雨に堕ちる女神
「黒葛」
呼びかけに応じて、耀は足を止めた。同時に、隣を歩いていたはずの同僚の男が肩口にもたれ掛かってくる。こちらの首に腕を回した同僚は、ほら、と明後日の方向を指差した。
「見ろ。女神が歩いてる」
「女神?」
首を傾げながら同僚の指が示すその先に目を向け、耀はあぁ、と頷いた。窓を挟んだ向こう側の廊下を、一人の女が歩いている。
「同じ社内だけど彼女東棟だから滅多に拝めねぇよなぁ。ラッキー」
同僚が歯を見せて笑った。なぁ、と同意を求められ、耀は曖昧に微笑み返す。
女神と呼ばれる女。本当に、何故こんな会社で働いているのかと首を傾げたくなるような美女だ。色素の薄いパーツで構成される柔い身体。どことなく憂いがかった眼差し。その立ち振る舞いも優雅だった。かといってお高く留まっているわけでもない。性格は捌けていて、男性的ですらある。その為この手の美女には珍しく、女性の同僚にも人気があった。紳士的に接すれば気安く、敷居は決して高くない。
この社内において、若年の大半が彼女の崇拝者だ。
「つまんねぇ反応。色男は別に女神を拝まなくても日々の潤いに事欠かないってか?」
「そんなんと違うわ。ボケ」
抜けきらない訛で同僚に言葉を返し、耀は彼の腕を払い落とした。歩き出す。同僚は肩をすくめ、待てよ、と声を上げた。
再び隣に並ぶ男の話に耳を傾けながら、耀はふと思う。
女神と呼ばれる女が自分の隣人だと告げたら、彼は一体どのような顔をするのかと。
「ん」
耀が差し出した茶封筒に、お玉を持った女は眉をひそめた。
「何だこれは?」
「何ってぇ、晩御飯代? 僕、タダ飯たかるほどずうずうしくはあらへんよ?」
「タダじゃなくとも毎日飯をたかりに来る時点でずうずうしいということに気づけ」
嘆息した女はリビングのコタツをお玉で示した。
「置いておいてくれ。今渡されても邪魔だ」
「でも今コタツの上置いても邪魔やろ? 寝室のサイドボードに置いておいたらえぇ?」
「好きにしろ」
「はいはい」
耀は台所を離れて寝室に足を踏み入れた。片付いている、というよりも殺風景な部屋。シルバーグレイのリネンで統一された部屋は、女のそれとしては余りに寒々しい。今日は雨故の湿り気を帯びた冷気に満たされ、ことさらそう見える。
女は社交的で、そして究極的な場所では排他的だ。何者も――色でさえ、彼女は拒絶する。触れようとすればすり抜ける。その懐にもぐりこもうとすれば掻き消える。
美しい孤高の女。何者も彼女を捕らえられない。
彼女を、この手に捕らえることが出来る時があるとすればそれは――……。
こん、と、扉を叩く音がした。
振り返る。
女が戸口に立っている。
「飯、できたぞ」
「お鈴さん」
耀の呼びかけに、女は首を傾げた。
「どうした?」
耀が動かないとみて、彼女は歩み寄ってくる。耀は手を伸ばした。女はその間合いぎりぎりに立って、耀を見つめ返している。
「雨の日やったらえぇいうたやろ?」
「飯ができたと言っただろう」
かみ合わぬ会話。しかし互いに意味は理解している。
「前菜でえぇやん」
「最低だなお前」
「なんとでも」
でも今、彼女が欲しいのだ。
他でもない、今。
女は嘆息する。間合いを一歩詰める。耀は微笑んだ。彼女の細い身体を抱きとり、そしてそのまま、ベッドに沈んだ。
*
耀が鈴とかかわりを持つに至ったそもそもの経緯は、転勤に際し会社に抑えてもらったマンションの部屋が隣同士であったということに端を発する。引越しの挨拶に訪ねた隣室から顔を出した女があまりに綺麗だったので、一瞬呆然としてしまった。同僚から色男、といわれる程度に見目悪くなく、その為、可愛い女にも美しい女にも不自由したことのなかった自分が、女の美しさに目が眩むというのも初めての体験だった。
最初に交わした言葉は引越しの挨拶だけに留まった。二回目に会話したのは、耀が空腹に文字通り行き倒れそうになって、彼女の部屋を訪ねた時(自分には絶望的なほどに料理の才能がない)。彼女は作り置きの料理の詰まったタッパーを、呆れ顔で耀に押し付けた。それから、タッパーを返す、料理を恵む。そんなやり取りが幾度かしばらく続き――……。
雨の日、だった。
「それ、くれないか?」
