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 電気ケトルが湯の沸いたことを知らせる音に、僕は重い首を持ち上げた。軽いファイルを見ながら過ごす毎日にうんざりしながらも、僕は相変わらずまずいコーヒーをすする。探偵にはコーヒーと相場が決まっているから、仕方なくインスタントのコーヒーを飲んでいるが、僕はそもそもコーヒーなんて好きじゃない。開業した時に購入したスチールのラックも、事件のファイルでいっぱいになる予定だった。格好がつかないから、雑誌や新聞を放り込んであるが、単に雑然としただけ。かといって片づける気にもならない。

 昨日の夜から降っていた雨はもうほとんど上がったが、昼食に出るのも億劫だ。隅から隅まで覚えてしまった事件のファイルを棚にしまうと、これもイメージで購入したダークブラウンのソファに寝転がった。と言っても、安物のソファはもちろん合成皮革で、それどころか、座面のスプリングは僕の体重ですら音を上げる。

 コーヒーの湯気が薄らいでいくのを眺めていると、不意に、インターフォンの音が部屋中に鳴り響いた。いや、もちろんそんなに大きな音がするわけじゃない。それでも僕にとって、ひと月ぶりの依頼人の来訪を知らせる音は、天上の音楽そのものだった。

 扉を開くと、僕よりもずっと背の高い、おそらくは一八五センチほどの大柄な男が、外套の肩を少し濡らして立っていた。

「外はまだ雨でしたか。どうぞ、中へ。ソファにおかけになって。コーヒーでも飲みますか」

 無言のままの男は、神妙な様子というより、むしろ殺気立っており、僕は落ち着かない気分になった。電気ケトルの前に逃げた僕は胸の中の息を全て吐き出した。新しい空気が入ってくるとともに、少し冷静さを取り戻した僕は、コーヒーを出しながら男を観察した。探偵たるもの、観察に基づく推理は基本中の基本だ。

「どうぞ。春とはいえ、まだまだ冷えますから」

 男は外套のままソファに腰かけた。肩に残った雨の染みは、彼が朝から出かけていたことを示している。前かがみになった胸元からは、裏地にイタリアの高級ブランドの名前が縫い付けられているのが見える。その下に着ているマイクロチェックのジャケットは細身で、これもまた高級そうな雰囲気だ。シャツは白いが、ボタンに青い花柄の装飾が施されていて、これもどこかのブランド品だろう。その辺の会社員の格好ではない。

「どうぞ、遠慮なく。料金には入りませんから、ご安心を」

 表情は硬いままだが、気分は多少落ち着いたのだろう、先程より肩の力が抜けている。コーヒーを手にすると頬が少し緩んだ。コーヒーの香りには緊張を緩和する作用もある。年齢は三十代後半から四十代――若そうに見えるが、年齢のはっきりしない顔だ。整っている、と言えばいいのだろうか、ギリシャ彫刻のような均整の取れた美しさだ。だから、少年のようにも見えるし、壮年期の男性にも見える。女性からはもてそうだが、彼自身はそういうことに興味がなさそうだ。

「私の顔に何か」

 いけない、じろじろ見つめすぎた。

「いや、僕と同い年くらいかな、と思って。僕は今年、四十になるんですが」

 男の表情に、急に余裕のようなものが生まれた。年上だったか。

「すみませんが、私個人のことについては、何も話さない、という約束でお願いしたいのです」

 差し迫ったような言葉とは裏腹に、男はソファの背に体を預け、大きく体を反らせた。僕を見下ろすような視線に、攻撃的なものを感じる。

「連絡は私からします。名前も……そう、Nとでもお呼びいただければ、それで十分」

「そんな――」

 胸ポケットから封筒を取り出したNは、僕の前にそれを差し出した。

「こう言ってはなんだが、あまり健全な経営状態とは言えなさそうだ。どうでしょう、前金で千、成功報酬としてさらに千、出しましょう。いや、警戒するのはもっともだ。何も犯罪の片棒を担がせようというのじゃありません。さあ、コーヒーでも飲んで、気分を落ち着かせてはいかがです」

