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ホワイトチョコレートでコーティングされたドーナツの中心に向かって、ラズベリーのジャムが流れ落ちていく。食べ物の形状と、食べるための形態が全く合致していない。仕方なく、皿を持ってフォークで掻き込むようにして食らいつく。
妻は既に眠っていた。土産を買って帰った時に限って、こうだ。目の前の袋にはもう一つ、同じ商品が入っている。紙袋に描かれたキャラクターは、アニメーションによく出てくる虫歯菌を思わせる。ドーナツ自体の甘さにホワイトチョコのまとわりつくような甘さが加わり、酸味が極限まで抑えられて砂糖の塊になったジャムが絡みついているその味にはぴったりのキャラだ。紙袋を掴み、そのままゴミ箱に投げ捨てようとして、思いとどまる。立ち上がって冷蔵庫を開けるが、中には食べられそうなものが何もない。食卓に戻り、皿の上にもう一つのドーナツを開け、フォークでチョコレートを丁寧に剥がした。
目を閉じると、壁の向こうの妻の寝息が聞こえてくる。規則正しく、安心を絵にかいたような呼吸音。上下する妻の胸を思い浮かべると、僕は思わず息を飲んでしまう。
フォークに力を入れて、ドーナツを切る。柔らかく沈んだ生地の表面が、ある瞬間、金属の侵入を許し、その先はもう抵抗する力もなく、真っ二つに切り裂かれる。皿の上に散らばるホワイトチョコレートは、白バラの花びらのようだ。もう一度、フォークを差し入れ、一口大に切り分けたドーナツの欠片を、僕は悠々と口元へ運ぶ。
Nのことをもう一度、聞いてみようか。僕がどういうつもりでこの依頼と向き合っているのかを話せば、もう少し僕のことを愛してくれるのではないだろうか。
だが――一抹の不安がよぎる。
顎から耳にかけて、違和感がある。今更、手術痕が痛み出すはずなどないのだ。それでも、僕はこの僕の今の顔が、チョコレートのコーティングのように、いともたやすく剥がれ落ちてしまう想像を離れることができない。ドーナツと一緒に、花びらとなったチョコレートも腹の中に流し込んだ。
やはり、今の生活がよくない。
金だ。金さえあれば、妻を助けることも、僕が助かることも、難なく成し遂げられるだろう。事務所の金庫の中には、僕の未来の半分が入っている。残りの半分は、箱に入れられて拾われるのを待っている猫だ。あとは、猫缶を持って、その猫を迎えに行くだけ。
再び目を閉じて、壁の向こうの吐息を聞く。僕は、僕の安心をその上に重ねた。
いつまで待ってみても、来る気配がない。
というのは、Nではなくぶち猫のことだ。
足元の猫缶には、既にハエがたかっている。足で払いのけると、遠くで浮浪者がよだれを垂らしながらこちらを見ているのに気が付いた。立ちんぼが嘲るような目で、その男のことを見ている。頭の禿げ上がったスーツ姿の小男がその横を走り抜けようとしている。間違えてこの通りに入ってきたらしい。立ちんぼの女が、コートの前をはだけて商品を紹介すると、男の頭が真っ赤に染まって、動きが一瞬にして凍り付いた。足元を見ると、ハエが何十匹にも増えている。足をひっこめた僕は、事務所の裏口まで下がった。生ごみのような臭いまでする。いくら、この裏通りの商店の片隅で、先月までホコリをかぶっていたからといって、缶詰の中身まで古びてしまうとは考えられない。
立ちんぼから逃げてきた男が、こちらを指差して何か叫んだ。振り返ると、壁がひどく汚れている。途端に腐臭が霧のように僕の周囲を覆った。後じさり、足元を見ると、ひどく汚れたぼろぎれが捨てられている。どうやら、この臭気の元らしい。男がまだ何か叫んでいる。
「黙れ」
睨み付ける僕を無視して、男は僕の右手を指差している。そこには、さっきまで餌の乗っていた灰皿が握られていて、ところどころに猫缶に入っていた肉がこびりついている。男の表情が怒りと恐怖を行き来し、唇の端に泡を溜めながら口を動かしているが、何をしたいのかまるで分らない。しまいに、胸元から電話を取り出すと、誰かに連絡し出したので、足元に灰皿を投げつけた。飛び上がった男は泣きそうな顔で電話を握りしめ、闇の深い方へと走り去った。
灰皿を拾い上げる。地面にぶつかった場所がわずかに擦れているだけで、ヒビの一つも入っていない。壁を振り返ると、ペンキを含ませた巨大な筆を何度も叩きつけたような模様が広がっている。僕の顔の高さの辺りが一番ひどく、執拗に重ねられたペンキはまだ乾いておらず、何条もの筋がゆっくり下向きに引きずられている。粘り気のあるペンキの流れをよく見ていると、ところどころに灰皿に残っているのとよく似た肉片が、筆から抜けた毛と一緒にこびりついているのが分かる。
不意に通りを車が走り抜け、ライトに照らし出されたペンキの赤黒い色に、僕は一瞬ですべてを理解した。
