痴ノ話 ほうおうが豆鉄砲を食ったよう 其ノ陸
おはようございます。おれんじです。ナノブロックにハマりました。
006
翌日、五月十日、木曜日。
思い返したくもないようなゴールデンウィークが終わってからもう四日も経つ、そんな時の流れの速さに少々憂い気持ちになりながら、俺は乗り始めて二年目になるママチャリを漕いで最寄りの駅まで向かっていた。夕影家は竜ヶ峰高校から徒歩で十分くらいの場所にあるので、いつもなら夜宵と徒歩で登校するか、或いは朝日が早番でないときは彼女の車に同席させてもらって登校しているのだが、今日はとある理由によって電車に乗らなければならず、わざわざ学校とは反対方向の駅まで、普段の出発時刻よりも全然前に向かっているという次第である。
色々と難があった。
夜宵と朝日に関しては昨日のうちにそれとなく伝えていたので事なきを得たのだが、家を出る前にたまたま早起きした上の妹に見つかってしまい、いつもと出発時刻が違う理由を根掘り葉掘りと聞かれてしまった。かと言って狂獣関連のことを迂闊に話すわけにもいかず、結局有耶無耶に誤魔化すこともできず、最終的には濃厚なキスによって気絶させるという荒療治をせざるを得ない状況となってしまった。
許せ、妹よ。
お兄ちゃんには、お兄ちゃんの事情があるのだ――そんなわけで、現在七時二五分、俺は燕雀ヶ羽との待ち合わせ場所でもある棘背駅の近くの駐輪場に到着していた。
ちなみに、厳密に言うとここは夕影家の最寄りの駅ではない。寧ろ棘背駅はうちから駅五つ分も離れているほど遠方の駅である。
なのでかなりの遠回りになるのだが……とか考えながら地下駅の入口へ歩いていると、地下へと繋がる階段の入り口付近で、燕雀ヶ羽が待っているのを発見した。
……やっぱり、すげえ美人だな、あいつ。
キラキラのオーラを放って、ただ立っているだけなのにもの凄い目立っている。ナンパ慣れした男でも、声をかけるのに勇気がいりそうな雰囲気と言うか……。
なんというか、こうして他人目線で彼女を見ていると、本当に住む世界が違うんだなという疎外感と共に、今からあの子と電車に乗れるんだという受容感を感じてしまう。通行人の目を引くほどの美人に、俺は今から声をかけるのだ。
声をかけても通報されないのだ!
「あのー、すいません……」
「はい? ……あら、夕影さん。おはようございます。本日はわざわざ遠いところからお越しくださって、申し訳ありません」
緊張しすぎて怪しいスカウトマンみたいな声のかけ方をしてしまったが、燕雀ヶ羽はそれにさえ丁寧に対応してくれる。
丁寧過ぎてちょっと引くわ。
「あ、ああ、おはよう……」
早めの時間帯とは言え、同じく棘背駅を利用するのであろう学生やサラリーマンで周囲は慌ただしそうに賑わっている。そんな喧騒の中、燕雀ヶ羽の周囲五メートルくらいだけ別世界なんじゃないかと思わせるほどに、優雅で落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
眠たそうな表情なんて微塵も感じない。
人前で欠伸とか、絶対にしないんだろうな――それすらも親に教え込まれたものだとするならば、皮肉なことこの上ないのだろうけれど。
「早朝からお呼び出ししてしまい申し訳ありません……お茶菓子の用意もできておりませんの」
「電車に乗るだけだから、お茶菓子はいらないんじゃないかな……」
電車の中でいきなり茶菓子を広げる少女。
想像してみたが、かなりアウェイだ。
「さ、行きましょう夕影さん。二番線はこちらの階段を降りたところにございますわ」
「お、おう」
燕雀ヶ羽に連れられて、地下駅に通じる入口へと侵入する。
「時間があればお弁当でもお作りしてこようと思っていたのですけれど、今日は少し起床時間が遅くなってしまいまして」
「まあ、昨日帰ったのも遅かったしな」
雑談好きで饒舌な夜叉ちゃんと喋っていると、五分で済む要件でも三時間ぐらいかかってしまうことがあるのだ。
「いえ、それもそうなんですけれど……お母様が家を出てから生活が自由になったので、最近床に就く時間がちょっと遅くなってしまうんです……」
