痴ノ話 ほうおうが豆鉄砲を食ったよう 其ノ捌
こんばんは。おれんじです。無農薬です。
008
登校時間の締め切りである八時三十分はとうに過ぎてしまったが、一応ということで俺と燕雀ヶ羽は学校に休みの電話を入れ(俺の電話には朝日が出たのだが、『どうせもう今日はこないと思って欠席扱いにしておきました』と言われてしまった。信頼があるんだかないんだかわからない)、そのまま北19条駅から下り線の電車に乗り、燕雀ヶ羽家の最寄りの駅である棘背駅で下車することとなった。
狂獣に憑りつかれた状態の、いわば痴漢魔状態の燕雀ヶ羽をもう一度密集地帯である地下鉄の中に連れ込むのにはもちろん抵抗があったが、『乗車中に夜叉ちゃんを抱っこする』という夜叉ちゃんの提案を実行したところ、他の乗車客への被害は全くなく乗ることができた。痴漢魔と化した燕雀ヶ羽に自ら身を差し出し犠牲となることで、他者への被害を封殺したのである。
ただ、その代償として『幼女を連れ歩く男女の高校生』という、客観的に見ても問題しかない構図が出来上がってしまった。
また良からぬ噂が広がってしまいそうである。
オマケに抱かれている間ずっと身体をまさぐられていた自称幼女の夜叉ちゃんは、棘背駅で下車する時点で完全に発情しており、
「ね、ねえ夕影君……ちょっと抱かれたまま終点まで行っていいかな? 上り線で戻ってくるから」
「そのまま地獄に落ちやがれ変態幼女」
こうして発情した女子高生に抱きかかえられた発情した成人幼女と歩きながら(燕雀ヶ羽の家に行くまでの道のりも抱っこしたままだった。顔から出火してしまう)、歩くことおよそ二十分――俺たちは、住宅街から少し離れたところにそびえ立つ豪邸の前に立ちはだかっていた。
豪邸。
黒光りする重そうな門柵の奥に見える、庭園を思い浮かべるような優雅で華やかに彩られた園地と、薄水色を基調とした外観のお城のような大豪邸を前に、俺だけでなく先ほどまで発情していたはずの夜叉ちゃんまでもが固唾を呑んでいた。
「……ゆ、夕影君。メロンとか持ってきた方がよかったかな?」
「いや、いらないんじゃないかな……」
すげえ、門がある。
俺の人生、門なんて学校の校門か、RPGに出てくる村の関所くらいしか見たことがなかったが、まじで門がある家ってこの世に実在したんだな。
火サスのテーマが似合いそうな雰囲気である。
「さ、勃ち話もなんですし、どうぞナカへお進みください」
「なんか色々変換がおかしいけど、お邪魔します……」
燕雀ヶ羽が門を開き、客人である俺と夜叉ちゃんが先に通される。
なんと、門から家の玄関までを繋ぐ石畳があった。
「……こんなところに住んでいるお嬢様を、あんなボロい本屋に連れ込んだのかい、夕影君」
「ボロいって言うなよ。あんたの店だろ」
まあボロいけど。
夜叉ちゃんが店主でなければ、加えて知り合い価格にしてもらえるという特典がなければ、まず見向きもしないような廃れた店である。
「確か、お父さんは滅多に帰ってこないんだっけ? じゃあ、この豪邸に実質一人暮らしじゃあないか……いいなあ、私もそう言う暮らしがしたいな。お嬢さんを助けるお礼として、ここに居候させてもらえないかな」
「お前、プライドまで捨て去ったら本当にただの幼女になるぞ?」
豪邸に居候と言う発想が既に子供じみている。
タママ二等兵かよ。
「どうぞ、お入りくださいませ。なんの何のお構いもできませんが」
後ろから追いついた燕雀ヶ羽が流れるような動作で玄関の扉を開き、その後に続いて庶民コンビも入っていく。
玄関が既にうちのリビングぐらいの広さだった。
大理石で作られた輝かしい床面には庶民感丸出しの俺と夜叉ちゃんの顔が写り込み、その反射力も相まって白が基調とされたエントランスは美しい空間を作り出していた。
客人を持て成すにふさわしい美麗さである。
靴を脱ぐスペースの時点で既にうちの玄関よりも広い領域が確保されており、十人くらいが一斉に靴を履こうとしてもまだ余剰が生まれるであろう広さを誇っていた。
っていうか天井からシャンデリアが吊るされている。
少し小型のものであるようだが――これあれだな。あくまで玄関用の小さいシャンデリアで、居間には三倍くらいのでっかい奴が吊るされてあるに違いない。
「お、お邪魔しまーす……」
小心者で器の小さい俺は、ものすごく申し訳ない気持ちになりながらそそくさと屈みこみ靴を脱いでいく――と、足元に俺以外の靴が並べられてあるのをそこで見つけた。
サイズの違う女性用の外靴が何足かあった。
そこに男物の靴がないことを見るに――父親が多忙で家にほとんど帰れていないというのは、本当らしい。
こんな広い家に、一人ぼっちか――寂しいだろうと思う反面、母親がいなくなってある意味開放的に過ごしているのかもしれないな、燕雀ヶ羽は。そう思って燕雀ヶ羽を見ると、彼女はきちんと、お嬢様らしく、由緒ある振る舞いで、靴を脱ぎ、制服を脱ぎ、下着を脱いでいた。
「いや開放的すぎんだろ!」
俺の怒涛の叫びに反応し、燕雀ヶ羽がこちらを見る。
「あら、夕影さん。どうかされましたか?」
「どうかしてるのはお前の方だ燕雀ヶ羽! なんで帰宅早々、さもありなんといった具合でまっぱになってるんだよ!」
「いえ、どうも先程から身体が熱くなってしまって、もう脱いだ方が早いかなって……」
「早いのは判断だよ! 理性を超えて行動すんなや!」
慌てて目を逸らすがもう遅い。
しっかりと、脳裏に彼女の裸が焼き付いてしまった。
生まれて初めて女の子の裸を見てしまった……!