地面に転がったぼろぎれをよく見ると、あの黒いぶちとその中心で見開かれたままになっている濁った瞳がはっきり見える。何度も叩きつけられたのは筆じゃなかった。体の奥からこみ上げる塊を、無理やり腹の底に押し戻す。電話を取り出し、対処をお願いする。仕事がら、誰から恨みを買うかわからない。こういうことは専門家に任せるに限る。
暗がりに身を潜めた立ちんぼが、この間のとら猫を抱いているのが見える。四つの目が僕の行動を咎めている。この僕にどうしろというのだ。この町で、僕は圧倒的に無力だ。僕にできるのは、僕のこの生活を守ることだけ。せいぜい、その生活の縁にやってくる旅人に、食事と寝床を与えることぐらいだ。
僕は灰皿を壁一面に広がった血痕に向かって投げつけた。ガラスの割れる小気味よい音に、女の悲鳴が重なった。
僕が一人で病院に行ったのは、クラスメイトと見舞いに行ってから一か月後のことだった。彼らは、その後も何度か少女の元を訪れていたようだったが、僕は、あの時僕に向けられた少女のまなざしにすっかり参ってしまっていて、クラスメイトの前でこれ以上醜態をさらすことを思うと、とてもみんなと見舞いに行く気にはなれなかった。それは、リックがしつこく僕たちのことを茶化していたからでもある。ことあるごとに「騎士様」「騎士様」と繰り返す彼の口ぶりに悪意はなかったが、それだけに強い口調で咎める気にもなれなかったのだ。
そのせいだろうか、僕は多分、ひどく勘違いしてしまっていた。僕と少女の本来の関係を、すっかり忘れてしまっていた。
その日は朝からうす曇りで、放課後のスポーツ活動のことをみんな心配していたが、そもそも、まだ足の治っていない僕には関係のないことだった。だから、授業が終わった後の薄暗い校庭に子どもたちがわらわらと集まる様を教室から見ているだけの僕には何のプランもなかった。
「行ってきたら」
背後から声を掛けてきたのはエミリーだった。
「みんなと行くのは嫌なんでしょ。だったら今日はチャンスなんじゃない。こないだ私たちが行った時、彼女、君がいないことを気にしてたみたいだから」
それだけ言って、エミリーは背中を僕に向けた。
「今なら、リックのバカもサッカーに夢中で、君が帰ったことにも気づかないよ」
僕はありがとうと言って、エミリーの背後に立った。エミリーが急に振り返り、ポニーテールが僕の頬を打った。初夏の林の匂いがした。
「べつに、お礼言われることなんて、何もないんだから」
僕がエミリーの気持ちに気づくのはまだ先のことだが、この時のことはよく覚えている。赤く染まった頬を見て、ただ触りたいと思った。手を伸ばそうとすると、エミリーは再び背を向けて、教室から走り去ってしまった。
バスに揺られながら、僕の頭の中では、車いすで散歩する少女の姿とエミリーの頬が二重写しになっていた。窓の外に病院が見えてくる。初夏の熱気の中で緑に染まった葉叢は、雲に覆われた弱い日差しの下でも、十分に輝いて見えた。
運転手に頭を下げてバスを後にすると、池から離れていく少女の姿が見えた。後ろには母親だろうか、私服の女性が付き添っている。病室ではなく外で話がしたいと思っていた僕は小走りに少女の元に向かった。しかし、車いすは病院の正面玄関をくぐることなく、そのまま建物の脇を進んでいく。付き添っていた女性の姿はない。興味を抱いた僕は足取りを緩め、自然なそぶりを装って近くの木に身を寄せた。病棟の裏に回る少女から距離を取りながら後に続く。建物に日差しが遮られていて、肩が冷える。両手を回して腕をさすっていると、少女の姿が不意に消えた。慌てた僕は足取りを速める。病院の裏手もまた小さな庭になっているようだが、人があまり寄り付かないのか、植物の手入れが十分でないように見える。花壇には雑草がはびこり、ベンチにはツタが絡んでいる。遊歩道は半分以上草に埋もれていて、その先に見える林の木々は鬱蒼としている。
ここには、あまりにも、命が溢れすぎている。
そう感じたとたん、表の手入れされた庭の姿が、院内着にくるまれた病人たちの姿に重なった。おとなしく、医者に切り裂かれるがままになっている命。少女はそこから逃げ出したのだ。この小道の先にいるに違いない。僕は道を外れ、林の中を進んでいった。日差しを遮る木々に空気は冷える一方だったが、むせかえるような植物の臭いは体の芯を熱くした。
しばらくすると、水の音が聞こえてきた。池に流れ込む小川の音だ。そこに、何かが投げ込まれる音が重なる。間断なく、いくつもいくつも。
這いつくばって林の切れ目まで進むと、車いすから降りた少女が、足元の石を投げ込んでいた。ゆがんだ唇が、僕の名前を呼んでいる。たったひとつの言葉と一緒に。
「おまえがしね」
「おまえがしね」
「おまえがしね」
「おまえがしね」
水面に広がる波紋が、どす黒い染みとなって僕のはらわたに広がっていく。強い命の臭いが、大地から立ち上ってきて、僕は息が荒くなっている。空が一気に暗くなってきた。雨が降れば、何もかもを洗い流していくだろう。僕は立ち上がって両手を空に掲げた。
そして、音と声が途切れた。