突撃、隣の晩御飯
今日も私は、理由も判らず、二人分の食事を作っている。
「突撃、隣の晩御飯の時間でーす」
夜八時。決まった時間に男は夕飯をたかりにやってくる。
私は嘆息して、男を一瞥した。座れ、と目で合図を送る。
男は大人しく炬燵に入り、勝手にテレビのスイッチを入れた。芸能人の馬鹿さ加減をクイズ番組の司会者が嗤っている。
電子レンジの表面に映りこむ男の姿を視界に入れてから、私は吹き零れ始めた鍋のスイッチを切った。戸棚から皿を出して、丁寧に、見栄えよく盛り付ける。適当でもかまわなかったが、こうして飾りつけるのは一種の趣味のようなものだった。ただ、毎日を消化していく中で、これぐらいの楽しみはあってもいいだろう。
ふと、私はテレビの音がいつの間にか消えていることに気がついた。同時、背後に男が立っていることにも。
「今日の晩御飯はなんなん?」
関西の柔らかいイントネーションで、男が尋ねてくる。私は並べた皿を見下ろしながら答えた。
「豆腐とササミのサラダ、大根の煮物、ビーフシチュー」
「えっらい和洋折衷やなぁ」
「文句があるなら食べるな」
「そないなことゆーとらへんやん。ただ和洋折衷やなぁゆーとるだけやん。捻くれた風にとらんといてよ。なぁ?」
男は黒曜石のような黒い瞳を悪戯っぽく微笑に細めた。背筋を粟立たせるような、美しい瞳。初めてコイツにあったときも、私は思ったのだ。
きゅう、と笑みに細められるその黒曜。
なんて美しいのだろうと。
いけない、と私は軽く頭を振った。男の手が、私に伸びてきている。私の髪に彼の指先が触れる前に、私は素早く男の手に既に食事を盛り付けた皿を押し付けた。
「運べ」
男は、少し機嫌を損ねたようだ。
「……なんつーかあれやね。シチュとか台無しな感じやね」
正確にいうなら、拗ねたようだ。
「私のシチューは絶品だぞ言っておくが」
「そうやないって」
男のいう意味がわからぬほど私は鈍感でもない。私はあえてそ知らぬふりをして、料理の載った盆を持ちながら、男の脇をすり抜けた。炬燵の天板の上に綺麗にそれらを並べ置いて、私は炬燵布団を捲り上げた。足を入れると暖かさが身に染みる。手狭な台所には当然ヒーターなど置くスペースもなく、本格的な冬にはまだ早いとはいえ、料理をしている最中はかなり冷えるのだ。
「さっさと持ってこい」
「はいはい」
男は炬燵を挟んで私と向き直った。テーブルの上に押し付けられた皿をそっと置く。
「戴きます」
「いただきまーす」
テレビの音は消えたわけではなかった。邪魔にならない程度に、ボリュームが絞られているだけだった。
リモコンを操作して、男がテレビの音量を上げる。が、男はテレビを見ることが目的ではないようで、男の眼差しは料理と私の狭間をうろうろしている。上げた音量も私達の会話に紛れてしまう程度だった。
私は大根の煮物に箸をつけながら呻いた。
「まったく、なんで私がお前に晩飯を作ってやらなきゃいけないんだ?」
男はビーフシチューを掬うスプーンの手を止めて面を上げた。
「材料費はちゃんといれとるやんか」
「そういう問題か?」
「だって僕、お鈴さんの料理じゃないともう食えへんわ。あかんな。飢え死にしそうなときに恵んでもろたもんが、あないに旨いもんやったらホンマあかんわ。舌が肥えてもうておいそれと自分で作ったりはでけへん」
「お前料理下手だしな」
「下手ちゃう。あんま作ったことがないだけや」
「じゃぁ訂正してやろう。現在、下手だしな」
くつくつと私は笑い、男の顔を窺い見た。男は半眼で私を見下ろしている。彼の口端に、薄い笑み。
「いぢめっこやなぁ」
「結構だ。早く食べろよ。片付かない」
私は少食で、盛り付けた量もたかが知れている。既にほとんど食事を終えていた。
一方彼はよく食べた。彼はいつも、私の作る料理を舐めるように綺麗に平らげる。男は笑い、食事を再開した。私は炬燵の天板に頬杖をついてテレビを観賞しながら男が食べ終わるのを待った。
毎日、こんな風に夜を過ごすようになったきっかけは、そもそも隣に越してきたこいつが空腹で死にそうな顔をして、私の部屋を尋ねてきたからだ。何かを恵んでやらなければこいつは死ぬ。そう思わせるに値するほどの蒼白な顔は、今でも私の笑いの種だ。
こいつが隣に引っ越してきた当日は、覚えている。
「あぁ、よかったわぁ。東京の人たちって、えらい冷たいんやなぁって、思ってもたわ」
玄関の扉の向こうで、見知らぬ男はそう言った。細められた漆黒の目。その眦に細い笑い皺が出来ている。子供が顔をくしゃくしゃにして笑うときのような、破顔、という表現そのままの満面の笑みだった。
私は扉を開けたものの、掛かっていないチェーンロックに意識を取られていた。大都会で、女の一人暮らし。家に居るときも鍵をかけてチェーンロックをかけるのは癖づいていた。だから私は見知らぬ来訪者に対して扉を開けたのだ。チェーンさえ掛かっていれば、万が一相手が問題ありだったとしても、侵入を阻むことができる。
が、今日に限って、チェーンは掛かっていなかった。
いつもなら、私は即座に扉を閉めようとするだろう。相手が強盗であれ、単なる訪問勧誘であれ、面倒なことになることは目に見えている。
が、私は何故か、二の句をつけぬまま、その場に立ち竦んでいた。扉のノブと、壁の縁に手をかけたまま、男を見上げていたのだ。男はそんな私の様相に小さく首を傾げたが、再び微笑んで言った。
「隣に越してきた、ツヅラです。ツヅラ・ヨウ、いいます」
どうやらこのマンションで、呼び出し鈴に応じたのは私だけだったらしい。阪急と刻印の押された紙袋いっぱいに詰まった引越し蕎麦。隣人の分まで私は蕎麦を押し付けられて――今も戸棚の中に、仕舞いこまれている。
テレビの中の話題が切り替わり、冬支度の話になる。アナウンサーは笑う。もうすぐ、クリスマスですね。もうすぐ、年末ですね。もうすぐ、だと?まだ一月以上もあるんだぞ。
年末の話で、私は戸棚に仕舞いこまれた蕎麦を年越し蕎麦にするか、と算段をつけた。二人で食べても余るな、と思いかけ、私は自問した。何故、年越しまでこの男と過ごすこと前提で考えているんだ私は。
ちらりと視線を投げた先には、丁度食事を終える男の姿があった。黒葛耀。どうしてこの男に、私は毎日食事を作ってやっているんだろう。毎日、自問している。そしてあっさり答えは出るのだ。
「ごちそうさんでしたぁ!」
両手を合わせて、子供みたいに、美味しかった、と彼はいう。
毎日欠かさず。
あぁ、最初の日もそうだった。きゅぅ、と黒耀の目を細めて、男は破顔したのだ。
思いがけなく美しいと思ったその瞳。
その瞳がさらに色を深くして、煌く一瞬を見たくて、私はこうやって男に食事を作っているのだ。