妹の裸は一緒に風呂に入っているからいつでも見ているし、夜宵や朝日だって裸に近い姿を見てきたことはあるが、そういう知り合い以外での、しかも完全な、一糸纏わぬ生まれたままの姿を見たのは、もちろんこれが初めてである。
おっぱいが!
おっぱいがぁ!
同年代と比較してみてもやはりそれなりに大きめの、張りのある色白い塊が目に焼き付いてしまった。夜宵や朝日と言うお子様体型ばかり拝んでいた俺にとって新たな境地だし、あれ、もしかして妹よりも大きいんじゃないのか……?
結構着やせするタイプなんだろうか、燕雀ヶ羽は。
「何してるの夕影君。私たちもお邪魔させてもらおうぜ」
「あ、ああ……そうだな」
夜叉ちゃんにそう声をかけられ、確かにそうだ、お嬢様とは言え女子高生の、しかも同級生の全裸くらいで何をいちいち狼狽えているんだ俺は、これからこの少女のことを救わなければならないのに俺がこんなことでは駄目ではないかと思い直し、ここは一つ、男らしく、全裸の美少女相手にも誠意ある態度を示そうと思い顔を上げてみると、全裸の幼女が一匹増えていた。
「なんでお前まで脱いでるんだよ、なぁ!?」
「え? この国では玄関で服を脱ぐのが常識だろ?」
「お前は日本を滅ぼすつもりか! 雅な和の国が聞いて呆れるわ!」
靴だよ。
靴は脱ぐけど服は脱がねえよ。
「いや、横で堂々と脱がれたらさ、なんか私も脱がなきゃいけないのかなーって」
「連れション感覚で脱衣しないでくれよ……確かにここまで肌色成分が少なかったかもしれないけれど、わざわざこんな無理してるみたいに唐突に脱がなくていいから」
ムフフなお色気シーンのはずなのにちっとも色気がない。
『全裸よりも脱ぎかけの方がそそる』という意見はよく耳にしてきたが、成る程確かにこうしてその状況を目の当たりにしてみると、興奮とか性欲とかそういう感情よりは、なんかこう、残念な気持ちと言うか、損をしてしまったという悲壮感と言うか、もっと違う場面だったらという希望的観測しか浮かび上がらない。
なんかこう、違うんだよ。
全然えっちじゃない。
「さあ、お二人とも。ご案内させていただきますわ」
自宅だというのに謙譲語で案内する燕雀ヶ羽のよくできた言葉遣いには感心するが、しかしその彼女が全裸と言う現実が、彼女からお嬢様感を全て奪い去っていた。
脱いだ制服は、丁寧に畳んで小脇に抱えている。
同じく惜しげもなくその合法ロリ体系を披露している幼女は人様の自宅玄関に自分の服を脱ぎ散らかしているので、その点だけ見ても彼女――燕雀ヶ羽鳳凰の躾の完成度がなっていることに驚かされるが、なんだろう、そう言うことではない気がする。
逆に服を着てる俺が不自然みたいじゃないか……。
「あれ? 夕影君は脱がないの?」
「仮に俺が脱いじまったら、折角のお色気挿絵シーンが台無しだろうが」
もうサービスシーンとして割り切ってしまった方がよさそうだ。幸いにも家の壁にはいたるところに天井付近にはめられた天窓があり、加えて今日はお天道様がよく顔を出しているので、強い日射光があられもない部分を都合よく隠してくれるだろう。
ディレクターズカット版は円盤で、である。
閑話休題。
美しい裸体の燕雀ヶ羽の後を追い、廊下に設置されている上着掛けを通り越し、一番奥のステンドグラスを彷彿とさせる立派な装飾の施された扉の向こうには、これまたとんでもない広さのリビングダイニングが広がっていた。まず思い浮かんだのは学校の体育館だが、これは比喩抜きで、体育館と遜色ない床面積を誇っていそうなほど広々とした造りになっていた。予想通り中央部分にはエントランスに合ったものより遥かに豪華そうなシャンデリアが悠然と吊るされており、ロイヤルな造りのダイニングテーブルに職人技を感じられそうな柱時計、140インチはありそうな超大画面薄型テレビに、それを置いてある木造りの高級テレビ台。確かイクスシーってところの五十万円近くする代物だ。
見るもの全てが高級家具で構成されていた。
市長ってそんなに儲かる仕事なの?
