亡霊ふたたび
三日後の朝、オールボーの城内に一本の矢文が入った。
それを見つけた衛兵がフォーティンブラスのもとに届けると、王子は血相を変え、慌てて両翼を呼び出した。
矢文にはこう書かれていた。
「右将軍ギルテンスターン。五百の紅騎兵と共に、今すぐ投降せよ。汝の妻子を収監している」
再び敵軍が丘陵の上に姿を現した。その陣頭に、檻車が一台。中にはギルテンスターンの妻と息子が入れられていた。
額に包帯を巻いたレアティーズは檻車の脇に立ち、剣先を檻へ向け、明日の朝までに投降するよう迫った。
その様子を城壁から見ていたギルは頭を抱えた。ロズが、僚友を必死になだめている。参陣していたオフィーリアも、城からその様子を眺めていた。
「おのれレアティーズ、なんと卑劣な」
オフィーリアは拳で石壁を叩いた。フォーティンブラス王子は苦悩するギルをしばし見つめ、そしてホレイショウのほうを向いた。
「どうにかならぬか?」
参謀として何かと頼りにされているホレイショウだったが、流石の彼も困惑し、黙りこんでしまった。この男の知謀をもってしても解決できない問題があるようだ。
オフィーリアは城内に戻り、通路を歩きながら思案していたが、人質救出の方策など、まったく思い浮かばなかった。
その時、ふいに背後から気配を感じ、慌てて振り返った。石柱の影から黒装束に身を包んだ老翁が覗いていたのだ。
「お嬢様、何かお困りのことでも?」
「カールか、実は……」
「ギル将軍の御妻子のことでございますな。某に考えがござります。見事救い出してみせましょう」
「できるのか? 檻車は敵の陣中にあるのだぞ?」
「こういった仕事は、我らの得意とするところです。影の者たち二十名が、王都ヘルシンゲルを脱し、このオールボーの地に亡命して参りました。今宵にでも仕掛けたいと思いまする」
「夜襲か……ならば私も行こう」
するとカールは頭を下げた。
「いえ、それはなりませぬ」
「なぜだ?」
「お嬢様は、フォーティンブラス王子の婚約者……もはや我らとは違う高貴なる御身分なのです。そのような方が、夜盗仕事などしてはなりませぬ。どうか我らの働きぶりを高所より御覧になっていて下され」
老人がそう言うと、オフィーリアはふと寂しそうな顔をした。かつての僚友であった影の者たちと疎遠になってしまうことを悲しく思っていた。
夜。月は雲に覆われ、闇が濃かった。
「いい夜だな、影の者よ。おまえたちが暗躍できる絶好の夜だ」
城塞の脇の大きな森の中でハムレットは言った。
周囲の闇の中には影の者が潜み、みな目を光らせている。
王子は、先王が愛用していた黄金の鎧を纏い、左手に金色の義手をはめると、颯爽と赤毛の悍馬に跨がった。
「おまえたちは、火計をもって敵の輜重と攻城兵器を焼くのだ。その騒動に紛れて、俺は檻車を襲い、ギル将軍の妻子を救い出す」
「委細承知しております」
ハムレットの背後の闇から、カールの声が聞こえた。
「状況を開始せよ」
黄金騎士が森から駆け出た。影の者たちも、その後を追いかけ、暗いの草原の中を疾風のように跳び駆けた。
夜が更けた。
物見の兵から異変ありとの一報を受け、フォーティンブラスは寝所を飛び出し、城壁から身を乗り出して彼方を眺めた。
夜霧の中、敵陣の方々から火の手が上がっていた。兵は混乱し、逃げ惑い、幕舎や攻城兵器は炎に包まれている。
既視感……かつての自分を見るような思いだった。
妻子の安否を気に掛けていたギルは、敵陣の異変を知るや、血相を変え、鎧も纏わずに馬に飛び乗り、城外へ出ようと開門を命じた。だが番兵らは門扉の前に立ちふさがった。
「将軍、おひとりでは危険です! おやめ下さい!」
「黙れ、門を開けよ!」
ギルは門番を怒鳴りつけた。錯乱し、我を失っている。
そこへロズが駆け付け、僚友を馬から引きずり下ろし、必死になって制止している。
フォーティンブラス王子は再び敵陣を見つめた。夜空の雲が流れ、月光が戦場を照らし始める。
ふと、戦火の中から騎兵が一騎、凄まじい速さでこちらに向かって来るのが見えた。近付くにつれ、その全貌が明らかになる。
赤毛の馬に乗り、金色の鎧を纏った騎士だった。
そして黄金騎士は、月下の城門の前に辿り着いた。よく見ると、腕には女と子供を抱えている。
もしやと思い、王子は開門するよう部下に命じた。重い城門が轟音を立てて開いてゆく。
黄金騎士は二人をゆっくりと地に降ろした。
それを見たギルは門から駆け出て、妻子を抱きしめた。
「やはりギル将軍の妻子であったか。しかし、あの金色の甲冑は、たしか先王の……」
将軍は先王の前に行くと、ひざまずいて何度も頭を下げた。黄金騎士は何も言わず、馬首を巡らし、風のように去っていった。
オフィーリアも城壁から身を乗り出して、その様子を眺めていた。
先王の亡霊……まさかハムレットなのか。いや、あの痴れ者は、もはや馬にすら乗れぬであろう。そもそも奴は今、スカーイェンの邸宅で、若い侍女たちに囲まれ呆けているはずだ。
ならば、あの黄金騎兵の正体は……。
「カールよ、なかなか味な真似をするではないか」
翌朝、オフィーリアは、柱の影に潜む老人を見つけると、苦笑しながら言った。
「まさかおまえが、あのような道化を演じるとはな」
「はてさて……この老骨めには、何のことだかさっぱり分かりませぬ」
カールは不敵な笑みを浮かべると、一礼して、その場から素早く飛び去っていった。
宰相レアティーズは、敗残兵をまとめて王都ヘルシンゲルに撤退した。集積していた兵糧や武具、攻城兵器の大半が灰になり、もはや、いくさどころではなかったのだ。
火計で焼かれた野原に、二千ほどの敵兵が集まって、地にうずくまっている。捕虜である。逃げ遅れた民兵だろう。
フォーティンブラスは虜囚の群を見つめた。顔は煤と埃にまみれ、憔悴している。無惨な姿だった。
殺すのは不憫だと思い、王子は捕虜を解放するよう命じた。部下は囲みを解いたが、男たちはその場を動こうとしなかった。
「どうした、なぜ逃げぬ?」
フォーティンブラスは捕虜に尋ねた。すると捕虜は涙を流して訴えた。
「私は農夫でしたが、宰相に田畑を取り上げられてしまいました。デンマークに帰っても貧しい物乞いの暮らしが待っています」
「いっそ殺してくれ、もうあんな国に帰りたくない」
「どうか亡命させてください。どんな仕事でもします」
皆、嘆きの声を上げ、場は騒然となった。困り果てた王子。そのそばにホレイショウは近付き、そっと耳打ちした。
「開墾、治水、造船などに人夫が必要です」
ホレイショウはそう進言すると、王子は納得したのか、すぐに亡命を許可した。
「捕虜ではなく、難民として、そなたらを迎え入れよう。我らと共に、国作りに励もうではないか」
フォーティンブラスはそう言って、水や食料を与えるよう部下に命じた。
男たちは皆、落涙し、額を地面に擦り付けて感謝した。
その様子を見ていたギル、ロズの両名は、王子の英断に敬服し、より堅く忠誠を誓うのであった。




