痴ノ話 ほうおうが豆鉄砲を食ったよう 其ノ漆
こんにちは。おれんじです。果実です。
007
「おっす」
「……おっす」
電車を降りた後、燕雀ヶ羽とは目も合わさず、口も利かず――目も合わせず、口も利けず、二人してうつむき加減のまま、速足で須佐之男書店へと俺たちは向かっていた――幸か不幸か、北19条駅は須佐之男書店の最寄りの駅だった――そして開いているかどうかもわからない書店の扉を無我夢中でつかみ、がむしゃらに入店したところで、そんなお気楽もお気楽な挨拶をかけられた。
「遅かったね。でもちょっと待ってね、今取り込み中だから」
「……取り込み中?」
「もうちょっとでドン勝ちできそうなんだ」
「…………」
人が窮地に立たされている真っ最中なのにアプリゲームなんかやってんじゃねえよ。
っていうか仕事中にゲームをやるな。
「お、ラスト三人じゃーん……ぎゃあ! なんか死んだ! はっ!? スナイパーライフルは犯罪じゃないかなぁもうちょっとで夢の0キルドン勝ちだったのに!」
「平和主義者かよ」
っていうかそれ、最後の一人はどうやって処理するつもりなんだよ。
海にでも突き落とすのか?
平和主義者なのに?
「さて、と」
それまで遊んでいたタブレット(iPadの最新型の奴)をレジカウンターの上に置き、ようやく夜叉ちゃんがこちらに視線を送る。
「いらっしゃい少年少女達。こんな朝早くからご苦労だね。でも大丈夫かい? 本来学生である君達ならこの時間であれば学校にいなければならないはずだと思うけれど――それとも、行ってる場合じゃあなくなったのかな?」
頬杖をつきながら、ニヤニヤとした表情でそんなことを言ってくる夜叉ちゃんに、僅かながら憤りを覚えてしまう。
「……やっぱりその反応。知ってたんだな」
「何が? 私は別になあんにも知らないよ。だって見えてただけだもん《、、、、、》」
「…………」
「おいおい、そう怖い顔をしないでくれよ。真面目に捉えちゃって、やっぱり君は根が真面目だなぁ。最近のラノベ主人公は性根が腐ってる奴も結構いるって聞くけど、その点君は心配いらなさそうだよね。いやいや、別に私はふざけてないさ。ただちょっとSっ気の素質があるいたずらロリっ娘のキャラ設定に従ってるだけなんだから」
「お前にそんな設定はねえよ、このロリババアが」
「ロリババアか。淫魔みたいで格好良くない?」
「ババアだけどいいのか?」
いかんいかん、また話のペースを持っていかれるところだった……この饒舌ロリババアときたら、必要以上に必要ないことをぺらぺらと喋るもんだから、ついつい場の流れを譲りがちになってしまう。
「で、だ。私は昨日、痴漢の犯人をここに連れてくるように言ったはずだけれど――夕影君。その反応から察するに、君も見たってことだよね?」
「……ああ」
「はっはっは。そうかそうか、見たのか。いやあ、それを見た時の夕影君の反応、超見たかったなぁ。きっと面白いくらい驚いた顔をしていたんだろうねぇ――まるで、鳩が豆鉄砲でも食らったみたいにさ」
性格が悪いなんてもんではないぞ、その皮肉。
なんて、そんなことを思いながらむっとした顔で夜叉ちゃんを見ていると、
「だからそんな顔で見ないでおくれよ。私が悪いことをしたみたいじゃないか。大体、どの道わんこちゃんの力を使うなら昨日のうちに使っておけば、わざわざ電車に乗るだなんて遠回りな選択しなくて済んだだろうに」
「昨日のうちに? いや、そりゃあ最初っからあの鳩が見えていた夜叉ちゃんにはわかっていたかもしれないけれど、俺には見えてなかったんだぞ? 見えていなかったってことは、そもそも燕雀ヶ羽が加害者の側だったなんて推測することすらできないじゃないか。いや推測も何も、少なくとも昨日の時点で、俺の中では燕雀ヶ羽は完全に被害者なわけだし、っていうかどこからどう見ても燕雀ヶ羽は被害者だったんだし、そこに疑いの目をかけるのは無理があると思うんだが……」
「いや、できたはずだよ」
「え?」
きっぱりと夜叉ちゃんは俺に対し断言してみせる。
「確定はできなくとも――推測はできたはずだと思うよ」
