日だまりにアネモネを
「ねえ、お姉さま。お姉さまは今幸せでいらっしゃる?」
末の妹が少し憮然とした表情で、突然そんなことを言った。
寒さも和らぎ、日射しの暖かいうららかな春の午後。心地よい風が、庭園の隅に植えられた沈丁花の香りと一緒に、子どもたちのはしゃぐ声を運んで来る。
久しぶりの里帰りを、子どもたちは随分と楽しんでいるようだ。それも無理はない。他国へ嫁した身としては、そうそう簡単に里帰りなどできようはずもない。
実際、今回は里帰りと言ってもその実、公務に等しいのだ。弟である第五王子の婚礼の儀に、夫の名代として出席するための帰国に他ならないのだから。
そういった窮屈な生き方しか自分たちには許されていないのだ。
「お姉さまったら、聞いていらっしゃるの?」
そんなことをぼんやりと考えていると、拗ねたような声が横合いから掛かって、我に返ったエルフリーデは視線を妹へ移した。
久しく会っていなかった十歳も年下の妹は、随分と大きくはなっていたが、エルフリーデの目にはまだまだ子どものように映った。かわいらしい口元を不満そうにすぼめたりするしぐさに幼さを感じて、思わず口元にほのかな笑みが浮かぶ。
「聞いているわ、ゼラフィーネ。でも、そんなことを聞くなんて急にどうしたの?」
そう聞き返すと、ゼラフィーネは言いよどむ様に手元の紅茶に視線を落とした。
「……お姉さまのご結婚は、お父さまたちがお決めになられたことなのでしょう? 旦那さまと初めてお会いになったのだって、婚礼の儀の日だったってお聞きしました。だから……その」
妹の言わんとすることが分かって、エルフリーデは苦笑した。
「政略結婚で本当に幸せになれるのかを心配しているのね」
核心をつくと、ゼラフィーネはうろたえたように視線を彷徨わせた。頬がほのかに染まっているように見える。
「お母さまがおっしゃっていたわ。あなたにもそろそろ誰か探してあげないとって。……まあ、順番的にはどうなるかまだ分からないけれど」
ちらりともう一人の妹に目を向ける。
同じテーブルを囲んでいるアウレリアは、聞こえていないはずがないのに、我関せずという態度で料理長ご自慢の焼き立てスコーンにクリームをこってりと塗りたくってかぶりついている。
スコーンを口いっぱいに頬張ってもなお、彼女は無表情だった。めったに表情を動かさない彼女だが、所作などで何となく感情の動きは読み取れる。今は大好物のスコーンを思う存分堪能できる幸せを噛みしめているようだ。
身長が低く、童顔のために年齢の割に幼く見えるアウレリアが口をいっぱいにして無心に咀嚼する様は、栗鼠が頬袋を膨らませているようでほほえましい。
アウレリアはゼラフィーネの六歳年上だ。年齢的にはもうどこかに嫁いでいてもおかしくないどころか、多少嫁き遅れの感も拭えないのだが、いまだその気配はない。諸事情があり、両親も気を使ってせっつくことができずにいる。エルフリーデには他にも未婚の弟たちが三人いるが、一番心配なのはやはりアウレリアだった。
エルフリーデの物言いたげな視線に気付いていながら、アウレリアは口の中の物を飲み下す前に二つ目のスコーンに手を伸ばした。無言で半分にぱかりと割ると、クリームをたっぷりと乗せて再びかぶりつく。
会話に参加する気のない妹にエルフリーデは物憂げなため息をひとつつくと、ゼラフィーネに向き直った。
「確かにわたくしたちは政略結婚だったわ。初めて旦那様にお会いしたのも婚礼の儀の直前で、不安もたくさんあったのよ。何も知らないひとと急に夫婦になれるのかしら、生まれた国を離れてうまくやって行けるかしら、知らない人の中で失敗したりはしないかしらって」
ゼラフィーネは真剣なまなざしで耳を傾けている。
「でもね、間違っていたの。そもそも、どんなによく知っている人でも、急に非の打ちどころのない夫婦になるなんて無理な話なのよ」
思いもよらない言葉だったのか、ゼラフィーネは翡翠色の瞳をぱちりと瞬いた。
「今まで違う生活をしていたふたりが、急に生活を共にし始めるのよ。問題が起きない訳がないじゃない」
そう言うと、ゼラフィーネはしゅんと肩を落とした。
青菜に塩を振ったように元気を失った彼女の素直さが面白くて、エルフリーデは、ふふっと小さな笑いをこぼした。
「ああ、勘違いはしないで頂戴ね。わたくしは十分に幸せだと思っているわ。それに、幸せでなかったら子どもを三人も授かる訳がないと思わない?」
エルフリーデのなだめるような声に、ゼラフィーネが顔をあげる。納得していないその表情に頷きかけて、エルフリーデは言葉をつづけた。
