだな」

康一郎「エサですから」

絵里奈「『絵里奈を死なせたらおまえを殺す』からね」

高彦 「この台詞何回言ったろうか…」

康一郎「エサですから」

絵里奈「始めるわよ!」

絵里奈、横になる。男二人、向かい合う。

高彦 「『絵里奈を死なせたらおまえを』…おいこら絵里奈!」

絵里奈、仰向けのまま顎を思い切り上げて目を上手側に向けている。

絵里奈「台詞間違えるな!」

高彦 「なんでコッチ見てるんだ!」

絵里奈「あんたの演技を監督してるのよ!」

康一郎「これもエサなんです」

高彦 「はあ…、おまえ下手側に頭向けろ。落ち着かない。ちゃんと目をつぶってろよ!」

絵里奈、スカートを押さえる。

絵里奈「見る気じゃないでしょうね…」

高彦 「はぁ…、それが嫌ならなんか履けばいいのに…」

絵里奈、床に座ったまま手を伸ばして机をバンと叩く。男二人、ビクッとする。

絵里奈「あんたたちが部室で『スカートの下にハーパンやブルマー履くような奴を女と認めない』とかコソコソ言ってたからでしょうが! あたしも鈴ちゃんもいい迷惑だわ。おかげでどんなに体調が悪くても、どんなに寒い日でも、風がどんなに強くても、絶対に重ね履きができなくなっちゃったじゃないの! 光は『そんなことで媚びてたまるか』ってそのままよ。そういう所は尊敬するわね。だけどあんたたちがそんなこと言うんだったら、明日からスカートの下にジャージ履いてやる! 何ガッカリしてんのよ。もう遅いからね! 田中君、鈴ちゃんにも伝えとくわ!」

高彦 「なんかやる気なくなってきたな」

康一郎「同感ですが、頑張って下さい」

絵里奈「高彦、後ろ向いてやりなさい!」

康一郎「あの…、自分は…」

絵里奈「あんたはどうでもいいわ」

康一郎「尊厳が…、男の尊厳が!」

高彦 「何かおれの方が損してねえか?」

絵里奈「さっさとやれ!」

高彦、上手側を向く。康一郎、絵里奈より下手側に移動。絵里奈、頭を下手側にして横たわる。

高彦 「おまえこそちゃんと目をつぶってろよ! 田中、見はっとけ!」

 康一郎、絵里奈の枕元にしゃがむ。絵里奈、固く目をつぶる。

絵里奈「はいっスタート!」

 全員そのままの姿勢で芝居を始める。

康一郎「『人を呼んできます!』」

高彦 「『絵里奈を死なせたらおまえを殺す…。やれ!』」

 絵里奈、目尻から涙をぬぐう。スカートのポケットから折り畳んだままの携帯を出して自分の足元の床に滑らせる。絵里奈の手に届かない場所に携帯は停止。

康一郎「『わかりました。ただ、背を向けていただけませんか』」

高彦 「『下らねえこと言ってんじゃねえって言ったろ! さっさとやれ!』」

康一郎「『お願いします!』」

 康一郎、スッと立ち上がる。同時に高彦、くるりと振り返る。

高彦 「『貴様…』」

 康一郎は上手へ、高彦は下手へゆっくりと歩く。互いに顔は見ない。前方のみを見る。台詞は感情を込めているが顔は無表情。

康一郎「『先輩の見ている前で部長にそんなことをしたら、自分が死ぬことになりかねません!』」

高彦 「『救命活動だ。おれはそんなことを気に…』」

康一郎「『部長が気にします!』」

 高彦と康一郎、次の台詞の時に交差する。

康一郎奥側。高彦客席側。

康一郎「『お願いします』」

高彦 「『わかった』」

 康一郎、上手端までたどりつくと振り返り、一礼して退場。同時に高彦、絵里奈の客席側まで歩くと、客席に背を向けて床に膝をつく。そのまま右脇を下に上半身を絵里奈の上半身に覆い被せる。足を客席側に投げ出す。絵里奈の両手を床に押さえる。絵里奈目を開ける。