「そんな、なんではっきりと」
「だってそうだろう? その鳥のお嬢さん――痴漢の被害に悩んでいるとしか言ってないじゃないか?」
「……?」
いや、それはそうだけれど。
「被害に悩んでいる――痴漢を受けているなんて、誰も言ってないんじゃない?」
「――!」
言われてみて、初めて気づく。指摘を受ければ確かにそうだ――そんなの屁理屈でしかない、と切り捨てることはできるかもしれないけれど。
昨日、燕雀ヶ羽が俺に言った台詞。
痴漢被害に――悩んでおりまして。
痴漢をされたとは――一言も言っていない。
今に至るまで、一度も。
「…………」
無言で燕雀ヶ羽の方を見る――と、申し訳ない気持ちと不安な気持ちが入り混じったような表情でこちらを見ていた燕雀ヶ羽と目があったが、すぐに目を逸らされてしまった。
その反応は――肯定しているようなものだろう。
「まあまあ夕影君、そう責めないであげてよ。確かに誤解を生むような言い方をした彼女が間違いなく一番悪いだろうけどさ。っていうか、その言い草じゃあ私だってきっと彼女が被害者だって普通に捉えちゃうし。でも、鳥のお嬢さんの気持ちも汲んであげなよ? だってそうじゃないか――『他人に痴漢をしてしまうんです、助けてください』なんて、ふざけてると思われるに決まってるもの」
「……別に、責めたりはしないさ」
「そう? ならいいんだけど」
相変わらず、夜叉ちゃんとの距離感が上手く掴めないんだよな……深入りしてくるわけでもないし、かと言って突き放すわけでもないし、付かず離れず、ピンチの時には助けてくれる、みたいな……こんな言い方だとただの都合のいい相手のように聞こえてしまいかねないが、実際問題、そういう部分がある感は否めないんだよなあ、この人は。
見た目は朝日に似ているが、性格の面では真逆と言ってもいいだろう――ああ、真逆と言えば、夜叉ちゃんは時折俺に甘えてきたりもするが、朝日は絶対にそんなことはしないしな。
対等な位置にいるとさえ言ってもよいかもしれない。
「……あ、あの」
と、そこでようやく、恐る恐ると言った口調で燕雀ヶ羽が口を開いた。
「……ゆ、夕影さん。あの、本当に、なんと申し上げたらよいか……」
「……別に、謝る必要はないよ。まあ、確かに誤解を生むような言い方ではあったかもしれないけど、よく考えれば俺も確認不足ではあったかもしれないし」
「い、いえ、夕影さんに非はございません。すべて私の言葉足らずが招いた結果ですので……ううう、本当に、もうどうお詫びしてよいか、さっきから頭が真っ白になってしまいますぅ……」
「いや、本当にもう気にしなくていいって。お互いさまってことでさ」
しかし、そうはいうものの、やはり驚きの気持ちは大きかった。
痴漢の犯人が燕雀ヶ羽だったとは。
痴漢の被害に遭っているので助けてほしいのではなく、痴漢の加害に遭っているから助けてほしいなんて、こうして言葉にしてもにわかには信じがたいし――実際、屋上の時点でそれを聞いていたら、俺が鵜呑みにできていただろうかと問われてしまうと、確証が持てない。
あまりにも、現実離れしすぎてるだろ――こんなお嬢様が、痴漢をしているだなんて。
「そういうわけにはいきませんっ! ただでさえこれ以上ないほどに夕影さんにはご迷惑をかけてしまっているのに、何をお互いさまにすることがございましょうか。も、もう駄目でですわ……折角できた初めてのお友達だというのに、こんな粗相をしてしまっては見放されてしまうに決まっています……」
「…………」
例えば、仮に例えばの話、絶対にありはしないんだけれど、もし俺が鬼畜上等の主人公だったら、ここで燕雀ヶ羽の後ろめたさに付け込んでエッチなことを要求していたかもしれない……『お前がしたんだから俺にも痴漢させろ』とか言って。
まあ、そんなことは同人誌でもやらないのだけれど、しかし今の彼女には、いくら慰めの言葉をかけても埒が明かなさそうではあった。
「……えっと、燕雀ヶ羽」
「はい、心得ておりますわ。今脱ぎますので少しお待ちを」
「せめてお金で解決しろや!」
大変だなあ性知識覚えたてのお嬢様!
