凶行
オフィーリアは、森を出る直前、ふいに周囲に気配を感じて足を止めた。
すると、影の一団二十名と狂人レアティーズが木の上から音もなく降りてきた。
皆、黒装束を着込み、背に双剣を帯びている。
「あらオフィーリア、こんな所で何をしているの?」
「兄上……」
「この森の中に、誰か住んでいるかしら? まさか汗臭い木こり男にでも会いに行ってたの?」
「いえ」
「隠さずに言いなさい、この雌豚」
オフィーリアは迷っていた。言うべきか沈黙すべきか。
「私は、その……」
「裏切りだわ! 父上に対する裏切りだわ! だって居るんでしょ? この森の中にハムレットと先王陛下が! なぜ隠そうとするのかしら?」
レアティーズは突然大声を上げた。
ずらりと居並ぶ黒装束一団の中から、カールが半歩出てきた。
「オフィーリア様、あとは我らにお任せ下され」
「カール……」
「もはやお嬢様は、影の者ではありませぬ。これよりは宰相令嬢として、ご公務に精励すべきお立場。暗殺仕事とは無縁でなければなりませぬ」
「引っ込んでなさいカール。この女、ハムレットに肩入れしているわ」
レアティーズは双剣を抜いた。
「さあ、この雌豚を始末しなさい」
黒装束たちは動かなかった。
「どうしたの? 命令よ、殺しなさい!」
黒装束の一団は、想定外の命令に動揺し、互いに顔を見合わせている。
オフィーリアは素早く飛びずさり、森の中へと逃げ込んだ。枝や樹幹を蹴って宙を舞いながら小屋の方へと向かった。 時々、懐から短剣を数本出し、追っ手に向かって投げつけた。
以前から影の者たちは、この場所を嗅ぎ付けていたのか。それとも私が尾行されていたのか。味方と殺し合わねばならないのか……宰相令嬢は後悔と自責の念に、心揺れていた。
小屋に着くなり、オフィーリアは叫んだ。
「王を連れて逃げろ、ハムレット! 敵が来る!」
自分は何を言っているのか。殺さねばならぬ敵に、自分はいったい何を。
オフィーリアの表情に危急の事態であることを察したのか、ハムレット、先王、ホレイショウの三人は小屋から剣を取り出し、構えた。
「敵は何人だ?」
ハムレットが聞いてきた。
「二十人……私の兄レアティーズを入れて二十一人」
「何故知らせた? おまえも敵の一味だろう?」
「黙れ! 私にも分からぬ!」
黒装束の集団二十人が、木の陰から次々と現れた。皆、黒塗りの刃を一斉に抜き、三人を包囲した。そして、ややあってから、一人の男が木の上から飛び降りてきた。双剣を背負った狂人、レアティーズだった。
「これはこれは国王陛下、お久しぶりでございます」
レアティーズは芝居がかった仕草で慇懃に礼をした。目に狂気の光が満ちている。
「このような森の中で、木こりの真似事でございますか?王城を追われ、こんな粗末な小屋にお住まいとは、本当にお気の毒ですわね、この死に損ない」
「レアティーズ、貴様!」
ハムレットは父が侮辱されたことに憤り、身体を震わせた。
「あら、ハムレット殿下。お元気そうでなによりです」
レアティーズは冷ややかな目で王子を見ていた。
「ハムレット様、お気をつけ下さい。この男、尋常ではありません」
ホレイショウも剣を構えつつ、横目でハムレットを見ながらそう囁いた。
「あら? あなた、どこかで見た顔だと思ったら、いつも宰相府で帳簿と睨めっこをしている下っ端役人じゃない……まさか先王を匿っていたとはね」
ホレイショウは大声を上げた。
「レアティーズ様、狼藉はおやめ下さい! あなたの父、宰相ポローニアスは、王位簒奪を謀った逆賊です。非は、あなたたちにあるのです!」
「はあ? 誰にだって非はあるんじゃないかしら?」
「なんですと?」
「先王陛下も、元は一地方のご領主。でもそんな男が、私兵を募って旗揚げし、武力をもって群雄を倒し、ついにはデンマークを統一して国王になった、そうよね?」
「……」
ホレイショウは言葉を失った。
「国を奪った先王から、玉座を奪う。そんなに悪いことかしら? もし私たちに非があると言うのなら、先王陛下にだって非があるわよね?」
「レアティーズ、貴様の言、確かに間違ってはおらぬ。覇道の本質とは、畢竟、略奪と簒奪である」
先王は低い声で続けた。