絵里奈「何すんの! たな…か君は?」

高彦 「安心しろ、ハケた」

絵里奈「何する気なの!」

高彦 「目をつぶれ」

絵里奈「……本気なのね」

高彦 「おまえがそうさせた」

絵里奈、ひきつったように笑う。

絵里奈「あたしにこれほどの事をする以上は、覚悟を決めて来たんでしょうね!」

高彦 「大切にするよ、ずっと」

絵里奈、目を閉じる。間。二人の顔が重なる。

高彦、絵里奈の体をそっと離して上手側の床に正座。絵里奈に向かって合掌する。

高彦 「ごちそうさまでした」

絵里奈、体を起こし右拳で高彦の頭を殴る。

高彦 「おいしゅうございました」

 絵里奈、左拳で頭を殴る。

高彦 「この世にこんなに柔らかくて気持ちいいものがあったとは知らな…」

絵里奈「エッチな言い方するなあ!」

 絵里奈、右拳で頭を殴り、胸倉をつかむ。

絵里奈「痴漢! 性犯罪者! 強姦魔! 何てやり方するのよ!」

高彦 「(偽悪的に笑う)謝りゃしねえぞ」

絵里奈「謝ったりしたら通報するわよ! 大体なんで手まで押さえるのよ! 携帯のカメラを警戒してたなんて言ったら、例えあんたでも許さないわよ!」

 絵里奈、足元の携帯を拾う。

高彦 「頭を押さえると、おまえの髪がくしゃくしゃになるからだ」

 高彦、立ち上がって上手側の椅子に座る。

絵里奈、立ち上がって高彦を睨みつける。

絵里奈「もしあたしが、大声出して人を呼んだらどうしたの!」

高彦 「やらねえよ…」

絵里奈「はあ?」

高彦 「おまえはおれに恥をかかせるようなことは絶対にしねえよ…、だからおまえの負けだ、由比藤絵里奈!」

絵里奈「むかつく! むかつく! むかつく!」

絵里奈、床をどんどん踏みならす。

絵里奈「あんた、あたしの前だと無駄にカッコつけたがるわね…」

高彦 「こういう時男がカッコつけてないと、女が不安になるからだ」

絵里奈「だったら、あたしに目を閉じさせてからの三秒くらいの間は何なのよ! 焦らしたつもり? 性格悪いわね!」

高彦 「まあ…不安だったんだ」

絵里奈「あたしはあの三秒間、あんたの百倍不安だったわ!」

高彦 「それで頼みがあるんだが」

絵里奈「これ以上は許さないわよ!」

高彦 「好きだ、つきあってくれ」

 絵里奈、息をのむ。再び睨みつける。

絵里奈「ひきょうものお…、何て追いつめ方すんのよ!」

高彦 「つきあってくれるのか? 肯定か承諾か、どっちだ?」

絵里奈「順番が滅茶苦茶!」

高彦 「俺たちらしくていいだろ。おれは肯定でも承諾でもどっちでもいいんだ」

絵里奈「どっちでもいいって! あんたそんな覚悟で…」

高彦 「その二つのどっちかなんだな!」

絵里奈「当たり前じゃないの! だけど…」

高彦 「告白を受けてくれてありがとう。これからもよろしく」

絵里奈「……、アーッ!」

高彦 「やっと気がついたか、バカめ」

絵里奈、ぜえぜえいっていた息を整える。

絵里奈「まあいいわ。つきあってあげる。だけどあたしのファーストキスがあんなのだなんて認めないわ。普通のをするわよ! さっきのはノーカン!」

高彦 「普通のって…、立ったままってことか?」

絵里奈「当たり前でしょ!」

高彦 「おれはおまえと違って経験がないから何が普通で何が特殊なのかわか…」

絵里奈、上から高彦の左頭頂部を殴る。

絵里奈「…ファーストって言ったでしょ!」

高彦 「ただの悪質な冗談なのに…」

絵里奈「悪質すぎるわ! さっさとすませるわよ!」

高彦、立ち上がって絵里奈に近づく。高彦上手側、絵里奈下手側で向き合う。高彦左手を腰を廻す。絵里奈目を閉じる。

絵里奈「今度はビビるんじゃないわよ…」

 高彦目を閉じて顔を近づける。絵里奈目を開けて携帯を構える。バシャッと音がする。高彦、目を開けてポカンとした顔をする。絵里奈飛び退いていやらしく笑う。正面を向いて携帯を眺める。

絵里奈「これでおあいこね。だからあんた、さっきのこと変に責任感じるんじゃないわよ。忘れてあげるから。だけどこれ、笑える! 何唇尖らせてるのよ、バーカ。そんなに簡単にキスなんかさせてたまるものですか!」

