宴、その後で……
夜、王宮の一角で宴が始まった。
オフィーリアは青のロングドレスを着込んで壁際に立っていた。
楽の音、談笑、嬌声、着飾った男女の群、香水の匂い、卓に載る豪勢な料理、グラスに注がれる葡萄酒……これまで暗殺者だったオフィーリアには、どれも無縁のものだった。
しかし今や宰相ポローニアスの娘、この国の実権を握る大物政治家の令嬢である。黙って壁際に立っているだけでも、何かと言い寄ってくる貴族や王族は多かった。
宰相令嬢という立場上、無下にすることもできず、半ば形式的にあしらっていたが、無用に体を触ったり、卑猥な言葉を耳元で囁くような下品な輩が多く、オフィーリアは辟易していた。
葡萄酒を一気にあおり、テーブルに置いた。
ふいにドレスの裾が引っ張られるのをオフィーリアは感じた。
振り向くと、おかっぱ頭の小さな少年が無邪気な笑みを浮かべて立っていた。まだ十歳ぐらいだろうか。
「お姉さん、こんばんは」
少女のような高い声で挨拶した。いい身なりをしている。名のある貴族のご子息だろう。
「ぼく、ひとり? お父さんとお母さんは?」
オフィーリアは、かがみ込んで少年の顔を見た。
「偉い人とずっとお話ししてて、ぜんぜん構ってくれないんだ」
少年は王宮の一角のほうを指さした。その小さな指の先には、新王クローディアスと、豪奢な服を着た王族らしき男が、酒杯を片手に談笑している姿があった。
よく見ると、王妃ガートルードの弟……今宵の宴の主賓、グスタフ公だった。
この少年もスウェーデンの王族ということか。オフィーリアは少年の髪を撫でた。
「ああ壁の花よ、可憐なる花よ、今宵だけでも、我が臥所に咲いてはくれまいか?」
ふいに少年は、胸に手を当て、甲高い声で歌うように言葉を発した。軽薄な男がよく使う誘い文句だった。
この純朴な少年にはおよそ似合わないものだ。一体誰に教わったのだろうか。おそらく意味も分からずに歌ったのだろう。オフィーリアは失笑した。
「だめ?」
少年は首を傾げながら聞いてきた。澄んだ瞳で、じっと令嬢を見つめている。
下品な貴族どもの相手をするぐらいなら、この無邪気な子供と遊んでいるほうがましだろう……そう思ったオフィーリアは、上着を着込み、少年を連れて城の中庭に出た。
夜風は冷たいが、むしろ心地良かった。
「あなた、名前は何て言うの?」
「ぼく、エリック」
「エリック……いい名前ね」
「おねえちゃんは?」
「オフィーリア」
「ねえオフィーリア、僕、父上から望遠鏡を貰ったんだ」
少年は、懐から小さな望遠鏡を取り出し、それを自慢げに見せびらかした。
「どこか星が見えるところに連れてって」
中庭は庭木が多く、空があまり見えない。
オフィーリアはエリックを連れてクロンボー城の城壁に登った。
既にに多くの男女が来ていた。宴席から抜け出したのだろう。星を見ながら口説いたり、接吻したり、この寒空の下、服を脱いで抱き合っているような酔狂な連中もいる。子供には見せられなかった。
仕方なく城を出て、海岸へと向かった。
波音、潮風が心地良い。
以前この砂浜でハムレットを襲撃したことをオフィーリアは思い出していた。敵ながら見事な剣捌きだった。果たして自分はあの王子に勝てるだろうか、などと考えていた。
「わぁ……」
望遠鏡で夜空を見上げていたエリックが感嘆の声を上げた。冷たく澄んだ空に、ものすごい数の星々が輝いている。
宰相令嬢と小さな王族は、流木に腰掛け肩を寄せ合い、星座や神話の話をしながら時を過ごした。
ふと、遠くのほうで人影がうごめくのが見えた。海岸を巡回している衛兵だろうか。徐々に近付いてくる。
だが衛兵ではなかった。七人の男。粗末な服を纏い、腰には剣を佩いている。
