第3話 「赤く染まる楽園」
立ち上がり、銃を手にする彼の横顔には、迷いはない。そこに居るのは、一人の狙撃手の姿だけ。まだ見ぬ獲物を見据え、相棒の肩ベルトを肩に引っ掛け、一気に上着のファスナーを引き上げる。そして、パチンパチンと、手慣れた手付きで前ボタンを留めながら、歩き出す。
「……確か、この方向だったな」
周囲を警戒しながら、時には崩れ落ちた家屋の身を隠しながら、銃声が聞こえた方向へと進んでいく。ツヴァイヘンダーという男は、待たせれば待たせるほど“元気になる”。血に染まれば染まるほど、その耳に悲鳴が届くほどに、その過激さが増していく。任務以上に“送って”しまうことも、少なくはない。
「その気持ちは分からなくもないが」
彼にとっては、政府の軍人は憎むべき対象。否、反政府組織に身を置いてる者にとっては、政府の軍人は、仕留めるべき対象で、なおかつ、生命線とも言える存在。彼らを殺すことで、生きていける。生きることを許される。
(分かってるさ。仕方がないことだって)
すっかり古びてしまった軍帽の鍔を掴み前に傾けた。元から目深に被っていたそれは、視界のほとんどを覆ってしまう。死角の多さに思わず、笑みが零れる。自嘲的な笑みと、乾いた笑い声が漏れた。
だが、自殺行為とも言えるその行動は、正しかったのかもしれない。比較的広い街路を抜けながら、男は心から思った。目的地へ近付いていくほどに、惨憺たる情景がこの目を、胸を焼いていく。見渡す限りの赤。さながら、白き砂浜に赤い海水が満たされた浜辺にでも居る様な心地だ。何処に目を向けても、折り重なる亡骸と、その血で染まった白い石畳と白壁ばかりが目に入る。その上、濃い血の臭いと、胸を焼くような焦げ臭いに紛れて、潮の香りもする。今居る地点からは、建物に阻まれ、海を見ることは出来ないが、潮騒は微かに届く。
「最後の楽園、か」
この街の名はトリアイナと言った。白い石畳に白壁で統一された街並み、そして、澄んだセルリアンブルーの雲ひとつ無い空が広がる美しい港町だった。政府の管轄地ではなかったが、前時代の大戦による汚染も少なく、目立った争い事も無いため、観光地として有名だった。
「と、記憶していたが。なんでまた、こんなことに」
組織の団長、ジャマダハルより告げられたコードネームは“強欲の鐘”。その名に隠された意味は、何か。周囲の警戒は怠らず、一人、考えを巡らせる。遠くから、何やら金属と金属がぶつかり合う硬質な音がしているが、周囲に人の気配はない。
「……が、油断は禁物、と」
狙撃手という奴らは、気配を消すのが上手い。それは、狙撃手である己が一番知っている。また、これだけ派手に荒らしているのだ。特殊かつ高度な兵器の1つや2つ潜ませている可能性だって十分に考えられる。機械というやつは、気配が読みにくく、なおかつ、容赦というものがないから厄介だ。その挙動を読むのは人よりは容易いが。
それはともかく、だ。この街が標的にされる心当たりはない。このトリアイナで派手に暴れるという話は聞いていないと、男は回想する。このベイオネットという男は、非常に顔が広かった。その人好きのする笑顔と、穏やかな語り口が人を惹き付けるのだろうか。不思議と彼の周りには情報が集まってくる。ツヴァイヘンダーを始めとして奇人変人ばかりが集っている自ら所属する組織のメンバーはともかく、他の組織の奴らは、彼を見るなり向こうから話しかけてくる。そして、聞いてもいないのにボロボロと、自分の組織のことや、時には機密事項を漏らしていく。さすがにそれは不味いぞと言って黙らせようとしてもお構いなしだ。この頃は、『言っても無駄だし、組織にも貢献できるし、悪くはないか』と諦めているようだ。その彼の情報網を以てしても、このトリアイナが標的にされる理由は見つからない。
「反乱が起きてそれを一掃……ってのは、まず消えるな」