とりあえずスカート上げろ!
「え……ここは私が、身体を使って夕影さんにお詫びをする場面ではござらないのですか……?」
「心底不思議そうな顔をするな! 後多分性知識の刈入れどころ間違ってるからな!」
保健の教科書ぐらいにしとけや!
その行為自体俺からしたらセクハラだよ!
「あ、ああ、そうですわよね。私の貧相でちんちくりんな身体では、夕影さんを満足させられませんものね……すいません、少し自分に驕っていたみたいです」
「……この状況で言うのもセクハラっぽいけど、お前はもう少し自分に自信を持ってもいいと思うぞ」
夜宵よりは胸も大きいし、肌綺麗だし、可愛いし。
貧相だなんてとんでもない話である……いや、だからそんなことはどうでもいい。
「燕雀ヶ羽。じゃあとりあえず」
「鳥だけにとりあえずってかい?」
「うるせえよ幼女。うるせえようじょ。鳥あえず燕雀ヶ羽,じゃあ、こうしよう。今回の件については、言葉足らずだった燕雀ヶ羽が悪かったと思う。ただ、俺としては全く気にしていない限りだけれど、燕雀ヶ羽がそれで納得しないって言うんだったらさ、この問題が片付いた後に、一つ、俺の言うことを聞いてくれよ。それでいいか?」
「言うことを……それはつまり、命令でございますか?」
「言い方に癖があるけど、まあそんな感じだ」
命令と言う一方的に押し付けるような言いかたはあまり好ましくないという話は薄暮にもしたはずだが、まあこの場合なら、意味合い的には同じようなものだろう。
「ちょっと夕影君。どすけべ展開は夏コミでやってくんない? 書籍化できなくなっちゃったらどうするのさ、美少女文庫狙ってるわけじゃないんだから」
「いやマジでうるせえよ合法幼女。書籍化できなかったらそれまでだし、お前が思っているような命令をするつもりもないし、更に言えば、もし仮に書籍化できてしまったら、お前の出番は全部カットしてやるからな」
「うわーん! 男子高校生に虐められるー! でもちょっと興奮してしまう自分がいるー!」
素直に気持ち悪い幼女だった。
成人で幼女でツインテールで巨乳で本屋でSっ気があるMっ娘って、要素が多すぎないか?
「夕影さんのご命令とあらば、何でも聞き受ける所存でございますわ。ただでさえ既に面倒ごとに巻き込んでしまっていらっしゃいますし、現時点でこれ以上ないくらいに感謝しておりますわ。いっそ全財産を捧げたいくらい」
「多分、俺が思っている金額とはかけ離れているんだろうな……」
宝くじ一等とかより多そうだ。
ちょっといい話にも聞こえてきてしまった。
「なんでしたら、今すぐにでも何なりとお申し付けをしていただけましたら」
「いや、今はいいよ。きちんと諸々の問題を解決して、けじめをつけてからにしよう」
「そう、ですか……」
わかりやすくしょぼーんと落ち込む姿をにやにやした顔で見つめながら、夜叉ちゃんはさっさと話しを進めていった。
「そんじゃま、とっとと本題に入ろうか。鳥のお嬢さん、君はね、鳩の狂獣に憑りつかれているんだ」
「……鳩、ですか?」
「そ。鳩。狂獣についての説明は……もうしているのかい? 夕影君」
「いや、そこはまだ……」
「そうかい。まあなんて言うのかな、良くない鳩のお化けに憑りつかれていると思ってもらえればいいよ。君がしたくもない痴漢に手を染めてしまっているのも、その鳩のお化けのせいなんだ」
そう言って夜叉ちゃんはキャスター付きの椅子に座ったまま横の壁を蹴って移動し、椅子を上手く傾けながらカーブを決めて書店入り口に立っている俺たちのところまで来、ぴたっと目の前で急ブレーキをかけて止まって見せた。