「あー、なるほど。ちょっと夜更かししちゃう感じか」
「はい。パソコンが自由に使えるようになったので、いろんなことを調べすぎてしまって」
いけませんわね、と燕雀ヶ羽は悪戯っぽい笑みを浮かべて見せた。
可愛いじゃねえか。
もう学校なんか行かずに、このまま逆側路線に乗って遠いところまで行ってしまいたくなる……まあ、それをやると誘拐になってしまうのだが。
格好良く、逃避行とでも言っておこうか。
「どんなことを調べてるんだ?」
「どんなことをと言うよりは、気になったことを片っ端から検索している感じですね。グーグル先生ってご存知ですか? 私の疑問に何でも答えてくださる素晴らしいご講師様なのですよ」
「ああ、彼は全知全能だからな」
「学校でパソコンを使う時には、グーグル先生は使えませんでしたからね……なんでしたっけ、アホー知恵遅れ?」
「ヤフー知恵袋だ」
とんでもないことを言いやがったぞこのお嬢様。
「厳しい母親のせいで全く触れられなかった知識の扉を、まさに片っ端から開いているような感動なんですわ」
「おお。知識が増えるのは良いことじゃないか」
「知ってますか、夕影さん。紅葉合わせって」
「ちょっと待った」
下り階段の途中で待ったをかける。
「? どうかなさいましたか、夕影さん」
「いや、えっと……それ、俺が聞いてもいい奴なのか?」
「聞いてはいけないのですか?」
「…………」
いや、大丈夫か。なんてったって彼女は崇高なるお嬢様だもんな。
俺の思考の方がよっぽど下品だ。
「……いや、なんでもないよ。それで、も、紅葉合わせがなんだって?」
「紅葉合わせって言う、平安時代に貴族の間で行われていたご遊戯があるんですよ。秋に色づく紅葉の美しさを、和歌で表現して競い合うっていう遊びなんですって。なんだかラップ見たいですわよね」
「ラップね……はいはい、ラップ」
めちゃめちゃ健全なお話だった。
っていうか、お嬢様もラップとか知ってるんだな。
「ラップと言えば、私最近ディビジョンラップバトルに熱中しておりまして。この間なんて、一人で秋葉原まで行ってしまいました」
「アキハバラディビジョンなんてねえだろ!」
ちなみに俺はヨコハマ派だ。
「あ、それと紅葉合わせって、パイズリって意味もあるらしくて」
「ついでみたいに付け加えるな!」
それは開いちゃいけない扉だよ!
「パイズリに限らず、色々な性知識が調べれば調べるほど入ってくるのです。もう、その世界の広さに満腹と言うか、いろんな動画を見漁ったせいで眼福と言うか」
「驚きすぎて転覆しそうだ……」
スマホ買いたての中学生かよ。
しかしまあ、高潔なお嬢様が妙に生々しい下ネタをつっこむ理由がようやく判明した……あれだろうか、今まで性知識に乏しかった分、返ってくる反動が大きいとかなのか……?
抑えつけていた方が、反動が大きいというのはよくある話だしな。
「……えっと、燕雀ヶ羽。ちなみにパイズリって言うのは」
「ええ、もちろんそちらも調べさせていただきましたわ。殿方はああいったことがお好きなのですね……私のそれでは、少々大きさが足りないかもしれませんけれど」
言って、燕雀ヶ羽は自分の胸元に目をやる。それにつられて、俺も思わずそちらを見てしまった。まだ肌寒い時期なのでお互いにブレザーを羽織っているわけなのだが、そのせいで詳細な大きさまではわからないが、成る程、確かに燕雀ヶ羽も巨乳と言う部類には含まれないであろう大きさだった。
俺の知り合いで一番の巨乳は夜叉ちゃんのまま更新されなかった。
嫌な記録、もといいやらしい記録である――だがまあ、燕雀ヶ羽も燕雀ヶ羽でそれなりの大きさはありそうというか、紅葉合わせくらいならできそうなものだけれど。
「どうでしょう? 今回の件が解決した暁には、お礼ということで夕影さんにパイズリをさせていただきましょうか?」
「ぶっ! ……い、いや、お礼目当てでやってるわけじゃないから、そう言うのは別にいいよ……」
「そうですか……やはり私の貧相な身体では」