俺も市長になろうかな。
「見てよ夕影君! この変な形のソファ! 夕影君の顔みたいじゃない!?」
「誰があさりちゃんのお母さんだ」
夜叉ちゃんが全裸でダイブしたのは、俺が今言った通り空豆みたいな形のしたカーキ色のソファである。形こそ変な形状だがその結果として座面が広くとれるという独特のソファで、確かスイスのde Sedeとかいうブランドのカウチセレクトソファだった気がする。
三百万円くらいする、正真正銘の高級ソファだ。
「え! しかもこれ、背もたれ動くんだけど! 何これすっげー! 同じ方向に同時に出発して池の周りを歩く点Aと点Bみたい!」
「今世紀最大にわかりずらい例えをするなよ……」
そう、あのソファには実は秘密があって、実は背もたれが二つに分かれて自在に動くのである。動くと言ってもリクライニング式に可動するのではなく、ソファの外周をなぞるように好きなように動かすことができるのだ。
口で説明するのは難しいので、気になった方はぜひ検索してみてほしい。
「夕影さん、随分とお詳しいですね。もしかして同じものをお持ちなんですか?」
「いや、多分うちのリビングにある家具全部足してもあのソファには届かないと思う……」
って言うか夜叉ちゃん。
人様の家のソファで勝手に遊ぶなよ。
前情報がなかったらマジでただの子供である。
「さあお二方、どうぞこちらにおかけください。今紅茶をお入れしますので」
燕雀ヶ羽にそう促され、俺はソファではしゃぐ夜叉ちゃんを抱えてダイニングスペースにある椅子に腰かけた。流れるような動作で腰かけたこの椅子も、どこかで見覚えがあると思ったら、エルバイタリアってブランドのエモジオーネとかいう、一脚十五万円する高級椅子だった。
俺なんかが腰かけてよかったのだろうか。
尻跡が付かないようにしなくちゃ。
「凄いよこのテーブル、表面に私の顔が反射してる……」
面白そうにテーブルに映る自分の顔を覗き込みながら、隣で夜叉ちゃんが感嘆の声を漏らしている。
なんというか、アニメとかには必ずと言っていいほどお嬢様キャラと言うのがいるわけであって、その子の自宅に遊び行くシーンが出てくるたびに「こんなもん実際にあるわけねえだろ」と軽く嘲笑しながら見ていたのだが、まさか同じ学校の、しかも同じクラスに、こんな浮世離れした生活を送っている奴がいたなんて。
ある意味噂以上の大豪邸である。
基本的に世間一般的な暮らしをしている俺でさえ内心かなり動揺しているのだ、あのボロッちい本屋で衣食住を過ごしているこの成人幼女が興奮しないわけない。
生尻のまま高級椅子に座るのはどうかと思うけれども。
状況が状況でなければ、俺だってテンションを上げて家の中を見て回りたい気分だった。
浴室とかどうなってるんだろう。
ジャグジーとか付いてんのかな。
「お待たせしました。暖かいので大丈夫でしたか?」
「あ、ああ。ありがとう」
「えー、私アイスティーがよかったなー」
「あら、それは失礼いたしました。今お入れしますので少々お待ちください」
「わーい。やったー」
…………。
こいつが成人してるって話、ソースはどこだっけ。
確か本人の口から聞いただけだった気がする。
絶対嘘だろ。
「ねーねーお嬢さん。これも食べていいのー?」
そう言って夜叉ちゃんが指さしたのは、鏡面処理の施されたやはり高そうなダイニングテーブルの上にサランラップをかけて置かれてある二枚のお皿だった。見るとそれは、ふんわりとやわらかそうな色をしたスクランブルエッグとウインナー、もう一枚のお皿(と言うかお椀? お椀って言い方も庶民的だが)にはヨーグルトらしきものが盛り付けられていた。
ビジネスホテルで出てきそうなモーニングセットである。
「……ええ、構いませんよ。お口に合えばよろしいのですが」
「きゃっほーい。朝ごはん食べてなかったから助かるわー」
そう言って夜叉ちゃんは二皿を自分の方に寄せ、一緒に置かれてあったフォークとスプーンを使ってむしゃむしゃと食べ始めてしまった。
容赦とか加減とか言う言葉が、世界で一番似合わない大人である。
いやしいにもほどがあるだろ。
その置き方、どう見ても燕雀ヶ羽の朝ご飯だったんじゃないのか……? 作ったは良いけど俺との集合時間に間に合わず、結局食べれずじまいで出てきてしまったとか、そんな推理を勝手にしてしまう。
それに容赦なく手を付ける成人幼女。
絶対嘘だろ、成人してるっての。
多分こいつ、ただの幼女だ。
「夜叉神さん、大変お待たせいたしました。こちら、アイスティーでございます」
「お、ありがとうお嬢さん。良い嫁さんになるよ、君は」
危うくぶん殴りそうになるほどの傲慢な態度だった。
それに対し燕雀ヶ羽は嫌な顔一つ浮かべず、寧ろにこやかとも言うべき表情で俺と夜叉ちゃんの向かいに腰掛ける。紅茶を入れるためなのかエプロンをつけており、ぎりぎり全裸ではなくなっているのだが、所謂裸エプロン状態になってしまったせいで先ほどまでより余計にエロく見えてしまう。
全裸よりエロい。
エプロン一つでこんなに変わるものなのか、女体と言う芸術品は……!?
