玉座
翌朝、新王クローディアスに呼ばれたハムレットは、黒衣を纏ってクロンボー城に参内し、玉座の間へと通じる大扉の前に立った。
王子が広間に入ろうとすると、槍を持った大柄な衛兵が行く手を塞いだ。
「ハムレット殿下、どうか剣は私にお預け下さい」
「なんだと?」
王子は眉をひそめ、衛兵を睨んだ。今まで武器を預けたことなど無かったのだ。
「新王クローディアス陛下は先王の弟、そして俺の叔父でもある。俺が危害を加えると思うのか?」
「しかし、陛下のご命令でありまして」
衛兵は平身低頭し恐縮の態で答えた。その様を見て、ハムレットは溜め息をついた。
「叔父と会うのに、こうも気を遣わねばならんとはな」
ハムレットは苦笑しながら剣を衛兵に渡し、玉座の間へと歩を進めた。
中東ペルシャの地より仕入れた赤い絨毯を革靴で踏みしめながら、石造りの大広間を進む。窓からは、早朝の冷えた空気と旭日の陽光が入り込んでくる。
黒衣の王子は巨大な玉座の前に立った。金色に輝く豪奢な玉座……そこに鎮座する叔父の顔を見つめる。相変わらず虚ろな顔をしていた。呼び出したからには、目論見でもあるのだろう。だが、何を考えているのか読めない。ただ双眸から暗く澱んだ光が出ており、どこか怪しげな雰囲気だけは感じられた。
「陛下、お呼びでしょうか?」
ハムレットがそう問いかけると、クローディアスは、黒衣を纏った王子をしばし見つめ、口を開いた。
「ハムレット、何故そのような陰気な格好をしている?」
「先王……いえ、亡き父に対する、弔意ゆえのことです。玉座の座り心地はいかがですか、新王陛下?」
「ふん、言いよるわ」
クローディアスは嗄れ声で冷笑した。即位後、毎晩のように宴を開き大酒を飲んでいたせいだろう。
「王子よ……貴様の存念、申してみよ」
王の言葉にハムレットの心が波立った。
「さぞ業腹であろうな、ハムレットよ。先王の墳墓の土も乾かぬうちに、先王の王妃であったガートルートを娶り、こうして即位までしたのだからな」
淡々とした、だが明確な挑発だった。王位継承権は先王の嫡子であるハムレット王子にあるのだ。
「忌憚なき意見を、お求めになられますか、叔父上?」
王子は俯き、身体を震わせた。
「そうだ」
「その前に、人払いを」
ハムレットは顔を上げ、広間の左右に林立する石柱を睨んだ。気配がある……どころではない。殺気すら感じたのだ。七、八人、柱の影に潜んでいる。
「人など居ない。ここには予と貴様だけだ、ハムレット」
「黙れ、外道が!」
王子は怒声を上げた。
新王は、この広間に兵を潜ませ、そして己が権勢の障害になるであろうこの王子を挑発し、激高させ、不敬の罪を負わせて処断しようと画策していたのだ。
そうした新王の企ては十分に察していたが、それでもハムレットは憤りを抑えられなかった。
「王子よ、東洋には長幼の序という言葉があるが、貴様は知らんのか?」
「実兄を暗殺し、玉座を奪った鬼畜が、何を言うか!」
「そこまでです、ハムレット」
突然、背後から凛とした声が聞こえた。
ハムレットが振り返ると、そこには王妃ガートルートの姿があった。以前と変わらぬ深紫色のドレスを纏っている。王妃が四十を迎えた日に、先王が贈ったものだった。
「母上……」
思わずハムレットは呻いた。
ガートルートは、唖然とする息子を一瞥すると、静かに玉座のもとに歩み寄り、新王に詫びた。
「陛下、我が子の無礼をお許し下さい。先王の訃報を受け、気を病んでいるのです」
「ガートルートよ、この者は聞き捨てならぬ事を言った。予を暗殺者と、簒奪者と罵ったのだ。礼節を知らぬ粗暴者。その不敬の罪、万死に値する」
王がそう言うと、石柱の陰に潜んでいた者が、甲冑を鳴らしながら出てきた。
八人の衛兵。皆、分厚い鎧を着込み、槍を携えている。ハムレットを取り囲むと、その穂先を一斉に王子へと向けた。
銀色に輝く攻囲の鉄環の中、ハムレットは憤怒の表情でクローディアスを睨んでいたが、やがて観念したのか、静かに目を閉じた。
