亡霊
フォーティンブラス王子率いるノルウェー軍一万は、王都ヘンシゲルの北西十五里(六十キロ)にある沿岸部に揚陸した。その後、揚陸地点から、やや南に下がった「カント郡」という郡里の平野部に移動し、幕営を構えた。
このカント郡の東西には、大きな森が広がり、北方は海浜に面している。王子は、不退転の決意をもって海を背にしたこの地に宿営したのだ。
夕刻、金髪白面の王子は陣中を慌ただしく巡回していた。
攻城兵器と運搬用の荷車を増産するため、周辺の森から木材を調達するよう工兵に命じると、次に兵糧の集積所に向かい輜重係に話しかけた。
「兵糧の備蓄はどうだ? あと何日持つ?」
「三日ぶんの蓄えがあります。北部十州の拠点スカーイェンの軍港から、輸送船が来るのは二日後ですので、十分間に合うかと……」
「兵士どもに支払う金貨は?」
「こちらも有り余るほど残っております」
ノルウェー王都オスローを進発する際、国庫を管理している役人に剣を突きつけ、半ば奪うようにして金貨を持ってきた。山積みになっている木箱の中にはぎっしりと詰まっている。傭兵たちには、すでに前金を払っているが、それでもまだ十万枚ぐらいはあるだろう。
フォーティンブラスは満足そうにうなずくと、幕舎のほうに戻った。
夕日が水平線の彼方に落ち、あたりは暗くなった。陣中には篝火が焚かれている。王子が幕舎のなかで将校たちと夕食をとりながら談笑していると、突然、一人の老人が駆け込んできた。王都方面へ物見に出していた間者だった。
「で、殿下! 大変です! 一大事でございます!」
「騒々しいぞ、落ち着きなさい」
血相を変えて転がり込んできた老人を宥めるように、フォーティンブラスは言った。
「どうした、何があったのだ?」
「それが……とても恐ろしいものを見てしまいまして」
「一体何を見たのだ?」
「実は、この先、ヘンシゲルに向かう街道の途中に古城が一つあるのですが、某は伏兵が居るのではと思い、調べようとしたところ、古城から突如、亡霊が飛び出して来まして……」
斥候の顔はすっかり青ざめていた。老齢だが、場数を踏んでいる熟練の斥候である。常に冷静なこの男が、ひどく取り乱していた。
「亡霊だと? 何を馬鹿な」
「赤毛の馬に乗った騎兵が一騎、突然、城門の中から躍り出てきて……」
「それがどうした? 敵の斥候か何かであろう?」
「金色の鎧を着ておりました。先代のデンマーク王の鎧です」
フォーティンブラスは眉間に皺を寄せた。
「なんだと? 先王は死んだはずだ。見間違えではないのか?」
「いえ、間違いございません。兜を被っていたので、顔は見えませんでしたが……黄金の鎧に、赤毛の馬、そして剣を縦横に振るうその様は、まさしく、かつて戦場で見た先王の姿そのものでした」
老齢の斥候は、三人の部下を従えて物見の任に出ていた。しかし、その三人が、突如現れた亡霊によって瞬く間に首を切り飛ばされたというのだ。
その様子を、老人は身振り手振りを交え、恐々と語った。
「まことに恐るべき剣捌きで、私ひとり逃げるのがやっとでした」
王子は目を閉じて、黙って話を聞いていた。
どうやら嘘を言っているわけではないようだ。しかし先王が生きているとしたら、供回りの一人や二人、必ず連れているはずである。単騎というのは有り得ないことだ。
「先王の亡霊など、敵軍の弄した小細工であろう」
なにしろここは敵地である。それも王都の近くで宿営しているのだ。敵もただ静観しているはずはない。何らかの策動であることはもはや疑いようがなかった。
「敵には道化者が居るようだが、そんなものに動揺していては、いくさなど出来まい」
斥候に向かってフォーティンブラスは重ねて言った。
「今回の南征のため、ザクセン公国の貴族どもに多額の金貨を贈り、デンマーク南端の国境線へ侵攻させたのだ。南北からの挟撃である。この機を逃せば、デンマークを奪う機会は永久に失われるだろう。失敗は許されないのだ。亡霊などに構っている場合ではないぞ」
