すいか
すいか
『・・・行方が分からなくなって、明日で六年になろうとしています』
『ここまで有力な情報もないまま・・・』
ひぐらしの鳴き声が、影となった座敷にも届いていた。
八畳程の座敷に、ひぐらしとテレビの音。たまに風に揺られて、縁側から小さな鈴の音が入ってきた。
『・・・薄茶色の髪を肩までのボブに・・・』
白く固い髪を無造作に後ろで一本に束ね、小さな背中をエビのように丸め、ちゃぶ台にもたれるように体を預けている老婆の目は、眼の前のテレビをぼんやりと映していた。
『・・・さんの行方が分からなくなって、明日で六年です。どんな些細な情報でも構いません、心当たりのある方は・・・』
老婆はゆっくりと立ち上がると、しばらく仏壇を拝んだ。そして、玄関を開けたまま素焼きのお皿の上でオガラを炊きはじめた。
ひぐらしの鳴き声が、日没を告げた。
一、
故郷の田舎道はとても暗かった。
気がついたら、今だに外灯一つない田舎道に立っていた。大きめのスポーツバッグを一つだけ持って、俺は途方に暮れていた。この整備されていない田舎道だけでなく、辺りも昔と変わらないのなら、右側は山だ。左側はガードレールの向こうは数メートル下に田んぼがあって、田んぼの向こうには山がある。それが県堺まで続いているはずだ。
「おかえり?」
不意に、後ろから声をかけられ、ビクッとした。
「おかえり?」
若い女の声は、再度聞いてきた。
「あ・・・」
ゆっくり振り返ると、小さな提灯を持った女が立っていた。光はとても小さく、女の顔までは見えない。
「こんな道の真中で突っ立っていたら、車に引かれても文句言えないよ。で、おかえり?行ってらっしゃい?どっち?」
女は提灯を揺らしながら、俺の肩を叩くように押して道の右端へと誘導した。視界に、微かに山肌や草っぽいものが見えた。
「かえるの?いくの?」
「・・・帰る。家に、帰る」
さっきより強く聞かれて、思わず答えたが・・・
「そう。家にかえるんだ。おかえりなさい、送ってくよ」
その声は、どこか嬉しそうに聞こえた。
女は俺の右手を取ると、ゆっくり歩き出した。繋いだ手は小さく、剥き出しの腕は細く伸び、肩の手前で白い袖がぼんやりと見えた。
「・・・半袖」
そうだ、今は夏なのだから半袖だ。
「暫く、こっちにいるの?一週間ぐらい?」
「ああ・・・」
話は上の空だ。俺の手を引くこの女は、誰なんだ?なぜ、こんなに暗いんだ?
「もう、上の空で返事しないでよ。どうせ、今年も三日がいいところでしょう。
ほら、着いたわよ」
いつの間にか、一軒の平屋が目の前にあった。玄関の外灯は付いている。小さな子供でも来て花火でもしたのか、端に燃えカスがあった。
入っていいのか、迷った。
「かよさん、待ってるよ」
女はそう言って、俺の肩を軽く叩いて闇に溶けた。
「・・・ただいま」
そろりと玄関の引き戸を開けると、お盆に切ったスイカを持った、背中の曲がった老女と目があった。無造作に後ろで一本に纏められた髪は、白く固そうだった。
「お帰り、随分遅かったね。今日は月も星も出ていないから、都会に慣れた目で田舎道は大変だったろう」
しわがれた声は優しく、顔のパーツは笑った瞬間、シワに埋もれた。
二、
目が覚めたら夕方だった。
夕日に染まった縁側は、まだ日中の熱をもった風が通って行く。視界に入るのは、軒下に下げた古い・・・風鈴?風に揺られて出す音は、透き通ったガラスの音ではなく鈴の音だった。
「随分と、優雅な時間の使い方じゃない?」
視界が急に覆われた。
「・・・気がついたら、寝てたんだよ」
昨夜の女の声、隣に住む幼馴染に、ゆっくりと顔の上に置かれた物を手に取った。
「・・・花火」
顔から腕を伸ばして放すと、『お得・花火セット』の文字と、色とりどりの手持ち花火が見えた。
「どうせ、何もしないんでしょう?ダラダラしてるんだから、これぐらい付き合ってもバチは当たらないわよ」
パッと花火が取られて、女の顔が現れた。
「相変わらず、化粧っ気ないのな」
そんな言葉が、自然と口から出てきた。
「化粧臭いのは嫌いだって言ったくせに」
夏なのに、あまり日焼けしていない頬を膨らませた顔は、実年齢より少し若く見える。色素が薄く猫っ毛で量が少なく見える髪を、ボブにしたのはいつだったろう?