とんでもない操縦能力である。
ポケバイに出場させてみたい。
「君は一匹の銀色の鳩に憑かれている――鳥らしく、啄まれたとでも言っておこうか。お嬢ちさん、一応聞くけど、誰かに痴漢をしたいって願望はないんだよね? 君が実は隠れ変態でしたってオチだったら、私にはもうどうしようもないんだけど」
「い、いえ! 生まれてこの方、そのような迷惑行為に手を染めたいなどとは考えたこともございません!」
「そう。良い子だね」
「夕影さんになら、触られるのも悪くないかもとは考えております!」
「それは私も思ってるよ!」
「やかましいわ変態ども!」
厄介な変態が増えてしまった。
片方はもう手に負えないので、もう片方だけでも今すぐ助けねば。
「……ただ、今週の頭くらいからなんです。人との距離が近付くと、突然意識が朦朧としてしまって、その、いかがわしいことばかり頭がよぎってしまって、剰えそれを実行しようとしてしまって……」
燕雀ヶ羽は、ひどく申し訳なさそうな表情を浮かべながら、懺悔でもするかのように自身の症状を話した。
「それで、痴漢被害以外には、何かないのかい? 変わったこととか、困ったことは」
「変わったこと……」
「どんなことでもいい。恥ずかしがらないで教えておくれ」
「…………」
燕雀ヶ羽は頬を赤らめつつ俺の方を一瞥してから、意を決したかのように口を開く。
「えっと……その、さっき『人との距離が近付いたら』って言いましたけど、実は一人の時もそんなことばかり考えてしまっているというか、四六時中いかがわしい妄想をしてしまうようになったというか……」
「……なるほど。それでパソコンが解禁されてから、そんなことばかり調べてたってわけか」
俺のそんな苦言に対しても、燕雀ヶ羽は申し訳なさそうに、
「返す言葉もございません……ついでに言うと、実は今もいやらしい妄想をしておりまして」
「いや、別にそれは言わなくていいぞ!?」
「この薄暗い、お客さんもいない書店の中で、悪いことをした私は夕影さんにお仕置きをされてしまうのです。『この本を読み終わるまで、俺に何をされても反応してはいけないぞ』。そう言われて私は椅子に座り、夕影さんに手渡された分厚い本を読むのでございます。とても一時間二時間では読み終わらなさそうな、文字がびっしりとつまった純文学なのでございます。しかし夕影さんは、読書中の私の身体をまさぐるように触り始めるのです。初めは頬を撫でるように、後ろから触っていきます。唇をなぞり、耳をくすぐり、首筋をひとなめした後、それまでの優しい手つきから一変、制服の上から激しく私の胸を揉みしだくのです。人より敏感な私はその手つき一つ一つに跳ねるよう感じてしまいますが、反応してはいけないと言いつけられているので、あくまで本を読み続けるのです。けれども夕影さんは手を止めず、本の内容も頭に入ってきません。そしてついにいやらしい声を漏らしてしまった私は、夕影さんから罰を受けてしまうのです……!」
「ちょ、いいねそれ! 最高だよそのシチュエーション! 夕影君、投稿先をフランス書院の官能大賞に変更しよう! これは一山狙えるかもしれない!」
「狙わなくていいよそんな不名誉なもん!」
大声でヤバい彼女たちを抑止する。
これ以上は色々とまずいのだ。
「いやあ、これはもしかしたら磨けば光る原石かもしれないね。これが狂獣のせいって言うんなら、もうこのまま狂獣に憑かれた状態で余生を送ってもらいたいよ。そして最っ高にエロい官能小説で世の中を浄化してほしいものだね」
