鍵
いつも通りの夕食時、将棋をさしたときのような、ぱちりという音がした。
銀シャリを口の中に放り込んで咀嚼している私の前の卓上に、くすんだ銀色の鍵が置かれていた。このマンションの部屋の鍵だと、私は即座判別がついた。まったく同じ型の鍵を、私も持っているからだった。
「なんだ、これは?」
口の中のものを全て飲み下して、私は訊いた。
「何ゆーて。鍵やで?」
「いやそんなことはわかっている。一体どこの部屋の鍵だ」
「僕んの」
「……キーケースに直しておかないと、なくすぞ」
「なんか、僕すごい馬鹿にされてるような気がするわー。鍵をほこほこなくす、ガキみたいやん」
「あぁ、馬鹿にしているんだが?」
思わず、といった様子で沈黙する男は、額に手を当てて天井を仰いだ。大仰な奴だな。
「ひどいわー。ひどすぎるわー。このマンションの鍵特殊やから合鍵つくるん高いんやで?」
「合鍵?」
「そう」
男はテーブルの上の鍵に指を添え、私のほうへとそれをそのまま滑らせる。私は、受け取った鍵を目の前に掲げて眺めてみた。銀色の、鍵。
白熱灯の光を受けて、きらきらと輝いている。
「僕の部屋の合鍵。いつでも来ぃよ。っていってもまぁ、最近僕この部屋に入りびたりやからあまり関係ないかもやけど」
「本当に、夜から朝までここにいるもんな」
「どっちが僕の部屋やったか、最近忘れかけやねん」
あはははと笑う男に、私はぐったりため息をついた。夕食時から朝食時まで、私達はほとんど時間を共に過ごす。朝食を取った後、私達は別れて、お互い出勤の準備に掛かる。それが、最近のサイクルだった。
男は、炬燵の天板の上に頬杖をついて、目を細めた。笑みにではない。真剣な、眼差しだった。
「僕、最近ちょっと忙しくなると思う」
歯切れ悪く、男は言った。
「仕事か?」
未だに私は、男の仕事が何なのかを知らないが、仕事以外で特に外出している様子はない。
男が忙しいという理由が、他に思い当たらなかった。
「ご飯たべに来るけど、一度部屋に戻ったりしてやらなあかんことがあったりとか、外出せなあかんかったりとか、色々やねん」
「そうか」
「そうか、って、あっさりしとるなぁ……」
「む」
あっさりしている、といわれても。
どう反応すればいいのかわからない、というのが正直なところだ。男がこの部屋に、以前よりも短い時間しか滞在しない。それは、あまり実感を伴わない。
「まぁえぇよ。もしかしたら、一緒に寝らんかもしれんねん。起こすと悪いとか思うし」
「ふむ」
「……あぁ、寂しい反応。とにかく、夜眠れんかったりさびしくなりよった時はいつでもそれ持っておいで」
門戸は常に、開かれている。
そういう意味だろうか。
「ありがとう。もらっておく」
鍵を握り締めて、そういえば、と私は言葉を続けた。
「お前の部屋、入ったことなかったな。私」
「あれ、そうやっけ?」
男の部屋は私の隣の部屋だというのに、未だに一度も入ったことがないのだ。男の部屋に入る必要もなかった。
男は絶望的に料理が苦手なようだが、他の家事全般は滞りなくしているらしい。隣の部屋できちんとはためく洗濯物や、男が扉を開ける際に僅かに覗く部屋の様子を見る限り、そこは小奇麗だった。私がわざわざ掃除をしにいってやるという必要もないわけだ。いや、もちろん男が私に請うてくるようなまねをするのなら、掃除ぐらい自分でしろと蹴りつけるが。
「じゃぁご飯食べてから入ってみる?僕の留守中に入ってくれててもえぇし、間取りはそない変わらんと思うけど、使ってえぇもんとか教えとくわ」
判った、と頷いて、私は手のひらの鍵を見た。
さして重さもないはずの金属が、私の手の中で重みを増したように思えた。
夕食の片付けが終わってから、私は手を引かれて男の部屋に入った。この男に限った話ではなく、男の部屋、というものに入ること自体、私には酷く稀なことだったということを思い出した。今まで男と付き合うとき、逢瀬の大抵はホテルだった。
男の部屋は、やはり片付いていた。生活感がない。そう思えてしまうほどに。
