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白錫と黒曜  作者:
本編
2/9

帰省の呼び声

 枕元に置かれた電話が、軽快な、それでいて耳障りな音楽を奏でている。

「……はい」

『鈴?ごめん私だけど』

「……みりあか」

 寝ぼけ眼を擦りながら、私は身を起こした。肩に触れた、思いがけず冷えた空気に身を震わせて、私は再び布団の中に引っ込む。あぁ、そうだ。私は服を着ていなかった。

『今大丈夫?』

「あぁ……大丈夫」

『っていうか、その声は寝起きね?もうお昼よ』

「いいだろうたまの休みぐらい」

 まるで夫婦のような会話だ、と私は笑ってしまう。電話ごしに、みりあの「もういいわ」という、ふて腐れたような声。

「すまない。で、何の用なんだ?」

 ややおいて、みりあは躊躇いごしに言った。

『本当に、今年帰ってこないの?』

「仕事の休みが上手く取れなかったんだ」

 これは嘘だった。大晦日と三が日はもちろん、年末はためておいた有給まで使って、たっぷり一週間の休暇がある。それでも、今年私は帰省することを拒んだ。

 沈黙している彼女に、私は慌てて付け足す。

「でもお前の出産にはもちろん合わせて帰るよ」

『それって何ヶ月先のことなのよ』

「許してくれ」

 私は受話器の向こうの幼馴染に懇願した。私の最愛の女は、私が正月帰省しないことに大層ご立腹だった。

『ねぇ、考え直して、鈴』

 そう懇願されると、私は弱い。電話口の女――みりあは、この世で私が唯一甘やかす女だからだ。判った、と思わず口走りそうな口元を思わず押さえて、私は呼吸を整えた。

 駄目だ、ともう一度拒絶するにはかなりの労力がいった。私はどの道、彼女には逆らえないのだ。掛け値なしの愛を与えてしまった相手だから。

 どう言葉を紡ぐべきか、考えあぐねている私の頭を、いつのまにか背後からのびていた手が引き寄せた。男の厚みある胸板に押し付けられて、ぐ、と思わず呻きが零れる。

『どうしたの?大丈夫?』

 みりあの耳にも届いたらしい。私はあぁ、と頷いた。

「すまない――ちょっと、気分が悪い」

『え?大丈夫!?ねぇ鈴、本当に大丈夫!?』

「大丈夫……ちょっと二日酔い気味なんだ」

 私はでたらめをいった。昨晩、酒なんて一滴も飲んでいない。本気で心配してくれているらしい彼女を思うと、罪悪感に少し胸が痛んだ。

『そう』

 彼女は納得したようだった。

『じゃぁちゃんと薬飲んで、ねちゃってね。二日酔いなんて、鈴らしくもない』

「私だって何時までも酒に強いぐらい若くはないよ」

『あら。そんなこといわないでよ。私だって若くないってことじゃない?それって』

「お前は何時までも綺麗だと思うよ」

『お世辞いっちゃって。鈴がいうと嫌味にしかならないよ』

「お世辞じゃない。本当だよ……すまない。そろそろ切るよ」

『あぁ……うん。気分が落ち着いたら、またメール頂戴?』

「わかった……」

 通話を切って、私は携帯電話をベッドのサイドボードに置いた。冷えた肩を、男の無骨な手が擦っている。

「えらい、優しげな声でしゃべっとったな」

「人の会話を盗み聞きか」

「こんな至近距離、盗み聞きもなにもあらへんやん」

「ま、そうだが」

「で、どちらさんなん?」

「幼馴染」

 私を、暗闇の縁から救い上げてくれた、唯一無二の人。

 男は私を抱いて、布団を引き上げた。その手はそのまま、私の指を絡め取る。

「冷えてしもとうなぁ」

「随分……寒くなったからな」

 もう師走だ。クリスマスまで、あと三週間弱。初雪はまだだが、そろそろではないかと天気予報士が期待に顔を綻ばせて囁いていた。そんな時期なのだ。

 男は絡め取った私の指先に、そのままその渇いた唇を押し付けた。昨晩、私の躰を愛した唇。

「ちょっと嫉妬するわ」

 男は唇を押し当てたまま、笑みの形をとって言った。

「何故?」

「鈴さんの声、聞いたこともないぐらいに甘かった」

「……あぁ」

 そうだろう。自分ですら、甘いと思うのだから。

「彼女の為に、私は男になりたかったよ」

 私は嘯いた。本当だった。彼女を愛していた。誰よりも。だから今までどんな男も私の心をすり抜けていった。

「好きやねんなぁ」

 私の吐いた言葉の意味を、嗤うわけでもなく、追求するわけでもなく、男は言った。

 私は微笑んで頷いた。

「うん」

「ジェラシィ」

「馬鹿いうな。お前、私がなんでこんなに疲れて彼女からの帰郷の誘いを突っぱねたか、判ってるのか?」

「んー?」

 なんで、と男は尋ねてくる。私は彼の鼻をきつく摘んでやった。

「うわ!何しよるんよおねーさん!」

「あー眠い。誰かが疲れさせたからな」

 ねよねよ、と私は布団を引き寄せ、男に背を向けた。男は軽く上半身を起こして、私を覗き込んでいるようだった。

「お鈴さん、お昼ごはんの時間ですよ。なんか作ってくれへんかなぁ?」

「コンビニにでもいってこい」

「うっわ冷たい。お腹すかへんのん?」

「空いているけど、作るのが面倒。たまにはお前が作れ」

「パンが消し炭になるんでえぇんやったら作れるけど」

「はぁ?」

 私は思わず寝返りを打って、男を見返していた。

「おまえ、パンなんてトースターにぶちこんでつまみを二分だか三分だか捻るだけだろう。なんで消し炭になるんだ」

「前、バターを塗って焼いただけやのに、トースターから火がでてなぁ」

「……経験云々の前に、料理の才能が絶望的にないんじゃないのか?」

 こいつと親しく言葉を交わすようになったのも、そもそもこいつが飢え死にしそうになって私の家の前でうずくまっていやがったからだった。料理が下手なのはわかっていたが、そこまでとなると本気、絶望的だ。パンを焼く行為自体、料理以前の話だろうに。

 しかたない、と、私はのろのろ身体を起こした。私も空腹なのは確かだった。だが身体の気だるさがそれを上回っていたのだ。私一人だったなら、確実に食事を抜いているだろう。だからそんなに痩せてしまうのよ、という幼馴染の声が脳裏に閃いて、私は笑った。

 と。

 のしっ

「……おい」

「はいはぃ?」

「腹が減ったと泣く子の為に、私は今から昼食を作りに台所へ向かおうとしているのに、何故泣いた当人が私の行動の邪魔をする?」

「腹は減ったけど、その前に前菜ももらとこうかと思いまして」

「前菜?」

 男は目を細めた。悪戯を思いついた子供のような眼差しをして、男は私の唇の縁を舐める。

「そう。前菜」

 その意味するところを汲み取って、私は呆れ眼で男を見上げる。

「あのなぁ」

「君がわるいんやで」

 男は言った。珍しく、暗い光をその黒耀の双眸の奥深くに宿して。

「私が?」

「そう」

 男は頷き、私の首筋に唇を触れさせる。くぐもった、それでいて背中を粟立たせる甘い声が、鼓膜を震わせた。

「あないな顔して、別のだれか好きやなんて、いうもんとちゃうよ」


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