懐かしい部屋で新しい話を。
ぱさりと。
私に柔らかい何かがかけられた。
私はその気配で目を覚ました。
「……みりあ」
「御免。おこしちゃったね」
私の上に広げられた毛布の端を握ったまま、みりあは笑った。柔らかい毛布からは太陽の匂いがした。
「びっくりしたよ。コウから鈴が来てるってきいて。ごめんね、すぐに戻れなくて。病院が混んでたんだ」
「あぁ……かまわないよ。そんなこと」
私は上半身を起こしながら言った。みりあを待ちながら、知らぬうちに畳の上で眠りこけてしまっていたらしい。そんなつもりはなかったのに。
「お帰りなさい鈴」
みりあは諸手を広げて私の頭を抱いた。甘い匂いがする。みりあは凡庸な女だが、誰よりも長けている部分が、この人を甘えさせるという行為だった。いい、母親になるだろう。私は彼女の膨らんだ腹部に目をやりながら思った。
私を放し、朗らかに彼女は笑う。
「あぁ、本当に久しぶり。お正月帰ってこないなんてさぁ。酷くない?楽しみにしてたのに」
「すまない」
「みんないたのに。鈴だけいないなんて。寂しいねって言ってたの」
「ごめん」
「久しぶりに会えて、本当に嬉しいよ」
「うん」
「あぁ、だから」
みりあはその柔らかい手で、私の両頬をそっと挟み、私と額をあわせた。
「そんな泣きそうな顔、しないで鈴」
「みり」
すぐ傍に、幼馴染の瞳がある。茶色の瞳は全てを見透かして、私に聖母のように微笑みかける。
「泣くことを、我慢した顔しないで。鈴は、泣いてもいいんだよ。帰ってきているんだから。我慢する必要なんて、どこにもない」
我慢。
何を、私は、我慢していただろうか。
「なんで、そんな顔をしているの」
鈴、と。
柔らかく呼びかける幼馴染の声に、私は涙をこぼしていた。その膝に顔を埋めた私の背を、幼馴染の手が優しく撫でた。
「鈴と寝るなんて、久しぶりだよね」
明りの消された電球を見上げて、みりあが言った。
「そうだなぁ。最後はいつだっけ」
「覚えてないよ。でも、就職前が最後じゃない?」
「あぁ、そうかもな」
私が東京に就職を決めた頃には、みりあと弘希は一緒に住んでいた。その頃にはもう、私達が共に眠るのは、お盆に女だけで御泊り会を決行するときぐらいだった。
みりあの夫は、今日は気を利かせてか、それともみりあの命令か、働いている食堂の二階を間借りして外泊していた。
みりあは私の手を握り締めている。怖い夢をみる子供に、母親がするように。
「戻ってこようかな」
暗闇に、ぽつりと私は呟いた。
戻ってこようか。この町に。東京で、一人で暮らすのは、これ以上は辛いと判ってしまったから。
特に、あんなふうに誰かと過ごす温かい煩わしさを覚えてしまったあとでは。
「いつでも」
みりあは笑った。
「私は大歓迎」
「コウは歓迎しないだろうがな」
「なんで鈴とコウってそう仲良くないのかなぁ」
「そりゃそうだろう」
私は思わず笑みに肩を揺らした。あいつと私は恋敵だ。幼馴染で、精神的双子で、永遠の、好敵手なのだ。
仲良くはできない。
決して、無視できない関係ではあるが。
「あぁ、私がこんな身体じゃなければ、東京まで行って殴りにいくのになぁ」
「こんな身体って……みりあ。腹の中の子供が泣くぞ。それに奴は今ごろフランスだ」
「フランスだろうが何だろうが、興信所でも使って見つけ出してなぐりにいきたい。むしろ刺してやりたい」
「みりあ」
「冗談だよ?」
さら、と笑顔で流されたが、みりあの目は本気だった。手元に包丁があって、あいつがここにいれば、みりあは刺すところまでは行かなくとも、未遂ぐらいはやるのではないだろうか。私が惚れた女は、とても手ごわい。
「でもね、鈴」
私の手を握る、みりあの手に力が篭る。
私は首を傾けて、枕を並べる幼馴染の女を見た。
「彼は、きっと、鈴にいかないで、って、言って欲しかったんだよ。寂しいって、口に出して欲しかったんだよ。鈴は綺麗だけど、そのぶん表情が出にくいし、私みたいに付き合いが長くないと、判らないことだって沢山あると思うんだ」
「だからって、挨拶もなしに部屋を引き払うなんて、絶対どうかしている」
「そうだね。私が刺したいって思うのはそういう部分」
彼女の、怒気を孕んだひやりとした声音が私の耳朶を撫ぜ、私は顔をしかめて呻いた。
「うん、だから、その刺すという表現は怖いからやめてくれ。おまえが言うと、どうも本気に聞こえてならない」
「だって本当だもん」
「冗談だって、さっき言ってなかったか?」
あははは、というみりあのごまかし笑い。みりあが妊娠していて本当によかったと思ったのは、このときが初めてだった。
「大丈夫、そんなことしない。鈴が望んでいないもん」
私が望んだら、するのか、という問いは、ひとまず飲み込んだ。みりあの目は真っ直ぐに天井を向いていて、私はその目に映るものが知りたくて、同じように仰向けになった。
染みだらけの天井。古いアパート。けれどもとても温かい、思い出の染み込んだ部屋。