「どんな夫婦にだって多少の問題はあるものよ。最初から順風満帆、喧嘩のひとつもない夫婦なんてきっとどこを探してもいないんじゃないかしら」
「……じゃあ、お姉さまも旦那さまと喧嘩をなさるの?」
少し驚いたように目を見開き、ゼラフィーネが問う。
穏やかな気質のエルフリーデは、めったに怒ることはないし、ましてや十歳も年下の妹に対して、諭すことはあっても感情的になることはなかった。だからきっと彼女は驚いたのだろう。
「喧嘩……も、まあゼロではないわ。喧嘩だけではなくて、お互い譲ったり譲られたり、我慢も必要だし、我慢できないことならお互いに理解できるまで話し合いをしたり。そういうことが少なからず必要よ。でもそれは、わたくしたちが政略結婚だからという訳ではなくて、どの夫婦にとっても同じことなの」
「ディートリヒお兄さまとレティツィアお義姉さまも?」
「きっとそうね」
エルフリーデは義妹となったレティツィアとはまだ挨拶程度の言葉しか交わしていないが、ゼラフィーネは親しくやり取りがあり、随分となついているようだ。
妹にとって兄である第五王子が自ら選んで妃に迎えた義姉は特別な人物のようだった。政略結婚が当たり前だと思っていたゼラフィーネにとって、彼らの絆はとても美しく映ったに違いない。年若い妹はまだまだ無邪気で夢見がちなのである。
年頃の娘ともなれば、恋に夢見たりもするものだろう。それがいけないことだとは思わない。だが、自分たちは王族であることを忘れてはならない。王族には王族の、果たさなければならない努めがあるのだ。
けれど、そこにあるのは何も絶望だけではない。どんな状況になろうと、自分次第で人生をより素晴らしいものにすることができるのだとエルフリーデは信じている。
「わたくしは幸せよ。この国を離れて、あなたやアウレリアと会えないのは少し寂しいけれど、その代わりに愛する家族がいるのですもの」
「では、お姉さまは旦那さまを愛していらっしゃるのね。旦那さまに恋することができたの?」
ゼラフィーネの無垢な瞳がエルフリーデを映す。
純粋な瞳の輝きに、何故か少し胸が痛んだ。
「恋……というのとは少し違うけれど。わたくしは旦那さまを愛しているわ」
「ひとは、恋をしたひとを愛するのではないの?」
「そうね、そういう場合もあるのでしょうね。でも、恋と愛は……別物なのだとわたくしは思うわ」
そう答えると、ゼラフィーネは複雑そうな顔をして黙り込んだ。
その様子に、エルフリーデはひとつの可能性に思い至る。
もしかして妹は、誰かに恋をしているのではないだろうか。
おそらくは、叶わぬ恋を。
かわいい妹の初めての恋なのであれば、応援してあげたい気持ちはある。だが、軽はずみに口にできることでないことは身にしみてわかっている。
エルフリーデは言葉を探したが、結局何も言うことはできず、口をつぐんだ。
気まずい沈黙が三人の間に流れ、エルフリーデは何かをごまかすように紅茶を飲み下す。紅茶に浮かべたレモンの爽やかな香りが鼻をくすぐった。
「……そうだわ、お姉さま。わたくし、今年の御前試合で『祝福の乙女』をやることになりましたの」
ゼラフィーネが空気を変えるように明るい声で話題の転換をする。場の空気が少し弛緩したことで、エルフリーデはほっと息をついた。
「まあ、もうそんな時期なのね」
御前試合とは、腕自慢たちが集い、王の前でその強さを競う武術の試合のことである。身分の別によらず幅広い層から参加者を募り、勝ち抜き戦により優勝者を決め、優勝した者には王からの褒賞が与えられる。毎年行われるこの行事は、参加者の数にもよるが、一週間程度の期間で開催され、城下も巻き込んで大変な騒ぎになるのだ。
『祝福の乙女』とは、優勝者をねぎらう役目のことであり、毎年貴族階級の未婚の女性からひとり選出される。優勝者は『祝福の乙女』から月桂樹の冠を与えられ、『祝福の乙女』に触れられる栄誉を得るのだ。
「アウレリアお姉さまも七年前なさったのよね」
ゼラフィーネが小首をかしげるように同意を求めると、アウレリアはもぐもぐと咀嚼を続けながらこくりと頷いた。長く伸ばした艶のある黒髪が背中でさらりと揺れる。
無言なのは彼女が無口だからだ。決して口の中がいっぱいでしゃべれないからではない。たぶん。
「それじゃあ、今年は出場者がますます増えるんじゃないかしら。あなたは人気者だと聞いているもの」
エルフリーデがそう言うと、ゼラフィーネはぽっと頬を染めてはにかんだように微笑んだ。