ベランダの柵にもたれ、しとしとと降り止まぬ雨を眺めていた耀は、隣室から伸びてきた白い指に瞬いた。
指の主は隣人の女だ。防火壁越し、柵から少し身を乗り出して顔を覗かせた彼女は、耀の方に差し出す手を軽く上下に振った。
「煙草」
耀は指に挟んだ吸いかけの煙草を一瞥し、鈴に尋ねた。
「煙草吸うん?」
「意外か?」
「だって、お鈴さんから煙草の匂いしたことないし」
「匂いは嫌いなんだ」
だから水の匂いにかき消される雨の日しか吸わないと、鈴は言った。
「それも一本あれば十分なんだ。持ち合わせもない。……吸ってるの見たら、吸いたくなった」
「あぁ、あるある。そういうの」
誰かが吸っている姿を見ると、つい自分も、という気分になる。
耀は煙草を咥え、手元の箱の蓋を指でこつこつと叩いた。振動によって顔を覗かせた新しい煙草を一本引き抜く。それを鈴の方へ差し出し――あと少しで彼女の手に届くというところで、耀は煙草を引き戻した。
鈴が、怪訝そうに柳眉をひそめる。
耀は煙草を口元から外して笑った。
「あかんわ。ここで渡したら煙草が湿る」
雨はまだ止む気配を見せない。
「部屋行くから、待っとって」
料理を頂戴する時のように、玄関先のやり取りで終わるかと思っていた。しかし女は初めて耀を部屋に招いた。物の少ない片付けられた部屋。リビングの中央に設えられたコタツに座れと、鈴は耀に指示する。
鈴はコーヒーを二人分淹れて、灰皿を用意した。ベランダに続くガラス戸は開けられたまま。網戸からは冷気が入り込み、雨の匂いを部屋に運ぶ。
街中に在るはずの部屋は、孤島にでもなったかのように静かだ。女が煙草の縁で灰皿を叩く都度、雨音に混じってとつとつという軽い音がする。紫煙がくゆり、虚空に消える。その匂いは、雨のそれに抱き取られていずこかへ流されてゆく。
「久しぶりだ」
鈴は言った。
「いつから吸うてないん?」
「さぁ。いつからだったかな。高校の時は結構吸ってたんだが」
「未成年が吸ったらあかんよ」
「そっちはいつから?」
「中学生ぐらいんときかなぁ」
「人のこと言えないじゃないか」
くすくすと笑って、鈴は煙草を置き、コーヒーに口をつける。倣って、耀も同じものを口に運んだ。ブラックのコーヒーは苦く、口の中に残る紫煙の味を洗い流す。
「結構、ってどれぐらい?」
「さぁ。さっぱり思い出せない」
「平均して消費した箱の数ぐらい覚えてへんの?」
大抵は、一日何箱、だとか、一週間で何箱、という風に、箱単位で自分の喫煙量を量っているものだ。
だが、女の答えは違った。
「私は煙草を買ったことがないからな」
驚きに耀は瞠目した。
「どないしとったん?」
「貰ってた」
ふ、と鈴は煙を吐いた。細くたなびくそれは女の白い足に似て、誘うように耀の視界を掠めていく。
鈴は笑った。
「雨の日に、こんな風に」
「誰かクラスメイトが?」
「そう。男子生徒の一人。奴が屋上で吸ってたところを見咎めて、交換条件に一回貰った。それ以来」
「卒業するまで?」
「いや、途中までだったかな」
「それでも、相手もようくれとったね」
自分で稼ぐようになった今でもそうだが、煙草は高額だ。学生ならなおさら。一本も無駄にしたくないというのが本音ではなかったのだろうか。
そう思い掛けて、いや、と耀は頭を振った。相手はこの女なのだ。彼女が美しい少女であったことは想像に難くない。大抵の男は請われるまま貢いでしまうだろう。
鈴は微笑んで、再び煙草を咥える。煙草の先を焦がす火が、その長さを短くしていく。
彼女は、実に美味そうに煙草を吸った。
長い睫の煙る目が陶然と細められていく様を横から眺めていた耀は、この女はベッドの中でどんな恍惚の顔をしてみせるのだろうと興味をそそられた。
鈴が煙草の先を灰皿に押し付ける。じゅ、という火の潰れる音が部屋に響く。鈴は手元に置いていた耀のライターと煙草の箱を重ね、返却してきた。
「ありがとう」
微笑む女の手から、それらを受け取る。
指先が触れ、耀は顔をしかめた。
「えらい冷たい」
鈴は軽く肩をすくめ、そ知らぬ様子で耀から手を離した。
冷めたコーヒーに口をつける女を見つめ、ふと気づく。
「……雨に濡れ取ったんか?」