「うん、美味しい! 誰かの作ったご飯を食べたのはいつぶりだっけかな。ははっ、それにしても、おかずに女子高生の裸エプロンを拝みながらご飯が食べられる日が来るなんて、一体前世の私はどんな徳業を積んだんだろうね?」
「見た目は幼女なのに、台詞が完全におっさんのそれなんだが……」
「君も君だよ? 学校をさぼって女子高生の裸エプロンと幼女の裸が拝めるなんて、今のところ今世紀最もラッキーな男だと思うけどなあ」
「ごめん、やっぱり『成人』って単語を取っちゃだめだ。成人幼女だからセクハラが許されるのであって、ただの幼女だと許されない気がする」
セクハラをしたつもりはないけれど。
寧ろされているのは俺の方だ。色々な意味で。
「……んで、成人幼女。あんたまさか、お嬢様の家に上がり込んですっぽんぽんになってただ飯食らって、そのまますごすごと帰るつもりじゃないだろうな?」
「ふご?」
もしゃもしゃとソーセージを加えたままこちらに反応を示す夜叉ちゃん。
ソーセージを加えたまま停止するな。
あくまで見た目は幼女なんだから、絵面がマズすぎる。
「いや、この〇〇ン〇が太くてさ。太くて大きくて、咥えるのに一苦労だよ」
「文字数も伏せ方もおかしくないか!?」
「え? 普通にウインナ、なんだけど。やだな~も~、思春期男子の想像力にはついていけませんぜ~」
「ここに来て唐突にウインナーをウインナと表記するところに悪意以外の何も感じられないからな。技術文書の三音ルールに則った表記方法を食べ物に活用するな」
「つっこみが今日もキレッキレだなあ夕影君は――まあ安心しなよ。私だってもういい大人なんだから、成熟した大人なんだから、女子高生にただ飯食らってはいさようなら、なんてことはしないさ」
「はっ、どうだかな」
「それに、もう私の中では解決したことだしね」
「え?」
あまりにも場違いなその台詞に、思わず身を乗り出して聞き返してしまう。
「解決したって……解決方法が見つかったってことか?」
「んにゃ? あー、違う違う。そうじゃなくて、私の中で抱いてた疑問が解決したってだけの話だよ――っていうか、君は本当に人の話を聞かないなあ。解決方法が見つかったかって? お嬢さんの狂獣に関する解決方法なんて、ここに来る前からわかってるってば」
「……は?」
「正確に言えば、ここに来る前からと言うよりは、お嬢さんの周りを羽ばたく鳩を見た時からだけどね」
彼女の言っている意味がいまいちわからずきょとんとしている俺の口に、夜叉ちゃんはスプーンで掬った一口分のヨーグルトを突っ込んできた。
「そうかっかするなよ少年。カルシウムでも取れって――あはは、そう言えばハトヨーグルトなんてのもあったねえ。まあ私は昔一度口にしたきりだけど。どうってことないさ。鳩の狂獣に対する解決方法なんていつも時代も変わらないよ。君だって、蚊が増えてきたら蚊取り線香を焚くだろう? 不審者を見たら通報するだろう? 同じように、鳩の狂獣に対する対処なんて、いつだって共通して存在するのさ」
「じゃ、じゃあ、なんでもっと早く対処しなかったんだよ。っていうか、今すぐするべきなんじゃないのか? 狂獣の対処が遅れたら、またぞろ俺や夜宵みたいな被害者が」
「そう焦んなって。ほら、もう一口ヨーグルト。言ったろ? 狂獣に憑りつかれた人間が完全に自我を失うまでには、少なくとも数年はかかるって。まだ一週間も経ってない彼女には杞憂な心配だ。危うきこと累卵の如し、とは縁遠いってことだよ。それに、今回その対処を施したところで、大本の問題を解明しない限り、お嬢さんはまた別の狂獣に憑りつかれてしまうかもしれないって言ってるだろ?」
「それはそうかもしれないけど……」
こういうはっきりしない、剽軽とした喋り方にもいい加減慣れてきたつもりではあったのだが、やはり未だに、夜叉ちゃんの妖言惑衆とした話し方には簡単に馴染めそうにもないな。
喋る者は半人足なんて言葉もあるが、夜叉ちゃんの場合は喋ってなんぼ、みたいなとこあるしな。
喋るのを辞めたら死んでしまいそうですらある。
「……じゃあ、その大本の問題とやらがわかったってことなのか?」
「うん。解決したよ」
と言うよりは解明したって感じだね。
謎を解き終わった探偵にしては随分と軽くそう言って見せる夜叉ちゃんを前に、さすがの燕雀ヶ羽も反応し、
「わ、わかったのですか? 私は、助かるんですか?」
「ん? ああ、助かるとも。プロフェッショナルを見くびるなよ」
ヨーグルトをぺろりと完食した夜叉ちゃんはその手で匙を置き、紙ナプキンでやたら上品に口元を拭ってから、にやりと口を開く。
「そ、そんな、見くびってなどおりません」
「まあ、そうだろうね――なんせ君は、わかってたはずなんだから」
と。
あまりにも唐突に、夜叉ちゃんはそんなことを言った――相変わらず口角の上がった表情で、まるで裏切るような口調で。
燕雀ヶ羽は面食らったような表情を見せ、
「……わかっていた? と言うと……ええと、申し訳ありません。お話の脈絡が見えなくて」
「脈絡も何もないよ。君は初めからわかっていた――それだけの話だ」
「……えと、ですから何を」
「お嬢さん」
鳥のお嬢さん。
痺れを切らしたように――夜叉ちゃんは言う。
「お嬢さん。君が狂獣に憑りつかれた最もたる原因は、大本の問題と言うのは――君の母親だ」
「……………………」
「……………………」
それを聞いて、俺も、そして燕雀ヶ羽までもが、鶏鳴狗盗な人を見るような目つきで夜叉ちゃんを見ていた。
拍子抜け、と空気に書かれていそうなほどである。
これが漫画なら、『ズコーッ!』という効果音と共に盛大に椅子事転んでいる場面だ。
「……いや、夜叉ちゃん。そんなわかり切った、もう答えと確立してしまっている当たり前のことを、してやったりみたいな顔で言われても」
「わかりきった? そうだっけ? ストレスの要因の一つとしては挙げられていたけれど、最終的にそれが原因だって結論にはならなかったはずじゃない?」
「いや、だからそんな回りくどい言い方をされても……」
「回りくどいもんか、寧ろ猪突猛進の勢いだっつーの」
語尾をわずかに荒げながらも、夜叉ちゃんはやはりにやにやした顔つきで、
「大体さ、自分たちで話してて、おかしいとは思わなかったの?」
「おかしい?」
「そう、おかしい。お嬢さんの話はおかしすぎるんだ――こんなの謎かけ論でも叙述トリックでもない。場面と展開を冷静に見ればすぐに気付くはずだろう」
敢えて迂遠気味に夜叉ちゃんが言っていることが、いまいちピンとこなかった。
おかしい?