「ん! やっぱいいかもなあパイズリ! 一度体験してみたかったんだよなあ!」
階段を下りて道を歩き、ホームへと辿り着く。ほぼ同じタイミングで、西側からやって来た南北線の地下鉄が甲高い音を上げながら停車した。プシューっという爆音とともに列車の扉が空気圧縮で開き、ホームに建てられた転落防止ホームドアもそれに倣って開いていく。
「そう言えば」
「ん? どうしたんだ?」
「いえ、ずっと気になっていたのですけれど、地下鉄の扉の開閉音って、どうしてこんなに大きな音が鳴るのでしょうか。ほら、地上で普通に走る電車はこんな落としませんよね?」
「あー。それは多分、地下だからだと思うぞ」
「地下だから……ですか?」
扉の前に立って下車する人を見送り、続いて人ごみの流れのままに俺と燕雀ヶ羽も乗車していく。
「地上だと、列車以外に色んな音が鳴ってるだろ? その騒音に紛れるから、電車の音が気にならないってだけの話だよ」
「まあ、そうだったんですね」
「後は、地下鉄は周りがコンクリートで囲まれてるから音が反響してるって話だぜ。コンクリートって遮音性はあるけど、その分音を反射するみたいだからな」
言ってるそばから甲高い音を発しながら扉が閉まり、地下鉄はゆっくりと走り出す。当然ながら空いている座席などあるわけもなく、人ごみの中で俺と燕雀ヶ羽は向かい合うようにして立つことにした。
「お前、毎朝こんな人混みの中を耐え抜いて来ているのか……?」
「ええ。最初は戸惑いましたが、慣れてしまえばどうと言うことはございませんよ」
ほぼ密着するほどの距離まで近づいた燕雀ヶ羽の笑顔に、思わずドキッとしてしまった。
これじゃあ俺が痴漢魔みたいだ……いけないいけない。
実際のところ、俺の家から竜ヶ峰高校までは一駅分ほどの距離がある。ただ、ご覧の通りの通勤通学ラッシュによる人口密度であり、人混みが嫌いな俺にとっては一駅分くらい歩く方がよっぽど楽なのだ。
「それにしても、さすがに人が多すぎる気がするが……」
「ほら、ここの前の駅って龍鳳駅ではないですか。多分、そこから乗って来られるからが多くいらっしゃるのですよ」
「ああ、なるほどね……」
龍鳳駅と言うのはこのプチ都会町で一番大きな拠点駅である。隣接する県とを結ぶ特急列車や市内近郊への通勤通学輸送を担う普通列車、地下鉄が多く発着する、最も利用客数の多いターミナル駅なのだ。竜ヶ峰高校へと向かう上り線だと、この棘背駅は龍鳳駅の丁度次の駅になるので、異常とも言えるこの人混みにも納得がいく。
では何故俺は、わざわざ朝から遠回りをして棘背駅まで来た上にこんな人混みの苦痛に耐え抜いているのかと言えば、それはもちろん、己のドM根性を鍛え上げているからではない。
燕雀ヶ羽に痴漢を働く犯罪者を捕まえるため――そして、その犯人に憑りつく狂獣を取り払うためである。
「痴漢を捕まえるには、現行犯を抑えるのが一番効率的だ」
昨日、俺に抱かれたままの状態でドヤ顔で言った夜叉ちゃんのそんな台詞を思い出す。年下の男子高校生に抱っこされている成人済み女性がどうしてそんなドヤ顔を浮かべられるのか、今思えば本当に不思議でならなかった。
「現行犯を……その場で取り押さえるってことですか?」
「その通り。被害に悩んでいるということは、お嬢さん、痴漢は一度だけじゃないんだろう?」
「……ええ。ゴールデンウィーク明けから、毎日被害にあっておりますわ」
「だろうね。一度痴漢をして、『ああ、この子ならいける』って思われちゃったんだろう――だがまあ、犯人を特定するならそっちの方が寧ろ好都合だろうね」
「……つまり、燕雀ヶ羽は今日も狙われる、ってことか」
「そそ」
そこをひっ捕らえちまえばいいのさ。
自分が捕まえるわけではないからだろう、大層なことをあっさり言ってのける夜叉ちゃん。
「でも……それってつまり、燕雀ヶ羽を囮にするってことだよな?」
「聞こえが悪いだろうけどね。だからお嬢さんが嫌なら無理強いはしないけど……どう、お嬢さん。やれそうかい?」
