第9話「煙霧纏いし貧民街」
最優先事項は、彼の命を繋ぎ止めること。しかし、それは困難を極める。あまりにも、足りないものが多すぎる。
どれほど、救うための手立てを考えても、最適解は見えてこなかった。
(けどよ、助けるしか、ねえんだよ)
ベイオネットは、己の手を見詰めて、歯を軋ませる。この手を擦り抜けていった存在はあまりに多く、誰かを守り抜く自信など、とうに失っていた。戦う理由も見出せず、惰性で標的の命を奪うだけの飼殺しの獣と化している。
(そう、俺にはもう、何も無え。自分を打ち抜いてくれる、流れ弾を願うくれえしか)
小さく、その唇に祈りの言葉を載せて項垂れる。全てを失った筈のその腕には、死神に魅入られてもなお、生に手を伸ばそうとする青年が抱かれている。今にも擦り抜けていってしまいそうな、儚い命だ。
(儚い、というには、ちょっとばかし元気が良すぎるか)
――焼け落ちる街を背にして、光の如く駆け回る凶刃。赤く染まった金糸より覗く純粋なる殺意に染まった紫水晶。
ふと、脳裏にトリアイナの惨劇の一幕が浮かび、この青年が街一つ潰したことを思い出す。
「ああ、そうだ。丈夫な縄と、杭が必要だな」
1人納得しつつ、そう呟けば、隣のツヴァイヘンダーが、いつもうすら笑いを浮かべている口を開いて、業とらしく、驚いてみせる。
「よもや、貴様にもそのような趣味があったとはな」
その顔に軽蔑という仮面を被せ、ベイオネットを見下す。小馬鹿にした物良いに反して、その目には凍てついた殺意が見え隠れする。自分が、この死神に心底嫌われている自覚はあったが、ここまで純粋な殺意を向けられたのは、いつ振りだろうか。
(全く、お前らしくない)
死神の人間じみた執着に、ベイオネットは、思わず苦笑いを浮かべる。殺意に怯える程、初心じゃあ無い。薄く笑みを浮かべて、肩を竦める。
「お前と一緒にすんじゃねえよ。俺は、ただ、目え覚めたこいつが暴れて、色々とブチ壊したり、自分からくたばりに行ったりしねえようにと思っただけだ。お前みたいに歪んだ嗜好は持っちゃいねえよ」
そう言う意味での仲間は勘弁してほしいぜと一言付け加えれば、舌打ちが1つ。
「歪んだ嗜好、だと? ……やはり、貴様とは分かりあえぬようだな。まあ、貴様が俺様と同じ意図で、それを拘束しようとしたのなら、この場で“送る”が」
そう言って、ツヴァイヘンダーは細い目をさらに細めた。ハンドルを握っていなければ、すでに引き金を引いているだろう。それほどまでに、激しい怒りが、その目に宿っていた。ベイオネットは、その目に期待を込めて、諸手を挙げて挑発する。
「そりゃどうも。“送られる”のはいつでも大歓迎だぜ」
死神は返答の代わりにまたエンジンを噴かした。神は、また男を見放した。
まともな打開策も見えてこないまま、灰色の影が荒れた地平線の向こう側から現れる。 煙霧を纏う小高い丘と、その裾に広がる貧民街。
「着いちまった、か」
開け放たれた窓から入りこむ、鼻を突くような臭い。淀み腐った空気の臭い、垂れ流された汚水の臭い等が様々に混じったそれもまた、吐き気を催す酷い臭いだ。腕に抱く青年が激しく咳き込んだ。
「ふん、まだ嗅覚はまともなようだな」
「……だと良いな。ガスにやられちまっただけかもしれねえし」
腐った空気は、今にも閉じようとしている青年の気道には死に至る毒。だが、アジトはまだ遠く、街一つ壊滅させるような奴を連れていくわけにもいかない。選択肢は1つだ。
「降りるか」
ライフルを背負い、青年を抱え直して、煙霧から徐々に現れていく街並みを見据える。
「10秒だけ待ってやる」
「無茶言うな」
「愚鈍め」
そして、踏まれるブレーキ。吹っ飛ばされそうになる衝撃に耐えながらもベイオネットは、ドアを手早く開け放ち、青年を担いだまま、荒野に身を投げた。受け身も取れずにその両脚に全衝撃を受け、呻く。
「……っつう。ったく、普通に降してくれよ、なあ」
直前に減速していたおかげで、目立った怪我はない。それに、これくらいで怪我を負うほど、軟な身体はしていない。
「まあ、ブレーキを掛けてくれただけ、マシか」
10秒だけ待つ、そう言った男の姿はもう無い。大地を震わせるようなけたたましいエンジン音も、遠くから微かに聞こえるのみ。
やれやれ、せっかちな野郎だと、溜め息を1つ吐き、男は煙霧の中へ、足を踏み出した。
街路は見通しが悪く、石畳が敷かれている筈の地面はぬかるんでいる。一歩踏み出すほどに、湿った不快な音と、悪臭が立ち込める。
(俺と、良い勝負か)
狙撃手故に、返り血は浴びてはいないが、こびり付いた硝煙の臭いと血生臭い死人の臭いはこの身に染みついて離れない。加えて、青年は濃い潮の香りを纏う。それはもう、酷い悪臭を放っているだろうことだろう。現に、街路に立つ人々に話しかけようとするが、皆一様に目を見開いて、足早に去っていく。
みすぼらしい身なりの子供から、がたいの良いごろつきまで、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
(埒が明かねえな)
脅すような真似はあまりしたくないが、この際手段を選んでいる暇は無い。今日何度目かの溜め息を吐き、軍帽を目深に被ると背中に背負うライフルを手に取った。そして、その銃口を真上に向け、撃つ。
空を切る乾いた銃声に、人々は足を止める。怯えて震える者、命乞いをする者、錯乱しつつ祈りの言葉を口にする者と様々に居るが、目的は達成した。
「何も、お前らの命を奪う気はねえよ。ちっとばかり、腕の良い医者を教えて欲しかっただけなんだが」
軍帽は目深にかぶったまま、怯える人々へ、優しく声を掛ける。しかし、錯乱する彼らに声は届かない。
「じゃあ、その長銃はなんだよ。俺らの頭吹っ飛ばそうとしてんだろうが!」
がたいの良いごろつきが情けない声を出しながら、反論してくる。
「お前の頭吹っ飛ばして、俺に何の利益がある?」
それに、穏やかに淡々と返す。表情はあくまでにこやかに、敵意はないと示しながらも、引き金には手をかけたままだ。
「それに、遊んでる暇はねえんだ」
怯えるごろつきへ、歩み寄る。一歩、また一歩と、じっくりと追いつめる。ごろつきの喉がひゅっと鳴る。がくがくと震える膝は、今にも崩れ落ちそうだ。
哀れな男の姿に同情しつつも、ベイオネットはその笑顔の仮面を取り外し、冷めた翠玉で男を射抜く。
「答えろ。医者は、どこだ」
地を這うような低い声で問いかければ、男はぶるぶると震えながら、煙霧の彼方を指差す。
「ああああっちだ! ほほほそっこい路地を真っ直ぐ抜けて、左に曲がると、やっと通れるか通れねえかくらいの道がある。そその、先だ!」
欲しい情報はとりあえず手に入った。ベイオネットは、再びにっこり笑って、ありがとよと声をかけてその手に僅かばかり握らせる。
「ビビらせて悪かった。これはその詫びだ、貰っといてくれ」
我ながら甘いと思いながらも謝罪を述べて、ベイオネットはその場を後にした。




