懐剣
翌朝、ハムレットは宰相府に向かった。
執務室に入ると、宰相ポローニアスがいた。黒い顎髭をいじりながら、ひとり黙々と円卓の上に広げた地図を睨んでいる。ハムレットに気付くと、居住まいを正し、深々と頭を下げた。
「殿下、足をお運び頂き恐縮です」
この狡猾な奸臣の顔を見た瞬間、ハムレットの心中に殺意が沸き上がった。だが、今は国家存亡のとき……無用の内紛は避けねばならぬ、と自身に言い聞かせ、努めて平静を保った。
「ノルウェー軍の動きはどうだ?」
「このヘンシゲルの北西十五里(六十キロ)にあるカント郡という沿岸部に宿営しています。兵力は一万。現在進軍を停止し、滞陣しておりますが、油断は出来ません」
ポローニアスはそう言いながら、地図上に銅貨を一枚置いた。置かれた場所には、北を海に、東西を森林に囲まれた広い平野が描かれている。敵の宿営地がこのあたりなのだろう。
「歩兵が主力だと聞いているが」
「徒のものばかりで、しかも攻城兵器を準備しながらの進軍です。侵攻速度は遅いのですが、なにしろ敵軍は王都の至近に展開していますので」
「喉元に刃を突きつけられている……というわけか」
「はい」
「厄介なものだな。ところで南方の国境線の状況は?」
「ザクセン公の私兵、およそ五千ほどが南端の国境線まで迫っています」
デンマーク領の南端……ユトランド半島の最南部は、ヨーロッパ大陸、ローマ帝国の一領たる「ザクセン公国」と接している。そのザクセンの領主は、半島南部の肥沃な穀倉地帯を狙って、過去幾度となく私兵を繰り出しており、小規模な戦闘が多発していた。
「王都からは、兵を出したのか?」
「はい、ギルテンスターン、ローゼンクランツの両将軍に一千の兵を与え、既に進発させております。それに国境線の城塞にも常時一千の守備兵が駐屯しています。これと堅固な城壁、配備された投射兵器をもってすれば、たとえ一万の敵を相手にしても、まず揺らぐことはありません」
淡々と答えているが、その目には覇気の光がある。ザクセンとの争乱については、この男に任せておいて問題ないだろう。
それにギルとロズの両将軍は「王の両翼」の異名を持つ名将である。失策するようなことはまず無いとみていい。
王子はポローニアスの采配に満足げに頷いた。
ハムレットは、再びノルウェー軍が揚陸しているカント郡の周辺地図に目をやった。
「ノルウェーは、いや、フォーティンブラス王子は、何故急に王都侵攻を企てたのであろうか?」
「王位を得るため、少しでも軍功を重ねておきたかったのでしょう。ノルウェー王はご高齢、そしてかの国の王宮には、十人の王子がおります」
「なるほど、内紛か」
ノルウェー王は好色で、十人の妻がおり、いずれも王子を一人づつ産んでいた。
十人の王子は、皆、有力貴族の後ろ盾を得て、次期国王の座を狙い、ノルウェー王宮のなかで政争と暗闘を繰り広げているのだ。
そんな中で、フォーティンブラス王子は私兵を募り、ユトランド半島の北部十州を奪還してみせたのだ。大きな武勲である。横並びだった王位争いの中で、今や、あの王子は一歩抜きん出た存在になったといえるだろう。
だがフォーティンブラスは、それだけでは飽きたらず、先勝の余勢を駆り、王都までも陥落せんと、こうして進軍してきたのだ。
「次期国王は、フォーティンブラスか……」
あの金髪の美丈夫がノルウェー王宮の玉座で微笑む姿
を、ハムレットは思い浮かべていた。
「ノルウェー王のもとには、既に停戦の為の使者を送りました。足の速い船を使い、ノルウェーの王都オスローへ向かわせていますが、三日ぐらいは要するでしょう」
