船出
数日後の昼、巨大倉庫の片隅にある居住区画に、粗衣を纏った二人の乞食が入ってきた。
老人と隻腕王子だった。
「ハムレット……」
オフィーリアは声を掛けた。だが隻腕王子は、呼び掛けには応じず、ただ虚ろな目で倉庫の床を見つめている。顔は青白く、頬はこけ、髭は針鼠のように伸び、まるで本物の乞食のようだった。かつての精強な武人の面影はどこにも無い。
「なんて様だ」
「仕方がありませぬ。城から抜け出すため、このような身なりをせねばなりませんでした」
「傷のほうは?」
「それが、信じられぬほどの早さで、傷が癒えております。ホレイショウが毎晩病室を訪れ、薬草から作った膏薬を傷口に塗り込んでいたそうです」
「そうか」
「かの者が東方で学んだという薬草学の知識は大したものです」
「ハムレット……私だ、オフィーリアだ、分かるか?」
オフィーリアは王子の肩を揺さぶったが、返事は無かった。目から光が失せ、意識があるかどうかさえ分からなかった。
「駄目です。身体は癒えても、心の傷は深いようで」
カールは首を左右に振った。あれほど惨い目に遭ったのだ。心を閉ざしてしまうのは仕方がないだろう。オフィーリアは溜息をついた。
「殿下がご自身を取り戻すには、しばしの時が必要でしょう」
突然、物陰から音がした。オフィーリアは剣の柄を握り、慌てて振り返った。
ホレイショウだった。木箱の裏からひょいと顔を覗かせている。
「ああ、驚かせてすみません」
「ホレイショウ、尾行されてないだろうな?」
オフィーリアが心配そうに尋ねた。
「大丈夫です。追っ手は掛かりましたが、街の人混みに紛れて、上手く巻いてきました」
宰相府勤めの役人はそう言うと、軽く会釈をした。
「ホレイショウ、どうじゃ? 密航の手筈は整いそうかのう?」
「残念ながらスウェーデン行きの定期船のほうは駄目でした。桟橋に、レアティーズの手の者が居て、見張っております」
「おのれ狂人め、なんと手回しのよいことじゃ」
レアティーズは、ハムレットが王城から逃げたことに感付いたようだ。とすれば、この隠れ家を嗅ぎ付けられるのも、時間の問題だろう。
「しかし、ユトランド半島……北部十州へ向かう商船には乗れそうです。この際、北へ逃げてみてはいかがでしょうか?」
オフィーリアは怪訝そうな目でホレイショウを見た。
「なにを言っている。北部十州は今や敵国ノルウェーの占領下だ。危険ではないか?」
「確かに敵地ではありますが、それゆえに追っ手も入り込むのが難しいのです。また、かの地にはハムレット様のご友人、フォーティンブラス王子がいるはずです。事情を話せば、必ずやお力になってくれるかと」
「しかし先だっての夜襲で、剣を交えた間柄だぞ?」
「あの王子に素顔を晒したわけではないのでしょう?」
確かにあのとき、ハムレットは先王の鎧を纏い、兜を被っていた。
フォーティンブラスには黄金騎士の正体など分からなかっただろう。
「とにかくこの王都ヘルシンゲルから一刻も早く逃げなければなりません」
「分かった、ホレイショウ。そなたに任せよう」
「明日の早朝、北部十州行きの商船が、この近くの二番桟橋から、夜明けと共に出港します。これに乗れるよう、既に話を付けてあります」
「手際が良いな……おまえは」
オフィーリアは感心し、微笑んだ。
日が暮れた。
巨大倉庫の中の隠れ家で、ホレイショウはハムレットの服を脱がせ、包帯を外し、身体中を絹布で丁寧に拭いていた。
甲斐甲斐しく世話をする姿を見て、オフィーリアは声を掛けた。
「なぜ、そこまでしてハムレットに尽くすのだ?」
「先王陛下とハムレット様に誓ったのです。いかなる時も忠誠を尽くすと」
手を止めることなく、ホレイショウはそう答えた。傷口に膏薬を塗り、新しい包帯を巻いている。
「先王陛下はあのような者に斬られ、さぞ御無念だったでしょう。捲土重来……陛下には再び玉座に付いて頂きたいと思っておりました」
「ホレイショウ……」
あの森の木こりの家の前で起こった惨殺事件を思い出し、オフィーリアは陰鬱な気分になった。
「陛下のお命を奪ったあのレアティーズという男を、私は決して許すことはできません。しかもハムレット様を陵辱するなど、まさに獣の所業です。たとえ刺し違えてでもあの男を討つつもりでおります」
一見穏やかそうなこの役人の心中に、激しい憎悪の炎が渦巻くのを、オフィーリア感じた。
「落ち着け」
オフィーリアは倉庫の壁に背を預け、腕組みをした。
「あの狂った兄は私が斬らねばならん。父の仇だからな。とは言っても、今の私では相討ちすら難しいかもしれんが」
ホレイショウはハムレットに服を着せてやると、オフィーリアのほうに向き直り、頭を下げた。
「ポローニアス様のことも、お悔やみ申し上げます。役所勤めの頃、宰相様は東方への留学を私に勧めて下さり、また出立の日には多額の路銀(旅費)まで頂戴しました。感謝の言葉もございません。宰相様は、私にとっても恩人でした」
「力を合わせ、共にあの狂人を討とう。協力してくれ」
オフィーリアが手を差し出すと、ホレイショウはすぐに両手で握り返した。
「もちろんです、オフィーリア様。貴女は亡き宰相様のご令嬢です。これからは、貴女にも忠誠を誓います」
オフィーリアは、ふと壁際で眠る王子を見やった。深い眠りについている。穏やかな寝顔だった。
翌朝、船員が吹くラッパの音と共に、純白の帆が展開した。ハムレット一行を乗せた北部十州行きの商船が、二番桟橋からゆっくりと離れてゆく。
傷だらけの隻腕王子は、船の縁に右手を掛け、遠ざかるヘルシンゲルの王宮を虚ろな目で見ていた。
オフィーリアは、そっと王子のそばに寄り添い、その身体を支えた。
船は、蒼海に白い奇跡を残し、そして水平線の彼方へと消えて行った。
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