帰省理由
「フランスに行くことになってん」
食卓の席で、ためらいがちに男は言った。
「……そうか」
としか、私には返しようがなかった。
「……お鈴さーん。もうちょっと別の反応ないん?」
「いや……あぁ、フランスで仕事が決まったのか?」
「うんそうなんやけど」
「おめでとう?」
「ありがとう?じゃなくてやね」
男は嘆息した。
「他に、いうこと、ないん?」
男が期待する言葉を、私は知らない。
私は言った。
「ないな」
「……そうか」
男はがくりと肩を落とした。
「だってお前、フランスに行きたいっていってたじゃないか」
「そらそうや。そのために今日まで頑張ってきたんやし?だけどやなぁ」
言いよどむ男に、私は尋ねた。
「何だ?」
「……引止めもしてくれへん。寂しがる素振りもない。寂しいやんか、それって」
「そんなこと」
言われても、私には、なす術がない。
私は箸を置いた。茶碗の中は空だった。外は雨が降っている。春も近くなり、季節の変わり目のせいか天気はぐずつきがちだった。
置いていかれる。
それを引き止める術を、私は持たない。
誰もが私を置いていく。友人たちもそう。付き合ってきた男たちもそうだ。彼らが私に告げるのは、常に結果だけだ。
みりあが結婚を決めたときもそうだった。相談も何もなかった。プロポーズを受け、結婚する。それだけを告げられた。付き合ってきた男達も、私にすべて決めた後で私に別れを告げた。仕事上の理由や新しい恋人の存在を、後付して。
私を、置いて、先にゆく、人たち。
あぁ、彼らをどう引き止めろと?
私のわがまま一つで?
「お前は、もう、決めたのだろう?」
フランスへ行くことになった。なりそう、ではない。男が私に告げた言葉は現在完了だ。
私は笑った。
「なら、いいんじゃないか」
かたん、と。
男が立ち上がる気配がした。
私よりも先に、男が食べ終わるのは稀なことだった。テーブル上の皿には、まだおかずが残ったままだ。私は男を仰ぎ見た。酷く冷たい黒耀の瞳が、そこにはあった。
「僕、しばらくいそがしいから。」
「そう」
「急やけど、明日から一度フランスいかなあかん。次戻ってくるんは、二週間後ぐらいになるわ」
「そうか」
「ご馳走様、お鈴さん」
「あぁ」
男の言葉は聞いたこともないほどに淡々として、私を突き放した。私は、かける言葉を探し出すことに失敗していた。
「お鈴さん」
「……何?」
男は私の眼前に佇んで、凪いだ眼差しで私を見下ろしていた。
冷ややかに。
とても、冷ややかに。
そして寂しそうに、彼は言った。
「君は、未だに、僕の名前を呼んでくれへんのやね」
耀。
綺麗な名前だと思った。きちんと覚えている。仕舞いこまれている。まるで、口に出してはいけない宝物のように。
男は二週間を過ぎても部屋には戻らなかった。部屋は沈黙し、明りもつかない。私の携帯にも何の連絡もない。メールを送っても、音沙汰なしだ。彼の携帯は、海外でも扱えるタイプのものだというのに。
三週間を過ぎて、天気予報に桜の開花予想がくっつくようになった頃、私は恐々と鍵を手に取った。鞄のキーケースに吊るされた鍵ではない。私最愛の娘から、初めて誕生祝にもらった宝石箱の中に仕舞われていた鍵だった。
その鍵だけを持って、私は部屋を抜け出した。隣の部屋を訪ねるためだった。
そして私はみたのだ。
何もない部屋が、何かの通告のように、沈黙を保っている姿を。
記憶が、途切れていた。
私はいつの間にか、見知った食堂に立っていた。私のマンションからここまで、新幹線と電車を乗り継がなければならない。昼前。サラリーマンで賑わうには少し早い時間帯。
「鈴ちゃん!?」
そう声をあげるのは、食堂のおばさんだった。
「何鈴ちゃんこんないきなり。お仕事は?お休みかい?」
「おいお前何騒いで……と、鈴ちゃん」
厨房のさらに奥から、ダンボールを抱えて顔を出したのは、食堂のおじさんだった。昼頃から夜中まで、この店は人々で賑わう。開店して間もない時間だ。準備の為に奥に入っていたのだろう。
「仕事が、休みになったので」
嘘だった。無断欠勤だ。あぁ、なんて言い訳しよう。熱で動けなかったのだとでも、後で連絡すべきだと、正気を取り戻した脳が告げていた。
「それにしても突然だなぁ。おい!コウ!」
私は、おじさんが呼ぶ名前に面を上げた。おじさんが、もう一度名前を呼ぶ。
「弘希!」
おじさんの呼び声に応え、ダンボールを小脇に抱えて暖簾を押し上げて、奥から続いて姿を現したのは、私の幼馴染の一人だ。
私の、分身。私がもっともなりたいと焦がれた男。
弘希。
みりあの夫だ。私と同じ性癖、私と同じトラウマ、私と同じ思考をもち、私と同じ人間を愛した男。
「鈴」
弘希は私の名前を呼ぶと、懐を探り、取り出した何かを私に向かって放り投げた。
「アパートに行って少し寝ておけ。みぃは今、病院の検診なんだ。多分昼過ぎには戻るから」
私が宙で受け取ったのは鍵だ。みりあと弘希の暮らすアパートの部屋の鍵だった。私もよく知っている。弘希は中学の頃から、ずっとあの部屋で暮らしているのだ。
西日が柔らかく畳を染めるあの部屋。
私は、不思議なものを見るような顔で、鍵と弘希を見比べた。弘希は、困惑の表情を浮かべていた。
「どうしたんだ弘希」
一体何を、困っているんだ。私は別に、お前からみりあを奪いに来たわけではないんだ。
「どうしたは俺の科白だ」
弘希は言った。呆れたように、嘆息を零して。
「お前、とんでもなくひどい顔をしてるぞ」