高彦、茫然としたまま椅子に座る。

絵里奈、ゲラゲラ笑う。高彦、表情をもどす。

高彦 「…おまえが笑っているのを見るのは久しぶりだ。笑わせることができた」

絵里奈「フン、笑わせてるんじゃなくて笑われてるのよ、あんた」

高彦 「同じだ。おまえが笑っている」

絵里奈、とまどいながらも笑顔を崩さないように努力する。

絵里奈「あんたまだカッコつけたいの?」

高彦 「おれはおまえの前でカッコつけることはもう一生できないだろう。その証拠がそこにある」

高彦、絵里奈の携帯を指さす。絵里奈の笑顔が完全に消える。

高彦 「おれはキスしようとした。できると期待した。それをおまえに拒絶された。結婚式の会場から花嫁に逃げられたのと同じだ。そしてその姿を写真に撮られた。だけど、それでもおれはおまえに笑っていてほしい。…笑ってくれ」

絵里奈「笑えるか、バカア!」

絵里奈、高彦の顔に携帯を投げつける。高彦、顔を押さえながら床から携帯を拾う。

絵里奈「アーッ!」

高彦 「おまえは興奮すると手近にあるものを相手に投げつける習性がある」

絵里奈「あたしが結婚式場から逃げるのと同じ事をしたっていうのは…」

高彦 「芝居だ。演劇部だからな。田中じゃあるまいしおれがあんな回りくどいことを考えるか。自分で言うのも何だが、おれはもっと単純な人間だ」

絵里奈「あたしがさっきああ言った時、どんな気持ちだったか…」

高彦 「わからんでもないが、単純にこんなものをおまえに持っていられたら困るんだ。どうせロクなことに使わないだろうし」

絵里奈「それをアップロードする位なら電車の中で丸裸になるわよ!」

高彦 「捕まるからやめろ。捕まらなくてもやめろ。それにおれは、さっきのことを忘れてほしくないんだよ」

絵里奈「あたしたちはね、あたしがあんたの彼女だっていうことだけを覚えときゃいいのよ!」

高彦、上手側を向いて携帯を操作しようとする。絵里奈、高彦の背後から手を伸ばして携帯を取り返そうとする。

絵里奈「恥ずかしいけど言うわ。それを待ち受けにすればあんたと電話しながらでもキスされているような気持ちに…」

高彦、振り返って絵里奈をじっと見る。

高彦 「絵里奈…」

絵里奈、高彦を見つめ返す。

絵里奈「高彦…」

高彦、くるっと上手側を向く。

高彦 「削除決定」

絵里奈「だめぇ!」

高彦 「こんなもん待ち受けにされてたまるか!」

絵里奈、泣き出す。

絵里奈「返せえ…、あたしの宝物なんだ。返せえ!」

高彦 「しょうがないな…、ほれ」

高彦、携帯を畳んで差し出す。絵里奈、携帯をひったくると高彦に思い切りあかんべえをする。高彦、自分の携帯を構えてパシャッと音をさせる。

絵里奈「……きゃぁぁぁぁっ!」

高彦、携帯を眺める。

高彦 「おまえの笑顔もうれしいが、泣き顔もいいな。誰かが泣くのがヘタだと言ったそうだがおれはそうは思わん。おれの待ち受けにしてやろう」

絵里奈「やめてぇぇっ!」

高彦 「大丈夫だ、涙は写ってない」

絵里奈「そういう問題じゃ…」

高彦 「鼻水は写ってるが」

絵里奈「いやぁぁぁっ!」

高彦 「おまえは鼻水より涙を見られるのを嫌う女だ」

絵里奈「何よ、それ!」

高彦 「おれにもよくわからん」

絵里奈「あんた好きな女の子の鼻水を、ポケットに入れて持ち歩くつもり!」

高彦 「おれはそんな変態じゃない。取引しよう。互いに待ち受けにはしない。データは移動させて携帯には置かない。決して他人には見せない」

絵里奈「落とし所のようね」

絵里奈と高彦、距離を取って座る。絵里奈下手側。高彦上手側。

絵里奈「急にやることがなくなったわね…」

高彦 「キスしよう」

絵里奈「はあ?」

高彦 「最初のは無かったことにしたみたいだし、次のは寸止め。せっかくキスしたことがない人間からしたことのある人間になれたと思ったのに、おれのファーストキスはどこにいったんだ」