「されど予は、臣民を……民草のことを考え、覇道を志したのだ。皆が笑って暮らせる平和な国を作るために。安寧の時をもたらすために。そして、いずれは北欧全土をあまねく征し、英国やローマにも劣らぬ大帝国を築くつもりであった」
先王は剣の切先をレアティーズに向けた。
「貴様の父、ポローニアスに、そのような高邁なる志はあるか?」
「さあ、知らないわ。そんな事どうでもいいの」
「なんだと?」
「私ね、血が見たいの。陛下か苦しんで泣き叫びながら死ぬところを見てみたいの。切り刻んで心臓をえぐり出してさしあげますわ」
「狂人め……老いたりとはいえ、予も乱世を生き抜いてきた。このデンマークを支えてきたのだ。そう簡単にやられはせんぞ」
「まあ、勇ましいですわ陛下。ぞくぞくしちゃう」
レアティーズは不気味な笑みを浮かべた。
先王は剣を構えながら、ホレイショウのそばに寄り、そして耳打ちした。
「ホレイショウ、この囲みを突破出来るか?」
「私ひとりであれば」
「そなたは身軽で足も速い。急ぎ城へと戻り、衛兵どもを呼んで参れ。それまで予とハムレットで、なんとか持ちこたえる」
「そんな、陛下を置いてなど行けません」
「このままでは、皆、殺されるだけだ」
「分かりました。隙を見て城に向かい、助けを呼んで参ります。どうか御武運を……」
「頼むぞ」
「あら、さっきから、何をひそひそと話しているのかしら? まさか、私から逃げられるとでも?」
オフィーリアは、慌ててレアティーズのそばに駆け寄った。
「兄上、お待ち下さい。この者たちは私が……」
言い終える前に、レアティーズはオフィーリアの腹を蹴りつけた。身体が飛んで大木の幹にめり込み、地に倒れ込むオフィーリア。腹を押さえ悶絶している。
「私ね、ずっと前から、あなたのこと大嫌いだったの。ちょうどいいわ、オフィーリア、先に斬り殺してあげる。そして、あなたを殺したのはハムレット……ということにしておくわ。そうすれば、父上も納得するはず」
レアティーズは双剣を構えた。すると黒装束の一団の中から一人の男が飛び出し、オフィーリアの傍らに駆け寄った。カールだった。
「レアティーズ様、おやめ下され。妹君を手に掛けるおつもりですか!」
「しょせんこの女は、父上の愛人の子。はなから妹だなんて思ってないし、なんの躊躇もなく斬り殺せるわ。おまえたちは先王とハムレットを殺しなさい。私はこの小生意気な女を始末してやる」
突然、森の中を照らしていた月光が陰った。雲が出たようだ。あたりが暗闇に包まれる。
「影よ、そなたらは一体誰の影だ?」
ハムレットの声が闇の中から響いてきた。
「この血に飢えたる狂人の影になり果てるのか?」
「ハムレット……」
カールに抱き起こされながら、オフィーリアは周囲の闇の中を見回した。
「影よ、俺は知っている。そなたらが古今無双の勇士であることを。なればこそ今一度問おう! そなたらは一体誰の影だ? このような狂人に付き従うことが、そなたらの栄達につながるのか?」
影の者たちは何も言わなかった。ただ互いの顔を見合わせている。
「俺ならば出来る。我が父ならば出来る。我ら親子だけが、武勇と軍略をもって敵国の鋭鋒を退け、太平の世を築き、民に幸せをもたらすことが出来るのだ。影の者よ! 我ら親子と共に歩もうではないか!そなたらが、自身の幸福と栄達を望むのであれば!」
影の者たちは素早く木の影に隠れ、闇に溶けるように身を潜めた。どうすべきか迷っている様子だった。
「何をしている! あの小うるさい王子を殺しなさい!」
レアティーズは叱咤したが、影たちは動こうとしない。
「なに惑わされてるのよ! この馬鹿どもが!」
狂人の怒号がこだまし、同時に闇の中から剣が打ち交わされる音が聞こえてきた。焦れたレアティーズが、王子に仕掛けたようだ。
漆黒の中を無数の剣閃が走る。光が交錯して火花が散るたびに、ハムレットとレアティーズの姿が、闇の中に一瞬浮かび上がる。それが幾度も続いた。
やがて雲が流れた。月下、斬り合う二人の姿がはっきりと見えた。先王、オフィーリア、影の者たち、皆が、この二人の剣士の戦いを見つめていた。
オフィーリアは自身の目を疑った。あのハムレットが苦戦しているのだ。ハムレットの斬撃の速度、精度は比類無きものであった。この王子に勝る者などデンマークには居ないとさえ思っていた。