「下心で世界が綺麗になるわけないだろ……」
無茶苦茶な未来しか見えない。
仮にそんなことになってしまったら、俺は日本にサヨナラバイバイするだろう。
閑話休題。
「んでさあ、鳥のお嬢さん。その狂獣――鳩のお化けが憑りつくのには条件があって。条件って言うか原因かな。狂獣が宿主に憑りつく主な原因は淀みの穴――専門用語だとわかりずらいか。要は過度なストレスである場合がほとんどなんだけれど――お嬢さん、何かとてつもないストレスを感じたりはしていなかったかな?」
「スト……セックス?」
「今言い直したよね? そこまでする? 一文字しかあってないしね、ストレスだよストレス」
「ストレス、ですか……?」
「ああ。どんな些細なことでもいい。長期間に亘ってじわじわ溜め込んだものでも、短期間の間に一気に凝縮させたものでも――必ずあるはずなんだ。確固たる原因がさ」
「……そう、ですか。ストレス……うーん」
「例えば、夕影君が横にいることがストレスになってたりとかさ」
「失礼を通り越してるってレベルではない」
万が一それが原因なら、悪いが俺はこのまま直帰するぞ。
涙を流しながら。
「燕雀ヶ羽。その、お前が抱えているストレスと言えば、あれなんじゃないのか? ほら、お前ん家の家庭環境の」
「家庭環境? なんだい、何不自由なく生活できることに、逆に面白みを感じなくなっちゃったとか? アニメだとよくあるよね、お金持ちキャラが心に深い闇を抱えていたりする場面」
「近からず遠からずって感じではあるが……」
なんだかんだで夜叉ちゃんも、お嬢様と言う立ち位置の人間に対してそう言う偏見はあるんだな……俺は燕雀ヶ羽に一応確認を取ってから、昨日彼女に聞いた彼女の家庭環境の話をかいつまんで夜叉ちゃんに話しておくことにした。
幼少期より厳格な母親に厳しい教育を受けてきたこと。
友人の付き合いや娯楽に過剰な制限があったこと。
理想を押し付けられて、高尚に染め上げられたこと。
口にしてみて、改めて嫌悪感すら覚えてしまうような彼女の過去の家庭の内情を、可能な範囲で夜叉ちゃんに説明する。
「……ふーん」
一通り聞き終えた夜叉ちゃんはそんなつまらなさそうな反応を示す。
「まあなんて言うか、私もいい大人だからね。他人様の教育論に横やりを突き刺す度胸なんてないけどさ。でっかい胸はあってもでっかい度胸はないけどさ。けどまあ、鳥のお嬢さん。君はどうやら、それにしたって随分な目に合っていたようだね。普通、鳥の雛って、蝶よ花よと可愛がられて育てられると思うんだけど、君の場合はさながら崖から突き落とされる獅子のような育成方法だったんだね。しかも話を聞く限りじゃあ、突き落とされたまま放置されるどころか上から泥でもかけられるような始末だ――普通なら死ぬよ。死にたくなるよ。死にたくなると思うよ。でもまあ、そこは皮肉にも鳳凰の名が生きてるというか、文字通り生きてるって言うか、不死鳥の如く何度も復活したんだね。復活してしまったんだね。うんうん、よく頑張ったね、鳥のお嬢さん」
俺に抱かれることで燕雀ヶ羽と同じ目線となっている夜叉ちゃんは、その細い腕を伸ばしてよしよしと燕雀ヶ羽の頭を撫でてみせる。
「いえ、頑張っただなんて、そんな大層なことはしておりません……」
「そう謙遜すんなって。こんな風に頭を撫でられたこともないんだろ?」
「あ、あぅ……それは」
…………。
コミック百合姫かな?