なぜ叔父の露骨な挑発に乗ってしまったのか。己が矜持を捨て、叔父に阿ることで、生き永らえる事が出来たはずだ。父の仇を討つことも出来たはずだ。ふと脳裏に、亡き父の顔が浮んだ。
「陛下! どうか息子に、ハムレットにお慈悲を!」
王妃ガートルートは悲痛な声を上げ、新王にすがり付いた。だが玉座の主は意に介さず、立ち上がった。
「何か言い残すことはないか? ハムレット?」
クローディアスは静かに訊いた。だが王子は何も答えず、ただ黙って立っていた。
「そうか、もはや言葉も無いか。ならば死ぬがよい」
新王は薄く笑いながら、右手を上げ、そして下げようとした。
だがその時、ひとりの伝令が、大広間に駆け込んできた。
「大変です陛下、ノルウェー軍が攻めて来ました!」
ハムレットは驚き、目を開けた。
槍を手にしていた衛兵たちは動揺し、互いに顔を見合わせている。
「なん……だと?」
新王クローディアスは顔色を失い、力なく玉座に沈み込んだ。
ハムレットはすぐに事態を察した。北部十州を取り戻すべく、ノルウェーが南征の軍勢を動かしたのだ。
三年前、健在だった先王は、精兵を率いてユトランド半島最北部に進軍。当時ノルウェー領であった北海沿岸部の十州……東西五十里、南北二百里の領土、通称「北部十州」を奪い、デンマークの版図に加えたのだ。
しかし近年、北海における漁業権を巡り、ノルウェーとの対立が激化。国境線の周辺は常に緊張状態が続いていた。
くすぶっていた火種がついに戦火となったか……声を震わせながら報告する伝令を、ハムレットは静かに見つめた。
「て、敵海軍は、既にユトランド半島最北部に侵攻。船団からは歩兵が続々と揚陸し、港町スカーイエンを占領しつつあります。報告によれば、敵兵力はおよそ一万。指揮官はフォーティンブラス王子」
老齢のノルウェー王に代わり、今度はフォーティンブラス王子が、兵を率いて出馬してきたのだ。勇ましいものだ。それに比べ、今の自分はなんと惨めなことか。
ハムレットは、内心忸怩たる思いがあったが、もはやどうにもならない。新王の挑発に乗ってしまい、不敬の罪で処断される寸前である。
クローディアスは力なく玉座に座り込むと、金色の王冠を外し、額に手を当てた。
すると突然、巨大な玉座の裏から中年の男が現れた。新しく宰相となったポローニアスだった。
王の背後に潜み、今までの事の成り行きを窺っていたのか。
相変わらず精力的で狡猾そうな顔をしている。虚ろな新王に比べ、眼に強い光があった。
全ての黒幕と目されている男の登場に、王子の心は揺れた。
「ハムレット殿下の処分は、また後ほど……今は、急ぎ文武の官を集め、策を講じねばなりませぬぞ、陛下」
うろたえる新王に比べ、宰相は冷静で、声には力強さがあった。
「そなたに任せる、ポローニアス」
叔父は小さな声で答えた。宰相の言いなりである。
二人のやりとりを見ていて、ハムレットは改めて確信した。
宰相ポローニアス……暗愚の叔父を唆し、この簒奪劇の役者に仕立て上げたのは貴様か。
万事に武断的だった先王の、その清廉な王政下では、出世もおぼつかず、権勢を振るうことは出来きないが、この愚鈍な新王のもとであれば、思うさま政事を壟断できる、などと宰相は考えたのだろう。
いつかこの君側の奸を誅し、王宮を粛清してみせる。王子は心の中でそう決意していた。
ポローニアスは冷ややかな目でじっとハムレットを見てから、ふたたび玉座へ向き直った。
「王子はひとまず牢へ。まだ処刑してはなりませぬ。私に考えがありますゆえ……」
宰相が手を叩くと、縄を持った衛兵が現れた。
ハムレットは捕縛され、広間の外へ連れ出されてゆく。
王妃ガードルートは、去りゆく我が子の背中を、ただ悲しげに見つめていた。
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