「二人とも、スイカ切ったからお上がり」
座敷から、ばあちゃんの声が聞こえた。
「は~ぁい。頂きます」
俺が返事するよりも早く、女は返事をすると視界から消えて風鈴もどきが見えた。
「それ、取っちゃ駄目よ。かよさんが気に入ってるんだから」
かよさん・・・ああ、ばあちゃんか。
「いつまで、孫の失敗作を取っておくんだ?」
孫の失敗作・・・そうだ、あれは小学二年の夏休みに、自由研究で作ったやつだ。乳酸菌飲料の空き容器に穴を開けて、小さな鈴を着けたテグスで吊るした物だ。
「ほら、ぼーっとしてたら、スイカ温くなっちゃうよ。食べたら、花火しよう」
のっそりと上半身を起こすと、幼馴染がスイカの乗ったお盆を持って来た。俺の隣に座ると、大きなスイカを差し出した。
「スイカの種、ちゃんと出すんだよ?」
受け取った俺に、幼馴染はニンマリ笑って言った。
「普通だろ?」
「あ、忘れてる」
大きな口を開けて頬張ると、スイカがこれでもか!と言うように、口の中で存在を主張した。甘い汁が喉を通って、俺は喉の渇きを思い出した。
「忘れてる?」
「そう。子供の頃、散々かよさんに言われてたでしょ。スイカの種を飲み込むと、お臍から芽が出るよ。って」
思い出した。
「それ、試しただろう。出なかった」
あれは、小一年の夏休みの自由研究だった。
「スイカの他にも、色々飲み込んだね。覚えてる?」
「スイカ、さくらんぼ、メロン、巨峰、桃は無理だった。結局、腹が下っただけだった」
「マンゴー買って!ってねだって、かよさんに怒られたの、覚えてる?」
覚えてない。
「あの頃は思わなかったんだけれど・・・出産間近の妊婦さんのお腹、スイカが入ってるみたいって、よく言うでしょう?さくらんぼも、メロンも、巨峰も、みんな中に胎児を入れるほど大きくはないでしょう?」
三つめのスイカを食べようとして、手が止まった。
「女の生理って、使わなかった胎児のベッドなのよ。受精して着床しなかったら、血液となって体外に流れて、また四週間前後かけて新しいベッドを作るの。スイカって、中身も汁も赤いじゃない?だから・・・」
そう言いながら、幼馴染は自分の下腹部を優しくなでた。
「そこに・・・」
入っているのか?
「違うよ」
俺の思っていることが分かったのか、幼馴染は俺を見て鼻で笑った。
「そうだったらいいなって。スイカの種を飲んで、赤ちゃんが出来るのなら・・・」
「飲むのか?」
「少子化問題なんて、即解決よ」
幼馴染はおどけて言うと縁側から庭へと降りて、花火の準備を始めた。
スイカの種を飲み込むと、臍から芽が出る。それを放おって置くと、腹の中で赤子が出来て成長し、腹がスイカのように膨らんだ頃、腹を割いて赤子が産まれる・・・ばあちゃんの話は、そんな怪談じみたものだった。幼馴染は確り覚えていたんだろう。けれど、俺が馬鹿な自由研究をして以来、我が家では品種改良された種のないスイカが出されるようになった。今年のスイカもそうだった。
「はい」
幼馴染は、一本の花火を俺に差し出した。
名前・・・名前が思い出せない。
三、
花火は綺麗だった。
人混みの中で夜空を見上げてみる大輪の花ではなく、たった二人で膝を寄せ合い、うつむいて見る子供だましの物だったが、とても綺麗だった。煙は余計だったが、すぐ側にいる幼馴染の顔が、とても幼く見えた。
「昨日、あのまま寝たの?ちゃんと布団で寝なよって、あれほど言ったのに。縁側で寝るの、本当に好きだね。
ほら、かよさんが朝食・・・もう、お昼だわ。とにかく、ご飯用意してくれてるから、食べて散歩にでも行こう」
頭は起きていた。ただ、体が頭に付いていけてなかった。
「いつまでも寝てない」
「昨日の花火、思い出してた」
目をつぶったまま、鈍い口を動かした。
「・・・綺麗だった?」
「ああ・・・綺麗だった」
可愛かった。
「じゃあ、覚えておいてね。また来年、やろう」
「もう、来年?」
「たまにやるから、綺麗なんじゃない。それに・・・」
女はそこまで言って、何かを俺の顔にかけた。
「冷てっ!!」
その液体の冷たさに慌てて体を起こすと、縁側の前で麦茶のポットを手にした幼馴染が立っていた。ポットの中身は、半分も無かった。
「ほら、時間が勿体無いよ」
そう言って笑う幼馴染は、昨日より少し幼く見えた。
「ばあちゃんは?」
「今日は忙しいみたい」