ま、こんな見た目でも夜叉ちゃんは一応大人だし、大人らしい慰め方としては合っているんだろうけれど、幼女に撫でられて慰められるお嬢様と言う構図が、もう百合漫画にしか見えなかった。
不謹慎ではあるが。
しかし、まあ。
「…………」
そんな風に幼気な少女を慰める幼女に俺は冷ややかな視線を送りながら、
「随分と物腰柔らかい対応だな」
「そうかな? 幼なじみちゃんの時だって、私は優しくしたつもりだけど」
「俺の時は冷たかったって言ってるんだよ!」
「そりゃそうさ、だって君は男の子だもん。女の子を傷つけるようなことが、私にできると思うのかい?」
「男の子なら平気で傷つけそうな物言いだな……」
まあ実際、この幼女には文字通り何度か殺されかけてはいるのだけれど。
物騒な世の中である。
「まあ、君の場合はまた別の問題だろうけれどね。夕影君は鳥のお嬢さんみたいな家庭を案外羨んでいるのかもしれないけど、鳥のお嬢さんが夕影君家の内情を知ったら、不謹慎かもしれないけど、それはそれで羨んじゃうかもしれないじゃないか」
「羨む、ね……俺としては、微妙な気持ちにならざるを得ないがな」
「仕方ないさ。人間なんて、欲望の追及に歯止めがない生き物なんだから。ないものねだりをしちゃうもんなんだよ。私だって、年齢に見合ったすらりと伸びた身長があればって」
「願うのか?」
「え? ああ、うん、まあ」
「曖昧だな……」
「まあ身長は低い方がいろいろ得だから別に要らないんだけど」
「曖昧なまま断るのか……」
まあ確かに。
このうざったい性格は見た目が幼女だから許容できるのであって、夜叉ちゃんが本当に、年齢通りの体格や風貌を持ち合わせていたら、多分、初対面でぶん殴ってる自信がある。
こんな舐め切った大人がいてたまるか。
「で、そのストレスのせいで、君はまんまと鳩の狂獣に啄まれてしまったってわけなのさ。ここ最近性知識に貪欲になったり、人にセクハラをしてしまったりするようになったのも、その鳩ぽっぽのせいってわけよ」
「……そうだったんですね」
実は自分がどうしようもない変態だったという可能性を否定されたからか、燕雀ヶ羽はほっと胸をなでおろした。
その拍子に、たわわな果実がプルンッと揺れた。
はい眼福。
「……そう言えば、なんで燕雀ヶ羽は、性欲旺盛になったんだ?」
「君は今の状況の何を見てたんだよ。狂獣に憑りつかれたからだっつってるだろボケ」
「ちょっと暴言が過ぎるぞ。そうじゃなくて、なんで鳩の狂獣に憑りつかれたからって、性にお盛んになるんだよって話だ。鳩って、平和の象徴みたいなところがあるだろ? いくら狂獣と言えど、セクハラ被害なんて言うのは平和とかけ離れていると思うんだが」
「ああ、そういうこと。なあに簡単さ。今の時期が、丁度鳩の発情期だからだよ」
「は、発情期?」
「春から初夏にかけてが、鳩にとっての発情期なんだよ。まあ、鳩は年に四回くらい発情期が来るけど、今の時期はその中でも一番性欲が強い時期なんだよ」
「性欲が強い、ねえ……」
その影響が、宿主である人間にも出てしまうというわけか。
「なんか、意外ですわ。夕影さんの言う通り、鳩と言えば、古来より日本でも平和の象徴として崇められてきていますけれど」
「うん、その認識は間違ってないよ。実際鳩の狂獣も、宿主の人間に何かをするってわけじゃあない、どちらかと言うと人畜無害な狂獣だからね。でも繁殖期となると話は別だ。あいつら、その気になれば一日十回は交尾するらしいし」
「一日に十回もセックスを!?」
「彼らのその行為に愛があるかどうかはさておき、まあそう言うことになるね。でも影響と言えば、まあ鳩と言うより鳥の狂獣に憑りつかれたこと自体にも、説明が付くだろうさ」
「鳥の狂獣が……もしかして、名前に鳥に関連する漢字が多いから、とかか?」
「ただの洒落だけど、それも強ち間違いじゃないと思うよ。名は体を表すともいうしね。でもこの場合、はっきりとした理由がある」
「理由……?」
夜叉ちゃんの口から出る言葉をただ反復させるだけの俺に呆れたのか、夜叉ちゃんは俺の言葉も大して待たずに口を紡いだ。