気付く?
その言い方だと、まるで何かを見落としているみたいに聞こえるのだが――。
「だーかーら、そう言ってるんだっつーの」
なら聞くけどさあ。
だってさあ、夕影君。
「ストレスの原因である母親がいなくなったのに、どうして狂獣はお嬢さんに憑りついたんだい?」
「え……」
なんだ?
なんで今更そんなことを聞く?
この幼女は――何を言わんとしている?
「いや、え? 夜叉ちゃん、何を言ってるんだ? お前こそ話を聞いてなかったのかよ。だから、母親の高圧的な家庭環境に耐え切れなくなった燕雀ヶ羽のストレスが爆発して」
「そう」
そうなんだよ。
人の話を最後まで聞かず、遮るように夜叉ちゃんは言葉をねじ込む。
「閉じ込められて、幽閉されて、牢屋の中の生活みたいな環境を虐げてきた母親。友達とも遊べず、好きな物も買えず、やりたいこともできず、縛られ、括られ、締め付けられてきた十数年。恨みに恨んで、憎みに憎んだストレスの元凶――でも、普通はさ。そんなストレスの元凶が自分から消えてくれたら、寧ろすっきりするんじゃないの?」
「……すっきりするんじゃないのっていうか、すっきりしてるだろ、燕雀ヶ羽は、十分。大嫌いな母親が、浮気なんかして、いなくなってくれて。見返りとして、自由が手に入って……」
ん?
なんだ、この違和感は?
監獄生活を送り続けて。
その原因となる人間が失踪して。
監獄から解き放たれて――自由になって。
「自らの手を汚さず、母親は消えてくれた。雲散霧消、綺麗さっぱり消え去ってくれた。憎みに憎んだ、大嫌いな人間が、他人にくそみそに言われても肯定してしまうような、肉親とも思えないようなくそ野郎は、後腐れなく消えてくれた。代償として、今まで欲しがっていた自由を彼女は手に入れた――にも拘らず、鳩は彼女に憑りついた。ストレスはなくなったはずなのに、どうして?」
どうして?
どうしてって、どうして?
狂獣が人に憑りつく原因は――ストレス。
そのストレスたる母親がいなくなって、ストレスたる幽閉生活から解放されて、それでもなお、どうして燕雀ヶ羽は狂獣に憑りつかれる必要がある?
「…………あ」
俺は気付く。
気付く――気付かされる。
見落としていた。
あり得たかもしれない最悪のケースを、そう言えば考慮していなかった――燕雀ヶ羽はどうだろう、気付いているのだろうか。反応を見るだけではよくわからない。
「――それってつまり、ストレスの原因が母親以外にもある、ってことか?」
「馬鹿だろ、君」
馬鹿にされた。
『閃いた!』みたいな感じで言ったのに、軽く一蹴された。
「ストレスの原因は、鳩が彼女を啄んだ原因は、他でもなくお嬢さんの母親だって、私、さっき言ったよね? わざわざ一行空けて、すっごい重要な文章っぽく見せておきながら、言うことはそれ? しょーもな。世界一期待のし甲斐がないよね、夕影君って。そんなこと言うくらいなら、突然大声で『夜叉ちゃんのおっぱいに吸い付きたい!』とか叫ぶ方がまだ男気があるってもんだよ」
「そんなもん男気でも何でもねえよ!」
幼女の胸に吸い付く男子高校生。
どんな地獄絵図だよ、それは。
「……いや、でもそれだと話が組み立てられなくないか?」
「なんでさ。君、レゴブロックで遊んだことないの?」
「レゴブロックで遊んだことのない男子はいねえよ……そうじゃなくて、お母さんがいなくなって嬉しいはずなのに、結果的に狂獣に憑りつかれて、でも憑りつかれた原因は母親にある、ってことになるんだよな?」
「そうなるね?」
俺を弄ぶように見つめる夜叉ちゃん。
俺に何かを求めるように見つめる燕雀ヶ羽。
「……もしかして、あれか? 実は俺たちが思っている以上に、燕雀ヶ羽は母親を恨んでいて、それこそ……殺したいほど恨んでいて、でも母親の方から逃げるような形で消えてしまったことで、その願いが叶わずストレスが暴走した……とか?」
「殺したい、ね。でも残念、そんな残酷な結末は待ってないよ」
「……そうか」
あまり口にしたくはない台詞だったが、あくまで可能性として。
いや、と言うか、じゃあそれ以外の可能性って……?
「でも惜しいなあ。それ、実は結構惜しかったりするんだよね。あともう百八十度、視点を変えてみようか」
「百八十度?」
百八十度は、直線。
直線で対角で――真逆。
真逆の視点?