夜叉ちゃんのその言葉に対し、燕雀ヶ羽は少し悩んだような表情を見せた後、
「……解決してくださるというなら、何でもやりますわ」
と、真っ直ぐこちらを見てそう言った。
「ふむ。中々どうして、度胸のあるお嬢さんじゃあないか。夕影君も、良い子に目を付けたね。こりゃあ将来有望だ」
「俺のキャラ設定がどんどん安くなっていくんだが……」
重力によってずり落ちていく夜叉ちゃんを持ち上げて抱き直しながら、俺はそんな悲嘆溢れるつっこみをした。
「結論から言うと、今回のケースはその痴漢の犯人に狂獣が憑りついているね。だからまず君たちがすることは、その犯人を私のところまで連れてくることだ。そいつが狂獣に憑りつかれているんなら対処に移るし――もしただの痴漢魔なら、それはそれだ」
「それはそれって……警察にでも突き出すのか?」
「いや、殺す」
「はい!?」
「当たり前だろ。幼気な女子高生にセクハラをするような変質者、殺されたって文句は言えないだろ。どうせ警察に突き出したって社会的にそいつは死ぬんだから、それなら殺したって問題はないだろう――そう怖い顔するなよ夕影君。犯罪者に情入れなんてするもんじゃないぜ? 大丈夫、安心してよ。今回の件は九割九分狂獣の仕業だって」
安心して、私を信じてよ。
人の頬を突っつきながら、夜叉ちゃんはそう言うのだった――だから、そんな行動と共に言う台詞ではない気がするのだが……まあ、可愛いから許すけれど。
可愛いは正義なのだ。
「あの……夕影さん」
「ん?」
なんて、そんな風に昨日起こった出来事と今日のミッション内容を今一度思い返しているところに、燕雀ヶ羽が零距離で申し訳なさそうに呼びかけてくる。
「本当に、今日はわざわざ申し訳ありません……いくら相談に応じてくれるとは言え、ご自宅からここまで、結構な距離があったのでしょう? それなのに無理を言ってしまって、私、なんとお詫び申し上げたらよいか……」
「…………」
なんて言うか。
これも親の影響だとするならば、本当に皮肉な話だよな。
「なあ、燕雀ヶ羽……謝ってばかりじゃあ、疲れないか? そりゃ、そういう気持ちを持つのは良いことだと思うし、社会に出たら平身低頭を強要される場面もあるかもしれないけれど……少なくとも、俺にそんなに頭を下げる必要は、無いんだぞ」
「そう、でしょうか……? すいません、気を悪くしてしまって」
「ほら、それも」
「え? ……あっ」
慌てて口元を抑える仕草を見るからに、やはり無意識なのだろう。
無意識に、謝罪の言葉が口に出てしまうのだろう。
果たして、それは生まれつきなのか、それとも親の顔色を伺いながら生活してきてしまった結果なのか――俺如きには、知る由もないが。
根掘り葉掘り聞くようなことでもないが。
「どうせなら、謝られるよりはお礼を言われた方が、気分はいいかな」
「お礼……ですか?」
「『すいません』とか『申し訳ありません』って、ケースバイケースかもしれないけれど、その言葉って『ありがとう』に置き換えられる場合が結構多い気がするんだよ。例えばさっき燕雀ヶ羽に会った時とかもさ、『わざわざ遠いところから来てくださって、申し訳ありません』よりは、『わざわざ遠いところから来てくださって、ありがとうございます』の方が、言う方も言われる方も前向きになれると思うんだよな」
「……確かに、言われてみるとそうかもしれません」
「だろ?」
まあ感性は人それぞれだし、謝礼より謝罪される方が気持ちがいいという人も一定数いるだろうが――少なくとも俺と燕雀ヶ羽の間に、謝罪的な言葉は不似合いだと思う。
俺が謝罪するならまだしも。
燕雀ヶ羽に謝罪されるのは――こちらが申し訳なくなってくる。
「それに、今回の件に関しては、俺に対してそんな気負いしなくていいからさ……たまたま相談できる奴が、たまたま力になってあげてるってだけの話だし。それに俺は、体育の時間の体操の度に、お前に助けてもらってるしさ。これぐらいが丁度いいんだよ」
「そ、そんな! 体操の時間に助けてもらってるのは、寧ろ私の方ですのに……」