 言われて、緊張に表情が強張っていたことに気づいた。こちらが値踏みされている。不愉快だ。だが、警戒するなという方が無理だ。無造作に置かれた茶封筒から、札束が覗いている。二千ドルの仕事――麻薬、誘拐、脅迫、殺し、それとも、犯罪の証拠の隠滅か、ボスの仇敵探しか……。想像もつかない。

「この人を探してほしい」

 Nは胸からもう一つの封筒を取り出した。こちらは白い封筒で、防水加工まで施されている。雨を気にしたのか、それとも大切な写真でも入っているのか。Nはそれを丁寧にローテーブルに置くと、僕の前に差し出した。僕はテーブルの下の棚からペーパーナイフを取り出し、Nが促すままに封を切った。

 封筒から滑り出した写真には、僕の妻が写っていた。


 事務所の鍵を閉めた。Nがいなくなるだけでは、この空気を追い出すには不十分だ。換気扇を回し、コーヒーを入れなおした。

 Nの見下したような視線が頭から離れない。鏡を見ると、僕のジャケットはしわだらけでくたびれきっている。よく見ると、裾は擦り切れ、袖にもほころびがある。ローテーブルの上の千ドルを掴み、扉に投げつけようと振りかぶるが、そんなことできるはずがない。ソファに寝転ぶと、札束を胸の上に置いた。紙幣とは思えない重量感が、ソファごと僕を押しつぶす。

 手を伸ばしてテーブルの上のもう一つの封筒を手に取る。中には写真が三枚。いずれも、カメラ目線の妻が、この数年見たこともない笑顔で写っている。デジカメで撮影したものをプリンターで印刷したのだろう、解像度は高くないが、少なくとも成人はしているだろう。背景は高原、河原、牧場で、どこも僕の知らない場所だ。服装は三枚とも違うものを着ている。妻の好きそうなパステル調のワンピースだが、やはり僕の知らない服だ。

 この笑顔の先に、Nがいたのかもしれない。そう考えると、胸の奥がひりひりと焼け付く。

 おもむろに体を起こすと、札束の封筒が床に落ちた。百科事典でも落としたような重みのある音が、頭の中に成功報酬をちらつかせる。ジャケットもソファも新調できる。妻に贈り物をすれば、僕のことを見直すかもしれない。勢いよく立ち上がり、沈んだままのソファを置き去りにして、流し向かう。ほとんど減っていないコーヒーを捨て、軽くゆすいだ。電気ケトルの中も空にし、スイッチを切る。下の開きから猫のエサの缶詰を取り、封を切る。誰も使わない灰皿に中身を空けた。

 裏口を開けると、車とガラスと、誰かが誰かを怒鳴る騒音が耳を打った。向かいの路地の暗がりの立ちんぼの女が僕をもの欲しそうに見ている。金の臭いに敏感な奴らだ。僕は無視して、足元でふてぶてしく寝そべっているぶち猫の前にしゃがみこんだ。右目から頭にかけて、黒い模様の入った猫だ。餌が山盛りになった灰皿を置く。ガラスの灰皿は、猫が鼻面を突っ込んだぐらいではびくともしない。事務所を開く時にイメージだけで購入したものの中で、この灰皿だけが活躍している。

「Nって何者なんだろうな」

 猫は一心不乱に食べている。毎日、同じように食べる。変わらないのはいいことだ。

「お前が知り合いのメスを探してほしい時って、どんな時だ」

 餌が半分になったところで、ぶち猫は盛大な伸びをした。黒い染みの中の目だけを僕の方に向けて、めんどくさそうに鼻を鳴らす。

――人間様のことなら、お前のほうがよく知ってるはずだろう。


 僕の初恋は、三年生の時のことだ。

 その子は都会からやってきた転校生だった。担任のヨーゼフ先生の後ろから登場した彼女は、現れた瞬間から物語のヒロインだった。スカートはひらひらと妖精が舞うようで、自己紹介の言葉は歌のようだった。その日は一日中、彼女の噂でもちきり。上のクラスからも見物人がたくさん来たし、放課後には告白しようっていう男子が十人以上、教室の入り口に行列を作っていた。女子は、そんな様子を見て、男たちの軽薄さより、転校生の子供らしからぬ服装や態度をくさしていた。

