痴ノ話 ほうおうが豆鉄砲を食ったよう 其ノ肆
おはようございます、おれんじです。新鮮です。
004
女の子に身体を触られてムラムラした。
こんな時のリフレッシュ方法と言えば、目には目を、歯には歯を、スキンシップにはスキンシップを――お触りにはお触りを。
女の子を触ることに尽きる。
「くぅ~ん♡ ご主人様のなでなでは世界一だわん~♡」
が、さすがに学校内で夜宵にスキンシップを求めるわけにはいかず、かと言って朝日に手を出すわけにもいかず、まさか仕返しと言って燕雀ヶ羽に対するお触りが認められるはずもなく、仕方がないので暫く悶々としたまま学校生活を送り、そして放課後――現在、竜ヶ峰高校屋上にて、俺は自分の中に住んでいる狂獣の少女と、これでもかとスキンシップを取っていた。
スキンシップ――と言っても、胡坐をかいた俺の膝の上に座る彼女の頭を俺が撫でるだけの、一方的なスキンシップなのだが。
「悪いな、なかなか撫でてやれなくて。家だと妹がいるし、どうしても時間が取れなくてな」
「いいよいいよ。ご主人様にはご主人様の都合があるしね~。んまあ、確かに最近なでなで不足ではあったかもしれないけど」
犬は撫でてなんぼだよ、ご主人様――そんなことを口走る彼女の、美しい金髪から生えたビーグル犬のような耳を見てもらえればわかるように、彼女は人間ではない。
狂獣。
俺も詳しくは知らないが、そう呼ばれる存在がこの世にはいるらしい。どこにいるのか、どれほどいるのか、どんなのがいるのか、それは俺には全くもって不明だが、とにかく彼女――夕影薄暮と俺が名付けた彼女もまた、その狂獣の中の一人(一匹?)であるという。
いわく、妖怪や幽霊、或いは怪異とは、全く違う存在らしい。
俺たち人間が疲労やストレスによって身体若しくは心に著しい負荷がかかった際に、精神に生じる『淀みの穴』と呼ばれるところに介入するモノだという。概念とも心像とも言い難いその存在に憑りつかれてしまったが最後、人の理性は崩壊し、抑えていた欲望があらぬ形で剥き出しになったり、本人の意思とは無関係に狂獣の本能に従ったり、非道徳的で非人道的な行動を起こしたりと、まさに『狂人』とでも呼ぶべき状態に陥ってしまうことから、その存在に狂獣と言う俗称が与えられたそうだ。
万が一介入された場合は、専門の狂獣プロフェッショナル(なんとも胡散臭い響きだ)の指導の下適切な対処を施せば、狂獣を引き離して元の状態に戻れるらしい。引き剥がされた狂獣は、その場を去った後、また新たな宿主を求めて彷徨い続けるそうだ――ただ、長期的に狂獣に憑りつかれた状態を放置していると、宿主の自我が消失してしまうんだとか。
そんな危険な存在に、俺は五年前、見事に憑りつかれた。
自分でも気づかないほど肥大化していたらしい、その淀みの穴とやらに、彼女は――薄暮は、まんまと入り込んできた。
そしてそのまま、五年間もの間、憑りつかれ続けた。
その事実を知ったのだってついこの間、高校一年生から高校二年生に上がる春休みの出来事だった。それまで自分にそんな危険なモノが憑りついているとも知らず、俺は五年間もの間、のうのうと暮らしてきたのである。おかげで危うく俺の自我が消失してしまうところだったのだが、すんでのところで疾風のごとく現れた狂獣プロフェッショナルによって、何とか俺は自我を保てたのである。
「頭だけじゃなくて、首回りとかも撫でてほしいな~」
「おう、任せろ」
「んわんっ、ご主人様、そこは敏感だかららめぇ……」
「敏感って、ただの後頭部なんだけど……」
「あぁんっ、ご、ご主人様、気持ちいわん……」
「ありきたりな喘ぎ声を出してんじゃねえよ」
「〝あ~そこそこ、良いよ~お兄さん、もっと強く押してくれ」
「スパ通いのおっさんみたいな台詞も駄目!」
ビジュアルと合ってないでしょ!