『祝福の乙女』の人気具合によって出場者数に変動があるのは公然たる事実だ。出場者の目当ては褒賞だったり、名前をあげることだったりとさまざまだが、その中には一目『祝福の乙女』に会いたい、などという切実な願いも含まれるのである。
「八年前が今までで一番多かったとお聞きしましたわ。八年前はお姉さまが乙女をなさったのでしょう?」
エルフリーデは懐かしさに目を細めた。
「懐かしいわね。わたくしがまだ十六歳の時だったわ」
「八年前はどなたが優勝なさったんですの?」
ゼラフィーネの何気ない問いに、エルフリーデは瞬間言葉に詰まった。
「……確か、マンフレート卿……だったわ」
わずかに震える声を聞き咎められたりはしないかと不安に思ったが、ゼラフィーネは特に何も気にしていないようだった。
「マンフレート卿……、ああ、騎士団の副団長をなさっている方ですわね」
妹の言葉で、まだ騎士として王家に仕えてくれていることを知る。当時は一介の騎士のひとりだった。八年の間に、騎士団の副団長という名誉ある立場まで上り詰めたのだろう。
エルフリーデは知らず詰めていた息を吐き出した。
「……そう」
心の中を満たすこの感情は何と表現すればいいのだろう。
若かりし日に心の奥底に沈めた気持ちは、八年の間にその形を変えていて、到底同じものとは呼べなかった。
視線を手元の紅茶に落として、ゆらゆらと揺れる表面を眺めていると、ゼラフィーネが思い出したように声をあげた。
「マンフレート卿といえば――」
* * * * * * * * *
太陽が傾き、空が紅色に染まった頃、エルフリーデはひとり庭園を歩いていた。子どもたちは遊び疲れて寝てしまったので、メイドに任せて気分転換に散歩に出たのだ。
懐かしい庭園をあてもなく歩き、やがてたどり着いた東屋の椅子に腰かけた。
ぼんやりと周囲に目を向けると、花壇の中ではアネモネの蕾が風に揺れている。
どれほどそうしていただろうか。
気付けばあたりは既に暗く、城内のあちこちで灯のともる時間になっていた。
そろそろ戻らねば、子どもたちが起きだしているかもしれない。
そう思いながらも、足は動くこともなく、エルフリーデはただぼんやりと花壇を眺め続けた。
こうして庭園にいると、あの頃に戻ったような気分になって、妙な期待をしてしまう。
もう八年も経ったというのに。
あの頃より随分大人になって、現実を知って。心に折り合いをつけて、自分を説き伏せて。そうして今までうまくやってきたつもりだったし、事実自分自身が受け入れた今の生活には満足している。非の打ちどころのない夫に、かわいい子どもたち。これ以上の幸せがあるだろうか。
わかっているのだ。
失ったものを取り戻すことなどできない。
今の幸せを壊すことなどできない。
ああ、それでも。
あれは間違いなく自分の人生の中で特別な時間だったのだ。
……少し、疲れているのかもしれない。
か細いため息が口元からこぼれ落ちた時だった。
「エルフリーデさま……」
背後からかけられた懐かしい声に、エルフリーデは息を飲んだ。
跳ねるような心臓の鼓動に、エルフリーデは胸を押さえた。
息を落ち着けて、ゆっくりと振りかえる。
「……マンフレート」
そこにはかつての騎士が少し困ったような表情で立ちつくしていた。
「……帰国されたとはうかがっておりましたが、よもやこのようなところでお目にかかろうとは」
エルフリーデの前まで来ると、彼は優雅にマントをさばき片膝をついて頭を下げる。
「久しぶりね」
そう声をかけると、彼は精悍な顔をあげて微笑んだ。
「お元気そうでなによりでございます」
八年の年月を経て、傷が増えていたりと幾分変わったところもあるようだが、人懐っこい笑顔だけは変わらない。そのことに少しだけ安堵して、エルフリーデは口元を緩めた。
「あなたは覚えていて? ……よくここであなたとお話したわね」
「覚えておりますとも」
庭園の端にあるこの東屋は、生垣がうまく城内からの眼隠しになっていて、人目を忍ぶ穴場なのだ。
ふたりはよくここで会っていた。
昼食を終えると、エルフリーデは本を読みながらこの東屋でマンフレートを待った。彼は短い昼休みを割いて他愛もない話に付き合ってくれた。
そう、ただ話をするだけ。それ以上のことは何もない。
エルフリーデはマンフレートに気持ちを打ち明けたことはないし、マンフレートもまた同じだった。
当時、エルフリーデは他国へ嫁ぐことが既に決まっていたし、マンフレートは一介の騎士であり、王女を娶るような身分ではない。この恋が成就しないことは明白であったし、現実をよく知っているエルフリーデは、多くを望まなかった。ただ思い出のよすがとなる彼との時間があればそれでいいと思っていたのだ。