夜盗……そう気づいて逃げようと思い、慌てて少年の手を引いた。しかし男たちは凄まじい速さで駆け寄ってくる。そして二人は瞬く間に囲まれてしまった。抜剣の音が重なる。
オフィーリアは懐から短剣を出した。護身用である。普段使っている黒塗りの暗殺剣とは比べものにならないほど小さく、頼りないものだ。
「これはこれは、綺麗なお嬢さん。こんばんは」
禿頭の中年の大男が口を開いた。この一団の頭目だろうか。がらがらとした下品な声だった。
「なんだ貴様ら、盗賊か」
オフィーリアは七人の男たちを睨みつけた。
「お頭、この女見たことがあります。宰相の娘ですぜ」
子分らしい男がオフィーリアを指さして言った。
「本当か? こいつは俺にもツキが回ってきたぜ」
頭目は下品な笑みを浮かべながら、オフィーリアを嘗め回すような目つきで見た。
「やい盗賊ども、ぼくが相手だ!」
エリックも腰の短剣を抜いて構えた。
「ずいぶんと身なりの良いガキだな」
「多分どこかの貴族の子供でしょう。こいつも攫ってしまいしょう。身代金がっぽりですぜ、お頭」
男たちの目が怪しく光った。
「させるか、外道!」
宰相令嬢は盗賊のひとりに飛びかかり、短剣で手の甲を切り裂いた。男は持っていた剣を落とすと、オフィーリアは素早くそれを奪い、正眼に構えた。
「一剣を得たぞ。我が欲しくば、死ぬ気で掛かって来るがいい」
男たちの眼に警戒の色が加わる。
突然、エリックも声を上げて、近くにいた子分に襲い掛かり短剣を突き出した。だが男はひらりと身をかわし、勢い余ったエリックは砂に足をとられて転倒し、短剣を落としてしまった。すかさず子分たちが群がり少年は取り押さえられてしまった。
「おまえら、殺すなよ。大事な人質だからな」
頭目は少年に歩み寄り、左耳のあたりに刃を当てた。
「お嬢さん、剣を捨てな。ガキの耳を削ぎ落とすぞ」
エリックはガタガタと震えている。
オフィーリアは目を閉じ、やむなく剣を捨てると、盗賊たちは宰相令嬢と小さな王族に縄をうち、縛り上げた。
頭目は、緊縛されたオフィーリアの身体を撫で回した。
「や、やめろ! 触るな!」
オフィーリアは身をよじった。
「こいつは、いい女だ。オランダの娼館に売り飛ばせば、金貨一万枚というところか」
そう言いながらオフィーリアの顎をつまんだ。
「いや、売るのは勿体ねえ……こんな別嬪、滅多に居ないからな。俺の愛人にしてやるぜ」
「ふざけるな! 誰が愛人になどなるものか!」
「その気の強いところもたまらんな。あとでたっぷりと可愛がってやる」
頭目はいやらしく笑った。
「さあ、俺たちと一緒に着て貰おうか。おい、おまえら!馬車のところまで戻るぞ!」
盗賊たちは二人の人質を連れて森の中に入っていった。周囲は静まりかえっている。時折フクロウの鳴き声が聞こえる。
ふと、賊の一団が、林間の陰に隠されていた馬車に近付いた、ちょうどその時、夜空の月に雲が掛かり、森は深い闇に包まれた。
「そこまでだ……」
突然、闇の中から声が響いた。
「だ、誰だ?」
頭目は慌てて剣を抜き、辺りを見回した。
「隠れてねえで、姿を見せやがれ!」
怯えた様子で喚く頭目。子分たちも剣を抜いた。刹那、漆黒の闇を切り裂くように、無数の剣閃が走った。呻き声と、何かが倒れ込む音が立て続けに聞こえ、そして雲が晴れた。
月下、七人の盗賊が森の中に転がっていた。それを見下ろすように黒衣の男が一人立っている。
男は、片刃の剣をゆっくりと鞘に納めると、オフィーリアのほうを見た。
「怪我はないか?」
男は宰相令嬢のそばに寄り、縄をほどいた。
「ハムレット……貴様、何故こんなところに」
「たまたま夜風に当たりに来ていただけだ」
「ハムレット様?」
「もしやエリックか?」
