無関心からの転換
無関心ということは寂しくもあるが、平和だった。
男の手には珍しく、DVDがあった。
「借りてきたのか?」
「うん。友達が面白いって五月蝿くてなぁ」
「ふぅん?」
土曜日、男は遠方からやってきた友人の東京観光に繰り出していて、私の家にやってきたのは午後九時を少し回ったころだった。珍しく夕食はいらないと告げられたのは昨晩。私は買い込んでいた材料を余らすのも気が引けて、結局二人分作った。余った分を全てコンテナにいれて、冷凍庫に放り込む。こいつらは、月曜日からの弁当の具材として、順々に消費されていく運命だ。
お茶漬けがほしいと男が駄々をこねたので、私はキッチンに立ってせっせとお茶漬けを作っている。あぁ、この労働の対価をどうやって返してもらおうか。何故私はこの男の言いなりになっているのだろう。
とぽとぽご飯に緑茶をかけながら、私は映画の題目を尋ねた。
「なんていう映画?」
「WABISABI」
「……わびさび?」
「日仏合同で作られた映画やって。ジャニ・レンが主役のやつ」
「へぇ」
男が私はDVDをプレイヤーにセットする男の手から、空ケースを取り上げた。日本の有名な女優が、娘役として出演者のリストに名を連ねていた。あらすじを見る限りは、面白そうだ。
私はお茶漬けをテーブルの上にどん、と乱暴に置いた。おおきにぃ、と、男は笑う。夕食をとってきたのではなかったのだろうか。そう思わせるほどのがっつきようで、男は茶漬けに手を付け始めた。
私はプレイヤーのリモコンを操作して、スタートボタンを押した。テレビに海辺の風景とじゃじゃじゃーんというファンファーレ。
ジャズ風の小気味よいオープニングが流れる頃には、男はすっかり茶碗を空にしていた。
「あー美味しかった」
「食べるの早いな」
「お腹すいとってんもん。今日会ったひとは料理について小難しいことばっか並べよるから、こっちはちっともご飯食べた気にならへん」
「へぇ?」
男から彼の知り合いについて初めて聞いた。お互い、身内のことについてあまり話さない。仕事のことについてすら、把握していないぐらいだ。お互いに土日が休みで、隣人で、男は、関西出身。私も電話が掛かってきた幼馴染について少し話した程度だ。
そんなことに、気付かされる。
気付かないようにしていたんだ、と私は思った。好奇心は関係を殺すから。
無関心は平和だ。しかしこの男相手の時は、少し寂しい。
「なんなん?難しい顔しよるなぁ」
男は炬燵から這い出ると、テレビのちょうど正面に座って、テレビの前に立ち尽くしている私を引き寄せた。こけそうになる私をしっかり背中から抱いて、私の頭に彼は顎を乗せる。
「あぁ、いい匂い」
「茶漬けの匂い」
「ちゃうって」
男は苦笑し、私を抱いたままそばに落ちていた彼のマフラーを引き寄せた。厚みと大きさのあるマフラーで、私の足元をすっぽり覆う。ぬかりのない男だ。
「寒い?」
男の問いに、私は首を横に振った。
「いいや」
暖かいよ。
男と男女の関係として過ごしたことはままあるが、暖かいと思ったのはこの男が初めてだった。この暖かさは、みりあと過ごすときに似ている。彼女と過ごすとき、額をくっつけ合って笑い合うとき、哀しいことを分け合うとき、こんな風に暖かくなるのだ。
私は大人しく男に身体を預けて、映画を見ることにした。
アクションサスペンスの映画は面白かった。フランス人の監督がメガホンをとっていることもあって、日本の現実とは少し異なる部分もあったが、違和感なく十分楽しめる。ヒロイン役の日本人女優が、澱みないフランス語を話しているシーンには感心させられた。
ちらりと視線を動かすと、すぐ頭上には男の顔がある。長い睫毛の煙る黒耀の双眸の視点が、かなり上のほうを向いていることに気がつき、私は尋ねた。
「フランス語がわかるのか?」
「え?」
今、登場人物は皆フランス語を話している。