「なら、それはそれでいいんじゃないのか? 人間なんて、助け合わなきゃ生きていけないんだから」
本当に。
人間と言う生き物は、一人じゃあ何にもできないんだよな――。
「……ゆ、夕影さん」
「ん?」
「えっと、その……あ、ありがとうございます」
上目遣いでそんな風にお礼を言う燕雀ヶ羽の目尻には、うっすらと涙が浮かんでいた。
心なしか、頬の辺りが紅潮しているようにも見える。
「な、泣くほどのことは俺はしてないぞ……」
市長の娘を泣かせるという大罪に、逆に心苦しさを感じてしまった――が、どうやらそういうことではないらしい。
「いえ、これは私のお気持ちなんですの。私、こんな風にご学友と一緒に通学するのは、今日が生まれて初めてでして。今みたいに、真面目に向き合って、私のことを思って説諭していただけるなんて、母親にもこんな真剣な説教されたことございません。なので、嬉しさのあまり、つい」
「……そっか」
本当に、噂話って言うのは所詮噂だよな、と、燕雀ヶ羽を見ていて改めて思う。それにイメージと言うものも、結局のところイメージでしかない。お嬢様だからと言って何一つ不自由なく悠々自適な生活をしているんだろうな、なんて、燕雀ヶ羽に対してそんなイメージを抱いている奴らを、過去の自分も含めて全員ぶっ飛ばしてやりたい気分だった。
欲しい物は何にも買ってもらえてないし。
行きたいところになんて、どこにも連れて行ってもらえないし。
親に言うことなんて何にも聞いてもらえないし。
栄耀栄華な生活を送っているんだろうと周囲に勝手なレッテルを貼り付けられ、それが事実無根だと誰も信じてくれなくて。
そんな四面楚歌とでも言うべき生活環境の中で、それでも彼女は――燕雀ヶ羽鳳凰は、友達と登校できるという誰にでもごく当たり前のことにでさえ、涙を流して喜べるような、純真無垢な少女なのだ。
俺たちのあたりまえが――彼女にとっては、貴重な特別なのだ。
「……それに比べると、夕影さんにはお礼をしてもしきれません。体育の時間、いつも私の相手をしてくださって。一人取り残された私に、わざわざお気遣いくださって。それに今日のことだって……こんなこと、夕影さん以外には誰にも相談できませんでしたわ。正直、夕影さんのご負担になるようなことはしたくなかったのですが……夕影さんなら、話だけでも聞いてくれるかもしれないと、勝手ながらそう思えてしまったのでございます」
全く、何が『俺、告白されるかもしれない』だ。一体燕雀ヶ羽が、どんな思いであの時、俺に声をかけてきたのか。間違っても、そんな能天気も甚だしい勘違い、するべきじゃあなかったんだ。
俺しかいなかったから相談したんじゃなくて。
俺だから――相談してくれたんだ。
あの時の俺をぶん殴ってやりたい。
なんなら二十発くらい。
だが、今はそんな過去の俺よりも、現在を以って犯罪を働く犯人の方に憤りを感じてしまう。こんな彼女に対して痴漢だなんて――そんなの、許せるわけが。
「…………」
と、棘背駅から一駅、二駅と経過し、減るどころか増える一方の人混みの中でぎゅうぎゅうと押されてしまい、ついに密着状態にまでなってしまった燕雀ヶ羽の身体が、小刻みに震えていることに、そこで俺は気が付いた。
様子がおかしいことに――気が付いた。
「え、燕雀ヶ羽……?」
「……ち」
燕雀ヶ羽は振り絞るような声で――俺にだけ聞こえるような掠れた声で言う。
「ち、痴漢……」
「――!」
最悪だ。
最低だ。
許せるわけが、なんて――助けるだなんて、そんな大見えを張っておきながら、その女の子が目の前で、またしても痴漢の被害にあってしまった。
くそっ!
本来の俺のプランとしては、手を出そうとする輩をそこで抑えるつもりだった――つまり、囮とは言いながらも、彼女への被害は出さないつもりでいた。
未然に防ぐつもりだったのだ。
なんてざまだ。
涙を浮かべた時点で、頬が紅潮している時点で――その可能性を考慮しろよ!
現在進行形で彼女が痴漢をされているという、最悪の状況を!
精一杯の俺への被害アピールだって言うことを!