「しかし、また亡霊が現れて、陣中に妙な噂でも流れれば、兵どもが怯えまする」
手練れの傭兵、あるいは屈強な軍人であっても、未だに神や悪魔といった迷信にとらわれ、恐れる者は多い。こうした些細な噂が士気の低下につながることもあるのだ。
「なるほど、放置するわけにもいかぬか。いいだろう、夕食後の腹ごなしだ。その古城まで道案内しろ。亡霊など私が打ち祓ってみせよう」
フォーティンブラスは斥候にそう言うと、幕舎から出て白馬にまたがった。
周囲には霧が立ちこめている。視界はあまり良くない。
王子は、老齢の斥候と供回りを十騎ほどを連れて、霧と雑草に包まれた古城に向かい、しばらく内部を探索した。
かなりの年月が経っているのか、城郭の大半は風雨に朽ち、崩れた壁は苔に覆われている。
「たしかに不気味ではある。いかにも亡霊の住処という感じだが……」
フォーティンブラスは索敵を続けたが、結局、亡霊の姿など見当たらず、また伏兵の居る気配もなかった。
「骨折り損であったか」
王子は馬首を巡らし、霧の古城を後にして宿営地に戻った。すると突然、警鐘を打ち鳴らす音があたりに響いた。
「何事だ?」
「大変です、兵糧庫が!」
見ると、兵糧の集積所のほうから火の手が上がっていた。
フォーティンブラスは激怒した。
「見張りは何をしていたのだ!」
「亡霊が、デンマーク王の亡霊が突然現れて……」
見張りの兵は完全に恐慌状態に陥っている。
「亡霊だと? どこだ! どこにいる?」
材木置き場から出火していた。作りかけの攻城兵器が火に包まれている。陣幕、幕舎も燃えている。炎を避け、海のほうへ逃げてゆく兵が続出した。
霧と炎と煙の中で、ふと金色の何かが蠢くのを王子は見た。
金色の派手な甲冑を着込んだ騎兵……たしかに先代のデンマーク王の姿だった。群がる兵士たちを、草でも薙ぐように斬り回っている。
金色の兜、金色の面当てで覆われていて、その容貌は伺い知ることは出来ない。ただ面当ての細長い溝から、不気味な眼光が見えている。
「貴様の仕業か! 亡霊め、正体を見せよ!」
フォーティンブラスは怒号を上げた。
剣を抜き、馬腹を蹴って黄金騎士へと突進し、斬撃を叩き込む。
亡霊は片刃の剣を頭上にかざし、これを受けた。火花が上がった。鞍上で数合打ち交わす。だが亡霊の剣勢は凄まじく、王子は均衡を崩して落馬してしまった。
「お、おのれ……」
地に投げ出され、剣も落としてしまい、身を守る手段は無い。
金色の面当てから覗く不気味な眼光……王子は死を覚悟した。しかし黄金騎士はふいに馬首を巡らし、やがて霧の中へと去って行った。
「殿下! フォーティンブラス殿下!」
将校が数人、あわてて駆け寄ってきた。
「お怪我はございませんか?!」
「ああ、大丈夫だ」
王子は呆然としていた。奴は、なぜ私を斬らなかったのだ?
将を討ち、指揮系統を狂わせるのは、兵法の常道……武略に長けた先王ならば、総大将たるこの私を、決して生かしておく筈はあるまい。では、あの黄金騎士は一体何者だったのか?
フォーティンブラスの心中には多くの疑念が渦巻いていたが、周囲の火勢と熱が増してゆく様に、王子は慌てて我に返った。
「消火を急がせろ」
翌朝、王子は、黒く焼けただれた兵糧や木材を呆然と眺めていた。
火事騒ぎのあと、兵の半数が軍勢から消えていた。積んでおいた金貨も無くなっている。どうやら持ち逃げされたようだ。
工兵に造らせていた投石機や衝車、大型の弩弓などの攻城兵器も灰になってしまった。
「もはや戦どころではない、撤退だ……」
将校たちにそう伝えると、フォーティンブラス王子は肩を落とし、海を見つめた。
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