倉庫
「よくも、よくも父上を!」
オフィーリアは怒号を上げ、レアティーズを切り掛かろうした。
だがその時、突然カールが横合いから彼女に飛び付き、その華奢な身体を抱きかかえた。そして次の瞬間、老人は窓を突き破り、執務室の外に飛び出した。
中庭に着地しすると、オフィーリアを抱えたまま脱兎の如く駆け始めた。
「今は逃げるのです」
「何を言う! 父上が、父上が殺されたのだぞ!」
カールはオフィーリアを抱えながら、宰相府の壁を飛び越え、林を抜けて城下町に出た。
大雨だった。皆、家に閉じ籠もっている。普段は賑わっている大通りだが、今は人もおらず閑散としている。
鉛色の空の向こうで、未だ雷鳴が轟いている。
老翁は、敬愛する令嬢をそっと地に降ろした。二人とも降りしきる雨の中に立っている。
「カール! 何故だ、何故止めた!」
オフィーリアが言うと、カールは平身低頭して答えた。
「お嬢様、お許し下され。あの者には、とてもかないませぬ。刃向かったところで、殺されるは必定。あれはまるで悪魔のような男です」
「……」
「お嬢様まで失うわけには参りませぬ。貴女様がお嫁に行くまで、この私がお守りすると亡き宰相様に誓ったのです」
「父上……」
父の首が飛ぶ瞬間を、オフィーリアは思い出していた。
いつも冷厳だったが、それでも何かと気遣ってくれる父だった。泣きたい気持ちを必死で堪えた。
「とりあえず、私の隠れ家に参りましょう」
王都ヘンシゲルの中心から少し離れた港町。埠頭の脇にある巨大な倉庫の中に二人は入っていった。ドマコム・アットゾンという貿易商の倉庫だった。
大きな樽や木箱が、ところ狭しと並んでいる。そして倉庫の片隅、木箱が一際高く乱立している場所があり、その裏を回り込んだところに、粗末な寝台が置かれていた。藁で編んだ敷物も敷かれている。巨大倉庫の中の、小さな居住区画だった。
老人は火打ち石を取り出し、燭台に火を灯した。
「私はこれからどうすればよい? カール?」
もはや王都ヘルシンゲルに留まることはできない。何しろ宰相殺害の現場に居合わせたのだ。一刻も早く王都を脱しなければ、たちまちあの狂人に殺されてしまうだろう。自分もハムレットと同様、命を狙われる立場になってしまった。そのことをオフィーリアは痛感していた。
「もはやヘルシンゲルには居られませぬ。逃げる手段を見つけねばなりますまい」
「何か良い考えはあるか?」
「しばし、ここでお待ち下され。これより貴方様のお兄様のところへ行って参ります」
「何を言う、あの狂人を説得するつもりか?」
「いえ、もう一人のほうのお兄様です」
「……!」
オフィーリアは目を見開いた。
「まさかハムレット様が、ポローニアス様とガートルード様の間に生まれたお方とは、この老骨めも存じませんでした」
「事実なのか? その……私の腹違いの兄というのは」
「宰相様が若かりし頃、確かに王妃様と恋仲であった時期がありました」
「しかし、それだけでは」
「いえ、王妃様は決して嘘を仰るような方ではございません。おそらく事実ではないかと」
オフィーリアは憮然として倉庫の床を見つめた。
「ともかく、東の隣国たるスウェーデンに逃げるのがよろしいでしょう。ハムレット殿下はガートルード様の御嫡子であることに変わりはなく、故にスウェーデン王室の高貴なる血も引いておられます。また、先日国賓として招かれたグスタフ公の甥というお立場でもあります。かの国へ行き、事実を話せば、必ずやご助力頂けるはずです」
「王族の地位を利用すれば、スウェーデンに逃げ込むことも、匿ってもらうこともできる、ということか」
「我ら二人だけでは、どうにもなりませぬが、ハムレット殿下のお供ということであれば……」
「しかし、ハムレットをどうやって城から連れ出すつもりだ? まだ傷は癒えておらぬし、何よりあの狂人が目を光らせて、監視しているだろう」
もはやレアティーズを兄と呼ぶ気にはなれなかった。
「殿下の病室には、ホレイショウなる役人が、よく出入りしております。かの者を説得し、協力してもらいまする。宰相府の主計課の者ゆえ、いろいろと顔が利きますし、逃走資金も得られるかと」
ホレイショウ……あの役人は、王子を連れて夜逃げしようと画策している。そのことをオフィーリアはふと思い出していた。
「なるほど、良い考えだ。奴とは利害が一致する。伊達に歳は取っていないな」
絶望的な状況の中、一条の光明が見えてきたような、そんな気がした。
「おまえに任せよう」
「お嬢様はこちらでお休みになっていて下され。食料や衣服など、ありとあらゆる物が、この倉庫には揃っておりますゆえ」
カールは一礼すると、箱の中から剣を取り出し、身支度を整えて倉庫から出ていった。
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