「……チッ!」
彼女の周囲を見回す――幸か不幸か、燕雀ヶ羽の周りにいる男性はスーツ姿のサラリーマンが二、三人ほどで、それ以外は女性客ばかりだった。
その中に――この中に、悪逆非道の痴漢魔がいるって言うわけか。
だが、密着状態では確認することも難しい。かろうじて目線を下にやれば彼女の上半身は確認できる。見たところによると胸を触られているというダイレクトな痴漢ではないようで、だとするとやはり、被害を受けている個所は下半身だろうか――確か、痴漢被害にあった女性が実際に触られた場所で一番多いのが尻だっけか? 直接触る以外にも、加害者の男性側が自身の下半身を押し当ててくるケースもあるらしいし、なんなら直接的部位でなくとも、鞄や傘を押し付けてくるという、もう何がしたいのかわからない痴漢被害もあるらしいから、下半身は特に狙われやすいとか……。
一応言うが、これは昨日、燕雀ヶ羽のために俺が調べた知識である。
間違ってもそう言うことをするために調べたものではないのでご注意を。
閑話休題。
どれだけ目線を下にやっても見えるのは上半身だけで、ゼロ距離になっているせいもあって彼女の下半身までは被害状況を確認できなかった――かと言ってこの混雑状況の中では彼女から離れることもできず、いま彼女がどの部位に被害を受けているのかさえ分からない。
というか、ゼロ距離で彼女の胸の感触を感じている俺が加害者でさえある。
今、燕雀ヶ羽がこの場で大声を上げたら、真っ先に連行されるのは俺だろうな……身長差の関係で彼女の頭部から漂う仄かなシャンプーの香りが鼻腔を刺激するし……なんだっけ? 最近じゃあ女性の匂いを嗅いだだけで痴漢扱いされるんだったか? それにこの密集度のせいで蒸してしまったのか、彼女のワイシャツが汗で透けてしまって色々ときわどい絵面になってしまっているし……。
早く何とかしないと、俺が捕まってしまう。
早急に対処を施さねば――
「……?」
さわさわと。
刹那、臀部の辺りに――尻の辺りに、何かが触れるような感触がした。
「…………」
ふむ。
多分、他の人の鞄か何かが触れているのか、それともぶつかっているのか――痴漢と言う案件を意識しすぎるがあまり、俺の方まで敏感になってしまっているのかもしれない。
そんなことよりも、燕雀ヶ羽だ。とりあえず状況の打開策としては、彼女に不貞を働く犯人を突き止めるのが最善策なんだろうけれど、生憎それを確認するすべを俺は今持たない。かと言って人数が減るまでの耐久戦となってしまうと、犯人がどさくさに紛れて途中の駅で降りてしまうかもしれない……竜ヶ峰高校の最寄りの駅である北24条駅までは後三駅、いや、もう北15条駅に止まるころだから実質後二駅か。それまでになんとか打開策を練らなければ……。
「…………」
さわさわと。
「…………」
いや、思い違いではない。偶然何かが当たっているわけでもない――自意識過剰でもない。
さわさわと。
さわさわと。
さわさわと。
さわさわと――何者かが、明らかに俺の尻を触っている。
「――!?」
この状況、読者から見れば嘘にしか見えない字面であろう。『目の前に痴漢されて泣いてる女の子がいるのにくだらない嘘ついてんじゃねえ!』とお叱りの言葉さえ受けてしまうかもしれない――だが事実、俺は、俺もまた、痴漢的行為を受けているのだった。
誤ってぶつかってしまったとか、意図せず触れてしまった――なんてものではない。
撫でまわすように。
舐めまわすように――触っている。
意図をもって、触り続けている。
(な……なんで俺なんだ!?)
万が一、否、億が一のためにもここではっきりと明言しておくが、俺は女ではない。一人称が俺だから男だろうと思わせておいて実は女でしたとか言う叙述トリックなどはしかけておらず、俺、夕影逢真は、生まれた瞬間かられっきとした男である。それに顔つきだって決してショタ顔とか女顔とか、一見して可愛いという感想が浮かぶような造りにはなっていない。二人の妹に『格好良すぎてしんどい』と言われるくらいには、毎晩風呂上がりの度に鏡を見ておっさんになっていくことを自覚しているくらいには、ちゃんとした男の顔のはずだ。
ちゃんとした男の顔ってなんだよ――それはさておき、だからそんな、女性っぽさなど一切ない男子高校生の身体に興味を持つなど、普通ではありえないのだ。
ゲイなのか?
痴漢の犯人は実はゲイで、男の俺に欲情した? ――いや、でも目の前で燕雀ヶ羽が被害にあっているところを見ると、普通に女性にも興味がありそうな感じだが……もしや、痴漢魔は単独犯ではないという可能性も考慮しなければならないのか?
一人ではなく二人、あるいはそれ以上いるとかか?
ここが痴漢推進車両でもない限りそれは嘘みたいな話だが、しかし、それはあり得ない話でもないのかもしれない――狂獣。
狂獣の仕業なら。
複数人を巻き込んで狂人化させているというのなら――可能性は十分にあり得る。
「ゆ、夕影さん……私、あのっ」
「……わかってる。少しだけ耐えてくれ」
痴漢されている少女に耐えてくれだなんて、かけるだけで心苦しくなりそうな台詞を吐きながら、俺は脳内で、独り言のように心の中に話しかけた。
(薄暮、今起きてるか?)
(わん)
と。
俺の呼びかけを待っていたかのように、二つ返事で俺の声に反応してきたのは――薄暮。
俺の中で暮らす、実体化した狂獣。
ケモミミ少女に擬人化した――狗の狂獣。
(僕をお呼びかい? 愛しのご主人様)
(ああ……愛しの薄暮に、お願いがある)
(お願い? ご主人様はご主人様なんだから、お願いじゃなくて命令じゃないの?)