「その言い方だと、雨のど真ん中に突っ立ってたみたいに聞こえる」
「髪が濡れとるで」
「あぁ……」
鈴はマグカップを置き、長い髪の一房を指で巻き取る。湿り気を帯びた髪。絡みついて、解けて、落ちていく。
「たいした濡れ方じゃない」
「ベランダにどれぐらいおったんや?」
鈴は答えなかったが、それでもずいぶんな長さだということは知れた。先ほど触れた指の温度がそれを如実に現している。
そこまで考え、耀は初めて、彼女に触れたのだということに思い至った。
今まで食事を分け与えはしても、玄関先で、その指の先、髪の一筋に至るまで、触れさせない。聞けば社内の飲み会においても、彼女は肩口を他者に触れさせないのだという。
誰に対しても優しい微笑を返す女は、けれど誰の手からも遠いところにいる。
それはあたかも女神のように。
その女に、今日触れたのだと、耀は思った。
コタツの天板の上に無造作に置かれた細い手に触れる。鈴がゆっくりと視線を上げる。彼女は逃げない。耀の手から。
ただじっと、淡い茶の瞳に耀の輪郭を映している。
「逃げんのやね」
「逃げる?」
「実は人嫌いやろ、お鈴さん。本当は誰も自分のテリトリーに入れたくない。違う?」
女の瞳は冷めている。その沈黙が、肯定を示していた。
胡乱な目で耀の手を一瞥し、鈴は首を傾げる。
「何がしたい?」
「触れてみたい」
いま、捕らえている、女神を。
堪能してみたい。
紅を刷いているわけでもないだろうに、やけに赤く濡れたその唇を。
ガラス戸の外、雨が煙り、幕を作っている。孤絶する部屋。今、世界には自分達二人だけ。
鈴はふと笑い、細く息を吐いた。震える肩がとても寒そうに思え、耀は雨に冷えた手を温めるように、強く、握り締めた。
他を拒絶してある女がその日、何故自分を受け入れたのか、本当のところはわからない。
ただきっと、雨に濡れて凍えていたのだろうと、耀は勝手に思っている。
寒かったから手近な自分のところに、女神は堕ちて来たのだ、と。
*
「おい」
ひとしきり快楽を追ったあと、初めて女を抱いた日のことを回想していた耀は、低いうなり声で我に返った。
「お前、なんだこの金額」
腕の中の女は、サイドボードにあった茶封筒の中身を覗くなり苦言を漏らした。気だるさにまどろんでいた耀は、欠伸をかみ殺しながら問う。
「足りんかった?」
「アホか! 高すぎだ! 万札何枚入れてるんだ!!」
身体を捻り、鈴は茶封筒でびしりと耀の額を叩く。耀はその手を押しやって、目を閉じた。
「んーならえぇやん今度それでご馳走作ってぇ……」
「む、し、ろ、この金でどこか連れてけ。たまには労え!」
「え? 連れていってええの? なら一杯連れてくよ。温泉でもいきましょか?」
「どうしてそこまで話が飛躍するんだ!」
「だってぇ……」
この女はとにかく他を拒絶している。身体の関係を持った耀とて例外ではない。それを端的に現すのが名前だ。会社の同僚に対して親しげに名を呼ぶこともないようだし(呼びかけなど大抵は肩書きで事足りる)、テリトリーに土足で入った自分の名など以ての外。
快楽に溺れるぎりぎりで、耀が強要しないかぎり。
「美味しいご飯のところでえぇの?」
「いいよ」
はぁ、と嘆息し、鈴は大人しく耀の腕の中に納まった。
「お前って時々変に金遣いが荒いが、どういう稼ぎなんだ? 何の仕事してるんだ?」
初めて素性を訊かれ、耀は瞬いた。
「んー。気になる?」
「まぁまぁ」
「なら教えたらん」
「お前な」
というか、このマンションの部屋は、自分達の会社が社員寮代わりにその部屋の半分ほど抑えているという事実を、彼女も知らぬわけではなかろうに、何故気づかないのだろう。
その身体を抱きしめて耀は笑う。
「かわいぃなぁ、お鈴さん」
皆の女神は雨の日だけ、この腕の中に納まるただの女になる。
それを幸福に思うと同時、胸が痛んだ。
名すら呼ばれぬ自分は、彼女にとって一体何なのだろう。
自分にとって彼女が一体どういう存在かも、上手く定義できないけれど。
耀を見上げる彼女は呆れたような眼差しをしている。どこか幼くも見えるその表情が酷く身近に感じられ、耀は鈴の手の甲にキスを落とした。
唇に感じる体温は、確かに人のそれだった。