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 Nが再訪するまでの一週間、僕は妻の情報を差し出すか悩み続けた。Nが何者か調べるためには、妻の過去を探らねばならず、それ自体が妻に対する背信行為だという気がした。結果、飲む気にもならないコーヒーの臭いを嗅ぎながら、スチールラックのほこりを払い続ける日々を過ごした。

 その日はまた雨だった。窓に打ち付ける雨音は昼になるまで激しくなる一方で、こんなにひどい雨でもNは来るのだろうか、と希望とも懸念ともつかない考えをもてあそんでいると、雨音の隙間を縫ってインターフォンの音が響いた。

「どうです」

 雨のわりにさほど濡れていない外套を脱いでソファに深く腰掛けると、Nは腕と足を組んだ。曖昧な返事をした僕は、背中を向けてコーヒーを淹れる。Nは無言だ。しかし、その視線は僕の首筋を粟立たせた。

「砂糖とか、いりますか」

 たまらず振り返った僕は、どうでもいい話でごまかそうとしたが、Nの無表情に阻まれた。いや、それを無表情なんていう言葉で片づけていいものだろうか。僕を責めるわけでもなく、かといって静かにコーヒーを待つでもなく、まるで死体のような表情の無さだ。部屋の温度が五度くらい下がった気がする。僕はくたびれきったジャケットに袖を通し、コーヒーの温かさにすがりながら、ソファに腰を下ろした。

「どうです」

 Nはさっきと同じ言葉を拳銃でも突き付けるように繰り返した。この男は危険だと直観しながらも、妻を差し出して逃げ出してしまえという声が耳から離れない。

「いや、ちょっと待ってください。写真と名前だけで、すぐに見つかるはずは……」

「どうです」

 Nはこの拳銃で脅せば十分だと思っているらしい。残念ながら、それは当たっていた。

「調査していないわけじゃないんだ。通っていた大学と、その後の就職先までは分かった」

 Nはコーヒーを一口すすり、あからさまに顔をゆがめた。うまいコーヒーを用意しておけばよかった。

「今から十年以上前の情報だ。これだけでも評価してもらわないと」

 僕もコーヒーをすするが、熱い液体が一気に流れ込んできて、咳き込んだ。

「就職して三年経ったところで、急に足取りが途絶えるんだ。もう少し時間をくれないと」

「そうですか」

 Nが突き付けていた拳銃は胸に仕舞われたが、部屋に満ちた緊迫感はまるで薄れることがない。熱湯に焼け付く喉をさすりながら、必死で呼吸を整えようとした。

「何か、隠しているのか。――その慌てよう」

 Nの視線に既視感を覚えながら、もしかしたら妻と僕、共通の知り合いかもしれないという可能性にたどり着く。Nは、僕に気づくはずがない。そんなことは不可能だ。知らぬ間に目尻から口元を触ってしまう。傷痕は残っていない。それに見合う代金を支払ったのだ。

「何も隠すはずがないでしょう。それより、成功報酬のことは忘れてませんよね」

「金しか信頼しない人間のことを、私は誰より信頼しています。来週、また来ますよ」

 Nの去った部屋で僕は、金庫に仕舞ってある千ドルを取り出した。五十人のジャクソン大統領の存在を確かめながら、冷めたコーヒーの酸味に現実感を求めた。


 日が暮れるのを待って裏口を開けると、ぶち猫は恨めしそうな顔で右目を向けた。暗がりで黒い模様の割れ目から覗く猫の目は気味が悪く、慌てて餌の山盛りになった灰皿を地面に置いた。猫はふてぶてしく鼻を鳴らすと、夕飯に取り掛かった。その中に毒が入っていたら、こいつはどんな顔で死ぬのだろう、と考えた瞬間、ぶち猫が僕の顔を正面から見据えた。夜なのに瞳孔が細く絞られている。爪がコンクリートの床を掴み、今にも飛びかからんばかりだ。

「悪かった。僕は、決して君に危害を加えない。誓うよ」

 手を挙げて降伏を示すと、猫は再び餌に鼻面を突っ込んだ。通りの向こうでいつもの立ちんぼが、身なりの良さそうな白人の手を引いてビルの中に消えた。遠くで車のクラッシュする音が聞こえ、猫が一瞬顔を上げたが、僕と同じく、音のした方を見ようともしない。怒鳴り声にガラスを叩き割る音、殴られた女の悲鳴に車のクラクション、気にすれば色々な音が入り込んでくる。僕は自分のジャケットを見る。

「新調しようか」

 ぶち猫にとっては、僕の存在も雑音の一つに過ぎない。それなら、僕にとってこいつは何なのだろう。

 その時、猫が餌から顔を上げて背後を振り向いた。瞳孔が丸く大きく広がり、愛嬌のある顔になっている。見ると、一匹の薄汚れたとら猫が歩いている。野良だと思われるが、気位が高そうに顎を上げて歩く様子は、高級娼婦を思わせた。ぶち猫の方を見ると、ネオンに引きずられる労働者みたいに、ふらふらと近寄っていく。声を掛けたが、耳にも入っていないようだ。とら猫の方はと言えば、ぶちがついてくることを確信してか、こちらには見向きもせず、しかし、ぶちがすぐに追いつけるように鷹揚な足取りで通りの向こうへ消えていく。

