鬼ごっこ
結局、私は仕事を辞めることを断念した。積んでいたキャリアには未練がなかったが、男が万が一、本当に、万が一、私の元に戻ってくるのなら、マンションから動いてはならないと思ったのだ。長期戦を、私は覚悟していた。その間、この恋を忘れて次の恋に心は移ろうのかもしれない。それでもいいと思った。今度は、待つことに価値があるのだと、そう思っていた。
だが事態はすぐに急転した。きっかけを携えてやってきたのは、弘希だった。
「わざわざ東京に来るなんてな」
「まったくだって。結構疲れるのな。ここまで来るまで」
仕事場の受付から、面会人が来ていますが、と内線で連絡を受け、いまどき、携帯に連絡もせずいったい誰だと、その人物の名前を確認して目を見張った。弘希だった。
わざわざ私に会いに一人でくることは、珍しいどころではない。天変地異だ。
自社ビル傍にあるオープンカフェは、よく商談に使われる場所だった。その一角を占拠して、私は弘希と向かい合っていた。
「みぃが、気を揉んでるぞ」
運ばれてきたコーヒーに口をつけながら、弘希が言った。
「お前がしっかりしてくれないと、みぃは本気で気もそぞろになるんだって。話しかけても上の空だし、茶碗は割るし、危なっかしくてみてらんねぇの。東京にきてお前の様子を見たいって言って、新幹線の切符までとってきたんだぜ」
「それでお前がいるのか」
「身重の女房を一人で東京まで行かせられるほど、俺は人間できてねぇよ。それにしてもお前もらしくねぇよな。大人しく、人を待ってるなんてさ」
私らしくない。
私は首を傾げた。
「そうか?」
「お前にしちゃ鈍感だってことだ」
「どういう意味だそれは?」
「みりあがこっちに来ようとしてたのは――……」
私の問いに答える気配もなく、弘希は強引に話題の転換を図った。
「件の男が見つかったからなんだけど」
私は、絶句した。
「……はぁ!?」
相手はフランスにいるはずなんだ。それをどうして食堂の手伝いと主婦をしている女にすぎないみりあが探し出せるんだ。
私は二の句を告げぬまま、呆然と弘希を見つめ返した。
「みぃって、本当に怖い女だよな」
嘆息して、弘希が言った。
「東京一体のフランスへ仕事で行く可能性のある会社を、片っ端から洗っていったんだぜ。フランスの企業に直接就職した可能性は薄いから、フランス事業部とかなんとかいう企業のはずだ!って主張して。他でもない、お前の為に。皆呆れたよ。俺ももちろん。使える手段は全て使うっていう勢いだった」
天を仰ぎながら呻く弘希の動作は、決して大仰なものではないのだろう。みりあは、それほどのことをしたのだ。大きな腹を抱え、イエローページを繰りながら、順番に電話をかけていく幼馴染の女の姿を、私は簡単に思い描くことができた。
「で、見つけたわけだ」
ジーンズのポケットから財布を引っ張り出した弘希は、さらにその中から小さな紙片を取り出した。何か、走り書きがしてある。
受け取ろうと手を伸ばした私をからかうように、弘希は紙片を高く掲げた。
「なぁ鈴。いい加減気づけ。お前は今、鬼ごっこの鬼なんだ」
「……鬼ごっこ?」
随分稚拙な表現だ、と噴出しかける私とは対照的に、弘希は至極真面目な顔で頷いた。
「ずっと相手は、近くにいたんだ鈴。お前達は、単に鬼ごっこをしていただけだ。これぐらいのこと気づけよ。お前らしくもない。お前らずっと一緒にいたんじゃないのか?なんで気付けないんだ」
「……何のことを言って」
弘希は珍しく、私に対して饒舌だった。苛立っているようにも見えた。実際、そうなのだろう。彼は私のぐだぐだに気を揉んでいる愛妻のためとはいえ、かなり不本意な形で東京くんだりまでやってきているのだから。
「――貿易株式会社」
弘希が紙片の文字を読み上げる。私は目を見張った。
彼は朗々と、詩か何かを朗読するかのように、紙片の続きを声でなぞる。
「海外事業部、フランス営業推進管理課」
弘希が肩をすくめ、私に尋ねた。
「これ、お前の会社の部のことだろ?」
鬼ごっこ。
ふざけるな、と私は思った。
どれだけ私が精神的に不安定になったと思っているんだ。こんな近くにいて、連絡一つ寄越さずに。
「黒葛課長は」
いらっしゃいますか、という言葉を、私は最後まで口にすることはできなかった。なかなか到着しないエレベーターに業を煮やした私は、階段を駆け上ってきたのだ。肩で呼吸を繰り返す私を、あいつの所属する課の事務員が疑わしげな目で見ていた。
あいつが二週間のフランスの出張から戻ってきていることは判っていた。出張を繰り返しているようだが、今日はこっちに出社していることも調べがついている。
毎日、同じ会社に出社していただなんて。これじゃぁ弘希が呆れるわけだ。
「課長なら、さきほど出て行かれましたが……」
「すぐ戻ってくるか」
私の剣幕に、答えてくれた事務員が身体を震わせる。すまない。怖がらせるつもりは微塵もないんだ。
呼吸を整えて、私はできる限り穏やかな声音で、言い訳した。
「いや、すぐ帰ってくるなら、待っている。会議ならまた来るから」
「伝言でしたらお預かりしますけれど?」
「いや、そういう用事ではないんだ。……貸していたものがあって、すぐに返してもらいたくて」
「はぁ」
いかにもとってつけた様な私の言い訳に、事務員が不審の色をますます濃くした。だめだ、と私はこめかみを押さえ、軽く頭を振った。
「課長ならしばらく戻らないと思いますよ」
パーテーションで区切られた向こうから、顔をのぞかせたのは私よりも若い男だった。おそらく、あいつの部下だろう。
「あなたが来て、あっちの出口からそそくさ出て行きましたから」
そういって、彼は私が来た出口とは違う入り口を指差した。興味津々といった様子で、彼はパーテーションの縁に顎を乗せたまま、尋ねてくる。
「課長、あなたの一体何を盗んだんです?」
冗談めかしの質問は、あながち的から外れてはいない。