(そういう明確に上下関係が生まれる表現、あんまり好きじゃないんだよ……)
(ふーん。まあ何でもいいけど。ご主人様のためなら僕はなんだってするさ)
薄暮は俺との主従関係に強いこだわりを見せているようだが、俺としちゃあそこらへんはあんまり意識してないんだよな……ぶっちゃけご主人様呼ばわりにも未だに慣れないし……まあ、どことなく支配感を感じはするかもしれないが、俺みたいな平々凡々な人間が誰かを使おうなど、土台無理な話であろう。ましてや燕雀ヶ羽を飼うなどと言う愚行、もちろん浮かぶはずもない。
薄暮は人ではないけれど――見た目が人なら、人みたいなものだ。
(とりあえずえっちなことをすればいいかい?)
「痴漢の犯人はお前なんじゃないのか……」
ビクッ! っと燕雀ヶ羽が大きく反応した……しまった、薄暮との会話なのについ口に出してしまった。いきなり独り言を話し出したせいで、燕雀ヶ羽を驚かせてしまったらしい。
冷静に冷静に。
(だって、僕だって狂獣である前に動物なんだから、ずっとお尻触られてたらえっちな気分になっちゃうよ~……)
(ただの発情期なんじゃないのか、それ?)
飼い犬の未来が心配でならない。
(ムフムフ。まあ冗談はさて置くとして)
薄暮はからかうような口調でご主人様である俺に対し、
(じゃあ、僕はご主人様に何をすればいいのかな?)
と問うてきた。
(薄暮――お前の視界を貸してほしい)
(わんだふる!)
二つ返事であっさり俺の要求をのみ込む薄暮。
まさに忠犬とでも言うべき忠誠力か、現代のハチ公とでも言うべきか――それはさておき。
薄暮と共同体になったことで良かったことが幾つかある。
一つ、嗅覚が少しよくなったこと。
一つ、足が少し早くなったこと。
一つ――狂獣が見えるようになったこと。
すでに説明したように、本来、人間には狂獣の姿が見えないらしい。夜叉ちゃんがその姿を認識できるのはプロフェッショナルだかららしいが(あの人はなんでもかんでも「プロフェッショナルだから」というので信用ならないが)、俺や燕雀ヶ羽、夜宵みたいなただの人間には、狂獣の姿は見ることができない。姿だけでなく声も聞こえないし、もちろん触れることだって叶わない。かろうじてにおいだけは認識できるらしいが、それもごくわずかな獣臭のみで、色々な匂いの入り混じった日常生活の中ではまず、狂獣の存在を実感することはできないそうだ。
しかしながら――狂獣には、狂獣の姿が見えるらしい。
狂獣同士、お互いの姿を、存在を、認識できるらしい。
半実体化した薄暮もその例外ではなく、彼女もまた、街中を漂う狂獣の姿が見えるそうだ。
その影響で俺にも狂獣の姿が見えるようになった――なんてSFチックなことは残念ながら起きなかったのだが、だが、それに近いことはできるようになった。
(それじゃあご主人様。僕を信じて目を閉じて)
(おう)
言われた通り、俺は静かに目を閉じる。未だに尻を弄られ続けているし、目の前にいる燕雀ヶ羽はさらに息が上がっているが――目を閉じる。
目を――閉じる。
視界が塞がり、暗闇が広がり、そこにぼんやりと、次第にはっきりと、薄暮の姿が浮かび上がる。
(ご主人様も大変だね――いつも人助けばっかで)
(……そうでもないさ)
人助けも。
お人好しも――案外悪くはないもんだ。
(少なくとも、夜叉ちゃんに救ってもらった分くらいの助けは、誰かに返していかないとな)
(律儀だね。でも、ご主人様のそういうところ、僕は好きだよ)
もういいよ、ご主人様――その薄暮の合図とともに、目を開ける。
「……うっ」
開けた視界が、ぼんやりと滲んでいる。
度の強い眼鏡を突然かけられたような感覚に襲われ、少し頭痛が出てくる。
(ご主人様、大丈夫? やっぱり無理しない方が……)
「……いや、いいんだ」
この力を使うときは、いつもこうだ。急激に視力が落ち、赤色やオレンジ色が区別できなくなってしまう。
力の副作用。
薄暮が半実体化したことによって、俺と一体化してことによって、俺は狂獣の姿が見られるようになったわけではないけれど――その代わりと言ってはなんだけれど、薄暮の視界を共有することができるようになった。薄暮が見ている世界を、体内から俺の網膜に映し出し、薄暮が俺の中から見ている視界と同じ世界を、俺は自身の目で見ることができるようになった――この力のお陰で、俺は疑似的にではあるが狂獣の姿をこの目で観察できるようになった。