マンフレートは自らの身分をよくわかっており、エルフリーデに必要以上に近づくことをしなかった。身分の差をそのまま自分たちの距離として線を引き、いつも優しく微笑んでエルフリーデの話に耳を傾けた。
その彼が、ただ一度だけ、エルフリーデに触れたことがある。
「もうすぐ御前試合の時期ね。あなたも出るの?」
エルフリーデがそう言うと、マンフレートは淡く微笑んだ。
いいえ、とひそやかな声が空気を震わせる。
「あれ以来は、一度も」
「……そう」
瞬間、胸の内に熱が沸き起こる。
彼の中でも特別な出来事として、心の中にしまっておいてくれたのだとわかって、エルフリーデは歓喜した。
それはあの時の感情ととてもよく似ていて、いやがおうにも思い出してしまう。
八年前の御前試合の直前、彼は言ったのだ。
必ず優勝してあなたに触れる栄誉を手に入れる、と。
その言葉はどれほど嬉しかっただろう。
頑なに自分との一線を引き続ける彼にはもしや、自分の気持ちなど迷惑でしかないのかもしれないと思い始めていたエルフリーデは、彼の内に秘めた情熱を知って喜びの涙を流した。
そして彼は言葉通り、それを成し遂げたのだ。
衆目の中、エルフリーデは震える手で跪いた彼の頭に月桂樹の冠を被せ、マンフレートはエルフリーデの手を恭しく捧げ持って、そっと手の甲に口づけた。
それがどんな意味を持つ行為なのか、ふたり以外は誰も知らない。
膝も手も震えて、気を抜けば泣いてしまいそうだった。
跪いたまま見上げたマンフレートの優しい目元を昨日のことのように覚えている。
多くの目が集中する中にありながら、それはとても密やかに。
ふたりの最初で最後の触れ合いは、そうして果たされたのだ。
翌日、エルフリーデはいつもと同じように読みかけの本を持って東屋へ向かった。
いつも通り静かで落ち着く場所には、ひとつだけいつもと違うところがあった。日だまりに置かれた椅子の上には一輪の赤いアネモネが置かれていたのだ。
エルフリーデはアネモネをそっと手に取ると、椅子に座った。本を開く気にならず、ただ手の中のアネモネを眺めながら日が傾くまで待ってみたが、マンフレートはついに現れなかった。
それを最後に、エルフリーデは彼に別れを告げることもなく、隣国へと旅立った。
「もうすぐお子さんがお生まれになるんですってね」
エルフリーデの言葉にマンフレートは静かに頷いた。
ゼラフィーネが言っていたのだ。マンフレートは二年前に結婚して、もうすぐ第一子が誕生予定だと。名のある騎士だけに、散々騒がれたようだと妹は言っていた。
「幸せなのね……良かった」
そう言うと、彼は優しい笑みを浮かべた。
エルフリーデは満ち足りた気分になって、微笑んだ。
それなら、何も言うことはないのだ。
彼が幸せなら、それだけでいい。
「……ねえ、赤いアネモネの花言葉を知っている?」
エルフリーデの問いかけに、彼は微笑んだまま返事を返すことはなかった。
跪いたままもう一度頭を下げると、彼は綺麗な身のこなしで立ち上がり、マントを翻して去って行った。その後ろ姿を見送って、エルフリーデはまたアネモネの蕾に視線を向ける。
赤いアネモネの花言葉は『君を愛す』。
だが、アネモネ全体の花言葉は『はかない恋』。
あれから、アネモネはエルフリーデにとって特別な花になった。
ひとときの夢を見ているかのような美しい思い出の中に、赤いアネモネはいつも綺麗に咲き誇っている。それはこれからも変わらないだろう。
家族のことは愛している。大切なものだし、かけがえのないものだ。
けれど、それとは別のところに、彼との思い出が大切にしまわれているのもまた事実だった。
きっと死ぬまで忘れることはないだろう。誰にも明かすつもりはないけれど。
時々は心の奥底からそっと取り出して、眺めるくらいなら許されるだろうか。
この手に掴み損ねたもの。
あの時、行動を起こしていれば、何かが変わったのかもしれない。
そう思ったことは一度や二度ではない。
それでも、もうすべては過去のことなのだ。
今では、これでよかったのだと思える。
心を満たす暖かな日だまりのようなこの気持ちは、間違いようもなく今の自分が作り出したものなのだから。
遠くから自分を呼ぶ子どもたちの声が聞こえる。
どうやら目が覚めたようだ。
母を探すその声に、柔らかな笑いをこぼしてエルフリーデは立ち上がった。
視界の隅では、アネモネの蕾が優しげに揺れていた。