間取りは私の部屋と同じ1LK。廊下を突き抜けた向こう側に広々としたリビングダイニングがある。そこを占拠しているのは、何故か書斎に置かれているような大きめの樫の机で、壁際を占拠しているのは二つの大きめの本棚だった。そこと隣接しているオープンキッチンと、全くそぐわない。キッチンには小さめの冷蔵庫が設置されているが、食器の類はほとんど見られなかった。
本棚は洋書に圧倒的数でもって占領されていた。フランス語の辞書や原書がそのほとんどを占め、その次に英書、ドイツ語、スペイン語、イタリア語の原書まである。日本の書物と違い、洋書は大きめだから、その圧迫感たるや。
「お前の仕事は大学の教授か何かか?」
私は半眼で傍らの男に尋ねた。
「いや、ちゃうよ。普通のサラリーマンやで?」
「普通のリーマンがこんなに多言語な本を持っているもんなのか?」
「趣味」
違う本棚には、確かに経営学論やビジネス本らしきものが整然と並べられていた。
私は毒づいた。
「インテリめ」
「うわひどい」
ひどいわーと呻く男を置き去りにして、私は本棚に歩み寄った。並べられた本たちを眺めて尋ねる。
「これ、私が読んでもいいのか?」
「勝手に読んでもらってえぇよ。あぁただ、あっちの本棚には手、つけんといて」
男が指差したのは、ビジネス書の類が並んでいるほうの本棚だった。
「仕事で使っとるもんとかも色々はいっとるし、栞とか挟んであんねん。ばらばらになるとちょい困るから。また整理し終わったら言うわ」
経済誌は私も読むが、それにしても小難しそうな本ばかりだ。仕事から離れて、読みたいとはすぐには思えない。私は素直に頷いた。
「判った」
「キッチンは自由に使ってくれてもえぇよ。っていっても、調理器具も何もないけど」
「本気で何もないな。鍋もないのか」
「手鍋ぐらいなら。カップラーメンの湯沸かし用に」
「……まぁ、使うこともないだろう」
冷蔵庫の中を覗き込めば、ミネラルウォーターとペリエしか入っていなかった。私がコイツの食事を作らなかったら、コイツは確実に餓死するだろう。
「じゃぁ次は寝室」
男が私の手を引いた。
ちゃっ、という扉の開く音。角部屋のせいか、寝室は私の部屋よりも僅かに広かった。小さな液晶テレビと、ベッドが置かれている。サイドボードにはルームランプ。左手にある扉はウォークインクローゼットだ。私の部屋にもある。
「綺麗な部屋じゃないか」
それが私の感想だった。
「お前、本当にここで生活しているのか?」
「どやろねぇ。さっきも言うたやろ?仕事から帰ってきて数時間こっちで過ごすだけやし、ここしばらくずっと鈴さんのところにおるしねぇ。たまには使うたらな、ベッド泣くかな」
「泣きはしないと思うが……いいベッドだなコレ」
ぽす、とベッドの縁に腰をかけ、私は呻いた。
一人で寝るには十分すぎるほど広いセミダブルのベッドは、スプリングがよく利いていた。私が勤めている場所はこういった輸入家具を扱う企業で、仕事上頻繁に家具をみる。もののよしあしはすぐに判った。
布団も私の部屋にあるものよりも幾分かいいものだ。引越しして間もなくして、こいつは私の部屋にいつくようになったから、それを考えると激しく金の無駄遣いではないだろうか。
「もろてん。そのベッドと布団はタダやった」
「へぇ」
いいなぁ、と私はシーツを撫ぜた。柔らかい布地ごしに、押し返してくる羽毛の感触。
ふと。
肩を強く押された。
「うぉ!?」
完全に油断していた私は、ベッドに押し倒されたことを認識するのに少しばかり時間を要した。先ほど男がつけていた、ルームランプの柔らかい橙の明り。
男の黒の瞳が煌めきながら、私を見下ろしている。
「何のまねだ」
憮然となりながら、私は男に尋ねた。
「だからほら」
男は私の両手をベッドに縫い止めたまま、器用に肩をすくめる。
「たまには使わんとあかんねぇっていうハナシ」
「ベッドを?」
「そう」
「馬鹿かお前は」
うん、と男は笑った。
「君のためなら、どこまでも馬鹿になれるらしいし、僕」




