ささやかな幸福
数日後の夕刻、オフィーリアは城下街の市場を歩いていた。
大通りには煌々とした灯りに照らされ、酒場からは陽気な音楽や嬌声が聞こえる。屋台が立ち並び、その軒先には様々な果物や野菜などが所狭しと陳列され、石造りの町並みに彩りを与えていた。多くの人々が行き交い、活気にあふれている。
そんな人混みの中で、ふと見慣れた人物が歩いているのをオフィーリアは見つけた。黒衣をまとい、腰には東方伝来の剣を帯びている。ハムレットだった。
オフィーリアは建物の影に潜みながら王子を尾行し、その行動を観察した。
ハムレットは、教会の隣にある孤児院に入り、修道女に麻布の袋を渡していた。中には金貨でも入っているのだろうか。王子が去ったあと、オフィーリアは修道女に声をかけた。
「すみません、先ほどの男は何者ですか?」
「テオ・ダナトという方です。なんでも闘技場で剣闘士をなさっているとか。試合で得た賞金を、いつも孤児院に寄付して下さるのです」
「テオ・ダナト……そうですか」
古代ペルシャの民話に出てくる、虎の顔をした闘士の名前だった。どうやら身分を偽って城外に出ているようだ。何故こんなことをしているのかオフィーリアには分からなかった。
王子は再び市場に戻り、商人たちと親しげに話しながら野菜や肉、魚などを買い込んでいた。柔和な笑みを浮かべ、売り子たちと談笑している。
とても王族とは思えない。市井の人間と、何ら変わりなかった。心の中で何かがざわめくのをオフィーリアは感じた。
ハムレットは、両手にいっぱいの食料を抱え、城下町の外れのほうへ向かって歩き始めた。後を追うと、王子は深い森の中に入った。見つからないようを尾行しながら奥へと進むと、木こりが住んでいそうな粗末な小屋の前に着いた。
一瞬、オフィーリアは我が目を疑った。小屋の前には、ハムレットと、そして先王がいたのだ。
巨躯に包帯が巻かれている。まだ傷は癒えてはいないのだろう。その傍らに、斧をふるい薪を割っている青年が一人いる。宰相府の役人ホレイショウだった。
ハムレットは買い集めた食料を小屋の中に運び入れていた。
オフィーリアは木の陰からしばらく様子を覗いていた。小屋の外で焚き火にあたりながら肉や魚を焼いている。楽しそうに談笑する父子と青年。穏やかで暖かな空気に包まれている。
ふとオフィーリアは子供の頃を思い出していた。
父の愛人の腹から生まれた子で、幼い頃から、暗殺者として育てられ、団らんとは無縁の血生臭い世界で生きてきた。
母は夭逝し、父はいつも冷厳で、親子というより主従に近い関係であった。暖かな家庭生活など望めるはずもなく、つねに薄暗い人生を送ってきた。
そんなオフィーリアは今のハムレットたちの姿を羨望の眼差しで見ていた。
玉座を奪われ、森の中の寒家に逼塞を余儀なくされた先王。そして、新王から厭われ冷遇される王子、ハムレット。悲運なる身の上ながらも、ささやかな幸せを、この森の中に見い出したのか。
否、この者たちは敵である。捲土重来のため、先王と共に英気を養っているのだ。
父の覇道を阻む者は、斬らねばならない。父ポローニアスは、理想のため、デンマークという国をより強固にするため、簒奪を企て新王の玉座の裏で権勢を振るう立場になったのだ。ゆえに新王を生かしておく訳にはいかない。排除せねばならない。
そのことをオフィーリアは十分に理解していた。だが身体は動かなかった。剣の柄に、手をかける気さえ起こらなかった。
こうして見ていると、本当に、ただの木こりの親子にしか見えない。こんなにも幸せそうにしている。この暖かな営みを壊しても良いのだろうか。
敵ならば斬れる。悪党ならば何のためらいもなく斬れる。殺意を持った相手ならば。武器を持った相手ならば。しかし今目の前にいるのは、どこにでもいる、ただの庶民の親子でしかない。
冷徹な暗殺者としての自分と、もう一人の自分が、心の中でせめぎ合っている。少し前までは、こんな感情は決して起こらなかった。
結局、オフィーリアは何も手出し出来ず、その場を去った。殺気も音も発せず、ただ静かに去っていった。
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