いつまでと訊かれたから一生と返した。
私は仕事に戻った後も、やれ書類を取りに行くだの、会議の準備をするだのと理由をつけて席を抜け出し、奴を追いかけるはめになった。あいつもあいつで、同じように社内をうろうろしているらしく、全くといっていいほど捕まらない――この会社は都内に自社ビルを持つ程度には、大きな会社だ。
ほんとうに、まったくつかまらない。
「もう、帰宅されましたが」
最後は終業してからすぐに立ち寄ったフランス営業推進管理課で事務員に通告された。そこまで会うのが嫌なのか、と泣きたくなると同時に、みりあの弁を借りるわけではないが――刺したくなってきた。
話し合いぐらいさせてくれ。
息切れした私は、ふらふらと帰路についた。こまごまとした食材が切れていることは今朝方確認していたが、買いに行くことすら面倒だった。今日は、本当に疲れた。
マンションにようやっとたどり着き、エレベーターから降りる。
「あぁ、腹へったわぁ」
鍵を探すべく鞄を漁っていた私は、聞きなれた声に動きを止めた。
私は呆然と、私の部屋の扉の前に腰を下ろしているスーツ姿の男を見つめた。
「耀」
男は、嬉しそうに目を細めた。
あの、黒耀の目を。
「あぁ、ようやく僕の名前を呼んでくれた」
私は唇を戦慄かせ、鞄を放り捨てると、ヒールの音も高々に耀に歩み寄った。
「じゃ、ないだろっっ!!!!!」
唾を吐きかける勢いで叫び、私は男の襟首を引き上げる。うぉ、という男の苦しげな呻きは綺麗さっぱり無視した。
「お鈴さん痛いやんか」
「苦しめ痛め嘆け私は知らん!」
「そんな殺生な」
「殺生もくそもあるか!お前こそ、私は生殺しだぞ。お前は今まで送ったメールにも返信しないし、私は私で精神不安定になるわ、みりあに迷惑かけるわ、弘希の奴には嫌味いわれるわ。いいことがないんだ!大体貴様フランスに行くって、フランス在住になるっていう意味じゃなかったのか!」
「えぇぇそんなこと言うとらへんやん?」
「いや言った!私はお前にあっちで仕事が決まったのか、と訊いたんだ。お前はうんといっただろう!」
「そうやったっけ?」
へらりと笑う男を、私は怒鳴りつける。
「大体同じ会社だったなんて聞いてないぞ!! ざけんな畜生っ!!!」
「お、お鈴さん?だ、大丈夫なんか?」
「……大丈夫じゃない」
ずるずると、私はその場にへたりこみ、男の胸元に頭を預けた。
「疲れた。なんか……」
「……お、オツカレサン?」
あまりに無責任に囁かれた言葉に、私はかちんとなった。
「誰のせいだと思ってるんだ誰のせいだと」
「あっ。やめてくださいぎりぎり首絞まってるっ」
「会社の中でも散々逃げ回りやがってこのうすらトンカチ」
「苦しいって!ギブ!!ギブ!!!」
「いっそのこと一度死んで来い」
再び力の限りを尽くして男の胸元を締め上げる。本気で苦しいらしい彼は、私の手首を握りこむと、かなりの力で引き剥がした。痛感させられる、男と女の筋力の差。
「けほっ。あぁ……苦しかった」
私は言葉を吐き捨てた。
「思い知れ」
私の不機嫌をよそに、男は苦しそうに首元をさすりながらも、嬉しそうに瞳を細めたままだった。私は眉間に皺を刻み、男を睨め付ける。
「なんなんだその笑いは」
「なぁ――お鈴さん」
一呼吸置いて、彼は続ける。
「僕、おらんようになって、寂しかった?」
私にとって毒である、彼の柔らかい眼差しから、私は目をそらして私は呻いた。
「当たり前だろうが」
でなければあんな風に取り乱したりするものか。
かつてないぐらいの醜態に、みりあに大笑いされたぐらいなのだから。
「僕も寂しかったわ」
「連絡ぐらいよこせ」
「でもなぁ……怖かってんよ」
「……怖かった?」
私は首を傾げて、男を見上げた。眼前にある黒い瞳の中に、私の怪訝そうな面差しが映っている。
「僕の名前はいっこも呼んでくれへん。フランス行く、ゆーても、なんの反応もあらへん。ホンマはたかが出張やったけど、君は僕があっちに在住になると勘違いした。それでも、君は寂しがる素振りひとつみせへんかった。僕は不安やったよ。僕ばっかり、君に溺れてるんちゃうやろうかって。僕ばっかり、心囚われてるんちゃうやろうかって」
男は瞼を下ろして、静かに付け加える。
「君の、その、美しく淡い瞳に」
お互い、その眼差しに囚われている。
男は私の白に。私は、男の黒に。
「だから僕は、逃げ回った。確かめたかった。君が、本当に僕を追いかけてきてくれるんかどうか――君は、僕を探してくれた。僕の名前を、呼んでくれた。こんなに、嬉しいことはあらへん」
「耀」
「部屋を引越しせなあかんかったんは会社に文句言うて。僕の部屋会社が押さえてくれとる部屋やってんけど」
そこまで聞いて、私の部屋もまた会社を通じて契約したものだと思い出した。企業が仲立ちしてくれれば、保証人を立てずに済み、楽だったからそうしたのだ。そう考えると、このマンションに私以外のうちの会社の人間が引っ越してきても、不思議はない。
というか、もっと早くその可能性に気付け、私。
「この部屋の契約の更新が手違いででけへんようになったんやって」
男は肩をすくめて続けた。
「出張中に強引に移動するって聞いたときは、はぁ!?って感じやったわ。寝耳に水やんそんなん。というわけで、ここからそう遠くない広いマンションに、移動になりました。一人で住むにはありえんっちゅぅ広さの部屋です」
男は懐を探ると、私の前に、銀色の粒と真珠を模したビーズの連なったストラップに繋がれた、何かをぶら下げて見せた。
「今日はなぁ、そのご連絡と、お誘いに来てん」
鍵。
銀色の鍵だ。私の目の前で、鈍く輝くそれを見つめながら、私は鸚鵡返しに訊き返した。
「お誘い?」
男は、初めて会ったときに見せた、あの悪戯っぽい子供のような笑みで言った。
「僕の部屋に住んで、僕のために、ご飯作って」