刃が打ち交わされる。澄んだ音が林の中に響きわたる。
レアティーズ……この狂人から放たれる双剣は、信じられないほどに速く、強く、正確だった。防戦一方のハムレットは満身創痍となり、かなり血を失い、眼光が濁っていく。それとは対照的に、レアティーズは余裕の笑みを浮かべ、斬撃を放ち続けていた。やがて双剣の一本が、ハムレットの左腕を捉え、切断した。
肘から下を失った王子は痛みに呻きながら倒れた。剣を落とし、右腕で左脇を押さえ止血している。
「あらあら、痛かった? ごめんなさいね」
レアティーズは、苦悶する隻腕王子を見下ろし、哄笑した。
「すぐには殺さないわ、残った手足も切り落としてあげる」
「おのれ、よくも!」
先王は怒号を上げ、双剣の男に斬り掛かった。それを横目で見ながらレアティーズは溜息を付いた。
「邪魔しないでちょうだい、この死に損ない」
双剣が光った。刹那、レアティーズの身体が消え、周囲に無数の剣閃が走った。
先王の首は斬り飛ばされ、巨躯は四散するように割れていった。どのように剣を振るったのかオフィーリアには全く見えなかった。
レアティーズが再び姿を現した。先王の生首を拾い上げ、冷笑していた。切り口が、驚くほど滑らかだった。
「父上、父上……」
うつろな目で、ハムレットは呻いた。
レアティーズは、倒れている王子のそばに寄り、かがみ込んで、眼前に生首を突きつけた。
「ごらんなさい殿下、これがあなたのお父様ですよ」
白目を剥き、口はだらしなく開いている。凄まじい形相だった。ハムレットは涙を流しながら父の首を見ていた。
「悲しみと絶望に彩られたあなたの顔、とても素敵よ」
レアティーズは立ち上がり、生首を放り出した。そしてハムレットの腹を蹴り、左腕の切断面を踏みつけた。絶叫するハムレット。その苦痛に満ちた声を聞いたレアティーズは身を震わせた。
「ああ、素敵、なんて素敵な歌声なのかしら、もっと聞かせてちょうだい」
そう言いながら執拗に傷口を踏みつける。王子の絶叫が森の中に響く。
狂人は双剣を地に突き立てると、息を荒げながら、ハムレットの服を乱暴に剥ぎ取り、自らも黒装束を脱いだ。
「殺す前に、たっぷりと可愛がってあげる」
衆人環視の中、レアティーズは血塗れのハムレットを強姦しはじめた。人倫に悖る鬼畜の所業ではあるが、そもそもハムレットは暗殺の対象ゆえに、影の者たちも、ただ黙って見ていた。
「いいわぁ、あなた最高。街の娼婦なんかよりずっといいわ」
恍惚とした表情でレアティーズは快楽を貪った。オフィーリア、カール、そして影の者たちも、狂人のあまりの凶行に目を背けた。
突然、周囲の林間に、松明の赤々とした光がたくさん現れた。ゆらゆらと揺曳しながら、近付いてくる。城の衛兵たちだった。みな長槍を携えている。隙を見て逃げ出したホレイショウが、城から衛兵を引き連れて戻ってきたようだ。
レアティーズは衛兵たちがやってくるのを見て舌打ちし、慌てて黒装束を纏った。そしてハムレットを仕止めようと剣を振り上げた。それを見たオフィーリアは慌てて黒剣を抜き、地を蹴ってレアティーズに飛び掛かった。数合打ち交わしたところで互いに飛び退き、
間合いを取った。
「どうして邪魔するのよ、この雌豚!」
兄は怒りを滲ませ、妹を睨んだ。
「いたぞ、夜盗どもだ! ハムレット様をお助けしろ!」
ホレイショウの声。数え切れない程の松明の数だった。かなり大勢の衛兵を呼んできたようだ。
「まずいわね、引き揚げるわよ!」
レアティーズは影の者たちに撤退の指示を出すと、転がっていた先王の首級を拾い、小脇に抱えた。そして凄まじい眼光でオフィーリアを睨んでから、狂人は森の奥へと消えて行った。周囲に居た影の者たちも、次々と闇の中に姿をくらましてゆく。
やがてホレイショウがたくさんの衛兵を従えてやってきた。松明の光が集まり、周囲が明るくなる。
オフィーリアは王子のそばに駆け寄った。
「ハムレット、しっかりしろ」
犯されたハムレットは、涙を流し、虚ろな目で地面を見ていた。左腕を失い、強姦された哀れな姿に、オフィーリアの心は激しく乱れた。
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