現在のノルウェー王は、老齢ながら呆けることもなく、いまだ賢明である。無用の戦乱を起こすような暗君ではない。北欧全土の情勢を的確に判断し、必ずやフォーティンブラス王子の暴挙を制止してくれるであろう。
「王都オスローから、あの王子のもとに停戦命令が届くまで更に三日、合わせて六日……その間、敵を足止めをすれば良いということか」
「はい」
「いいだろう、だがフォーティンブラス王子には何を言っても無駄だ。いかに交友や面識があろうと、説得には応じないだろう」
「そこをハムレット殿下のご仁徳で……金貨や財宝なども準備させますので」
「そんなものは要らん」
「は?」
「貴様の手の者を借りたい。黒装束だ。二十人ほど貸して欲しい」
ハムレットが言うと、宰相は眉をひそめた。
「一体何のことですかな?」
「居るのだろう? 凄腕の暗殺集団が」
「ご冗談を」
刹那、ハムレットの目が光った。
抜刀し、宰相に飛び掛かり、剣を頭上に振り下ろす。 白刃がポローニアスの眉間に落ちかかる。
だがハムレットの剣は、宰相の額の直前で遮られた。
黒剣。横合いから入ってきた黒塗りの刃に遮られ、弾き返されたのだ。
ハムレットは剣の主を見た。女だった。黒装束を着た女がカーテンの裏から 飛び出し、黒剣を抜き放ち、宰相を守ったのだ。女の双眸に、燃えさかる炎のような光がある。
ハムレットは不敵な笑みを浮かべた。
「その眼……一昨日の晩、砂浜で俺を狙っていた眼だ。おまえ、名は何という?」
「貴様などに名乗る名など無い!」
黒装束に身を包んだ刺客は怒気を発した。凛とした声が室内に響く。
ハムレットは苦笑し、剣を納めた。
「不敬であるぞ! 控えよ、オフィーリア!」
ポローニアスは窘めるような口調で言った。ハムレットの凶行に、宰相は少しも動じていなかった。剣が振り下ろされても、かわそうともせず、じっと目を見開いたまま、ハムレットを睨んでいたのだ。
「しかし父上……この男は父上を殺そうとしたのです」
「黙れ、この未熟者が! 出てゆけ!」
宰相が一喝すると、黒装束の女は剣を納めて静かに部屋を出て行った。華奢だが、所作には一分の隙もなく、練達の剣士の佇まいがあった。
「殿下、娘の無礼、どうかお許し下さい。まだ子供でございますので」
「貴様の娘であったか、オフィーリアとは良い名だな」
「ご覧の通りの、お転婆で、剣闘士の真似事などが好きでして」
「いや、実に勇ましきご令嬢だ。才媛と呼ぶに相応しい」
深窓の令嬢などでは無い。獣のような女だった。王族相手でも決して媚びたりはしないだろう。
そんな毅然とした態度に、ハムレットは感じ入っていた。
「ところでポローニアス、なぜ俺の剣をかわそうとしな
かった?」
「殺気が、感じられませんでした」
「ほう……」
「なにより、今は国難の時です。ご聡明な殿下が、私を殺すような愚を犯すはずがありません。必ずや剣をお止め下さると信じておりました」
宰相は目を閉じ、すっと頭を下げた。
「肝が据わっている、大したものだな」
王子は宰相を見ながら笑みを浮かべた。父の命を狙った張本人ではあるが、恨む気持ちは消えていた。今は愉悦さえ感じる。
「それにしても、お戯れが過ぎますぞ、殿下」
「貸してもらうぞ、貴様の懐剣……黒装束の一団を」
宰相は何も言わず、ただ静かに一礼した。
「今は国難の時だ、ご聡明な宰相閣下。出し惜しみするなよ。この国と心中したくなければな」
ハムレットはポローニアスの背を撫でた。
.
.
.
.
.