「鳥って言うのは、西洋では自由の象徴として扱われているだろ。自由とか時間とか、後は魂とか迅速の象徴でもあるんだよ。まあ後ろ二つは今回のパターンとあんまし関係ないかな。加えて鳩に的を絞ると、大空とか心理とか、私たちがよく知る平和とかの象徴になるってわけなんだよ」
「自由、大空……ああ、そういうことか」
なるほど、と思わず感心してしまうほどだった。
自由。
それは、束縛された家庭環境の中で、燕雀ヶ羽が唯一求めたものだったのだ。
求めたから――それに呼応するように、鳩が現れた。
現れて、啄まれて、憑りつかれてしまったのだ。
「燕雀ヶ羽が自由を願ったから――鳩の方から寄ってきた、って可能性は」
「どうだろうね」
自分で言ったくせに、のらりくらりと濁す夜叉ちゃん。
「さて、だ。ストレスの原因、狂獣の元凶がわかったところで、次はそれをどう解決するかが問題だね。奴らからすればストレスの原因なんか知ったこっちゃないんだけど、こっちとしては、根っこのところから解決しない限りエンドレスに続くだろう。ましてや、今回のそれは一時的なものではなく蓄積的なものだ。長い時間をかけて溜め込まれたストレスだ。一筋縄ではいかないだろうね」
「要するに、俺の時と類似したケースってわけか」
「そゆこと。だからまず、その場しのぎの荒療治だけでもしておいた方がいいとは思うけど。荒療治自体はできなくもないけど。けど、大本の問題を解決しない限りは、狂獣は何度だって寄ってくるだろうさ。寧ろ今回が鳩だったからラッキーなだけで、次はもっと厄介な奴が来ちゃうかもしれないしね」
飄々とそんなことを言う夜叉ちゃんであったが、事態は決して好調ではないらしい。というか彼女の言う通り、燕雀ヶ羽に憑りついたのが鳩だからまだギリギリセーフだが(痴漢をしてしまった部分はアウトなのだが)、これがもっと面倒な狂獣だったらと考えるとぞっとする。前に夜叉ちゃんも言っていたが、狂獣の関わる問題は厄介でないことの方が少ないそうだ。
厄介で災厄。
災厄で最悪。
だからこそ、彼女を――燕雀ヶ羽を、この窮地から救わなければならない。
「よし、それじゃあさっそくお嬢さんの母親のところへ赴こうじゃないか。差し当たっては、私からガツンと言ってやらなきゃいけないね――『あんまり娘さんを追い詰めるなよ』って」
「まるで児童相談所の職員みたいな対応だな……あれ、でもそれは無理なことだと思うけど」
「んにゃ?」
俺の唐突な疑問を受けて、夜叉ちゃんは目を丸くし返答した。
「無理だなんて、そんな挑戦する前から決めつけないでくれよ、やる気が削がれるなあ。んまあ、根付いた家庭環境を丸ごと変えてしまおうって言うスケールの話だから、簡単じゃあないだろうさ」
「それが無理だって言ってるんだよ」
「そう? 確かにそうかもしれないけど、話だけでもするのとしないのでは、大分違うんじゃないかな? さすがに狂獣のことまであけっぴろに説明はできないけど、適当に心理学者でも名乗って、娘さんのストレスが爆発してしまいそうなんですーとかって言ってみれば、何かしらの変化は望めると思うけどなあ。というか、親ならふつう何とかしなきゃって考えると思うけど」
「いや、だからそうじゃなくて――」
俺はそこで一度口を止め、ちらりと燕雀ヶ羽を一瞥してから、
「――燕雀ヶ羽のお母さんは、もういないんだよ」
「はい?」
珍しく夜叉ちゃんが目を見開いて――それこそ、鳩が豆鉄砲を食らったように驚いてみせる。
「え、何? なんで? 死別でもしたの?」
「……夜叉ちゃん。いくらなんでも、それは」
「ごめんって。そうマジでおこな顔をしないでおくれよ少年。それに今の流れで言えば、ストレスに耐え切れなくなってブスッとやっちゃいました――なんてオチが待っていたとしても、まるで不思議ではないと思うけどね?」
露骨に怒りの感情をあらわにして俺を適当にあしらいながら、夜叉ちゃんは燕雀ヶ羽へと視線を移し、
「お嬢さん、それは事実なのかい? お母さんはもういないって言うのは」
と単刀直入に尋ねた。
