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 ソファに沈み込んだ僕は、怒りに任せて不動産情報誌を投げ飛ばした。何かがぶつかって、床で陶器の割れる音がした。この方向はコーヒーのマグカップだ。僕は頭を抱えた。さっき新しく淹れたばかりだった。

 ぶちまけられたコーヒーを雑巾で吸い取る。床とシンクを往復しながら、自分のバカさにめまいがする。

 たった二千ドル――二千ドルぽっちじゃ、何もできやしない。事務所を移転しようにも、引っ越しをして最初の家賃を払って、それでおしまい。ジャケットやソファだけ変えたところで、僕のこの状況は何も変わらない。

 僕はバカだ。この二週間、片方の天秤にありもしない夢を乗せて、反対側に妻の愛情。割れたマグをゴミ箱に投げ入れ、床に薄く残ったコーヒーの染みをぼんやり眺める。僕の頭の中にも、同じような染みが広がり、意識が遠のいていく。

 そうだ。報酬を釣り上げてやればいいんだ。

 裏口の血痕を見せてもいい。妻の調査を始めてから、何者かからの嫌がらせが始まったと、割に合わないと言ってやれば。

「何を一人でぶつぶつ言っているんだ」

 Nが扉を開けて立っていた。どうして――。

 それより、今の話、聞かれていた――いや、僕はそんなにはっきりと独り言をいう質じゃない。

「いきなり開けることないでしょう」

「チャイムは鳴らしたんですがね。聞こえないほど慌てていたんでしょう、その床」

「ああ、そう。そうなんだ。コーヒーの入ったカップを落としてしまって」

 腕に掛けている外套をソファに置くと、僕の答えを聞いているのかはっきりしない様子で、Nは腰を下ろした。確かに、今日は日差しが強く、外套を着るにはいささか暑い。

「さて、どうです」

 相変わらず、たった一言で部屋を凍り付かせる口調だ。だが、今日の僕にはやり遂げなくてはならないミッションがある。

「それが、ですね。ちょっと困ったことになりまして」

 Nが背筋を伸ばして目を細めた。それだけで喉元にナイフを突きつけられたような殺気を感じる。背中を冷たいものが伝い落ちていく。両手を上げて、服従を示す。平常心を保つんだ。

「いえいえいえ。何もミスを犯したわけじゃありません」

 Nは再び背中をもたせ掛けた。値踏みするような視線で僕の説明を促す。僕は机の下で拳を握る。やってやる。騙しとおしてやる。

「この件がどう影響しているのかは分からないんですが、数日前から無言電話のようなものが、度々かかってくるようになりまして」

「無言電話、の、ようなもの――何だ、それは」

「いやいや、無言電話、です。無言電話。電話に出ても、誰も何の返事もしない、あれです」

 Nの目がまっすぐに僕の目を捕らえる。脳の後ろの方が痺れてくる。目を逸らしたいが、そういうわけにはいかない。そうだ。怯えているふりをすればいい。Nに怯えてるんじゃなくて、別の何かを恐れているふうを装うんだ。

「おとといはもっとひどいことが。僕はある野良猫を世話していたんですが、その猫が何者かに殺されまして。事務所の裏口には、まだその時の血痕やら肉片やらが残ってます。多分、尋常なことじゃないと思うんです。この女、何者なんですか」

 だめだ、余計なことまで口走っている。言葉を切って、反応を見る。Nが唇を湿らせる。これまでにない仕草だ。Nは何かを語ろうとしている。

「そういうことなら仕方がない。この件はここまでということで。残念です」

「ちょっと、そういうことじゃなくて」

「どういうことです」

 だめだ。引き延ばせば引き延ばすほどボロが出る。ここは、目的を明確にしてしまった方が早い。

「二千ドルじゃ割に合わない、って言ってるんです」

「ほう。そう言うからには、何か色のいい報告が今日はできるということですね」

「写真、を、手に入れました」

 握りしめた手を開く。ひどく汗ばんでいて気持ちが悪い。

 完全に誘導された。

 いや、写真は用意してあるんだ。ただ、僕の中で決断がつかなかっただけのこと。ここまできたら、この写真を使って釣り上げられるだけ釣り上げてやる。

「彼女の失踪後の写真です。おそらく、これは他のルートからは決して手に入らない」

 なんでそんなことが言えるのか、なんてこと、言ってくるなよ。

「そうでしょうね」

 どういう意味だ。しかし、それを追求することは、僕自身の首を絞めることになる。

「早く写真を」

 ソファから立ち上がると、固まった膝の骨が鳴った。コーヒーの染みの上をふらつきながら、スチールラックにたどり着く。ファイルの間に挟んだ封筒に指を掛ける。本当にいいのか。背後を振り返りそうになるが首に力を入れて踏みとどまった。後戻りはできない。指先に力を入れて、封筒を引っ張り出した。