 まだ半分以上残っている餌の乗った灰皿を片付けようとすると、ぼろをまとった浮浪者が声を掛けてきた。毒入りでよければ、と笑顔で差し出すと、四文字言葉で僕を罵倒し、ゴミのような風景に紛れ込んだ。

 こんな場所に事務所を構えていて、今の生活が変わるとは思えない。これまでにこなした依頼は決して多くはなかったが、どれもこれも、この街並みにふさわしくろくでもない事件ばかりだった。せめてもう二区画、中心街に近づくことができれば。そのためには、それなりにまとまった額の投資が必要なわけだが、二千ドルはそれに十分な金額だと思えた。治安のいい場所で、地味でも安全な仕事を請け負うようにすれば、妻に仕事を手伝ってもらうこともできる。仮にNが妻にとって危険人物だったとしても、常に僕と一緒にいられるなら大丈夫だ。

 騒音ばかりの裏通りを眺めながら、気づけばぶち猫の健闘を祈っている僕がいた。

 僕も僕の戦いをする。


 入院中の姫君に見舞いの花束を、なんてことを言いだしたのは、クラスメイトの誰だったろうか。お調子者のリックか、夢見がちなアレンか、それとも傷ついた姫君を見下したい女子たちだったか。ただ、はっきり思い出せたのは、クラス委員だったエイミーから「ちゃんと謝った方がいいよ」と言われたことで、僕自身がこの謁見式に参列するのを決めたということだ。大人になった僕は、こういう場合、当事者同士が顔を合わせることが必ずしもいい結果を生むとは限らないということを知ってしまっているわけだが、子ども同士にはそういう先回りした配慮は存在しない。

 少女と再会するのは、正直なところ恐ろしかった。僕自身も右足をひどく痛めていて、飛んだり走ったりといった激しい運動はまだ禁じられていた。僕ですらそうなのだ。少女にどんな傷を負わせてしまったのかという想像は、自分の負った怪我以上に、僕自身を傷つけた。

 病院まではバスを乗り継いで行った。十人余りの大所帯に、運転手が楽しそうに声を掛けてきた。僕は一番後ろの席に座って、ずっと窓の外を見ていた。農場ばかりで何もない町。何の価値もない町。遠くの山に、雲が黒々とのしかかっている。どうして僕は無事で、彼女が入院しているのだろう。事故以来、胸を離れたことのない疑問は、悪路を行くバスの揺れに触発されたように膨れ上がり、仕舞いに拳銃の形になって僕の心臓に突き付けられた。命乞いの言葉も浮かばなかった。

 やがて、僕たちの近所では見かけないような真っ白い家並みと、そのはるか先に病院の巨大な影が現れた。男子たちはその威容に溜め息を漏らし、少女に対する憧れをさらに強めた。僕の隣にやってきたエイミーが僕を心配してくれたが、そもそもお前のせいで僕はこんなに苦しんでいるんだ、と筋の通らない怒りで、恐怖を塗りつぶそうとした。

 バス停は病院のすぐ目の前だった。運転手とハイタッチで別れたリックが大騒ぎするのをなだめながらも、僕たちはその巨大で美しい病院に圧倒された。レンガをあしらったツートンカラーの病棟は、僕の知っている薬と死の臭いが染みついた病院とは全く別物だった。広い庭があり、池があり、車いすで散歩する人たちは、ケガをしているにもかかわらず、みんなが幸せそうに見えた。

 そんな中に、彼女はいた。後ろにいる看護師と笑顔を交わしながら、池のほとりを車いすでゆっくり進んでいく。顔は以前より痩せたように見えるが、大人びた表所は変わらない。男子たちが駆け出し、リックが手を振る。後に続く女子からは張り詰めた空気が消えていて、やり取りされる言葉も優しいものに変わっていた。みんな、彼女が好きなのだ。

 エイミーが止まったままの僕の背中を押す。少女の周りでは、たった一日しか一緒に過ごしていないクラスメイトに対する自己紹介が始まったらしく、かわるがわる特技や好きなものが披露されていく。五番目に少女の前に立ったアレンは、僕の方を指さした。うつむいた僕の手をエイミーが引き、僕の体は被害者の前に引っ張り出された。自分の体じゃないみたいに、膝が震えてしょうがない。

 車いすに座る少女の足は細くて白かった。淡いピンクの院内着に隠れて、足首から上は見えないが、その中の肉体の自由はこの僕が奪ったのだ。

「ごめんなさい。……本当にごめんなさい」

 誰も口を開かない。風が草を揺らし、少女の長い髪が視界に入る。背中を叩かれて視線を上げると、少女が手を差し伸べている。僕は、中世の騎士のようにその手を取ってひざまずいた。

 クラスメイトが爆笑する中、僕と少女は初めて視線を交わした。

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