「……真逆の視点って、何をどこから見ればいいのやら」
「例えばさ。嬉しくなかったとか」
「……え?」
「お母さんが家出をしたのが、実は嬉しくなくて、本当は寂しくて――油のようにたまったストレスに火が付いてしまった」
点火してしまった。
引火してしまった。
大爆発して――鳩に隙を突かれた。
「……いやいや」
妄言にすら聞こえてしまいそうな発言を聞き、さすがの俺も呆れ顔で手を振って見せる。
「夜叉ちゃんってば。え? まさか解決したって、それがか? 見た目だけじゃなくて脳内まで幼女になっちゃったのかよこの人は。わざわざ燕雀ヶ羽に無理言って家の中にまで上がり込んで、それで導き出した答えがそれ? 聞くに堪えないだろ、そんな荒唐無稽な珍推理。いや、確かに『真実はいつも一つ』なんて格言はあるかもしれないけれど、そんな、まさかでしょ。それこそ夜叉ちゃんらしくない」
「君が私の何を知ってるんだよ。何が私らしくないだ」
あからさまな俺の馬鹿にした態度を真に受けず、逆に夜叉ちゃんは切り返していく。
「っていうか夕影君。君こそ、同級生のお嬢様の家に上がり込んで、何を見てたのさ。女子高生と幼女の身体ばっかり見て、なーんにも考えてなかったんだろ?」
「そうなったとしてもそれは俺のせいじゃない。第一、何を根拠にそんな」
「根拠ならある」
きっぱりと。
屹然と、夜叉ちゃんは断言した。
「根拠と言うよりは証拠かもしれないけど。それを確かめるためにここに来たわけだけれども――私の推測は、間違ってなかったってことになるね」
「いやいや、一人で勝手に納得してんじゃねえよ」
「そうかい。だったら教えてやる。夕影君、君は玄関で何を見た?」
「…………?」
女子高生と幼女の裸?
成長期のおっぱいと大きめのおっぱい?
透き通るように白い裸と、ロリ巨乳な裸?
「いやらしいことを考えているな?」
「ハッハッハッ、ナニヲイッテイルノカナコノヨウジョハ」
来日したての宇宙人みたいな口調になってしまった。
見透かされ過ぎである。
「鳥のお嬢さんが脱ぎだして、君が視線を逸らして、逸らした視線の先には、何があった?」
「何がって……」
あくまで燕雀ヶ羽の裸を見ないように目を逸らしただけなので、そんな視界に一々何が写っているかなんて気にしている余裕、あるわけがなかった。
大体、玄関にある物なんて靴くらいしかないだろうに。
「……靴?」
「靴が、どうした?」
「靴が、そう言えば」
そう言えば。
女性物の外靴か何足か並べられてあり、その光景を見て『やはり父親の外靴はないのか』みたいな推理をしていた気がするが――そう言えば違和感があった。
別に裸から目を逸らした時ではなかったけれど。
家に入った時に、すぐ気が付いていた。
女性物の外靴。
女性物の――サイズの違う外靴。
サイズも、デザインも、全然違う靴が――履いている人間の趣味が二極化したように、何足か置かれていた。
「そう。正解だ」
とりあえず一つ目はクリアだね、と夜叉ちゃんは少し満足そうに頷いた。
「状況的に見ても、お嬢さんの靴と母親の靴だろうね、それは。娘と母親だ、趣味嗜好や生きてきた世代も違うんだからデザインの好みが分かれるのは当然至極、サイズも然りだろう――で、大嫌いなはずの母親の靴を、どうして置いたままにしているのかな?」
「どうしてって……」
「大嫌いな人間の所有物なら、一刻も早く抹消したいと思わないかい? 普通はさ」
「…………」
そういうものか?
確かに夜叉ちゃんの言うことも一理あるが……。
「それに、リビングに来るまでの廊下に、上着掛けがあっただろ? なんだろう、お嬢様に言うとコートハンガーかな? まあなんでもいいや。そこにも、明らかに母親の物であろう上着がかかってたじゃないか。身勝手な理由で家から出ていった母親の上着なんて、一刻も早く捨て去ってしまいたいって。普通は思うんじゃないかな」
少なくとも私だったら初日に捨ててるよ。
さも当たり前のように、夜叉ちゃんはそんなことを言って見せる。
言われてみると、確かにそうだ。あれほどまでに嫌っていた、あからさまに嫌悪感を示していた相手の所有物とあらば、恨み言でも吐きながら処理するのが当然なんじゃないだろうか。しかし不思議なことに、そういう風に考えると思考がそっちの方へばかり向かってしまう。ってことは、本当に、実は燕雀ヶ羽は母親のことを――
「…………いや」
あっぶねえ。
危うくまたぞろ夜叉ちゃんのペースに呑まれるところだった――話し上手と言うか聞き手を引き込むのが上手と言うか、いつだって彼女の言うことは何でもその通りだという風に捉えてしまいそうになる。
「別に、そうとも限らないんじゃないのか? 母親が嫌いだったからと言って、母親の上着や靴には何の罪もないわけだし。それに処分するのが単に面倒だったとか、もしくは、触るのも嫌になるほど嫌っていたとか」
「ふーん。まあ確かにそういう考え方もできるかもね。もう、夕影君ってば。相変わらず君は現実から目を背けるのが得意だなあ」
「得意になりたくねえよ、そんな卑怯な手」
「でもさ、あれを説明するのは無理じゃない?」
「あれ?」
「鍵」
ピクリと。
一瞬、視界の端に映る燕雀ヶ羽が震えた――気がした。
「私たちがここに来た時、最初から鍵が開いていたじゃないか。門の鍵も家の鍵も、鳥のお嬢さんが鍵を取り出す前から錠が開いていた」
「……開いてたか?」
「若いくせに記憶力に乏しいねえ君は。そう思うんだったらこの章の頭くらいから読み直してみたら? お嬢さんが鍵を開けた描写が書かれていないはずだから」
「ちょっと。メタ発言が過ぎるぞ」
読み返してきたらってなんだよ――そう思う俺であったが、しかし思い返してみれば、言われた通り確かに、燕雀ヶ羽は俺たちを家に上げる際、門の鍵も家の鍵も開いてはいなかった。
流れるように開いていた。
鞄から鍵を取り出すような仕草すら――見せてはいなかった。
「……けど、それが?」
「それがって。淡白と言うか鈍感と言うか、君はなあ。家を出ていったときに鍵を持って行かなかったお母さんが、万が一自分が不在の時に帰ってきたら家に入れないだろ? いつでも入れるように、鍵を開けっぱなしにしてたってことだろうよ」
閃き力に欠ける俺にじれったさを感じたのか、少々の苛立ちと共に夜叉ちゃんがそんなことを言う。
鍵を開けっぱなしにしていた。
いつでもお母さんが帰って来れるように。
まさか――今週、学校に来ている間も、ずっと家の鍵を解放したままだったってことか?