家の奥を見渡しても、姿どころか気配すら感じなかった。
「俺、ここでしか飯、食ってない気がする」
狭い縁側の向こう側は八畳程の座敷で、大きなちゃぶ台と大きめの仏壇があった。
「ここは、貴方の一番お気に入りの場所だから」
背中で聞いた幼馴染の声が、なんとなく寂しげ聞こえた。
「帰ってきて、じいちゃんに挨拶もしてなかった」
あの仏壇には、じいちゃんの位牌があったはず。ここからだと、霧がかかったようによく見えない。
「散歩から帰ってからにしよう。みきさんの好物だったお饅頭買って来よう」
腰を上げた俺の手を、幼馴染が握った。その力はとても強くて、とても熱かった。まるで、仏壇に行かせまいとしているかのようだった。
「ね?時間が勿体無いよ」
もう片方の手で、つないだ俺の手を包んだ。今度はとても優しかった。
「・・・ああ」
繋いだ手を見ると、とても白かった。夏なのに、日に焼けていない肌は、昔海で見つけた貝殻を思い出した。あれは、いつの時の家族旅行だった?家族?そうだ、帰ってから父さんと母さんに会っていなかった。
「父さんと母さんは?」
「・・・今年はかえってないって、かよさんが言ってた」
帰ってない?二人とも、この家から、町に仕事に行っていたはず。
「ねぇ・・・私の名前、呼んでみて」
繋いだ手をツンツンと軽く引っ張って、幼名馴染みは俺の意識を自分の方へと向けさせた。
「・・・名前?」
「そう、私の名前」
昨日から考えてる。
「そろそろ、名前で呼んでほしいな」
幼馴染の悲しそうな笑みを、俺は何回も見ていたはずだ。何回も?そうだ、いつも俺がこんなに悲しそうな顔をさせていた。いつも・・・
「だんだん、思い出すのに時間がかかるようになってきた。きっと、来年はかえって来ることも忘れちゃう」
俺を映す瞳から、涙が溢れた。
「ご免なさい。・・・それが、正しいんだって分かっているのだけれど、そうじゃなきゃいけないって、頭では分かっているのだけれど・・・一年に一回でも、たった三日だけでも、貴方に会いたい。少しの時間でもいい。この縁側で話をするだけでもいい・・・貴方に会いたい」
一年に一回・・・三日間だけ・・・三日間?じゃあ、今夜には俺は帰るのか?帰る?何処に帰る?この家に変えって来たんじゃないのか?
流れる涙をそのままに、幼馴染は握った俺の手に力を込めた。
「来年も会えるから、そんなに泣くな」
名前を思い出せと、もう一人の俺が叫んでいた。
「一緒に食べたスイカの味も、昨日やった花火も、私しか思い出に出来ない。だから・・・せめて、私を名前で呼んで」
思い出せ・・・
「来年も・・・」
風鈴もどきの鈴の音が聞こえた。同時に、蝉のなく声があちらこちらから聞こえだした。
なんて言おうとしたのか忘れてしまい、口を開けたまま、幼馴染を見つめた。
「ないよ。きっと、来年はこない」
それでいいんだよ。と言いながら、幼馴染はさらに泣いた。俺の手から両手を放し、その小さな顔を覆って泣いた。
「泣くなよ、奈美・・・」
その細い肩を抱きしめたくて、その涙を止めたくて、一歩足を出した瞬間に、幼馴染の名前が自然と口から出た。
「忘れてて、悪かった」
抱きしめると、柔らかな髪が俺の鼻をくすぐって、微かに甘い香りがした。
「奈美」
もう一度呼ぶと、体の中心が暖かくなった気がした。
「来年はないよ。十年前、貴方がちゃんとかえって来てくれたあの夏から、そう毎年、自分に言い聞かせているの。来年はない、今年で終わり。って。だけど・・・やっぱり貴方に会いたい」
涙は止まったのか、鼻を鳴らしながら奈美は俺の胸元に顔を埋めた。その奈美の頭を撫でながら思い出した。この髪型は、十年前に俺が切ったものだ。背中まであった長い髪を、帰省したあの夏に、この縁側で切ったんだった。あの夏、美容師になったばかりで、ようやく給料で鋏を一挺買えて・・・その鋏で初めて切る髪は、この髪と決めていたから・・・
「そうだ・・・鋏・・・」
導かれる様に、視線が座敷の奥、仏壇へと向いた。さっきは気が付かなかったが、そこには傾き始めた太陽の光を反射させる何かが置いてあった。それが何なのか、俺は何となく分かった。そして、その少し奥にある写真立てに、忘れていた二人の顔を見つけた。
「そうか、父さんと母さんは、もうここには帰って来ないか」
そう呟くと、胸元の奈美が小さく体を震わせた。