「僕も犬だし、犬らしくマーキングとかしたいんだよね~」
「お前の見た目で電柱に小便してたら、多分お前も、ついでに飼い主の俺も連行されるんだけど」
「下世話だな~ご主人様は。そうじゃなくて、ご主人にマーキングしたいんだよ」
「俺に? キスマークでもつける気か?」
「いや、小便をかける」
「下世話じゃねえか!」
そのプロフェッショナルが言うには、犬の狂獣――特にこの薄暮に関しては、他の狂獣と違い危険性が皆無だそうだ。淀みの穴に介入する点や、長期的に憑りつかれ続ければ自我を失う危険性こそあるものの、宿主を乗っ取って悪事を働こうだとか、そういう行動には出ないらしい。実際問題、俺は彼女に憑りつかれ続けたという五年間の間、何一つ異常行動は起こしていない。
自我だって、常に保ち続けていた。
犬の狂獣と言うのは、どうやらそういうモノらしい。
淀みの穴が生じるほどのストレスを抱えた宿主を、何とかして慰めてあげたいと、その一心の下憑りついてしまうんだとか。これは歴史上における、人間と犬との共存関係からなるものだそうだ。人間と犬との、長きにわたる信頼関係が、現代にこういう形で表れているんだとか。
薄暮が犬で良かった。
そして薄暮以外にも、人間と良好な関係を築きたいと思う狂獣はごく少数ではあるが存在するらしい――が、憑りつかれた時点でそうもいかないという問題は、どうにも払拭できないそうだ。
狂獣プロフェッショナルが、いつでもそこにいるとは限らないのだ。
「それにしても、さっきの人のお触りはヤバかったね~。ぐっすり寝てたのに、思わず飛び上がって起きちゃったよ」
「ああ、俺もあらぬところが起きかけた」
「ご主人様、往来の真昼間っからド下ネタ言うのやめてよね~。ついでに授業中にも、突然えっちな妄想始めるのやめてよね~」
「俺にはプライバシーがないのかよ!」
「どうせ妄想するならケモ耳美少女モノとかにしてよね~」
「お前はそれでいいのか!?」
ちなみに狂獣と言うのは、本来俺たちみたいなただの人間には、姿を見ることも声を聞くことも、ましてや触ることなんて到底叶わないらしい。だが、長期にわたり宿主に介入し続けた狂獣を引き離す際、ごく稀にこうして半実体化してしまうというレアケースが存在する、とあのプロフェッショナルは言っていた。
その結果、見事に半実体化した薄暮は、今もこうして俺の中に、俺の意識の中に住み続けている。
夕影薄暮は、奇跡に奇跡の重なった存在なのだ。
「はふ~ん。ここは日当たりもよくて気持ちいい場所だね~」
「まあ、屋上だしな」
「ご主人様のナカと同じくらい気持ちいいわん」
「卑猥な表現するなよ。変な知識ばっか覚えやがって」
「僕の知識は、大体ご主人様の影響を受けているんだけどな~」
ってか俺のナカって。
俺、男なんだけど。
「こんな気持ちのいい場所なのに、僕たち以外に誰もいないんだね」
「まあ、本来この学校は屋上立ち入り禁止だからな」
それでも俺がこうして屋上に侵入できるのは、学力面においてある程度の成績を保っているからである。竜ヶ峰高校は自称進学校らしく部活動より学業における成績の方を重要視しており、優秀成績者ともなると多少のオイタは黙認されるのだ。流石に暴力事件とか万引きとか、犯罪にまで手を染めてしまっては学校側も擁護できないとは思うが、屋上に入るくらいのことなら目を瞑ってもらえるということだ。
「サラリと頭いいですよアピールを読者にしていくなんて、ご主人様も隅に置けないわん」
「堂々としたわけじゃないんだからこれぐらいいいだろ。あんまりメタなことを言うな」
「それを言うなら、僕の存在そのものがメタだからな~」
右手で頭、左手で首回りを撫でられて、「くぅ~ん♡」と甘い声を漏らしつつそんなことを薄暮は言う。
確かに薄暮の言う通り、この屋上は居心地がいい。先の理由からここを訪れるものがそもそも少なく、俺と夜宵はいつもここで昼休みを過ごしている。俺たちの他にここを利用するのは成績優秀なカップルが二、三組いるくらいで、その利用者たちもさすがに放課後まではここに集まったりはしない。放課後の竜ヶ峰高校の屋上は、お日様の下で薄暮を撫でられる唯一のスポットなのだ。
「なまじ半実体化しちゃったおかげで、みんなに僕の姿が見られちゃうもんね~。僕のことを見たら、やっぱりみんな驚くのかな?」
「お前を見たらと言うか、俺の身体から枝の如く美少女が出てきたら、そりゃ誰だって驚くだろうよ」
「あ~あ、周りから見えなければ、授業中にもご主人様に撫でてもらえるのに」
「授業中にいきなり虚空を撫でだすとか、いよいよ俺ヤバい奴じゃん」
友達いなくなっちゃうよ。
と思ったが、いなくなる友達がそもそもいなかった。