夜叉ちゃんのその話通りだとするならば、そう言うことになってしまう。
「……いや、夜叉ちゃん。多分、それはあり得ないよ」
「ふーん。まだ反論材料が残っているのか」
「ああ」
こんな建設的ではない意見交換など終わりにして、とっとと燕雀ヶ羽を救わなくては――俺は真っ向から、夜叉ちゃんが提唱するその可能性を否定していった。
「家の鍵が開けっぱなしだったってところは、まあ不用心だったとは思うけれど。確かにそういう見方もできるかもしれないし、靴や上着の件から結び付ければそう結論付けることもできるかもしれないけれど――でも、違うと思う。鍵が開いたままだったのは、単純に閉め忘れただけだったんだ」
「どうして?」
「ほら、今日の朝、俺と燕雀ヶ羽が同じ電車に乗るために待ち合わせをしただろ? その集合時間がいつもより早めの時間だったから、きっと燕雀ヶ羽も慌ててたんだよ――現に、置かれたままになっていたその朝ごはんが、良い証拠だろ?」
俺はわざとに厭味ったらしく、完食されて空になってしまった食器を指さして見せた。
燕雀ヶ羽が、自分に用意したと思われる朝ごはんである。
正確に言えば、朝ご飯だったもの、だろうか。
「え? これ、お嬢さんの分だったの?」
俺の雷鳴轟くような会心の一撃的推理を真に受けてか、夜叉ちゃんがそこで意外そうな顔をした。
自分のした罪の重さに気付いたか、似非幼女め――なんて思っていたのだが、
「そっかー、悪いことをしちゃったなー。ごめんよ、鳥のお嬢さん。まさか君が、朝から二人前の量を平らげるほどの大食いキャラだとは思わなんだ」
「……は?」
意味の分からないことを言い出し始めた。
二人分?
何言ってんだこのクソガキは。
言い訳にしたって適当すぎるぞ、それ。
「いや、二人前ってどういうことだよ。何勝手に、燕雀ヶ羽に変なキャラ付けをしてるんだよ。確かに今のところ本作に大食いキャラは出てきていないけれど、だからって燕雀ヶ羽にその役目を負わせるのは大人としてどうかと思うぞ。あいつは既にお嬢様キャラと言う地位が確立していてだな」
「君は焦るとメタ発言が増えるよねえ。まあ私は君のそういうところも好きだけれど。でもね、彼女が大食いキャラではないとすると、じゃあ二人分の朝食にどうやって理由をつけるんだい?」
「だから、そのもう一人前はどこから出てきたんだ?」
「え? いや、あれがそうじゃないの?」
夜叉ちゃんが指さす先は――台所。
家の雰囲気に合わせて言えば、ダイニングキッチン。
かなりの広さと作業スペースを誇るキッチンだ。あの広さならば、毎日の夕食作りも楽しくて仕方がなくなるのだろうが――俺が目にしたのは。
夜叉ちゃんが指さしたのは。
調理台の一角に置かれている水切りバスケット――その中に置かれている、今夜叉ちゃんの前にある二枚の皿と全く同じ皿だった。
水を切るために、縦にして置かれている、金の刺繍が入った平皿と、少し底のある深めの皿。
同じ組み合わせの皿が、二セット。
「厳しく躾けられたお嬢さんが、まさか昨日の晩に洗った皿を置きっぱなしにして出かけるとも思わないし――そう考えると、あれは朝に出た洗い物だろう?」
まるで見透かしたように――全てわかり切っているとでも言わんばかりに、そんな推測っぽいことを夜叉ちゃんは言ってみせる。
「となれば、あの皿は今朝お嬢さんが使ったということになる。いやあ、お金持ちで大食いキャラとは意外だね。私はてっきり、万が一お母さんがお腹を空かせて帰ってきた時のために、食事を作り置きしていたんだとばかり思っていたけれど」
推測っぽい――けれども自信たっぷりに。
いや、それも違うのだろうか。
自信と言うには迫力のない――さも当たり前であるかのように、完全回答であるかのように、意外性などまるでないと言わんばかりに、端的に、淡白に、単調に、夜叉ちゃんはそう言い切った。
甚だしい妄言だと嘲笑いたい気分だったが。
そんな愚かな推測を聞いたまま――燕雀ヶ羽は、それに一切否定しない。
ただ黙って、俺と夜叉ちゃんを、大人しく見つめている。
「……それが、母親を思う気持ちと直接結びつけるのは、やっぱり難しいんじゃないのか?」
「えー。この期に及んでまだ反発するつもり?」
「ああ」
何度だって反論してやる。
俺がここで折れれば――それは、認めてしまう空気になってしまう。
それが本当だとするならば、燕雀ヶ羽が嘘をついていたことになってしまう。
俺たちに――自分自身に。
自縄自縛な嘘を。
「母親がいなくなって、まだ一週間も経ってないんだろ? 今まで毎朝、母親の分と二人分作ってたんだとするなら、その癖が抜けきってなくて、ついうっかり今日も二人分作ってしまったとか、そう言うことかもしれないじゃないか。な? そうだよな、燕雀ヶ羽?」
俺の問いかけに――燕雀ヶ羽は答えない。
もう、こちらも見ない。