首を捻りつつ、呟いて何とも無しに、道端に折り重なる亡骸に目を向けた。すると、どの死体も、首に深い切り傷が刻まれているということが分かった。そして、どの亡骸もどこか、何が起きたか分からないと言わんばかりの表情を浮かべて事切れている。中には、首の傷を抑えたまま、地面に臥している者も居る。
しかも、それは、観光客や街の住人だけではなかった。軍服を身に纏い、しっかりと武装している軍人も同様に、息絶えている。パックリと開いた傷口からはまだ、血が流れ出ていた。切りつけた瞬間の勢いというのは無かったが、息絶えてそこまで時間が経っていないようだ。
「いや、もしかしたら」
まだ、息がある奴が居るかもしれない。そう思って男は懐からバタフライナイフを取り出すと、ロックを解除し、軍人たちの亡骸を注意深く観察し始めた。息があれば、何かしら情報が得られる可能性はある。敵の前に姿を現すのは、愚行とも言える行為であるが、相手は今際の際にある人間。助かる見込みはない。全てを聞きだしたら、楽にしてやろう……そういう心持で、1人、また1人とその顔を確認していく。その横顔はどこか、悲しみを帯びていた。悲痛に満ちた面持ちで、確認を終えた軍人達の目蓋を閉ざしていく。声にならない声で、すまないと呟きながら、息がある者が居ないか探す。
ふと、人の気配を、感じ取った。今にも途切れそうな弱い息遣いが、その耳に届いた。そして、同時に気付く。金属同士がぶつかり合う甲高い音と、何発もの銃声が、街路の向こうから聞こえてくることに。
手に握っていたナイフを口に咥え、手早く相棒の安全装置を外す。そして、左手にライフル、ナイフは口に咥えたままで、まずはその瀕死状態にある軍人に近付いた。
軍人は自分に接近してくる存在に気付くと、ぶるぶると震える手で、自動式拳銃を持ちあげ、こちらに銃口を向ける。その目は、膜が張ったように虚ろで、こちらを認識しているかどうかは怪しい。防衛本能というやつだろう。とりあえず、ベイオネットは、足早に接近するとその手から銃を奪い取った。そして、右手で安全装置を掛けると、自分の腰ベルトに差す。身動きはとりにくくなるが、サブウェポンにするには丁度良い。身を守る術を奪われた軍人は、諦めた様に笑うと、両手をあげた。その首からは赤々とした血が流れている。ベイオネットは、口にくわえていたナイフを、手に持ち、軍人に問いかけた。
「何があった」
と。軍人はまだ20もいってない若い、青年だった。虚ろな瞳では、敵か味方かを識別することすらままならなかったのだろう。ベイオネットの古びた軍帽を見て、ふっと安堵したように微笑んだ。それも一瞬のことだった。その微笑みは恐怖に掻き消された。
「悪夢だ。悪夢を見ているようだ。何も見えなかった。僕は、ただ。いや、こんなことは聞いてない。こんな、こんな……」
恐怖から錯乱状態に陥った青年は、泡を食いながら、うわ言の様に話す。一言発するたびにヒューヒューと喉が鳴っていた。喉に熱傷も負っているのかもしれない。だとすれば、時間はあまり残されていない筈だ。ベイオネットは、青年の頭を撫で、大丈夫だ、大丈夫だと言い聞かせる。後ろめたさを感じつつも、彼には吐いて貰わなくてはならない。
(どうも、嫌な予感がする)
街一つが廃墟になったり、多くの人が犠牲になるのは、日常茶飯事だ。この惨状も、その日常の1つのシーンでしかない。だが、何かが引っかかっていた。怪しまれないように、言葉を選んで、もう一度問いかける。
「これは、どこからの命令だ?」
争いも無い地で、このような惨状を引き起こす政府の部署に1つ、心当たりがあった。自らが所属する組織にとっては最も忌むべき存在。そして、青年が口にした答えを聞き、男は全てを理解した。
――イサワ。イサワ・ノーランド。
政府の負の一面たる、部署「Ad-HC」を率いるその男の名が青年の口から紡がれた。