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○はじめに鉛筆とノートを用意してくれたことに感謝しよう。
落ち着こう。冷静に。僕は充分、冷静。
こんな言葉を書いておく。
人間は考える葦。無知の知。我思う故に我あり。
はじめに言葉ありき。そう、だから、僕は書く。
書くしか今はできることがない。
ここには窓がない。出口も入り口もない。時計もないし台所もトイレも家具もない。
電気もない。天井もない。高い。色がない。匂いもしない。音もない。
ここは白い丸い部屋だ。
机がある。イスがある。A4ノート、鉛筆がある。ベッドがある。
白いワンピース、白いパンツ、白い草履。
消しゴムはないし布団も枕もない。
トイレもない。
順序だてて、今の状態が理解できるよう記憶を整理してみなければならない。
今日は、あれから一日経ってるとしたら、2007年6月7日。
いつもの様に起き、パンとコーヒーと果物、新聞に眼を通しながら時間を気にして子供にキス。
いつもの電車に乗った。特別変わったことなど何もなかった。何も思い出せることなどない。
片手は吊革にもう一つは鞄を抱きかかえ眼を閉じ時々、窓の外の景色を見てどの辺りを走っているのか、
今何時かまで正確にわかる。
気がつくと、太陽が照り付ける砂漠にいた。
考える余裕もなく大きな音、爆音、さっと周りが日陰になって、空から何かがあっと言う間もなかった。
覚えているのはそこまで。あれは今考えると、爆弾か?僕は死んだの?
でも、電車に乗って、砂漠に?美津子や良太は知ってる?なんで爆弾が?
生徒たちはどうなった? そもそも俺は?カバンはどこ?この服はなんだ?
どこも痛くない。五感も正常。手も足も腕も頭もはっきり。
確か、何か聞こえたんだ。耳に聞こえて、確か気持ちよかった。
さわやかな風が吹いてる感じ。暗い中、光の粒が見えてきて広がって。
体が震えるたように思う。
そして目が覚めた。とびおきた。明るい部屋だが窓がない。ドアがない。
椅子が一つ。やわらかなベッド、部屋の真ん中にある。どこにも出入り口がない。
テーブルが一つ。白紙のノートと鉛筆。周りは白一色。
テレビもないし音もない。どこにも出られそうにない。狭い部屋。
風なんてどこからも吹いてない。吹いて来ようがない。何か聞こえたのは気のせいか。
そして、すべてを思い出した。
ここはどうやら病院ではない。特有の匂いもない。
それらしき機械はないし、体には管もついてない。鼻にチューブもついてない。変な服装。
だが、病院でないなら、ここはどこだ? なんでこんなところに?
もしかして、死んだのか。これが死後の世界?
いろんな記憶を思い浮かべる。すべてはっきりしてる。思い出したくない記憶まで全部ある。
今の僕につながる全ての記憶が確かにある。手足や体は動く。思い通りに動く。
俺は明らかに俺だ。つまり俺は生きてる。すると、どうなる?
死後の世界ってのは、ほんとにあるのか?覚えている最後の記憶によれば、僕は死んでる。
なんせ爆弾が落ちてきた。でも死ぬ瞬間を覚えてる。死ぬ瞬間を覚えているだって?
誰が?どうやって?いつ?
そうか、それが生きてる証拠だ。死んでないってこと。
これは夢だ。それ以外に何がある?
ここは、それとも異空間、異次元世界か?なんでもありの世界?
一体、この俺に何が起こった?
○冷静になろう。冷静に。
僕は進学塾の英語講師、家族を持った、大阪生まれで浮気歴なし、両親健在、多彩な趣味を持つ、
健康で新車をそろそろ買う、37歳の男。妻は美津子。子供は良太。
その他、挙げればきりがない。マンションのローンも残ってる。
死後の世界なんてありえない。異空間・異次元世界、そんなものはない。
そんなものがある訳ない。
紙もない。
知覚を操作されたのか?記憶を勝手に変えられた?
それなら今を、どう理解すればいい?