リストカット
この世界には、沢山の人々がいる。
売春をする少女、少女を買う男。
他者との関わりを拒絶して家に引き籠る青年。
若い男と浮気をする四十代の人妻。
二次元の世界に没頭するあまりダッチワイフしか愛せなくなった男。
追われる人間、追う人間。壊す人、作る人。
渋谷のスクランブル交差点。人々のすれ違い。
楓は、高校一年生の女子校に通う学生。普通に学校に通う事にも飽きて、最近はほとんど学校にはいっていない。
朝起きて制服に着替え外出をする。ここまでは普通の女子高生だ。しかし楓は「いってきます。」の言葉と共にドアを開けた瞬間、ふわふわと浮遊する迷子の風船へと変わる。
楓の家族は、父と母と楓の三人家族。学校に行ってないことはもちろん両親には隠しているがばれるのも時間の問題だろう。
楓にはもう一つ。誰にもいえない秘密がある。それは左手首のリストカットの跡だ。
三本の線が薄らと浅い瘡蓋を作り、皮膚の上を覆っている。それは今まで楓が通ってきた苦しみのレールの数だったのかもしれない。
いつも怖くて深く刺せなくて結局、死の淵まで到達したことはまだない。と、いってももし到達していたら今ここにはいないだろう。
でも今でも楓は強く願っている。死にたいと。学校の友達に不満はない、もちろん家族にも、でも満足もしていなかった。そしてなによりもそれらのものと切れてみたかった。
楓は普段、手首の傷をレザーのブレスレットで隠している。楓の手首に敷かれた三本のラインはきっと楓と他者を分ける国境でもあるだろうし、楓自身でもあるだろう。
このラインのおかげで楓は、人と話す時どこか距離感をとって接する事ができる。
楓にとってその傷はいわば心の防波堤のようなものっだった。
今日も楓は池袋の西武口、パルコ周辺をふらつきながら煙草をふかしていた。
天気はよく、雲も少なく空が青い。足は地面についているがまるで浮いているような感じがする。
横断歩道を渡っていると後ろから男が声をかけてきた。
「ねえねえお姉さん、もし暇してたらこれから一緒に御飯でも食べいかない?」
楓が振り返るとそこには、茶髪に長髪で見るからに遊んでいそうな男がいた。
「俺おごるよ?どう?」
男を無視して横断歩道を足早に渡る楓にしつこくついてくる。
「いや、これから予定があるんでいいです。」
前を向き歩く楓。後ろから声をかけ続ける男。
「そんなの嘘でしょ?昼間から制服きてこんなとこいるんだし、学校ばっくれて来たんじゃないの?」
「すいません。ほんとに予定あるんで・・・」
楓がほんとに興味がない事を悟ったのか、男は一瞬の沈黙の後こう呟いた。
「ちっ、つれねえなあ。調子こくんじゃねえよブス。」
楓が立ち止り、後ろを振り返るともうすでに背を向けて雑踏の中へと消えてゆく男の姿があった。
そんな男の姿をみて、自分があんな奴にしか必要にされていないと思うともどかしくて
悲しくて足の先から頭のてっぺんまで行き場のない不安感が駆け巡った。
実は、今日。本当に死のうと思っている。楓には計画があった。
その計画は六日前、出会い系サイトで知り合ったある男と会う約束をした時から動き出した。
暇つぶしのつもりでやっていた出会い系サイト。
男は、トモキと名乗り楓に体を要求してきた。
楓とトモキは、池袋にある、あるラブホテルで四時におちあう約束をした。
トモキには、楓が先に部屋をとり待っているとそう伝えてある。
楓は、今までに二人の男と関係をもった事があるが、下半身に異物感を感じるだけでまだ一度も快楽を得たことはなかった。
きっとそれもこの傷が壁を作っているからだろうか。楓にとってその行為は、まるで生きてるここちがしなくてただ疲れるだけのものだった。
もっとも楓はトモキの顔も知らないし興味もない。