 翌朝の僕は、少し興奮していたのかもしれない。家を出る時間も、いつもより三十分も早かったし、坂を下る自転車のスピードは、僕自身が風になったのではないかと勘違いするほどだった。その交差点は、山裾に広がる農場に向かう道が横切っていて、通学時間中は車は決して通らない。だから、そこに何かが飛び出してきた時、僕は猫か何かだと思った。

 急ブレーキをかけた勢いで自転車から放り出された僕は、道の向こう側にうずくまり、すぐそばで自転車の車輪がからからと回り続ける音が聞こえていた。頭の中にはガラスを叩き割るような音が繰り返し響いていて、目が開けられなかった。涙がにじんだが、頭を触ることはできなかった。僕は血の苦手な子供だった。

 しばらくすると、頭の中の音は少し収まり、車輪の音の向こうから、何かのうめき声が聞こえてきた。今度は痛みよりも恐怖で目が開けられない。僕はこの場から逃げようと思ったが、体を動かすことができない。金縛りにでもあったように、足が動かないのだ。そうしている間にも、うめき声は少しずつ近づいてくる。目を開けなくては。この状況を確かめなくては、自分の安全を守れない。

 僕は両手を使って、右目をこじ開けた。そこには、真っ赤な獣がうずくまっていた。牛、それとも虎……。だが、そんな動物が、僕の自転車がぶつかったくらいで血まみれになるなんて考えられない。もしかして、あれは僕の血だろうか。卒倒しそうになった僕に向かって、その獣は口を開いた。

「救急車を呼びなさい」

 歌うような彼女の声は、僕の次の演技を導いた。


 もう三十年も昔の話だ。少女は今、どうなっているだろう。いや、その後どうなったのだったか。

 食卓の前に座る妻は、相変わらず無表情のまま食事を終えようとしている。僕が悩んでいることなど、気づこうともしない。

「ねえ。もし、誰か一人、これまでの人生で会ったことのある人と再会できるとしたら、誰を選ぶ」

「何、唐突に」

「恩師とか、子供の頃仲の良かった友達とか、亡くなった親族とか。それとも、初恋の相手――」

「何か、言いたいことがあるなら、はっきり言ったらどう」

 そう。僕は回りくどい。だから、目の前の食事も、本題に入る前に冷めてしまう。僕は固く冷えた肉を口に入れ、そのせいで話しづらいかのように言葉を濁す。

「Nっていうイニシャルで、誰か思い出す人はいないかな」

 妻の顔から血の気が失せた。そのまま倒れるのではないか、と思ったが、その代わりに僕のことを正面から睨み付けてきた。

「いたら、何だっていうの、探偵さん。暇に任せて何を調べてるの」

 僕は空のコップを煽った。ビールの雫が舌の上に落ち、苦みだけが広がる。

「昔の友達かな」

「どうしてあなたに教えなきゃいけないの」

「実は、君を探してほしい、っていう依頼が来てさ。その依頼主が、不思議なことに自分をNとしか名乗らないんだ」

「それで、Nが何者かを、探されてる私に聞こうと」

 僕は深くうなずきながら、噛み切れない肉を飲み込んだ。

「私の情報はいくらで売れたの」

 僕は後ろめたさに視線をそらして、それからしまったと思った。こういう、自分が不利な状況での取引は苦手だ。冷めたスープをすすって、落ち着きを取り戻す。

「まだ、何も。Nが君にとって、良くない人物だっていうなら、適当に時間を稼いで、調査は失敗だったって報告するつもりだ」

「前金で結構もらえったっていうことかしら」

「いや、そういうことじゃ」

「そうね。あなたは、前金でどれだけ積まれても、それで満足するような人じゃないものね。もらえるものは全部もらいたい――そうでしょ」

 豚の脂身が唇をべたつかせる。言葉がうまく出てこない。

「だったら、Nが何者かぐらい、自分で調べたら。何の調査もせずにお金を受け取るなんて、不誠実よ」

 僕はただうなずいて、パンが口の中の水分を奪うに任せた。


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