「あの日、私も一緒に帰ればよかった。あの年だけよ、一週間も帰省していたのは。あれ以来、帰省はこの三日間だけ」
あの夏、都会に戻る俺を、夫婦揃って町の駅まで車で送ってくれたあの日、二日前に奈美が俺を見つけてくれたあの道で、事故にあった。去年の俺なら、それがどんな事故だったのか、思い出せていたのだろうか?今の俺には、記憶はそこで終わっていた。
「これ、プレゼント」
そう言って奈美が出したのは、二つに割った少し大きめのスイカの種だった。
「貴方はくだらないって笑うだろうけど・・・」
少し笑いながら、奈美はその種の片方を自分で飲み込んだ。
「私も、くだらないって思ってる。だけど・・・」
話が終わる前に、俺は残った方を飲み込んだ。
「まるまる一粒じゃなきゃ、効果ないんじゃないか?」
「ただの、オマジナイ。また、会えますようにって」
そう言うと、奈美はもう一粒、今度は割れていない種を取り出し、自分で飲み込んだ。
故郷の田舎道はとても暗かった。
今だに外灯一つない田舎道を照らすのは、奈美の持つ小さな提灯が一つだけだった。整備されていない田舎道、右側は山が連なり、左側のガードレールの向こうは数メートル下に田んぼがあって、田んぼの向こうには山。それが県堺まで続いているが、それは記憶の中だけで、今の俺のは足元の砂利道しか見えない。そこを、奈美と手をつないで歩いていた。
「ありがとう」
不意に、奈美が言った。家からここまで、何の会話もなかった。
「帰ってきてくれて、ありがとう」
足が止まった。
「私の名前を思い出してくれて、ありがとう」
顔を見たいのに、見えるのは提灯の明かりだけだ。
「ありがとう」
そう言って、奈美は俺の背中を押した。俺の足は、当たり前のように前へと進む。
もう、明かりはない。
「桂・・・またね」
小さな小さな呟きは闇夜に溶け込み、確かに俺の耳に届いた。
四、
不思議ね。
クラスメートの親たちは、幼い二人の手のひらを見る度にそう口にした。来年には小学校に上がる男の子と女の子の左の手のひら、正確には薬指の付け根には、ホクロがあった。それは一つのスイカの種を横半分に切ったような形で、それぞれが右側、左側と分かった。
「二人とも、おばあちゃんがお迎えに来たわよ」
先生の声で振り返ると、白く固い髪を無造作に後ろで一本に束ね、小さな背中をエビのように丸めた老婆が立っていた。
「身寄り、おばあちゃん一人なんでしょ?」
「おばあちゃんって言ったって・・・曾おばあちゃんじゃない?あの年で、大変よね」
「でも、二人のあのホクロ・・・」
「迷信よ」
「そうは思うけど・・・」
「じゃあ、何処かに『抜け殻』があるってことよ?ここが田舎って言ったって、そんなのがあったら騒ぎになるし、人一人が居なくなるんだから、すぐに分かるわよ」
「でもでも、昨日テレビで行方不明者の特集、やっていたじゃない?」
「見たけれど、ここら辺りの人は居なかったわよ?」
そんな母親たちの会話は聞こえないのか、老婆はたた大人しく帰りの支度をする幼子達を見ていた。
さようなら。と言って、先生や母親たちの前を通っていく三人。
「宝物は、しまっておくの」
すれ違いざま、女の子が小さく呟いた。それは、親たちの耳に届くには十分だったのか、皆ビクッとした。
宝物は、誰にも見せない。
『抜け殻』は宝物。
家の一番奥、古い日本家屋には似つかわしくない洋風の部屋で、今日も二人の帰りを静かに待っていた。少し大きなクローゼットを開けると、壁に女が寄りかかっていた。その体は水分を失い、澱んだ皮膚は骨に張り付き、ミイラのように干からびていた。項垂れた頭から生えている色素の薄いボブの髪だけが、今だに鮮やかな色を保っていた。
そんな『抜け殻』からへその緒のような茎が伸び、途中で二股に別れ、大きなスイカの皮につながっていた。闇雲に素手で割ったようなスイカの皮も水分を失い、中の果肉は皮に薄っすらとへばり付いているだけだった。種はない。
「ただいま」
スイカは、自分と男の子のベッドだった。女は・・・
「奈美ちゃん、おばあちゃんがスイカ切ってくれたよ~。早くおいで~」
遠くから女の子を呼ぶ声に『抜け殻』の手が微かに動いた。
「は~い。今行く~」
返事をしながら、女の子はクローゼットを閉めた。
スイカの種を飲み込むと、臍から芽が出るんだ。それを放おって置くと腹の中で・・・
終