ただのこのショーの傍観人。
自殺の後片付けをするだけの存在でその気などまったくなかった。
要するに、別にトモキじゃなくても誰でもいいのだ。
二時十分、楓は待ち合わせのホテルに着いた。
仕切りで、顔は見えないが声の感じからして五十代後半ぐらいであろうか、受付の男に部屋番号を伝えてチェックインする。
顔がみえないその相手に向かって楓は、後からトモキが来ることを伝えた。
エレベーターに乗りながら、大理石を模したプリントであろう床と金メッキをあしらった偽りの楽園は、自分にとって相応しい死に場所だろうと楓は思った。
部屋に入ると丸くて大きな回転するベットがあり、かなり大きいテレビにゲーム、天井には銀色に輝くミラーボールが取り付けられていて、間接照明からの光をうけて部屋の中を照らしていた。
楓は淡い光がクロスする天井を見上げ、ミラーボールに視線を移して「死んだらあの星にいくのだろうか」と呟いてみた。
ガラスで囲われた空間の中にはジャグジー風呂があり、ぶくぶくと膨れる泡の気泡を下からブルーのライトがてらしていた。
楓は、服を脱ぎ捨てて裸になり、ポーチの中からI時型の鋭いカミソリを取り出した。
それを右手に握りしめ、裸の自分を鏡の中におしいれた。
小ぶりだが綺麗な形をした乳房に、ピンク色の美しい乳首。
薄い陰毛が、透き通るような白いキャンパスの上に添えてある。
かつてこの絵は誰にも愛される事がなかったが、死んだら誰かに愛されるのだろうか?
楓は、鏡に映った少女へと問いただした。
手首の三本の線に指をそっと添えてみる。
そして楓は目をつぶる。
「今までありがとう。」
楓は、心の中でそう呟いた。
楓は、青色の気泡の中へと足をいれて肩まで湯に浸かった。青色のライトと小さな粒子状の粒が全身を覆う。
右手に持った剃刀の刃を眺め、深く一息吸い込んで、そっと左手首の三本目のラインの下に押しつけた。
じわじわとまるで炙りだされるように赤い線が浮かんでくる。
楓は、もう一度深く深呼吸をして目を閉じた。
そこには暗闇があった。どうしようもない不安感に苛まれて楓は、大きく目を見開いた。
その瞬間、楓の頭の中は真っ白になっていて自然と手は流れるように帆を描き自らを切り裂いた。
黒味を帯びた血がぶわっと溢れだして青色の液体の上を赤色が浸食していった。
楓は、天井を見上げて今まで感じた事もないような幸福感を感じた。
「これで切れたんだ、すべてから。」
じばらくの間、楓の目には淡く黄色い、暖かな光だけが映っていた。
楓は、目を開けた。気づかぬ間に眠っていたようだ。しかし不思議だ、ここはどこだ?
不思議な事に目を開いていてもここには、闇しかない。
「探ってみよう。」目に見えなくてもきっと手では、触れられるはずだ。
楓は、手先の感覚だけを頼りに暗闇の中を弄り始めた。しかしいくら探してもそこには、目の前に広がる闇しかなかった。
「ここには、なにもない。」
そう思うと楓は、悲しくなった。でもそれよりも安心感のほうが強かったのかもしれない。
ふと足元に目をやると親指の先が黒くなっていることに気付いた。
どうやら除久にではあるが闇が体を染めていっているようだ。
苦痛ではない。むしろやさしい闇だ。闇に体を預けるとどこかからか女性の歌声が聞こえてきたようなきがした。楓が耳を音に傾けるとやはりそれは、女性のうた声だった。
とても優しい綺麗な歌声だった。楓は、その歌声に包まれるようにして目をとじた。
しばらくそのメロディーによりそっていると楓は違和感を感じた。
「どこかで聴いた事のある声だ・・・」
「どこでだ?」
そんな事を考えているうちにも闇は、束手形になった大群の蛆虫のように楓の体を浸食していっていて、もうすでにその黒き蛆虫達は、楓の胸元まで這いずりあがってきていた。