ハムレットはエリックの縄もほどいた。すると少年は王子の名を呼び、胸に飛び込んで泣き出した。よほど怖かったのだろう。腕に抱き、その小さな背を撫でていた。
しばらくすると落ち着いたのか、エリックは笑顔を見せた。
「お助け頂き、ありがとうございます」
「礼には及ばぬ、無事で何よりだ」
王子は少年の頭を撫でながら、優しい声を出した。屈託のない笑顔を浮かべるハムレット。
それを見たオフィーリアは、ふと自身の胸が高鳴るのを感じた。
「ところでハムレット様は、どうして夜会にいらっしゃらなかったのですか?」
エリックが尋ねると、ハムレットは暗い顔になった。
「いろいろと事情があってな……それより、グスタフ公がおまえを探していたぞ」
「えっ、お父上が?」
「心配しているだろう、早く城に戻るのだ。あの小道を行けば、すぐに着くであろう」
「はい、ハムレット様、ありがとうございました」
エリックは足早に城へと戻っていった。
「ハムレット、何故こいつらを殺さなかった? 私はともかく、国賓たるエリックを拉致しようとしたのだぞ?」
宰相令嬢は周囲に転がっている盗賊たちを睨みながら言った。
「子供が見ている前で、人を殺せというのか?」
「何を今更……カント郡でノルウェーの兵を殺し回っていたではないか」
「あれは、いくさだったのだ。仕方あるまい」
「いや、貴様は人を殺すのが好きなのだ。血の臭いに酔いしれている獣だ」
「違う、俺は……」
「なんだ?」
「俺は好きで人を殺したわけではない」
ハムレットは悲しげな表情でオフィーリアを見つめ、そして静かに去って行った。
それと入れ替わるように、今度は黒装束を纏った老人が森の中に現れた。
「お嬢様、ご無事で」
「遅いぞ、カール、今まで何をしていたのだ」
カールと呼ばれた老人は恐縮し宰相令嬢に白髪頭を垂れた。影の者の中でも一番の年長者である。
「一刻も早くお嬢様をお助けしたかったのですが、なにぶん老骨ひとりでは盗賊どもを相手にするのは辛うございまして」
「他の影たちは?」
「影の者どもは皆、ノルウェーやスウェーデンへ偵察の任に出ております。お助けしたくても人手がありませんでした。それでやむなく、ハムレット様にご助力をお願いした次第で……」
「なぜ城の衛兵どもに声をかけなかった?」
「夜会で王族の方々がたくさん来ておられるのです。皆、城の警備で手一杯でした」
「しかし一人や二人ぐらい、暇な者が居たはずだ」
「お忘れですか? 私は影の者。その存在を衛兵なんぞに知られては不味いのです。私のことを知っているのは、宰相様、お嬢様、そして先日のカント郡夜襲の折りに顔見知りとなったハムレット様だけです。この中で助力を請うことが出来たのは唯一ハムレット様だけでございましたので……」
「それで奴が来たというのか」
殺すべき相手に助けられたのだ。情けない話である。
オフィーリアは溜息をついた。
「それはそうと、是非、お嬢様にお見せしたいものがございます」
カールは、砂浜から少し離れた防砂林の片隅へオフィーリアを案内した。
墓が、三つあった。木の枝と針金で作られた粗末な十字架が三本、地面に刺さっている。
「これは誰の墓だ?」
「先日、ハムレット様に斬られた者たちの墓です」
老齢の暗殺者は墓前で膝を付き、胸の前で十字を切った。
「我ら影の者に、弔いなど要らぬであろう。何故こんなものを作った?」
「これは、殿下が自らお作りになったものです」
「なんだと?」
「お嬢様も、どうかお祈りを……」
木の十字架はあまりに不格好だった。
だがそれを見たオフィーリアは、心の中で何かが激しく揺れるのを感じた。
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