「んで、いつまで撫で続ければいいんだよ、薄暮」
「ん~? 僕の気の済むまでかな~」
「あと五分くらい?」
「あと気分くらい」
「下手すりゃ明日になっちまう……」
「あと五十億年くらい」
「先に地球の寿命が来るわ!」
「むっ」
と。
膝枕状態でリラックスモード全開だった薄暮が突然むくっと起き上がり、俺の胸元へと突っ込んでくる。そしてそのまま、まるで異次元にでも消え入るかのように、俺の中へと潜り込んでいった。
俺の中へと入っていった。
いや、帰っていったというべきなのか、今は――しかし、急に帰っていくとは一体どうしたものか。仮にもあと五十億年は撫で続けるように要求しておきながら、あんな風に唐突に戻ってしまうとは。
「あ、あの」
声をかけられた。
その声のかけられ方は、よく聞くものだった――そう、今日も同じように声をかけられたはずだ。確か体育の授業中、準備体操の時に、全く同じように。
「……燕雀ヶ羽?」
見ると、やや離れた位置にある屋上の入り口に、彼女――市長の娘、お金持ちのお嬢様、お嬢様の中のお嬢様、燕雀ヶ羽鳳凰が、扉を開けて立ち竦んでいた。
突然の来訪に、俺もさすがに驚いた。というのも、そもそも今日ここに薄暮を撫でにいた原因の九割は、彼女との準備体操にあるからだ。事実、体育の授業がなければ俺はまっすぐ家に帰っていたし、何なら体育の授業があったとしても、彼女と準備体操をしていなければ、俺は今、ここには来ていなかっただろう。
まさか、ムラムラしていたのがばれたのだろうか。
『よくも私との健全な準備体操で発情しましたわね? あなただけ住民税を二十倍にして差し上げますわ!』とか言われてしまうのだろうか。
そうなったら、さすがに引っ越そう。
「ゆ、夕影さん。今、誰かと話してらっしゃいませんでした……?」
「え、い、いや、ずっと一人だけど? 生まれてからずっと、天涯孤独だけど?」
「そ、そうだったのですか!?」
あれ。
冗談のつもりで言ったんだけどな。
「もも、申し訳ございません! 私ったら、夕影さんの家庭事情も知らずになんと暢気なことを……どうやってお詫び申し上げたらよいか」
「いや、いいんだ燕雀ヶ羽! ほんの冗談だ! 忘れてくれ!」
「まさかジャングルの中で一人たくましく育ってきただなんて、私の拙い見分では考えもつきませんでしたわ……どうか今の無礼、お許しいただけないでしょうか?」
「ターザンじゃないんだからさ……」
冗談通じないタイプの子かぁ。
しかも丁寧語で謝罪されるの、すっげえ罪悪感感じるんだけど。
まあ、今悪いのは俺だけどな。
「そ、それで? 俺に何か用か、燕雀ヶ羽」
「あ、はい……えっと、用と言うほどではないのですけれど」
落ち着きを取り戻した燕雀ヶ羽はすたすたと足音を立てない歩き方で俺の元まで来、俺の前に立ちはだかった。
立ち位置の関係で、スカートの中が見えそうだ。
強風でも吹いてくれないかな。
「……夕影さんに、ご相談がありまして」
「……ご相談?」
耳を疑った。
スカートの中の魅惑の世界に気を取られていて聞き間違えた――と言うわけでは、多分、無いと思う。
「……えっと、それ、俺が聞いてもいいものなのか? 国家機密とかじゃなくて?」
「はい。というか、夕影さんにしかご相談できません」
「俺にしかできない相談?」
「だって私、恥ずかしながら夕影さんしかご友人がいませんので」
「…………」
やはり耳を疑った。
これはさすがに聞き間違えているかと思った――なんだって?
俺と燕雀ヶ羽が友達?
「俺とお前って、友達だったのか?」
「…………」
泣きだした。
目尻に大粒の涙を浮かべ、プルプルと小刻みに肩が震え出した。
「あ、そうだった! 友達だよな、俺達! ったく、何変なこと言ってんだろーな俺は!」
これもほんの冗談のつもりだったのだが、まさかガチ泣きされてしまうとは思わなんだ……いや、別に冗談で言ったわけではない。
寧ろ冗談を言われたと思ったくらいだ。
俺と燕雀ヶ羽が友達?
相手はお嬢様だぞ?
父親に挨拶もしていないのだが、二つ返事でこの関係を認めてしまって大丈夫なのだろうか……俺だけ国民健康保険に入れなくなったりしないだろうか。
段々将来が不安になってきた。
「で、友達の燕雀ヶ羽は、友達の俺に何の相談なんだ?」
無言で涙を拭う彼女の姿に胸を痛めつけながらも、俺は本題へと話を逸らす。
泣き止まないのか、それとも端から泣き止むつもりがないのか、鼻声のまま彼女は言った。
「……実は、痴漢に」
「え?」
「痴漢被害に――悩んでおりまして」
バサバサッ、と。
どこかで、鳥が飛び立つ音が聞こえた気がした。
お疲れさまでした。私も狂獣に憑りつかれているかもしれません。