人が住まなくなれば、この部屋も、私を冷たく拒絶した部屋と同じように、冷えていくのだろう。
「なんか嬉しかったよ」
「何が?」
「鈴が、人を好きになった話を私にしてくれるなんて、初めてでしょ?」
私は、肩をすくめた。
「そうか?」
人を好きになった云々はないが、男と付き合っているといった話は、ぽろぽろ零している。確かに、言われてみれば、それは人を好きになった話とは呼ばないかもしれないが。
「うん。沢山の男の人が、鈴を通り過ぎていくのに、鈴はなんだか無関心に見えて」
「たくさんって、そんなに数はいないぞ」
「私に比べたら沢山だよ」
「ま、そりゃぁな」
「でね。だから、心配してた。私、もしかして鈴が好きになった人を教えてもらえる資格がないんじゃないの!?って」
「馬鹿な。そんなはずあるか」
私が、みりあに今日まであの男について語れなかったのは、気恥ずかしかったことと、そしておそらく――確証が持てなかったから。
あの男が私に囁く愛情。それに、確証が持てなかったから。
私は、いつもいつも、自信がなかった。
あの、眼差しに惹かれていた。
だが、あの男が本当に私に惹かれているのか、自信が持てなかった。
私があの男にとって一番なのか、確証が持てなかった。
「鈴、楽しかったことばかり、話してた」
泣いたあとに、私は一つ一つみりあに語った。
私が、あの男と出会ってから、胸の奥に降り積もっていた全てを。
「あんな鈴、初めて見たよ。なんか、嬉しかったな」
だからなおさらよね、と彼女は付け加える。
「許せないのは」
「憎んだわけじゃないんだ」
突然消えたことに、腹を立てたわけではない。
みりあはうん、と頷いた。
「知ってるよ。哀しいのか、悔しいのか、引き止められなかった自分を詰りたいのか、判らなかっただけでしょ?」
私は絶句した。みりあは本当に、私のことをよく理解している。
「呆然と、なっただけだよね。何をしたらいいのか、判らなかっただけだよね。私のところにきて、話して、少しは落ち着いた?胸の内にためていたものを吐き出して、残った感情は何だった?」
残った、感情。
胸の内に残った感情。
「名前を、よびたい、かな」
「名前?」
「うん」
耀。あの瞳に似つかわしい名前だと思った。とても美しい漢字を持つ名前。
「なんで?」
「まだ一度も、呼んだことがないんだ」
今度はみりあが、絶句する番だった。
「鈴!名前、呼んだことないの!?もうすぐ半年になるんじゃないの!?一緒にいるようになってから!」
「まだ四ヶ月だよ」
「半年も四ヶ月も同じよ!四ヶ月も経ってなんで名前呼んだことないのよ。私はそこには呆れたよ!?」
「うん。自分も、無意識だったんだ」
「あ、あのねぇ……」
「なんだか、もったいなかった」
あの、瞳の色を表す綺麗な名前。
「なんだか、もったいない気がしたんだ」
けれど、それがあの男をとても傷つけていたようだった。
だから、できることなら、一度だけ。
みりあ、お前が私の名前を呼ぶように。
あの男が、私の名前を呼んだように。
私も名前を呼んでやりたいんだ。
「でも、もう、会えないんだろうなぁ」
ぼやく私に、みりあが言った。
「会えるよ鈴」
やけに自信たっぷりな物言いだった。
「どこからそんな自信が沸いて来るんだ」
「だって、鈴が好きになるような人でしょ?会いにこないはずがないんだよ」
「そんなこと、あるか」
「あるよ」
みりあは、よいしょ、と重たい身を揺すって、私のほうを向きながら、私の手を両手で握り締めた。
「あるよ。美味しいご飯って、なかなか忘れられないじゃない?旅行先でとびきり美味しい料理屋さんにいって、あ、あそこにいきたい!って思って、新幹線に飛び乗る人だって、いるじゃない?」
実際いるんだよ、とみりあは言った。あの食堂のことだ。小さな食堂だが、居心地がよく、何よりも料理が飛び切り美味しい。
「あるよ。餌付けに成功してるんだし」
「あいつは犬か」
「似たようなもんじゃない。最初はご飯をたかりに来てたんでしょ?」
「いや、それはそうだが」
「ねぇ鈴」
祈りのように。
みりあは握り締めた私の手に額を寄せる。
「信じるんだよ。また会えるって。一度だけでも。また、会えるんだって」
「みりあ」
「叶えるって、口に十回出すから、叶えるっていうんだって。会いたいって、十回唱えようよ鈴」
私は、みりあに顔を寄せた。
「うん」
目を閉じて、微笑む。
「会いたいな」
「私は信じてるよ鈴」
みりあの声音は静謐で、優しく、そして厳かだった。教会で、神父が慈悲を持って語りかけるときのような。
「もう一度会えるって。何より、もう一度、きちんとやり直してほしい。そんな風に終わるのではなく。鈴に、たくさんの幸せをもたらしていた人なら」
私は、瞼を上げた。すぐ目の前で、幼馴染の女は悪戯っぽく笑っている。
「そうしたら私も、東京まで出向かなくてもこっちに来させて、遠慮なく殴れるし」
私はつい突っ込んだ。
「殴るなオイ」