だが、その代償と言うべきか――副作用と言うべきか、はたまた不適合と言うべきか、そもそも人間と犬とでは世界の見え方が全く違う。宗教や人種や思想とかではなく、構造から見え方が違う。
犬は赤緑色盲なのだ。
赤・緑・青と光の三原色を感受できる人間と違い、犬は紫青と黄緑の二つの光波長周辺しか感受できず、この色の組み合わせの中でも緑と黄緑、黄色、オレンジ、赤と言った色合いを区別することができない。さらに言うと犬の平均視力は人で言うところの0・2~0・3程度であるらしく、三メートル以内の距離でなければ人の顔もはっきりと区別できなくなってしまう。それは例え狂獣であれど薄暮も同様のようで、その彼女の視界を共有するということは、俺も薄暮と同じ世界を、犬と同じ景色を目にすることになってしまう。
急激に落ちる視力に、目の筋肉が悲鳴を上げる。
ゲームやパソコンに触れる機会の多い俺ではあるが、同年代と平均してみても視力は両目1・5程度と高めである。それが一気に五分の一にまで欠落してしまうのだ、視神経を通じて頭痛が響くのも無理はない。
目を細めて、ピントを合わせる。
その動作自体が自殺行為ではあるが――しかし、果たして。
『次は、北19条。北19条。お出口は、右側です』
停車直前の車内アナウンスを片耳に俺が目にしたのは――鳥だった。
鳥。
燕ではない。
雀でもない。
ましてや鳳凰であるはずもなく――鳩だ。
鳩――ハト目ハト科に属する鳥類の総称。
美しい銀色の毛並みを持った、ずんぐりとした鳥。
首を傾げたまま俺と目が合った、」その鳩は――
「――!?」
その鳩は、あろうことか燕雀ヶ羽の肩に止まっていた。
「え……燕雀ヶ羽……?」
依然として頬を紅潮させたまま、潤った瞳で燕雀ヶ羽はこちらを見上げてくる。
意識が朦朧としているのだろうか。
俺の声が届いているのか、わからない。
どうしてそんな、涙混じりに荒い吐息を上げて俺を見ているのか、ただでさえゼロ距離である俺との距離をさらに詰めるかのようにその身体を、その胸を、押し付けてくるのか――もぞもぞと動かしているその両手は、一体どこにやっているのか。
痴漢されているはずの彼女は。
痴漢の被害を受けているはずの彼女は。
その両手で自身を守らず――何をやっている?
叫ぶことはできずとも、抵抗くらいはできるはずだ。
それなのに――どうしてその両腕を俺に回している?
「…………」
以前、夜叉ちゃんが言っていた言葉を思い出す。
いいかい、夕影君。
薄暮ちゃんは半実体化、半擬人化したから例外だけれど――普通、狂獣って言うのは人には見えない存在なんだ。
見えないし、感じ取れないし、干渉もできない。
干渉も鑑賞も――観賞もできない。
でもね、それは狂獣も同じなんだ。
この人と決めた人以外には、狂獣は興味を示さない。
例外はあるけどね。
だから気を付けなよ。
狂獣は、まるで自分が使い魔であると思い込んでいるが如く、憑りついた人間の側を離れないからね。
「…………」
ぼやける視界の中で、その銀色の鳩を見ながら、俺は思う。
ちょうどいい止まり木があった――くらいに思っているのだとすれば、それでいい。
一時的にそこにいるのだとすれば――意を決して、俺は自分の尻に手をやった。
燕雀ヶ羽より先に、俺に痴漢をしている犯人を捕まえるために。
バレない様に――逃がさない様に。
「――!」
男の尻を撫でまわし揉みしだくという特異な痴漢の手首を両手で見事に掴み、俺はそのままその手を自分の前へと持ってくる。
叫びはしない。
大声で痴漢の犯行を知らせたりもしない――したところで、どうせ信じてくれる人なんて誰もいないだろう。
市長の娘でもあるお嬢様に痴漢されたなんて――俺だって、信じられないような出来事なんだから。
「…………」
「あ、あの、あ、あぁ……ゆ、夕影さん、その、わた、わたく、し……」
紅潮した面影など一切感じられないほどに、急激に顔色が青ざめていく燕雀ヶ羽の腕を掴んだまま、停車した北19条駅で電車を早足に降りていく。
もちろん、鳩も付いてきたまま。
学校は――休むしかなさそうだ。
お疲れさまでした。私も美少女にすけべされたいです。