さっきまで鮮明に闇をとらえていた視界もじょじょに薄れてきて黒みがかった灰色のような色になってきた。
耳元ではまだあのメロディーがなり続けている。
楓は、必死で思いだそうとするがまったく思いだせない。
「何の音だ、誰の声だ・・・なんの音だ、誰の声だ・・・」
必死にそう念じるがなにも浮かばず、頭の中をその字列だけが虚しく回想する。
闇は、もうすでに首もとまできている。
「何の音だ、誰の声だ・・何の音だ、誰の声だ、何の・・・」
口元近くまで闇に覆われた瞬間、楓はその音の正体を思いだした。
「そうだ、これは母さんの歌声だ。でもきき覚えがなかったのはきっと私が誕生するまえの記憶。そう、まだ陽だまりの中の暖かい水の中に私がいた時のキオク。」
音の正体を悟った瞬間、楓はふと闇が怖いと感じた。
その感覚は、一気に全身に駆け巡り楓は、目を大きく見開き全身でもがき始めた。
「あっちいけ!あっちにいって!!」
楓は、そう叫びながら闇を必死に振り払おうとする。
闇は、鼻先まで迫ってきていて楓の目ぐらいしかもう闇からは、覗けないぐらいまで迫っていた。
楓は「生きたい」とそう強く念じ、手首の傷の事を思い浮かべ目を閉じた。
目を開けて辺りを見渡すと暗闇の中に白い点のような僅かな光が目に入った。
楓は、じっとその光にフォーカスを合わせた。
心の中でぽつんと誰かがつぶやいた「創造せよ、光を。光の内側を。」
楓は、小さい頃の楽しかった思い出や学校での楽しかった出来事を必死で創造した。
すると点のような僅かなものだった光があっという間に闇を切り裂き、楓の全身を包みこんだ。
そして次の瞬間、それは見覚えのある淡いベールに包まれた光へと変わった。
もう見ることもないと思っていた光。それは瞼越しに見える世界の光であった。
瞼をぴくぴくと動かしゆっくりと目を開ける。
光に包まれ、残像のように輪郭はぶれているが男性だろうか、その人の顔がまず目に入った。
「おい先生!目を開けたぞ!!」
「眠り姫が目覚めやがった!」
その男の口から品のない大きな声が聞こえた。
どうやら私はまた死ぬことに失敗したらしい。
目覚めたのは病院のベットの上で、まず目に入ったのは見ることもないと思っていた男。
「トモキ」の姿だった。
「まったくとんだ眠り姫だ。危うくこっちは、殺人の片棒を担ぐところだったぜ。」
トモキは、楓に向かって笑いながらそういった。
後で聞いた話だが、トモキはホテルについて部屋を探し、風呂で血まみれになっている私を見つけて救急車を呼ぶより早いだろうと思い、全裸の私をそのまま担ぎあげ、タクシーを拾い病院まで担いできたという。
その間、終始私は全裸のままだったらしい。
まったく、とんだ恥さらしだ。
そう思うとぷっとつい吹きだして笑ってしまった。
そんな私を見てトモキも肩の力を落として微笑んだ。
トモキの姿は、窓際を背にして座っているため逆光で輝いていて、風貌こそ髭面にはだけたシャツをきていて正直汚らしいが、最高にかっこよくて最高の素敵に見えた。
「初めてお前を風呂場で見た時。血塗れのお前をみて、俺の女神だってそう感じたんだ。」
今では、これがトモキの口癖になっている。
昔はとても退屈だった行為も、今では全身に感度があるんじゃないかと思うくらい気持ちよくて幸福に感じる。
トモキが私の手首の四本目の傷に触れる。
「俺とお前を会わせてくれたこの傷に感謝しないとな。」
私は笑顔で頷く。
私も傷口に触れて目をつぶって心の中でこう呟いた。
「ありがとう」
文体もめちゃくちゃな作品ですが、この作品を読んで今の自分の事がちょっとでも愛しく思えてくだされば本望です。
あらためて見つめてみると世界は、愛おしいものです。