絵里奈「今日はこれ以上はダメだって言ったでしょ! あんたの彼女はね、そんなに軽い女じゃないの!」

高彦 「…そうかい」

二人黙り込む。気まずい沈黙。絵里奈、突然立ち上がる。

絵里奈「キ…キスしましょう!」

高彦 「無理すんな」

 絵里奈、高彦に近寄る。

絵里奈「あんたしたいんでしょ! あたしはいいわよ!」

高彦 「いいよ、もう。おまえに無理をさせたくない」

絵里奈「あたしがしたいの!」

高彦 「だから…」

 高彦、立ち上がって長机の前を通り舞台中央に逃げる。絵里奈、追いかける。

絵里奈「あんたが拗ねれば拗ねる程あたしに恥をかかせてるってわからないの! さっき押さえつけられた時もの凄く怖かったけど、それでもあたしは『こいつに恥をかかせてなるか』って決意したわよ!」

高彦、顔を伏せる。絵里奈、慌てて言う。

絵里奈「ごめんね…。もう絶対にあのことを武器にしたりしないから、そんな顔しないで!」

高彦 「違うんだ。大体何でおまえが謝るんだ…。それを貫いたんだな…、最後まで。(顔を上げる)って思い出したぞ! なんださっきの寸止めは! 無茶苦茶恥ずかしかったぞ!」