燕雀ヶ羽は焦らすことも勿体ぶることもせず、
「はい。その通りでございます」
と、冷淡とでも言うべき表情で答えた。
どこが微笑んですらいそうな、凍えた表情だった。
「先週、ゴールデンウィーク終わり間近の、五月五日のことですわ。お母様が浮気をしていたという事実が発覚いたしまして、それで逆上して家を出ていきました」
「浮気? 逆上? ちょっと待ってよ、何その昼ドラは。昼ドラって言うかもう月9レベルの修羅場じゃないか。娘に完璧を求めておいて、そのくせ自分は浮気して、あろうことか逆上って。どんなくそったれなんだよ、そいつはさ」
人の母親に対して結構な罵詈雑言をぶつけている夜叉ちゃんであったが――それを受ける燕雀ヶ羽は、そのことについて怒るどころか、
「……おっしゃる通りですわ。あの方は、本当に最低な方だと思います」
同調するような意見を口にしたのだった。
本当に、心の底からそう思っているような口調で。
「これでも、お母様の期待に応えるべく日々励んできたつもりだったのですけれど、あの方は私の努力に何一つ答えてはくれませんでしたわ。それどころか、お父様との口論の最中に『出来の悪い娘の一人や二人いれば、誰かに心のよりどころを求めたくなるのよ』って――」
「ふざけた野郎じゃないか。自分の非を認めるどころか、剰え娘のせいにするだなんて。母親になる資格がないと私は思うけどなあ」
先ほどよりもさらに拍車の書かった暴言であったが、俺も燕雀ヶ羽も、それを止めるようなことはしなかった。
しようと思わなかった。
だって、俺も同じようなことを思ったから。
出来の悪い娘?
クラスメイトにも敬語で話しかけるようなお嬢様が、出来の悪い娘?
出来が悪いのは――母親の方だろうに。
「夕影君の時もまあ同情したけど、それに匹敵するほど残酷な話だよ。そいつが狂獣に食われちまえばよかったのに」
「ええ」
私もそう思います。
店内の壁と天井の境目を見つめながら、しかし視線はさらに遠くにやったまま、燕雀ヶ羽は呟いた。
「どうして私が――こんな目に合わなければいけないんでしょうか」
心底恨めしそうな目で。
心底憎らしそうな声で。
子供と言う生き物は、等しく親を愛するものだと思っていたが、反抗期やら成長期やら色んな華僑があっても、最終的には親に感謝する生き物だと思っていたが――これほどまでに嫌悪感を覚える子供も、いるんだな。
燕雀ヶ羽の親には、なんとも思わないけれど。
燕雀ヶ羽のことは、あまりにも可哀想に思えてしまう。
親を愛することを知らないなんて。
同じ境遇の一員として、心から哀れに思えてしまう。
「夜叉神さん……どうか私を。救っていただけないでしょうか?」
「いいよ」
か細い燕雀ヶ羽の精一杯の救助に対し、夜叉ちゃんは即答した。
「約束しよう。君を狂った宿命から助けてやる。それが私の仕事だ」
その言葉は、かつて俺の身に地獄が降りかかった時にもかけてくれた言葉だった。
臭い台詞に聞こえるかもしれないけれど。
その時の俺には、何よりも心に響く救済だった――今の燕雀ヶ羽には、その台詞はどう聞こえたのだろうか。
「……でも夜叉ちゃん。助けるって言っても、実際のところ手詰まりなんじゃないのか? まさか、燕雀ヶ羽の母親を探し出しでもするつもりか? 仮に運よく見つかったところで、そんな母親、やっぱり博引傍証説明したとしても到底説得できるとは思わないけれど」
「いや。全くもって手詰まりではない。と言うか、解決方法はある」
「え?」
きっぱりと。
幼女体型に見合わない巨乳をぶるんと震わし、童顔に似合うドヤ顔で彼女は堂々と言った。
「安心しなよ、お嬢さん。私はこんな適当に見えても、狂獣に関してはプロだからね。プロ過ぎて、もう私自身が狂獣になっちゃいそうだ」
「あんたが狂獣になっちゃいかんでしょ」
「はっはー。良いつっこみだね。夕影君のつっこみがあるから、私は明日も生きていけるってもんさ――さて、お嬢さん。差し当たって、君を助けるのに少し手順と確証が必要なんだけど。一先ず、私たちを君の家に連れて行ってくれないかい?」
お疲れさまでした。もぺもぺ。