答えてくれ、燕雀ヶ羽。
『ええ、そうですわ』なんて、年不相応な丁寧語でいつもみたいに答えてくれ。
その沈黙は――認めているようなものじゃあないか。
「……お疲れさま、夕影君。ここまでよく、私に対して噛みついてこれたね」
そう、一言夜叉ちゃんは言って。
「でもね――あれが現実だ」
とどめの一撃と言わんばかりに。
夜叉ちゃんはリビングの一角を指さす。
無気力に、その指し示す先を見ると――そこには、少し大きめの木製サイドボードがあった。白いレースのかけられたそのサイドボードの中には、ガラス越しにおしゃれなアンティークが飾られているのが見える。
そのサイドボードの上に、果たして。
一輪の花が、小奇麗な花瓶に生けられてあった。
「…………」
まだ凛々しく輝く、真新しいその花を呆然と見つめる俺に、夜叉ちゃんが一言言った。
「あそこにある花が見えるかい、夕影君」
「……あれが、どうかしたのか?」
「いや、別にどうもしないさ――ところで夕影君。君にこの質問をするのは酷なんだけどさ」
一瞬言葉が途切れたが、続けて夜叉ちゃんはつなげていった。
「次の日曜日って、何の日だったっけ?」
神妙な顔で、夜叉ちゃんはそう問う。
今日は五月十日、木曜日。
次の日曜日と言うのは、五月十三日――即ち。
五月の第二日曜日。
五月の第二日曜日と言えば――なんて、そんな風に紐解いていかずとも、花瓶に生けられたあの花を見れば、そんなのは一目瞭然だった。
果敢無げな白を彩って咲く、一輪の和蘭撫子。
あの花が飛び交う日なんて、一年を通してもあの日しかない。
「……母の日、だろ。それは」
母の日。
お母さんのことが好きな人も嫌いな人も、等しく母親に感謝を示す、五月の第二日曜日に行われる恒例行事。
一年間のうちに、最も和蘭撫子の消費量が増える行事。
気付かないわけがない。
花を見つけた時点で、本当は気付いていた。俺だって――一昨日の内から、既に供えてあるのだから。
「いくら躾にうるさい家庭で育ったからと言ってさ。そうする行事だったからそうしたんだってことには、まあなるのかもしれないけどさ。本当に嫌いな母親のために、憎むほど恨むほど妬む母親のために――あれは、用意しないんじゃないかな」
和蘭撫子の花言葉は『女性の愛』『感動』『純粋な愛情』だが、母の日に送る和蘭撫子には色ごとに意味がある。最も定番とされる赤い和蘭撫子には『母への愛』や『真実の愛』という意味合いを持ち、ちょっと珍しい桃色の和蘭撫子には『感謝』や『気品』、『温かい心』と言う意味を表す。それに沿うならば、燕雀ヶ羽の真意が本当に本物ならば、彼女は黄色の和蘭撫子を選ぶべきだったのだ――黄色の和蘭撫子の花言葉は『軽蔑』や『嫉妬』という意味であり、燕雀ヶ羽が口にしていた母親に対する気持ちと同類である。
けれど、それが嘘だとするならば。
嘘だとするならば。
嘘であるからこそ。
燕雀ヶ羽は、白い和蘭撫子を選んだのだ。
「そう――白い和蘭撫子の花言葉は」
「――『私の愛情は生きている』」
夜叉ちゃんの言葉を遮って。
その花言葉を口にしたのは――燕雀ヶ羽だった。
私の愛情は生きている。
敢えて白を選んだとするならば――そういうことなんだろう。
「……燕雀ヶ羽。お前は」
一瞬だけ躊躇って、躊躇いを振り切って、俺は言う。
「お前は――お母さんのことが、大好きだったんだな」
「――私――私は」
「お嬢さん」
上手く二の句が継げずしどろもどろと喋る燕雀ヶ羽に、夜叉ちゃんは優しい声で話しかける。
「確かに、君は不幸だったかもしれない。あまりにも不幸で、哀れで、悲劇のヒロインというレッテルが似合ってしまうのかもしれない。嫌なことも忘れたいことも、隠したいこともあるかもしれない――けれど、自分の心まで隠しちゃあ、いけないよ」
ひた隠しにしちゃあいけないよ。
いけないんだよ――夜叉ちゃんは言った。
「君自身が、自分に嘘をついてしまったら、もう誰も、君の真意がわからなくなっちゃうからね――だから、せめて自分くらいには、素直になりなさい」
厳かな物言いではあるが、しかしその中に、包み込むような温かさを感じる言葉だった、
まるで、母親が娘にかけるかのような、そんな言葉。
「やりたくないことはやらなければいいし、行きたいところには行けばいい。欲しい物は買えばいい。好きな人を嫌いって言っちゃあいけないし、泣きたくなったら」
柔和な笑みで、燕雀ヶ羽を見つめながら。
「泣きたくなったら、思いっきり泣けばいい」
「あ、ああ、うあ、あ――」
その言葉を受けて、燕雀ヶ羽はわんわんと泣き出してしまった。
溢れていたものが零れるように。
抑えていたものが溢れるように。
幼い子供のように、いつまでも泣き続けた。
一人暮らしには広すぎる豪邸に、少女の泣き声が暫くの間、反響していたのだった。
お疲れさまでした。そろそろ終わりです。