絵里奈「全ての女の子の夢は、好きな男の子を思いっきりイジメることなの!」

高彦 「さっきと言ってること違うぞ!」

絵里奈「『ふふっ動揺してる、動揺してる…こいつあたしのこと意識してるわね』的な気持ちになった時、いちばん自分が女だと思えるの!」

高彦 「そりゃ『全て』じゃなくて、おまえみたいな美人にだけ許された思想だ」

絵里奈「あんた挑発に乗りやすかったわね…、あたしの唇をじっと見つめちゃってさ。どうせあんたには奪えないけどね!」

高彦 「よしっ、奪うぞ!」

絵里奈「よしっ、奪われるぞ!」

 絵里奈、サッと高彦の前に立つ。高彦奥側、絵里奈客席側で向かい合う。絵里奈、後ろで手を組み客席に背を向けている。

絵里奈「ねえ、さっきの台詞言いなさいよ…」

高彦 「…大切にするよ、ずっと」

絵里奈「あたしも言うわよ、好き…」

間。絵里奈背伸びをして二人の顔が重なる。絵里奈と高彦、そっと手を伸ばしてストラップをつかみ、相手の携帯をポケットから抜き取る。間。

絵里奈「あたしが背伸びをするまで、待つな。バカーッ!」

 絵里奈、高彦の携帯でこめかみを殴る。

絵里奈「女の子があの場面で背伸びをするのに、どんなに勇気がいるか…。何であんたあたしの携帯持ってるのよ!」

高彦 「おまえ今、何でおれを殴った…」

絵里奈「彼氏の携帯をいじるのは、彼女の特権なの!」

 高彦下手側、絵里奈上手側で向き合う。

高彦 「いつまでもこんなことしててもしょうがねえ。せーので消すぞ!」

絵里奈「しょうがないわね…、せーの!」

 ピッという音。

高彦 「消したか…」

絵里奈「うん」

 携帯を交換する。絵里奈、画面を見て顔を上げる。

絵里奈「これ…」

高彦 「どうやらおれには、何であろうが、おまえが大事にしているものを取り上げるなんて出来ないようだ」

絵里奈「…………消すわよ、こんなもの!」

高彦 「どっちでも、好きにすればいい」

絵里奈「あんた、消してほしかったんじゃないの?」

高彦 「(微笑みながら)返したからには、もう余計なことは言わないよ。おまえがどうしようともう関知しないさ」

絵里奈、高彦の携帯をひったくって睨む。

絵里奈「……いじわるっ! すぐにすむから、ちょっとここで待ってなさい!」

絵里奈、ブツブツ言いながら上手に退場。

高彦首を傾げる。康一郎、上手から登場。

康一郎「おめでとうござ…、あれ?」

高彦 「早いよ、おまえは…」

康一郎「失礼しまし…。一つだけ。わざとですか?」

高彦 「何の話だ」

康一郎「返答によってはこの作戦を破綻させます。もう一度聞きます。部長への態度はわざとですか?」

高彦 「だから何の話だ!」

 康一郎、にっこりと笑う。

康一郎「安心しました」

康一郎、上手に退場。

高彦 「わけがわからん…」

絵里奈、上手からドスドス歩きながら登場。机の上の鞄を開けて携帯を奥に押し込む。

高彦 「もっとわけがわからない人が帰ってきた! っていうより、それはおれの鞄なんですけど…」

絵里奈「これはあんたが勇気を出してあたしの夢を叶えてくれたことへのご褒美。だけどもしこれがあんた以外の目に触れたりしたら…」

絵里奈、高彦をギロリと睨む。

絵里奈「…別れるからね」

高彦 「そんな…。何がなんだか…」

絵里奈「返事は!」

高彦 「はいっ!」

 康一郎、鈴、光上手から登場。

康一郎「バカップル成立おめでとうございます」

高彦 「バはいらねえ」

鈴  「バカップル成立おめでとうございます」

絵里奈「バはいらないわ」

光  「おめでとう…、バカップル」

絵里奈「あんたの言い方がいちばんむかつくわね」

康一郎「実に白熱した攻防戦でしたね」

鈴  「デキレースでしょ……」

光  「由比藤、機嫌がいい所で話がある」

絵里奈「あたしが今、上機嫌に見えるの?」

光  「見える」

絵里奈「…まあいいわ。話って何よ」

光  「あのシナリオを熟読して、由比藤がどんなに必死に生きているかがよくわかった。是非それを舞台にしたい」

絵里奈「必死って何よ。真剣と言いなさい」

康一郎「真剣…」

絵里奈「そう。毎日が真剣勝負」

鈴  「だけど今日のはデキレースでしたね。大体どっちが勝ってどっちが負けたんです? 二人とも何か損しました?」

光  「わたしの演出は厳しい。あなたに果たして『由比藤絵里奈』を演じきれるか。……泣いても知らない」

絵里奈「あんたは自分の演技の心配をしなさい。五人であんたが一番大根なんだから。足を引っ張ったら許さないわよ」

鈴  「ところでこの劇のタイトルを付けたのは誰なんですか?」

康一郎「副部長…、題を変えましょう…」

鈴  「コウイチ、あんたは鈴に借りがあるはずよね…」

康一郎「借りってまさか…」

鈴  「みなさーん、こいつはねえ、あたしのパンツを見たことがあ…」

康一郎「おれだよ、おれ! 名前を勝手に使って悪かったな!」

鈴  「それであんたがつけたこの劇のタイトルは?」

康一郎「『井上鈴は学校でいちばん可愛い』っ!」

鈴  「よく出来ました…。じゃあそのタイトルを大声で連呼して、学校中に宣伝してきなさい!」

康一郎「ちょっと待てよ!」

絵里奈「田中くん、偶然だろうが不可抗力だろうが、男の子が乙女の下着を見てしまった以上、その子に一生をかけて償わなきゃならないのよ」

鈴  「鈴もそう思います」

高彦 「おまえらいつの間にか意気投合してるな。だけど田中、おまえが予想していた結末と全然違うぞ」

康一郎「作戦目的を達成することを勝利と言います。元にもどすことができたのだから、我々の勝ちと言っていいかと」

高彦 「元にもどったわけじゃないんだ。時間は巻きもどらない。おれたちは…そうだな」

高彦、全員をぐるりと見渡す。

高彦 「新しい段階に入ったんだ」

光  「それぞれ思惑は別のようだがそんなことはどうでもいい。この舞台は必ず成功させる。…わかったな!」

全員 「はいっ!」

アップテンポの曲がかかる。ひたすらプラス思考の詞を、全員で歌い、踊る。

 音楽が止まる。全員客席に向かって横一列になる。光、中央。康一郎、一番上手側。

光  「(客席へ)みなさん、新入生歓迎劇『井上鈴は学校でいちばん可愛い』いかがでしたでしょうか。劇中で描いた通りバカな女と甲斐性なしの男しかいませんが、ぜひ演劇部に入って下さい」

全員 「お願いします!」

全員、客席に礼。間が空く。間抜けな感じ。

光  「(小さい声で)田中、緞帳…」

康一郎「は?」

光  「緞帳!」

康一郎「あっ!」

康一郎、あわてて上手に退場。緞帳が下り始める。下りきる前に康一郎、再登場。全員で手を振る。緞帳が下りきる。


閉幕。


引用

「嫁さんになれよだなんて缶チューハイ二本で言ってしまっていいの」 

俵万智「サラダ記念日」より


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