だが、男は字幕を読んでいる気配がなかった。
「あぁ……うん。大学で習っとったんよ」
「そうか」
大学で習った程度で、話せるようになるものなのだろうか、と考え、私はそれも才能か、と思い直した。考えれば、私の周囲には数ヶ国語操れる男が幾人かいるし、私も英語とドイツ語なら問題なく扱える。
「大学では何を専攻していたんだ?」
「フランスの歴史。フランス革命とか、そんなんやった」
「……意外な」
「僕、あっちのほうが好きやねん。ふらふら旅行も、ようしおった」
「ふうん。あっちでの就職は考えなかったのか?」
「うーん考えたけど……」
男の口調は、妙に端切れの悪いものだった。
「ま、むずかしいやね」
「そうだな」
言語だけではなく、人種の壁がある。特に東洋人が白人の中に入るのは、ことのほか難しいものだ。
「お鈴さんはドイツ語話せるん?」
「あ?あぁそうだが……いったっけ?」
「いいや。聞いとらへんよ。ただ、クォーターやんか。鈴さん」
「うん」
私の祖母がドイツ人。さらにさかのぼれば北欧。私はその血がよくでていて、日本人にしてはとても色素が薄い。髪など、亜麻色に近いほどだ。
だからこの男の黒に惹かれるのだろう。
ずっと焦がれている、揺らぎのない色。
「綺麗な色、しとるもんな」
男は私の髪を掬いあげて口付けた。
「真っ白や。とても、とても、綺麗」
「そうか?」
「うん。僕が見た人んなかで、鈴さんは一番綺麗やと思う。瞳なんか、こう、黄金掛かって。雪の精霊とかみたいやろ」
「ぷっ」
「あ、笑わんといてよ。僕、めっさ真面目やのに」
それでも笑わずにはいられない。なんだその、精霊とかいう乙女チックな表現は。
「嬉しいよなぁ」
「何が」
映画は終わりに近づいている。うん。十分に楽しめる映画だった。幼馴染は、見たことがあるのだろうか。彼女が好きそうな映画だったのだ。
私は、男の言葉の続きを待った。
「こうやって、お鈴さんのこと、ゆっくり、一つ一つ、知れていくこと」
私達の始まり方は実に曖昧で、いつのまにか、というものがほとんどだ。お互いのことを知って、好きです、付き合いましょうという形ではない。そして、こんな風に夜の時間を共に分け合うようになっても、お互いのことを深く詮索したこともない。男も私も、自分のことを進んで口にするたちではないから、なおさらだ。
「私のことを知ってうれしいのか?」
私は尋ねた。私のことを知ってほしいような気もするし、知ってほしくないような気もした。
男はもちろん、と頷いた。
「ひとつひとつ、鈴さんの哀しみも喜びも、一緒に経験してない子供時代も、こんな都会で、女の子一人でがんばっとる姿も、知っていきたいと思うてるよ」
「そんなことをしてどうなるんだ?」
私の、子供時代。
大人になった今でも、引きずってしまう絶望の底の底と砂金の粒にも似た眩しい時間を、同時に経験した時代。
逃げるように誰もが互いに無関心な都心に、身を置いた私。
そんなものを、知って、どうするんだ。
「どうするなんて、そない」
男は笑みに声を立てた。
「好きな相手ンことを知りたい思うんは、普通やろ?」
違うんか、といわれて、そうだ、と私は答えることができない。
男の問いに、私は別の問いでもって応じた。
「お前は、私のことが好きだから、私のことを知りたいのか?」
「だから、さっきからそういうとるやんか」
男は苦笑したようだった。
あぁ、だったら。
私も、きちんとこの男のことが好きなのかもしれない。
単に、その美しい瞳に、心奪われていたわけではなく。その存在を、求めているのかもしれない。
無関心は、寂しいと。
この男のことを、知りたいと、私は確かに――たとえ僅かでも――思ったのだ。
男は胡坐を掻いたその膝に、私を乗せたまま、私の腰を抱く腕に力を込めた。
私の耳元に唇を寄せて囁く。
「愛しとうよ」
乾いた土に降る雨のように、柔らかい声音が染みとおった。