「確認してください」

 テーブルの上に封筒を置き、Nが中から写真を取り出すのを立ったまま見つめる。一枚、二枚、三枚――Nの表情は動かない。コーヒーの染みを靴で擦っていると、ゴミ箱の中の割れたマグが視界の隅に入った。

「どういうことです、この写真は」

 Nが三枚の写真を、僕の方に向けて並べた。外の写真が二枚と、あとは室内の写真。店の看板や標識のような、それがどこか分かるようなものは、何一つ写り込んでいない。ただ壁があり、その前で妻がポーズをとっている写真だ。

「どこに彼女がいる。何かの冗談か――いや、まさか」

 この男は何を言っているんだ。はっきり、こんなにもはっきり――。

 写真を一枚掴み、その姿を凝視していると、妻の体が靄のように揺らぎ、壁の中に吸い込まれた。後には、壁一面に広がった巨大な染みだけが残されている。机の上の二枚も、同じように、壁に広がった染みしか見えない。さっきまでいたはずの妻がどこにもいない。

 Nが立ち上がり、確信めいた表情で僕に近づいてくる。

「やはりお前が」

 僕はスチールラックを引き倒すと、裏通りへと飛び出した。


 初めてのエミリーの唇は、ただ柔らかかったという印象しか残っていない。それは、彼女に対する愛情がまだなかったからでもあるし、その日が少女の葬儀の日だったからでもある。墓地に向かう葬列の中、うつむきながら歩いていた僕を、エミリーは脇にある森に引きずり込んだ。僕が少女のことを好きで、それでショックを受けているのだと思ったらしい。

 半分正解、半分はずれ。

 エミリーの唇が何度も何度もついたり離れたりするのを他人事のように感じながら、僕自身の意識は、腹の中に広がる熱くてドロドロした液体に溺れる感覚に、恍惚としていた。自分自身が、池の中の薄暗い影になって、溶けて広がって、それでも消えずにそこに留まり続ける。僕の体はそうやって、その少女と一つになっていた。

「どうしたの。笑ってるの」

 エミリーの顔に初夏の木漏れ日が揺れる。強く刻み付けられた影の中で、その暗さよりも一層黒い瞳が、静かに震えているのが見える。肩に手を置くと、体が強張っている。怯えているのが、ワンピースの薄い布の上から感じられる。

「笑ってないよ」

「笑ってる。どうして」

「君が好きなんだ」

 その時、僕の目の前にいたのが誰なのか、正直なところ、よく覚えていない。僕は何度もその言葉を使った。相手を「好き」だということを伝えるためじゃなく、僕の「好き」を守るために。


 指先が血まみれだ。爪が剥がれてしまっている。だが、痛みは感じない。妻に会える喜びを思えば、どんな苦しさもつらさも、食前酒代わりになる。

 壁紙を剥ぎ取ると、大きな板があらわになる。壁に埋め込まれた板には、聖骸布を思わせる染みが広がっている。僕は裸になって、そこに体をぴたりと合わせた。眠っている妻の吐息を感じる。妻の肌の温かさが、僕の恐怖に冷え固まった心を溶かしてくれる。

 Nの視線を思い出す。あの、人を疑うことしか知らないまなざしを、僕はよく知っている。

 板に広がった妻の命のすべてが、僕のすべてを包み込んでくれる。ずっと一緒だ。これまでも、これからも。僕はまたここから逃げなくてはならない。あの、僕たちの仲を引き裂こうとする悪しき者たちの手から逃れるために。

 板を外し、床に寝かせる。僕は彼女を抱きしめるようにして横になる。今は、少しだけ。ほんの少しだけ。肌と肌を重ね合わせて、気持ちよく溶け合っていよう。

 遠くでサイレンの音がこだまする。今日も町中で暴力が駆け巡る。子どもや動物や力の弱い者は、すぐにその犠牲になる。僕が彼女を守ったように、彼女も僕を守ってくれる。Nのような者たちの手から守ってくれる。


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